送るまたは受け取る
@hitsuji
第1話
スカスカになった棚から大学時代に好きだったバンドのCDを取り出し、手に取ってみると二十歳くらいの頃の淡い思い出がフラッシュバックした。あれは確か二回生の春季のテスト勉強をしていた頃だ。ファミレスにこもってよくこのCDを聴いていた。懐かしい。けれどそれも数秒の話で、次の瞬間にはもう私の頭はそれを売ることだけを考えていた。
良い角度でパッケージの写真を撮る。プラスチックのケースだと光が反射してしまったり、撮影している自分が写り込んでしまったりしてしまうことがあるので撮影ポイントが難しいのだが、このCDは紙ジャケットなのでそういった心配は無く簡単に良い写真が撮れた。続いてジャケットを開き中面の写真も撮る。きちんと帯が有ることをアピールする。気にする人にとってはこの帯の有り無しも購入の重要な判断基準となり得るのだ。ディスクを外して裏面を見てみる。オーケー、傷は無い。念のためパソコンに入れて再生確認をする。問題無し。最後にパッケージの裏面も写真に収め、トリバイの出品画面へと急ぐ。トリバイというのは最近話題のフリマアプリのことで、アカウント登録さえしておけば誰でも自由に商品を売ったり買ったりすることができるサービスだ。ここ数年で急速に利用者数も伸びていて、今や一千万人以上の人がこのフリマアプリに登録をしている。
改めて、撮った写真を見返す。うん、保管年数の割には綺麗だ。私の基準では美品と言ってしまっても良いレベルだと思う。しかし情報入力の画面上、商品状態の項目では「やや傷汚れ有り」を選択する。世の中にはいろいろな人がいるのだ。私の基準では美品でも、万人が同じように思ってくれるとは限らない。そこに対してのリスクヘッジなのである。しかし上手く売るために、商品が綺麗なことはやはり伝えたい。それで私は商品紹介の自由記述欄を使う。
「一度パソコンにインポートしたきり、そのまま棚にしまっていました。傷もなく比較的綺麗だと思うのですが、あくまで素人保管なので神経質な方はご遠慮ください」
謙虚ながらも綺麗なことをそれとなくアピールする。このCDは確か数量限定で販売されたものだったはずだ。検索画面で他の出品者が同じCDをいくらで売っているかを調べる。四千円、三千円、五百円、三千五百円、三千円、五千円。売れているものはだいたい三千円代前半のものが多い。それ以下のものは破れや日焼けが酷く状態の良くないもので、それ以上のものはフィルムに包まれたまま未開封のものが多かった。自分の商品の状態や写真のクオリティから見て、三千円代後半でも売れそうな気がした。最悪売れなかったら段階的に値下げしようという気持ちで三千八百円で「出品する」の確定ボタンを押す。そこまでやってスマホをテーブルに置いた時、自分が仕事から帰ってきたままの格好で、コートも脱いでいないことに気付いた。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、さっき出品したCDにさっそくコメントが一件付いていた。「はじめまして。購入を考えています。三千円に値下げは難しいでしょうか? 可能であれば即決いたします!」と、アカウント名ゆきっちさん。おそらく女性だろう。何となく同年代のような気がした。文面を見て、直感的にとりあえずの値下げ要求ではないかと思った。三千八百円で購入してもいいが、ダメ元で値下げ要求をしてみようという感じだ。そういう人はけっこう多い。でもこれはあくまでただの直感で、完全な自信は無い。私は一度スマホを置いて、もう十年近く使っているティファールに水を注ぎスイッチを入れる。夕飯はストックしていたカップヌードルで済まそうと用意をしている時も、頭の中はゆきっちさんのコメントに対する返信のことでいっぱいだった。「まだ出品したばかりなので現状値下げは考えていません」と躱すのも良し、「三千五百円でいかがでしょうか」と刻むのも良し。しかし一方では、値下げして売ってしまっても良いかなとも思っていた。
