第2話

 予備校講師という職業を選んだのはお父さんの影響が大きい。

 とは言っても別にお父さんが予備校講師だったわけではなく、うちが教員家庭だったというわけでもない。さらに言うとそこに強い意志があったわけではなく、結果的に落ち着くところに落ち着いたという感じではある。

 お祖父ちゃんの後を継ぎ自営業で型枠大工をやっていたお父さんの口癖は「そんなんじゃサバンナでは生きていけないぞ」だった。幼い頃アスファルトの道で転び膝小僧から血を流して泣いた時も、中学の時お気に入りだった服に盛大にお味噌汁を零して絶望した時も、私が何かに悲しんだり落ち込んだりする時、いつも父はこの言葉を言った。

 当たり前だが、お父さんはサバンナになんて行ったこともないし何の関係もない。まぁ、つまりは強く生きろということが言いたかったのだ。サバンナの野生生物は生まれた時からサバイバルが始まってるんだからお前もそんなことでメソメソするなと、つまりはそういうことだ。

 サバンナでは生きていけない。やや強引な言い回しではあるが分からなくはない。私は涙を流しながらもつまづいた時はその言葉を支えにその都度立ち上がってここまで歩いてきたような気がする。


 将来は普通の企業の普通のOLには絶対になりたくない、と中学に入る頃にはもう思っていた。

 もちろんそういう仕事をしている人達を見下しているわけではないし、社会の中、そういう人達も必要だということはよく理解していた。ただ私は父の言葉の影響か(間違いなくそうだ)、与えられたことを効率よくこなすような仕事ではなく、身を守る能力を持ちどんな場所でも生きていけるようなタイプの仕事をしたい、というよりもするべきだと思っていた。サバンナで、とまではいかなくとも「生きる力」が必要だということが私の中の根本にあった。

 しかし、では自分に何ができる? 身を守る能力。芸は身を助けるとも言う。普通は、中学そこそこの年齢であれば芸能人だとかスポーツ選手だとかそういった華やかな職業に憧れ目指しそうな気もするが、私にそういった考えは一切なかった。はなから諦めていた。よく言えば地に足がついていたのだが、自分は普通の公立中学に通う普通の女の子で、そんな自分に世間を驚かすような特別な才能があるとはどうしても思えなかったのだ。その考えは、今思っても正しい。

 ではどうする? と考えた時、手っ取り早いのは資格で、資格があればできる仕事、逆に言うと資格が無いとできない仕事というものがこの世には存在する。これは私の理想に近かった。資格があればそれを使う場所ならば職には困らない。かと言って芸能人になるような特別な才能が無くとも頑張れば手に入る手軽さもある。

 私は数学が得意だった。中学の頃から成績が良くて、高校に進学しても高い水準をキープしていた。これを何かに使えないかと思った。数学が使える資格。私は放課後、職員室にいる担任の先生(数学の先生、いつも白衣を着た若い女の先生だった)を訪ね、相談した。そうねぇ、と少し考えるような顔をした先生から一番最初に勧められたのは公認会計士だった。でも父の会社に来る会計士を私は知っていたのだがどこか頼りない感じの男の人で、父も酔うとよく彼の悪口を言っていて、会計士自体にあまり良い印象がなく遠慮した(もちろん会計士が誰も彼もその人みたいなわけではないのだけど)。他にもいくつか資格を挙げられたが、どれもピンと来ないでいると「いっそ数学教師にでもなったら?」と言われた。先生は自分も数学教師なので、冗談半分で言ったようだったが、私としてはそれが一番ピンと来た。

 数学には必ず答えがある。様々な捉え方や考え方のある国語や英語とは違う。問題を挙げ、それを決まった方程式に則って解いていき、答えを導き出す。正しい答えは確実にあり、それを解くためのやり方を教える。知識さえあれば実に楽な仕事だと思った。それで私は数学教師になることを志した。

 大学は教育大学に進学した。夏頃から模試の判定もだいたいAかBで安定し、難なく現役で合格できた。実家から大学まで通うのは遠かったので大学の近くのアパートで一人暮らしを始めた。四年間、人並みにアルバイトをしたりはしていたが、羽目を外して遊ぶ(そういう人も多かった)こともなく基本的には勉強中心で、この大学生活を抜けると取得できる教員免許に思いを馳せて過ごしていた。私は高校の数学教師になろうと思っていた。できるだけ高いレベルの知識を伝える方がより専門的なニーズが高まると考えたからだ。大学生活に取り立てて問題はなかった。定期試験も無難にパスしていたし、気持ち程度の趣味も持ち、友達だってできた。気がつくと四回目の桜が咲き、私は四回生になっていた。