フタを半分開けたカップヌードルにお湯を注ぎながら、もう一度まだ売れていない商品に限定して他の出品者のページを見てみる。写真、価格、あといいね! の数。このいいね! というのは要はブックマークで、商品にいいね! を付けておくと、その商品の価格が変更されたり、他の人がコメントを付けたりしたら通知が飛ぶようになっているのだ。つまりはいいね! が多くついている商品ほど関心度が高いということである。他の出品者の商品ページを開いては写真を全部スワイプしてチェックし、いいね! の数、ついでにそれがいつ出品されたのかも確認する。カップヌードルを作る三分はあっという間だった。スマホでセットしていたアラームが無機質な音で鳴り、付属のテープで閉じていたフタを開ける。かき混ぜて啜ると期待を裏切らないインスタントの油っぽい味が口の中に広がった。私は右手で箸を持ち、左手でスマホを繰ってそのまま調査を続ける。結局、今まだ売れていないライバル商品の情報は全て見た。思い出のCDジャケットも、こうも立て続けに見るとただの記号のように思えた。いや、違う。そもそも私は写真をスワイプしてCDジャケットを見ていたのではない。私はそこに付く破れや日焼け、つまりは「CDジャケット」ではなく「CDジャケットの品質」を見ていたのだ。
結論、私はゆきっちさんの要望通り三千円で売ることにした。他の商品の売れ行きから考えて、悪い金額ではないと判断したのだ。「返信が遅くなってしまい申し訳ございません。三千円で構いませんよ」と、返信。遅くなってしまい、何て言ってはいるがコメントから返信まで時間にしてまだ二十分くらいしか経っていない。ほとんど枕詞になっていた。それに対するゆきっちさんの返信は早かった。「ありがとうございます! 専用に変更していただけますか?」私は即座に「はい!」と返信して、早速商品情報を変更する。ゆきっちさんの言う「専用」とはつまりは出品した商品を誰かの専用のものに変更するということだ。価格交渉が着地した時になど使われるやり方で、商品名に「〇〇様専用」と付け足すことで、他の人に横から買われないようにするのだ。価格を三千円に変更し、品名に「ゆきっち様専用」と付け足して確定すると、ものの三十秒くらいで「SOLD」マークが付いて、ゆきっちさんから「お値引きありがとうございます! 短い間ですがよろしくお願いします!」と取引メッセージが届いた。この「短い間ですがよろしくお願いします」を言う人がけっこういる。でもそれは間違っていると私は思う。本当の意味で、私とゆきっちさんは繋がらない。短い間も何も無い。ゆきっちさんが繋がるのは私ではなく私が売った商品だ。私ではない。でもそんなことにいちいち突っ込むわけもなく、「こちらこそよろしくお願いします」と手短に返信する。
「藤田はさぁ、いわゆるミニマリストってやつなんじゃないの?」
花見さんにそう言われたのは去年の最終出勤日のことで、今から三ヶ月ほど前だ。濃密だった冬季講習が終わって、少し高揚していたのか、私は夏頃から始めていたトリバイのことを初めて人に話した。すると花見さんはそんなことを言った。
「ミニマリストって何ですか?」
私達は年末年始の休み前、教室の戸締りの最終確認をしていた。生徒達はとっくに帰った後で、暖房の温もりもほぼ無くなっていて寒かったのだが、ウダウダと話しながら二人で教室を回っていた。
花見さんは私の勤める予備校の先輩講師だ。歳は三つ上で、私が新卒で入った頃から何かと面倒を見てもらっていた。この予備校で花見さんは英語を教えていて、私は数学を教えていた。
花見さんは学生の頃ずっと野球(本人曰く、補欠だが甲子園に行ったことがあるらしい)をやっていたからか妙に筋肉質で一見大きく見えるのだが、実は身長は低く、女性の平均身長くらいの私とそう変わらない。その何とも言えないアンバランスさに愛嬌があり、持ち前の明るい性格も相まって生徒からの人気も高かった。
「つまりあれだよ。自分の持っているものを極限まで少なくして、それで研ぎ澄まされた生活を送ろうっていう」
よく分からなかった。話しぶりからして花見さんもそれほど詳しくはないのだろう。私はスマホを取り出して「ミニマリスト」で検索してみた。
で、出てきたのが、不要な持ちものを減らして自分に必要な最小限のものだけで暮らす人のこと。
「これですか?」
と、スマホの画面を見せる。
「あ、そう。それ」
花見さんは少し離れた窓のカーテンを閉めながら目を大きく開いて私のスマホの画面を見て言った。
「トリバイで身の回りの要らないものどんどん売ってるんでしょ?」
「でも最小限のもので暮らしたいとか、そんな動機ではないですよ」
「じゃ、何なのさ」
「最初は単純に欲しいものがあって要らないものを売ってたんですけどね」
ネスカフェのコーヒーメーカー。もはや懐かしかった。オシャレなデザインに惹かれて買ったけど、いまいち使いこなせなくて結局数回使っただけでこれも売ってしまった。
「何というか、売ること自体が楽しいんです」
「売ること自体が?」
「生きてるって感じがして」
「よく分からないけど、それで今いくらくらい売り上げたの?」
「まぁ、数万円くらいですよ」
「へぇ、いい小遣い稼ぎじゃん」
嘘だった。本当はもうその時点で数十万円は売り上げていたのだが、引かれるかなと思い少なめな金額を言ったのだ。
不要なものを削ぎ落とす、という意味では私もそのミニマリストと同じだ。不要なものは不要で、いつまでも持っている意味なんてない。でも私が重きを置いているのは「売った後の身軽になった生活」ではなく、「売る」ことそのものなのだ。自分の生活の一部分を切りとって送る、そしてそれを必要とする誰かが受け取りその人の血肉になりまた生きる。理に適った行動だと思う。私はひたすら適正な価格で適正な人に商品を「売る」ことでその正しいサイクルを回して、生きている実感を感じていた。
思い出のパッケージが緩衝材に包まれてぼやけていく。
緩衝材は発送時の必須アイテムなので、幼稚園児くらいの大きさの業務用のロールを買って部屋の端に立て掛けていた。角二の無地の茶封筒(これも業務用のものを大量に買い溜めていた)に商品を入れて半分に折り、ガムテープで三方を留める。CD一枚であれば緩衝材の厚みを計算に入れても一番安い送料百七十円のトリバイ便ライトで送ることができる。これで発送準備はできた。発送は基本的に購入から二十四時間以内が良しとされている。なので明日出勤する時でも何の問題もない。だけど私は早く売りたくて、二十二時半、シャワーを浴びて化粧も落としているのにユニクロのパーカーを羽織り茶封筒を片手に家を出る。
マンションの階段を降りようとした時に雨が降っていることに気付き、傘を取りに戻る。仕事から帰ってきた時は降っていなかったのに。そういえば週間天気予報で週の半ばから雨になると言っていたような気がする。しかし、そんなことでは私の売りたい意欲は削がれない。雨の跳ねるアスファルトに躊躇なく踏み出す。透明のビニール傘を広げて夜道を行くと、自分がくらげになったような気持ちになった。桜並木、満開の夜桜だった。雨はそこまで強くはないが割と風があって、欠けていくように花びらが散っていく。春はまた、じきに終わるのだろう。
コンビニに入るとピンポンピンポンと聞き慣れたアラーム音が私を出迎えた。夜のコンビニは何だか温かい。ここまで来れば大丈夫だと思える安心感がある。レジまで歩く間にスマホの画面上で発送受付を行うためのQRコードをトリバイのアプリ上で出しておく。このQRコードをレジで読みとってもらい、発送伝票を出力するのだ。スマホの画面を差し出すと店員さんは無言でそれを読み取り、屈んでレジ下の棚からトリバイ便用の発送ラベルを取り出した。店員さん、名前は下橋さん。もちろん話したことは無い。名札を見て名前を知っているだけだ。下橋さんは多分大学生なのだろう、茶髪にしっかりめのパーマをあてていた。背が高くて、コンビニの制服の下から覗く私服もなんだかお洒落。イケメンと言ってもいい部類だろう。このコンビニは家から一番近く、よく利用するので向こうだって私の顔くらいは覚えていると思う(だから何というわけでもないのだけど。そもそも私はイケメンが好きではない)。おそらくよく物を送りにくる人だと思っているだろう。
レジから大きなQRコードが印字された長いレシートが流れ出て、下橋さんがそれを千切って私に渡す。