 誤算が生じたのは教育実習だった。私は特に深い考えもなく教員免許を取るための授業の一貫というくらいの意識で臨んだのだが、そこで現実を見た。

 とは言っても、授業自体には何の問題もなかった。受け持ったのは高二のクラスだった。初めて本物の教壇に立ち、生徒(私の母校の後輩だ)や教室の一番後ろで私の授業をチェックする在校生の頃からいた顔に見覚えのある先生の視線を一挙に浴びても私はまったく動じなかった。

 だって方程式は頭の中にちゃんとあるから、あとはそれを黒板に書き、要所要所を声に出して読むだけだから。私は私の知っていることをただただ発信した。

 問題が起きたのは七日目の放課後で、私は生徒に混じって教室の外の廊下の掃除をしていた。

 箒は最近買い換えたのか綺麗で、穂先がピンと立っていて掃きやすかった。対する床は昔よりも少し汚れているような気がして、私は念入りに細かいゴミを掃いた。その時、教室の中からがしゃーんとものすごい音がした。何事かと驚き中に入ると私の担当クラスの奄美君が教室の端に倒れていて、同じクラスの結城君がその倒れている奄美君に何か怒号を浴びせていた。

 いくつかの机が倒れていて、教室全体が時間が止まったかのように凍りついていた。「ちょっと、どうしたの?」と、私は怖かったのだが、実習生とはいえ教員という立場から放っておくわけにはいかず声をかけた。「うるせえな」と結城君は低い声で私にまで凄む。彼は体格が良く、確か柔道部だと聞いていた。何にそこまで怒っているのか知らないが、結城君はぐったりしている奄美君の首元を掴み無理矢理起こす。奄美君は意識はあるようだが、軽い脳震盪を起こしているのか焦点の合わない目で結城君を見ていた。よくみると少しだが頭から血が流れていた。「やめなさい!」と私が結城君の腕を掴むと、「あんたには関係ねぇだろ!」と結城君は私にまで怒鳴る。恐怖で頭が真っ白になった。その時、「何をやってるんだ!」と、おそらく誰かが呼んだのだろう男の先生が数人教室に入ってきた。結城君は興奮していてそれからもしばらく駆けつけた男の先生と怒鳴り合っていた。奄美君はまだぐったりしていて何人かの生徒が手を貸して保健室へ連れて行った。私はその様子をただ立ち尽くして見ていた。

 その日の夜に学年主任の先生、生活指導の先生、担任の先生、そして目撃者の私で今回の件について話し合いの場が設けられた。

 懐かしい進路相談室に小ぢんまりと四人集まる。あれから、結城君は少ししたらさすがに落ち着き、生活指導の先生と話をして一時間ほど前に帰っていった。奄美君は頭を打っていたので念のため病院に連れて行った。検査の結果、異常はなかったと付き添った保健室の先生から先程連絡が入った。

「最初は悪ふざけだったみたいです」

 生活指導の先生がゆっくり話し出す。彼は結城君と話して全ての真相を知っていた。

 事の発端は奄美君で、彼はちょっとお調子ものなところがあるのだが、先週行われた柔道部の校内試合で結城君が一年生に負けたことをからかったらしい。結城君も最初のうちは冗談にしようと笑っていたらしいのだが、実際一年生に負けたことはかなり悔しかったらしく結果的にキレて奄美君を投げ飛ばした、というそんな話だった。

 ばかばかしい、と私は心から思った。言ってはいけないことのラインも見定められずに冗談を言う方も言う方だし、みんながいる放課後の教室で人の迷惑も考えずになりふり構わずキレる方もキレる方だと思った。「困ったものですねぇ」と、担任の先生が頭を抱えて、そこからが長かった。これから二人をどうフォローしていくかとか、騒ぎを起こした処罰をどうするかとか、ああでもないこうでもないの話が行ったり来たりして永遠に続いた。壁にかけられた時計の針が二十時を回る。お腹が空いた。それと同じくらい腹が立った。何だ、これは。いったい何の話をしているのだ。私の仕事は数学を教えることで、つまらない喧嘩の仲裁やフォローをすることではない。教育実習のために買ったスーツのスカートの裾をぎゅっと握る。苛々が止まらなかった。