トリバイ便のラベルは特殊な形をしている。ビニールのポケットが付いていて、そこにレシートを入れるのだ。この作業は店員さんでなく、自分でやらなければならない。おそらくちゃんとラベルが入っていなかっただとか、ラベルを貼り忘れただとかの発送トラブルを避ける為だろう。この作業に最初のうちは意外と手こずった。ポケットの入り口が狭くレシートを入れにくいし、レシートのどの面を表にするのかの説明も特に無い。でも私はもう慣れた。剥がしたラベルの台紙が静電気で手に纏わりつくのも余裕で躱せる。
発送ラベルを貼った封筒を下橋さんに渡す。個人情報保護のため、トリバイ便はお互い本名や住所を明かさずに取引ができるようになっている。なのでラベルにはQRコードや管理ナンバーしか印字されておらず、私の名前もゆきっちさんの名前も無い。あるのは「商品」、そしてそれを「売る」ということ「買う」ということ。需要と供給の成り立ち。
さて、これでいよいよ本当にお別れだ。下橋さんにとっては何でもない夜のただの宅配便の荷受けなのだが、私としては「売る」という行為の大切な仕上げ段階なのだ。
発送者控えを下橋さんから受け取りコンビニを出る。雨は先程より少し強くなっていた。
意外なことに商品到着後に購入者からメッセージが来ることはあまりない。
私としては、欲しかったものが届いたのだから何か一言くらいあってもいいんじゃないかと思う。まぁ、受領確認の通知はちゃんと送られてくるので受け取っていることは確認できるから別にいいと言えばいいのだが。
もちろんメッセージをくれる人もたまにいる。お礼の言葉とか、商品の状態を褒めてくれたりとか、そういうちょっとした一言はけっこう嬉しかったりする。こちらとしても売った甲斐がある。
ただ、あかねさんからのメッセージには驚いた。肝を冷やした。
「届いたマグカップ、取手のところが割れてるんですけどーw」
その日、最後の授業終わり、私は手癖で開いたトリバイのアプリでそのメッセージを見て固まった。
アカウント名、あかねさん。
誰かの結婚式の引出物のカタログギフトでもらったピーターラビットのマグカップを売った人だ。
割れていた?
私は動揺して無意識のうちに手で口元を覆う。送った時のことを思い出してみる。手落ちがあったか? いや、ちゃんと注意して発送した。はっきりと覚えている。割れないように緩衝材で厳重に包んでダンボールに入れて送ったはずだ。では運送中の事故なのか? とにかく受け取った本人が割れていると言っているのだからおそらく割れているのだろう。
唯一救いだったのは私がこのマグカップをもう一つ持っていたこと。いや、厳密には若干デザインが違うのだが。引出物は二つで一セットのもので、私はそれを一つ一つバラ売りで出品していたのだ。そしてもう一方ははまだ売れていなかった。すぐにもう一方の出品を停止してあかねさんにメッセージを返信する。
「大変失礼いたしました。もう一つ同じマグカップ(若干デザインは違うのですが)があるので、それと取り替えさていただきたいのですが、よろしいでしょうか? 申し訳ございません。」
それだけ送ったところで「あの、藤田先生」と、顔は見たことのある女子生徒二人に後ろから声を掛けられた。「どうしたの?」と振り返り、何かと思えば教室に教科書の忘れ物があったらしく、名前も書いていないので誰のものか分からずとりあえず届けたとのこと。「あぁ、ありがとう」忘れ物は記録簿に情報を記録したうえで事務所で保管しなければならない。できれば事務員の人に言ってほしかったが、仕方ない。私は二人から教科書が忘れられていた場所を聞き、日付や時間と合わせて記録簿に記入する。その間も私の頭の中はピーターラビットのマグカップのことでいっぱいで、マグカップマグカップと、危うく記録簿にマグカップと書いてしまうところだった。二人にお礼を言って別れると即座にスマホを見た。メッセージあり。あかねさんからだった。私が返信した一分後にはもう返信されていた。「デザイン違くても構わないよ」その一言にとりあえず私はほっとした。「申し訳ございません。今夜中に発送いたします」返信はやはり早かった。「別にいいよ、そんな急がなくて。近いんだし明日にでも散歩がてら持ってきてよ~」
近い?