「あの、そろそろ帰らせてもらっていいですか?」

 そう声に出して言ったのは二十一時過ぎ。私の言葉に進路相談室は水を打ったように静まり返った。こんなに大胆なことを言ったのは生まれて初めてだった。それくらい私は我慢の限界だったのだ。

「あ、そうだよね。教育実習生を残業させちゃいけないよね。ごめんごめん」

 と、学年主任の先生が謝る。この人は私が在校時から学校にいるが、今日まで直接の関わりはなかった。「お疲れ様です」と鞄を手に進路相談室を出る。背中にもう一度、「残業させちゃってごめんね」と声をかけられたが、誰の声かは分からなかった。私は何も言わずにその場を後にした。

 校舎の外に出ると辺りが真っ暗になっていて驚いたが、よく考えてみると時間的に当たり前のことだった。在校生の時にこんな時間まで学校にいたことは一度もなかった。私は部活もやっていなかったし、授業が終わるとすぐに家に帰っていた。校門を出て校舎の方を振り返ってみると、職員室と進路相談室にだけ明かりがついていた。これは仕事なんだという実感が湧いた。

 違う、と思った。

 何かが違う。私はあんなどうしようもない問題を解決するために教師になりたいのではない。しかし、ああいった問題が学校には溢れていることも、教師である以上それを紐解かなければならないことも理解はできる。嫌だ。私はそんなことをしたくない。そう思うといろいろと嫌なことが思い浮かんできた。私は修学旅行になど付き添いたくない。運動会の運営などやりたくない。文化祭も嫌だ。私はただ、純粋に私の持っている数学の知識を教え、伝えたいだけなのだ。

 その事件で私の中の何か、情熱や熱意のようなものが完全に切れてしまって、残りの教育実習は正直言って消化試合だった。

 最終日のホームルーム、私は教壇に立ち教育実習に対するそれらしい感謝の意を伝え、生徒達は皆黙って私の話を聞いていた。教室に結城君はいなかった。例の喧嘩が原因で二週間の停学処分になったのだ。奄美君はいた。でもあれ以来気まずい気持ちがあるのかどこかよそよそしくなってしまい、以前とは別人のようだった。同情の余地はないと思った。調子に乗って馬鹿なことを言うからこんなことになるのだ。と言うよりも私は奄美君も停学処分にするべきだと思っていた。確かに奄美君は怪我をさせられた方だし、一見被害者ではあるのだが、元を正せば奄美君の言動が原因でこんなことになったのだ。結城君だって、怪我はしていないが心は傷んだはずだ。だからキレたのだから。ただ、もちろん結城君を擁護するわけではない。彼も悪い。二人とも悪い。私の純粋な知識の伝達を邪魔をするような生徒は皆処分すればいいと思った。だって、生徒達は皆授業を受けて何かを知りたい、覚えたいから学校に来るのであって、そこに雑念を入れる必要など一パーセントもないのだから。教室に響き渡る乾いた拍手とともに私の教育実習は終わった。それで私は高校の数学教師になることをやめた。

 とはいえ教育実習を終えた時点で卒業まで残すところあと半年ちょっとで、現実的に卒業後何をするかを早急に決める必要があった。私は大学受験時から一貫して高校の数学教師になることしか考えておらず、急にそれが途絶えて路頭に迷った。いっそ、普通の企業に就職してしまおうかとも思った。でもその考えはすぐに打ち消した。あくまで私はサバンナで生きていかなければならないのだ。そして答えは案外近くにあった。それは予備校講師。予備校の講師ならば私が望んだ通り、純粋に私の数学の知識を伝えるだけでいい。さすがに塾まで来て喧嘩をする生徒もいないだろうし、修学旅行も運動会も文化祭もない。私の望んでいた環境である。