一瞬思考が止まった。何故この人は私の住所を知っているのだ?
と、思ったが次の瞬間分かった。簡単なことで、私はこのマグカップをトリバイが推奨するトリバイ便ではなく一般の宅配便で送っていたのだ。トリバイ便は商品のサイズや形状によっては他の配送サービスよりも割高になってしまうこともあり、そういう時は一般の宅配便や郵便で送ることもできるのだ。ただ、そうすると互いに本名や住所を明かすこととなる。マグカップを梱包したダンボールはトリバイ便ライトの規定値を若干超えていた。一つ上のトリバイ便プラスで送ることも考えたが、計算すると一般の宅配便で送る方が半額近く送料が安かったのだ。
マグカップの取引ページに行き、発送先情報に記されたあかねさんの住所を見てみる。確かに私の家のすぐ近くだった。おそらく自転車で五分くらいだろう。商品はちゃんと届いているから私は間違いなく送り状にこの住所を書き入れているはずなのだが、売ることに夢中になっていたのかその時はまったく気が付かなかった。宛名に本名も表示されている。田村誠。誠、まこと。もしかして男の人? でもアカウント名は「あかね」だし、話し方も女の人っぽい。
考えていたらまたあかねさんからメッセージが来る。「あ、ごめん。明日十五時くらいにしてくれない?」もう私が商品を持参することは決まっているような言い方だった。一応トリバイでは商品の持参の強要を規約で違反行為と定めている。だから私もそれを盾にして断ることはできた。しかしそれはそれでどうなのかと思うところもある。例え運送中の事故だとしても商品が望む形であかねさん、誠さん? の手元まで届かなかったのは事実だ。私は商品が届くまでは売った側の責任の範疇だと思っている。だからこそあんなにも厳重に緩衝材を巻きつけるのであって、割れていたのであれば私が悪い。近いのだから持参くらいして誠意を見せるべきだとも思う。「十五時~十七時半くらいがベストかなー。夜は仕事だから☆」とさらにメッセージが来る。
私は観念して「十五時に伺います」と返信した。
翌日、自転車で行くのは止めておいた。万が一途中で転んだりしてもう一方のマグカップまで割ってしまったら目も当てられないから。
徒歩でも十分くらいであかねさんの住むマンションに着いた。それは「散歩がてら」という言葉にぴったりの距離だった。あかねさんの家はそこにあることは知っていた綺麗な新しいマンションだった。入り口の強固な二重のオートロックドアに感動した。中を覗き込むとロビーにはソファーとテーブルが何組か置いてある。あれはいったい誰が何に使うのか。しかしまぁ、年代ものの銀色のポストが昭和っぽく並ぶ私のマンションの入り口とは大違いだ。こんなところは家賃も高いのではないかと思いながら発送情報に書いてある部屋番号をインターホンに入力する。十五時ちょうどだった。
「はーい」
女性の声だった。
「あの。私、トリバイの。ピーターラビットのマグカップをお届けに伺いました」
彼女の声はやたらとはっきり通って、対する私の声は何だかかすかすな声だった。
「あ、もしかしてマチさん?」
私のアカウント名だ。そうです、と答えると「どうぞー」と魔法の扉のように自動ドアが開く。
乗り込んだエレベーターはするすると静かに上昇して、これも私のマンションには無い設備だった。あかねさんの部屋は三階だった。偶然にも私の部屋も三階である。普段、階段の登り降りをそこまで苦痛に感じることは無いのだが、エレベーターがあるとやはり楽だった。
ドア横のインターホンを押すとパタパタと軽い足音がこちらに近づいてくる。ひょっこりとドアの隙間から顔を出したのはやはり女の人だった。彼女は、女の人というより女の子という感じ。目が大きく、桜のようなピンク色の髪。セサミストリートのワッペンの付いたパーカーを着ていた。もしかするともう女の子って歳ではないのかもしれないし、背丈も私と同じくらいなのだけれど、とにかく「女の子」という言葉がぴたりと合う人だった。
「どうぞ、入ってよ」
と彼女はドアを開き私を中に誘う。本当はマグカップを渡してすぐに帰るつもりだった。しかしどこか有無を言わさぬといった感じの彼女の雰囲気に流されて、つい中に入ってしまった。
左にキッチン、右にはおそらくトイレと洗面所ではないかと思われるドアがある廊下を抜け、リビングに出た。そして驚いた。
四方八方、部屋中を埋め尽くす物、物、物。
ぬいぐるみや人形、マグカップや食器類、そして服、靴、鞄、時計、漫画、雑誌類。それらが部屋の中心に置かれた木製のテーブルを囲んでいくつもの棚に並んでいた。ベッドの上はぬいぐるみとクッションでいっぱい。どうやって寝るのか想像がつかない。壁には所狭しとキャラクターもののポスターやジグソーパズルが貼られていて、驚くことに天井すらも埋め尽くされていた。広い部屋なのに物が多すぎて動ける場所が少ない。ベランダに繋がる大きな窓があるが、棚に塞がれて外に出るのは困難そうだった。しかし、陽の光はよく入ってきて、やや色の付いた自然光が大量の物達を美しく照らしていた。
何だ、これは。
私は言葉を失い、無意識のうちに部屋中を見渡していた。
「ごめんねぇ、散らかってて」
と、彼女はけらけらと笑う。トリバイのメッセージ文面と彼女の発する言葉が一致する。間違いなくこの人があかねさんだ。
「ここ座って」
そう言ってあかねさんはキキララのイラストが描かれたクッションを私の足元に置いてくれた。薄っぺらいが不思議なくらいふかふかする。コーヒーでいい? と聞かれ、反射的に「はい」と返す。私は少し緊張していた。でもそれは初対面の人だからとか異常なほど物が多い部屋だからとかではなく、単純にあかねさんが美人だったから(もちろん物の量に対する戸惑いはあったが)。私はどうも美人という人種が昔から苦手だった。どこまでが本当でどこからが嘘なのかがよく分からないから。
テーブルの上も漫画や雑誌で埋め尽くされていて、その上や隙間にキーホルダーやら指人形やらの小物がバラバラと置いてあった。あかねさんはそれらを避けてコーヒーを入れたマグカップを置いてくれた。そっと湯気が昇っていて、まるで人形の街の煙突から煙が上がっているようだった。それぞれ、私のマグカップにはムーミン、あかねさんのマグカップにはミイが描かれていた。砂糖とミルクも出してくれたが、二人ともブラックのまま飲んだ。
「マグカップ、割れていたなんて。大変失礼しました」
と、私は頭を下げてピーターラビットのマグカップの入った紙袋をあかねさんに渡した。あかねさんは「あぁ」と言って紙袋を受け取り、そのまま中から緩衝材にぐるぐるに巻かれたマグカップを取り出す。全然怒っている様子は無くて、何となくだが、私がここにマグカップを持ってきたという事実だけでもう満足しているような感じに見えた。
「なかなか可愛いマグカップ」
あかねさんは緩衝材を外しマグカップの側面を一周ぐるりと眺めて言った。私は何と言っていいのか分からず、とりあえず「ありがとうございます」と言った。別に私が絵を描いたわけでも作ったわけでもないが私の売った商品だ。だから「ありがとうございます」という反応も間違ってはいない。あかねさんは私が売ったマグカップを部屋のマグカップが大量に置いてある棚に置こうとしたが、いっぱいで場所がなくて諦めてテーブルの上に置いた。