「せっかく教員免許取ったのに勿体ないよ」

 と、就職支援の事務の人に言われた。それは考え方の一つではあると思う。確かに予備校講師になるために、苦労して取得した教員免許は必須ではない。持っていた方が就職に有利だと言われることもあるが真偽は定かではない。私としても苦労して取得した教員免許という資格が使えないことは不本意だ。しかしそれでもなお私は予備校講師という職業に魅力を感じていた。私はもう二度とあんなトラブルに巻き込まれるのはごめんだ。それに資格は使わずとも、私の頭の中にある蓄積された数学の知識をフルに使う。それは立派な専門性である。身を守る能力である。

 そうして私は予備校講師という仕事を選んだ。就職活動自体はまったく問題がなかった。教員免許を持っていることが効いたのかどうかは分からないが、希望をする予備校からすぐに内定が出た。それから七年間私は予備校講師として教壇に立っている。


 そして、これは最近気づいたのだが、予備校講師という仕事も結局は「売る」と「買う」の関係の上にあるのだ。私は私が持っている数学の知識を「売る」。生徒達はそれが欲しいからお金を出して予備校に通って「買う」。私の知識は無形物で、売ったところで無くならないから何度でも売れる。そこだけは違うが、基本的には欲しがっている人に欲しい物を売るということは、トリバイにも通じるところがある。



 授業が終わったのが二十一時半で、何だかんだと翌日の授業の準備をしていたらいつの間にか二十二時半を回っていた。溜息をついて周りを見渡すと、気がつかないうちに最後の一人になっていたようで、私のデスクの一角以外は全て電気が消えていた。これは別に珍しいことではない。一番遅い時間の授業がある時はだいたい私が最後になる。

 私は授業の準備をやり過ぎるくらいにやる。他の講師がちゃんとやっていないとは言わないが、私ほど時間をかけて準備をしている人はおそらくいないだろう。覚えておかないといけない重要ポイントをまとめる、分かりにくいであろう部分の補足説明を考える。これくらいは当たり前で、さらに予備校が用意した教材を超えて重要ポイントを抑えるための例題を自分でたくさん作る、その解き方の詳細説明を記した解答例も作成する、それを人数分プリントしてホチキスで留める。ここまでやっていたら自ずと時間もかかる。なぜここまでやるのか。それは結局、私の数学の知識をちゃんと売りたいからだ。伝わらないのも嫌だし、間違った伝わり方をするのも嫌だ。そのための準備である。これはトリバイで物を売る時、緩衝材をぐるぐると巻いたり隙間に新聞紙を詰めたりする作業と似ている。

 自分で言うのも何だが、私の数学の知識は講師の中でも群を抜いている。「だって藤田は教育大出てんだもんなぁ」なんて先輩講師達は頭を掻く。もちろんそれもある。が、基本的には積み重ねの結果だ。私は「売る」ための準備をずっと昔から怠らなかった。

 三年目の時に難関国立大学受験数学Sクラスの担当になった。それは予備校内の数学の最高峰クラスで、通称難国Sと呼ばれ、この授業を任されるということは講師(または商品)として認められた証だった。

 最後の戸締りをして外に出た頃にはもう二十三時前だった。いつの間にか肌寒い春は過ぎ去って、この時間でもちょうどいい気温になっていた。これはまた、うかうかしていたらすぐに暑くなる。いやその前に雨の季節か。

 事務所からエレベーターで下に降りるとビルの出入り口の階段のところに男が一人座り込んでいるのが見えた。予備校の入るビル前には駅前ロータリーがある。彼は、そこに停まってはまたすぐに人を乗せて走り去って行くタクシー達(またはその流れのようなもの)をぼんやりと見つめていた。時間も時間だし少し気味が悪かったのだが、よく見ると何度か予備校で見たことのある生徒のような気がした。声をかけるべきかどうか迷ってしばらくエレベーターの前に立ち尽くしていたら、背中に気配を感じたのか彼は振り返り私を見つけて「あ」と驚いた。間違いない。うちの予備校に通う生徒だった。

「こんな時間まで何をしているの?」

 首だけ後ろを振り向いて私を見上げる彼を、少し高いところから見下ろして私は言う。

「先生こそ、もう二十三時だよ」

「私は明日の授業の準備をしていたのよ」

「真面目なんだ」

 と、彼は少し笑って言った。何で笑ったのか私には分からなかった。真面目で笑われる筋合いなど何一つない。私はさらりと「早く帰りなさいよ」と言って横を通り抜ける。今日中に発送しておきたい商品が一つあったので早く帰りたかった。