「マチさん。マチって何から取った名前なの? もしかしてハンターハンター? 幻影旅団?」
「いえ、ただの本名で。実っていう字に千で実千です」
「あぁ、そうなんだ。そうよね、確かにハンターハンターだとマチっていうよりシズクって感じよね」
そう言ってあかねさんは煙草に火をつけて笑う。私はハンターハンターを読んだことがなかったので何と言っていいのか分からなかった。
「あかねさんは何であかねさんなんですか? 本名は全然違うのに」
「あぁ、誠って男じゃないかって思ったでしょ?」
「まぁ、確かにちょっと」
失礼にならないよう言葉を選んで言ったらひどくもじもじした言い方になってしまった。
「私、生まれる直前まで男の子だって言われてたのよ。臍の緒がいい感じに見えてて。それで親が考えてた名前が誠で、生まれて来たのは女の子だったけど、まぁいいかって感じでそのまま誠にしちゃったのよね。音的には別に女の子でも変じゃないじゃない? まこと。真実の真に楽器の琴とかで真琴とか、いるじゃない?」
私は頷く。
「でも、まぁ、本当はもっと可愛い名前が良かったのよ。私としては。誠って、何か武士みたいだし。新撰組とかさぁ。女の子だからね。だから私、他の名前はどれもぐっと女の子らしい可愛い名前にしてんのよ。あかねもその一つ」
「他の名前?」
「うん。私、たくさん名前持ってんの」
例えばさ、と言ってあかねさんはスマホを開いて画面を見せてきた。Ques♡と太字のサインペンで走り書きしたみたいなロゴの前で女の子が六人、色違いの制服を着て各々ポーズを取っている(何となくセーラームーンっぽい)。アイドルグループのホームページ? 私はアイドルグループには詳しくない。というよりほとんど何も知らないと言っていいくらいだ。だからこのグループが有名なのかそうでないのかも分からなかった。
「キューズ?」
「うん。ほらこれ」
そう言ってあかねさんは左端でポーズを取っている女の子を指差した。ピンクの髪、それは紛れもなくあかねさんだった。
「アイドルなんですか?」
「そうそう」
画面上のあかねさんをタップすると個人のプロフィールページに飛んだ。桜町未来と書いてある。可愛い名前だと思った。
「これは事務所が考えた名前なんだけど、なかなか可愛いでしょ?」
「うん」
私は目の前のあかねさんと画面上の桜町未来のプロフィールを見比べる。二十五歳、十月十日生まれ、趣味はショッピングと漫画、東京都出身、歌とダンスの切り込み隊長☆。下の方にはスリーサイズまで書いてある。そんなの、私は死んでも公表したくない。でもアイドルなら当たり前なのか。
「まぁ、本当は二十九なんだけどね。スリーサイズもちょっと盛り気味」
と、言ってあかねさんは悪戯っぽく煙を吐く。スヌーピーの灰皿に灰を落とす。
「私と同い年」
アイドルがプロフィールを偽証していることよりも目の前の彼女が自分と同い年なことの方が驚いた。何なら二十五よりも若く見える。
「わ、マジか。マチちゃんは何やってる人なの?」
「私は予備校の講師をしています」
同い年と分かり、さっきから驚きで半々になっていた敬語を完全にやめてみようと思っていたのについて出た言葉は敬語だった。
「うわぁ、ぽいわ」
そう言ってあかねさんは笑う。私はそんなに予備校講師っぽい顔をしているのだろうか? 予備校講師顔、今でしょの人の顔しか浮かんでこない。
あかねさんの笑いがおさまると部屋の中は静かになり、変な間が生まれた。たくさんの物に囲まれている中で、沈黙は奇妙なものだった。あかねさんはその間を丁寧に埋めるようにもう一本煙草に火をつける。そして私は「何でこんなにいっぱい物があるんですか?」と部屋に入った時からずっと聞きたかった質問をぶつけた。あかねさんは一瞬意外なことを聞かれたような顔をしたが、すぐにまた笑って「そりゃ、好きだからよ」と言って煙を吐き、「好きだからどんどん買っちゃうの」と付け足した。