「ねぇ、ご飯食べた?」

 後ろから、彼の声が聞こえた。振り返り「今の、私に言ったの?」と聞くと、「他に誰もいないでしょ」とまた彼は笑う。

「食べてないけど」

「じゃ、何か食べに行こうよ」

「何で?」

「何でって、何も食べてないんでしょ? 俺も食べてないし。お腹空いたから」

「そういう意味じゃなくて、何で私とあなたが?」

「いや、だってご飯食べてないんでしょ?」

 そう言って彼はニコニコと笑う。話が通じない。そしてそんなやり取りをしていると不思議と本当にお腹が空いてきた。さっきまでは食べなくてもいいと思っていたくらいだったのに。私がまた溜息をつくと、彼は「じゃ、行こうか」と立ち上がった。思っていたより背が高くて少し驚いた。

 二十四時間営業のファミレス、四人席で向かい合って座る。このファミレスは予備校から自転車で五分くらいのところにあるのだが、来るのは初めてだった。店内はあまり賑わっておらず、仕事帰りのサラリーマンや大学生のカップルが少しいるだけだった。

「藤田実千先生だよね?」

 メニューを一冊私に渡して彼は言った。フルネームを覚えていることに少し驚いた。

「よく覚えてたね」

「だって、先生の冬季講習受けてたから」

「あぁ、そっか」

「先生は俺の名前覚えてないだろ」

 そう言われて思い出そうとはしてみたもののまったく名前が浮かんでこなかった。彼の、というよりも私は自分の生徒の名前を誰一人として思い出せなかった。

「確か春から高三よね」

 私の冬季講習を受けていたのならばおそらくそうだ。

「小野糸、山西高校の三年」

「山西なんだ」

 山西高校というと、この辺りの学区では一番の公立高校だ。そして小野糸という名前にも聞き覚えがあった。確か春の校内模試でトップ成績だった生徒だ。以前、彼に英語を教えていた花見さんが「小野はすごいよ」と言っていた。続けて「とにかく理解が早いんだ」と、花見さんは唸る。その時私は彼の顔も名前もはっきり認識していなくて、「あぁ、そうなんですか」と、単にそういう生徒がいるんだな、くらいにしか思っていなかったのだが、今ファミレスで向かい合っている彼がその小野糸なのだ。

 二人とも目玉焼きの乗ったハンバーグとライスを注文した。出てきた時にはけっこうボリュームがあるように見え、これは食べきれないかな、と思ったのだが意外とあっさり完食した。対する小野君はハンバーグとライスをそれぞれ三分の一くらいずつ残していた。

 小野君は不思議な雰囲気を持つ男の子だった。

 針金のように線が細くて背が高い。髪は天然かもしれないが少しパーマっぽくて、何だかとろんと眠そうな目をしていた。口元は常に微笑しているように緩んでいて、イケメンというよりは美男子という印象だった。私はイケメンは美人と同じで、どこまでが本当でどこからが嘘なのか分からないので苦手なのだが、彼の場合はもはやすべてが嘘のようで、逆に苦手意識は芽生えなかった。

 特に話が盛り上がったわけではないのだが、食後のコーヒーを飲み終わる頃にはもう0時を超えていた。高校生がウロついていていい時間ではない。

「そろそろ帰りなさい」

 と、私は教育者のような物言いをした。小野君は最初のうちは誤魔化すようなことを言ったり頷くだけ頷いたりしていたのだが、やがてぽつりと「家になんて帰りたくないんだよ」と言った。

「何で?」

「だから授業が終わったあと、ずっとあそこに座ってたんだ」

「帰りなさいよ。小野君はまだ高校生なんだから」

 そう私が言うと小野君は欠伸を噛み殺しながらちらっと私を見て、「ねぇ、ちょっと外歩こうよ」と言った。

 ファミレスを出ると深夜の街は空気が澄んでいて、良い季節の良い夜だった。静かで、国道を走る車も少ない。街灯がアスファルトをぽつぽつとオレンジ色に照らす道。小野君は私の少し前を歩き、私は自転車を押してその少し後ろを歩く。

「つまり、家出したってこと?」

 私は彼の背中に問いかける。

「まぁ、そうなのかな」

「何が嫌なの? 両親と上手くいっていないとか?」

「別に、そういうわけじゃない。両親は優しいし二人とも良い人だよ。あと、姉が一人いるんだけど、姉とも仲は良い。たまに一緒に出掛けたりする」

 国道を逸れてそのまま住宅街の中を歩く。誰か予備校の関係者に見られたらどうしようという思いはあった。一応、講師と生徒の立場上、良からぬ想像をする人もいるだろう。でも夜の住宅街には驚くほど誰もいなくて、誰かに見られる心配はなさそうだった。

 暗がりの公園に出る。カラフルな滑り台やら階段やら屋根やらが付いた大きめの複合遊具が暗闇にその色をぼうっと浮かばせていた。小野君は下から滑り台を駆け上がって遊具の上に登った。

「それなら何で帰りたくないのよ?」

 私は遊具の上にいる小野君を見上げて言う。

 小野君は軽く伸びをして「先生、俺大学なんて別に行きたくないんだ」と言った。その言葉に私は驚く。「えっ」と声が漏れる。

「じゃ、何で予備校に通ってるのよ?」

 それでは「売る」と「買う」の需要と供給がマッチしない。

「親がそれを求めてるから」

 と、小野君が言って、あぁ、まぁ確かにそういうパターンはあるなと思った。私は少し安心して頷く。

「先生、俺こう見えて何でも持ってるんだよ」

 小野君は少し寂しそうに言った。

「家が割と金持ちっていうのもあるけど、幼い頃から何でも手に入った。それに、なぜだかだいたいのことはできるんだよ。モテたし。皆が俺に期待をして、それで何となくそれに応えることができて、その繰り返し。気付いたらとりあえずいろいろなものを持ってた」

 他の誰かが同じことを言ったら嫌味に聞こえたかもしれない。でも小野君が言うとそんなふうには聞こえなくて、それは純粋な少年の悩みとして私の中に入ってきた。

「大学受験だって同じで、親は俺に有名な国立大学に入ってほしいと思ってる。で、多分俺は受かる。分かるんだ。いつも通り手に入る。だけどさ、それは別に自分が本当に欲しいものでもなんでもないんだよ。大学に行ってやりたいことなんて何も無いし、行くことが必要な理由も分からない。でも手に入る。俺はそんな、別に欲しくもないものばかりを持ってるんだ。それでずっと悩んでた。今は、何かを求められるのもそれに応えるのもちょっとしんどい」

 月明かりに照らされた小野君の顔はどう見ても十八歳の少年だった。それ以上でも以下でもない十八歳の少年だった。

「要らないものばかりがある家になんて、帰りたいと思わないでしょ?」

 そう言われても私には分からなかった。要らないものなんて、私はもうとっくに売ってしまったから。風が、私達の間を吹く。


 結局その夜は小野君を私の家に泊めることにした。彼の悩みは本当のようで、理解できないわけでもない。今夜は多分何をどう言っても家には帰らないだろうと思った。

 正直言ってそこまでする必要が私にあるのかとも思ったのだが、立場上放って帰るわけにもいかなかった。もちろんだがいかがわしい気持ちはまったく無い。それはおそらく小野君の方も。

「先生の家、全然物が無いね」

 小野君は私の部屋を見て少し驚いた。

「そう?」

 近年私は誰の家にも行かないし誰かを自分の家に招くこともない。だから私の家が他の人の家と比べてどうなのかということなど考えたこともなかった(唯一、この前あかねさんの家には行ったがあの家は少し特別な家だと思う)。確かにここ半年の間にトリバイでいろいろな物を売った。でも物が全然無いなんて感覚はまったくなかった。

「シャワー浴びたかったら浴びてもいいよ。着替えたかったら服も貸す。ちょっと小さいかもだけどね。それで、小野君がベッドで寝て。私は床で寝るから」

 私がそう言うと小野君はきょとんとしたような顔をした。

「いいよ。悪いから先生がベッドで寝なよ」

「大丈夫、気にしないで」

 私はそう言うとさっさと床の上で毛布に包まり頑なな姿勢を見せる。

「先生はシャワー浴びないの?」

「明日の朝浴びる」

 小野君は「そっか」と言ってベッドに腰を下ろした。私の言い方はちょっとぶっきらぼう過ぎたかもしれない。

「じゃ、悪いけどベッド使わせてもらうよ」

「どうぞ」

 それでさっさと電気も消した。真っ暗になった部屋の中、横になった頭の側に置いていた目覚まし時計の針の蛍光塗料が蛍みたいに光っている。もう深夜一時半だった。目が慣れてくると部屋の隅にダンボールケースが置いてあるのが見えた。昨日売れて、送るために梱包していたワイングラスのセットだ。しまった。今日発送しようと思っていたのにけっきょく行けていない。今すぐコンビニまで発送しに行きたいと思った。でもさすがの私も疲れていた。