「それはつまり、買い物依存症のようなものなのでしょうか?」
そう言った後、少し踏み込み過ぎたと後悔した。依存症だなんて初対面の人に対して使う言葉ではない。でもあかねさんは怒った様子も無く、「依存症かどうかは分からないけどね」と言ってマグカップのコーヒーを飲み干す。
「欲しい物があったら買っちゃうのは普通じゃない? もちろんそこにお金は必要だけど」
「要らなくなる物とか無いんですか?」
「無いよ。そんなの一つも無い」
あかねさんは驚いたように目を見開いて言った。
「逆にマチちゃんは要らなくなる物とかあるの?」
要らなくなる物もあるし、理由をつけて要らない物にしてしまう物もある。でも何だか言えなかった。「いや、まぁ」と歯切れの悪い感じで誤魔化す。するとあかねさんは立ち上がり、ベッドに置いてあったミッキーマウスのぬいぐるみを手に取った。ミッキーマウスはいつもの赤いズボンではなく、水色のお洒落なタキシードを着ていた。限定品か何かなのだろうか。「高く売れそう」だなんて考えが無意識のうちに私の頭をよぎる。
「例えばこのミッキー。これはある意味私の一部なのよ」
あかねさんの言いたいことが私にはよく分からなかった。その感じはあかねさんにも伝わったようで「分からない?」と聞かれ、「すみません」と謝る。
「例えばさぁ、今マチちゃんが着てるそのシャツ。それ、ラルフローレンよね?」
「そうですけど」
私は白のラルフローレンのシャツを着ていた。
「着てるってことはマチちゃんがそのラルフローレンのシャツを選んだってことよね? まぁ、もし自分で買ったんじゃなくて人から貰ったものだったとしても、最終的にそれを着ようと決めたのは自分の意志よね? そうするとそれはつまり、マチちゃん自身がラルフローレンを認めて今身に付けてるってことになる。対するそれを見た他人も、あぁ、この人はラルフローレンを選ぶ人なんだなぁ、って思うわけじゃない? 印象だよね。そうなるとさ、もうラルフローレンもマチちゃんの一部なのよ。ラルフローレンのシャツ込みでマチちゃんなのよ。分かる? 何が言いたいって、つまり自分の持ち物が自分を形成するってことよ」
「物が、自分を形成する」
私はあかねさんの言葉を反復する。それであかねさんは満足したようにうんうん頷き、持っていたミッキーのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「私はミッキー好きだし、ぬいぐるみも好き。マグカップも好きだしジグソーパズルも好きだし漫画も好きだし雑誌も好き。そんないろいろを好きな私でいたいし私で見られたい。物が要らなくなるっていうのはその物を自分から削ぎ落とそうとすることよ。今私が持っているものこそ今の私。だから何一つ要らないものなんてないのよ」
あかねさんは私の目を見てはっきりと言った。
私は頷く。言いたいことは分かった。でもだからと言ってこの量は、と思いもう一度部屋の中を見渡す。たくさんの物達が四方から私を見ていた。あかねさんの理論から言うと、これらは全てあかねさんの一部なのだ。ぬいぐるみもマグカップも漫画も、目や口や腕と同じようにあかねさんの一部。そう思うと急に目の前に座るあかねさんの色がぐっと濃くなったような気がした。
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