「先生ってちょっと変わってるよね」

 暗闇の中から小野君の声がした。声の位置からして彼もベッドに横になっているようだった。

「何で?」

「いや何か、普通の先生だったらさ、生徒の悩みを聞いたら一般的な通説を正解みたいにして押し付けてくるでしょ。ありきたりな事を当然っぽく言うというか。大学受験も、しないと後々後悔するとか、先の事を考えたら絶対にしておいた方がいいとか、そういう普通のこと言いそうじゃない? でも先生はそうじゃなくて特に何も言わないし、そもそも聞いてるのか聞いてないのかも曖昧な感じだし」

「それは厳密に言うと私が先生じゃなくて数学の知識を伝えるだけの講師だからよ」

「先生は先生でしょ」

「全然違うって」

 私はそう言って寝返りを打ち、小野君に背を向ける。顔は見えなくても小野君が私の言ったことを納得していないことは何となく分かった。

「明日は家に帰りなよ」

「正直、嫌だ」

「売ればいいじゃない」

「売る?」

「小野君の家にある要らないもの、腹が立つもの、とにかく帰りたくないって思わせるような物は全部。何もかも売ったらいいと思うよ」

「売る、かぁ。考えたこともなかった」

「多分すっきりすると思うよ」

 私がそう言うと小野君はふっと笑った。それは乾いてはいたが、本物の笑いだった。

「先生って、やっぱ変わってるね」

「そうかな」

 変わっていると言われてもそれが私の本音だった。小野君の話を聞いて本気でそう思ったのだ。

 おやすみ、と言って毛布を頭から被った。眠かった。おやすみ、と小野君が返した頃にはもう身体の半分はあたたかい眠りの泥の中にいた。



 週末のショッピングモールは人でいっぱいだった。一時期は新型のウイルスがどうこうだとかで潰れてしまうのではないかというくらいガラガラだったのに、感染拡大が少し収まった最近はまた少し活気が戻ってきていた。

 私は休日はだいたいいつも自転車で自宅から三十分くらいのところにあるこのショッピングモールまで来て、数学の参考書をフードコートで解く(もちろん解き終わった参考書はトリバイですぐに売る)。これはつまりはメンテナンスである。「私の知識」という商品の状態を良好に保つためのメンテナンス。

 机の上に置いていたジュースは氷がほとんど溶けて味が薄くなっていた。スマホとブルートゥースで繋いだワイヤレスイヤホンからは一昔前のロックバンドの音楽が流れる。ルーズリーフには私(私の知識)が導き出した数式が書き連ねられ、小指側の側面がシャープペンシルのせいで黒く汚れていた。私はそれを携帯していたウェットティッシュで拭き取る。すると、誰かが私の前の席に座った。真っ黒な服を着ていて一瞬誰だか分からなかったのだが、ピンクの髪を見て気付く。あかねさんだった。

「何読んでるの?」

 まるで待ち合わせをしていたのかのように自然と会話が始まる。私が参考書の表紙を見せたら、「そんなの読んで楽しい?」と、あかねさんは顔を顰めた。

「楽しいとか楽しくないじゃなくて、ただのメンテナンスです」

「メンテナンス? 何か、難しいね」

 そう言ってあかねさんは少し笑う。小野君といい、あかねさんといい、最近私はよく笑われる気がする。あかねさんは鞄(これまた真っ黒の)からスマホを取り出しいじり始める。それはすごく自然な動作で、側から見たらどう見ても「約束の時間に遅れてきた友達」だった。

 今日のあかねさんはロリータ全開の真っ黒な服を着ていて、この前部屋で会った時とも、その時見せてもらったアイドルグループのプロフィール写真ともだいぶ印象が違っていた。髪色が奇抜でなければ同一人物だと気付かないのではないかと思えるくらいだった。そして、あかねさんの細い腕には紙袋が三つ掛かっていた。おそらくまた何か買ったのだろうな、と私は思った。

「ねぇ、トリバイってどういう意味なんだろうね」

 あかねさんはスマホに視線を落としたまま突然そんなことを聞いてくる。

「多分、取り引きと売買から来てるんじゃないかと思いますけど」

 私がそう言うとあかねさんは目を丸くして私を見た。

「あ、なるほど。確かにそうだ。すごいね、マチちゃん。そんなことよく分かるね」

 あかねさんは感動して言った。私はそんなに感動されるようなことを言ったとは思っていなかったので少し戸惑った。「さすが予備校講師してるだけあるわぁ」なんてやたらと褒めてくるのでだんだん気まずくなり(私は褒められることに慣れていないのだ)「普段はそういうファッションなんですか?」と、話題を変えた。

「いや、これはバイト用の服よ」

「バイト?」

 私は驚いた。

「そうよ。みんなこういう服着てるガールズバーでね。いわゆるロリータバーっていうの? バイトしてるのよ。今日は夕方からのシフトで、その前にちょっと買い物に寄ったっていうわけ」

「えっと、と言うかアイドルなんじゃないんですか?」

「あぁ、それはそれよ」

 あかねさんはあっさりと言った。アイドルがガールズバーと掛け持ちをするなんて、私のような素人の感覚でも「それはそれ」で済まされることではないと分かる。

「アイドルの収入だけじゃ欲しい物が買いきれないのよ。だから掛け持ち。ロリータの格好も好きだしね」

「はぁ」

「それはそうと、また私が好きそうな物出品する時は先に言ってね。きっと買うから」

 あかねさんはにっこりと笑って言う。相変わらずどこか有無を言わせぬ感じがあり私は頷くしかなかった。その時、唐突にスマホの着信音が鳴る。最初はあかねさんのスマホが鳴っているのだと思った。何せ、アラーム以外で私のスマホが鳴ることなんて滅多にないから。でも鳴っているのは私のスマホだった。見ると、小野君からの電話だった。この前家に泊めた時に連絡先を教えていたのだ。

「彼氏? 出なよ。気にしないで」

「そんなんじゃないです」

 と言った私の声は怪しいくらいに強い口調だった。あかねさんは「照れなくてもいいって」というような感じで笑う。少しイラっとした。出ると電話の向こうの小野君は「あ、今電話大丈夫?」とまるで友達のような話し方だった。

 あの夜、もちろん私達の間には何もなかった。普通にそれぞれ寝て、朝になったら朝食だけ食べさせてさっさと帰した。そういえば、あれから少し経つが予備校でも一度も小野君と顔を合わせることがなかった。その後ちゃんと家に帰っているのだろうか。

「どうしたの?」

「この前先生に教えてもらったフリマアプリでいろいろ売りに出してるんだけど、やっと一つ売れた。これって何で送るのが一番良いの?」

「何が売れたの?」

「英語の参考書だけど」

 受験が終わる前に売る物ではないな、と思ったが何も言わなかった。要らない物は何もかも売ったらいいと言ったのは他でもない私だし、それに頭の中ではもう「参考書」ではなく、その縦横高さのだいたいのサイズ感、物体としての「参考書」の情報の計算を始めていた。

「やっぱりトリバイ便ライトが一番いいんじゃない? 参考書くらいのサイズなら多分収まるだろうし。匿名発送で履歴も追えるから」

「あぁ、なるほどね」

「送料は後で売上から引かれるよ」

「ありがとう。これ、なかなか思うように売れないね」

「最初のうちは私もそうだった。もっと写真の写し方とかこだわってみたら? あと、ハッシュタグを付けてみるとか。検索に引っかかる可能性が上がるから」

「分かった。やってみる」

 それで電話を切った。小野君は参考書の他にどんな物を売っているのだろう。やはり気が進まない受験関係の物が中心なのだろうか。彼がその十八年の人生で手に入れてきた要らない物達、それがどんな物なのか少し興味が湧いた。アカウントを聞いておけば良かったなと思った。そこで、向かいに座るあかねさんが私を見てニヤニヤと笑っているのに気付く。「あ、彼氏じゃないですよ」と、私は再度否定した。

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