君の呪いを解いて、君に呪いをかけた

 秘密基地を抜けてしばらく進むと、見晴らしのいい渓谷の上に出た。


「綺麗でしょう? ここも、掲示板に載っていたホットスポットなんです」


 彼女は躊躇なく崖の先へと歩を進める。

 

「飛び降りるもよし、首を括るもよしという前評判通り、ここなら誰にも気付かれることなく、目的が果たせそうです」


 そう言いながら崖下を覗きみる彼女はあまりに無防備で、簡単に突き落せそうだった。


「わざわざこんな場所に連れて来なくたってよかっただろ」


「……知ってます? 確実に落下死する為には、最低でも二十メートルは必要なんです。そして高度と共に重要な要素が、落下場所です。落下地点にクッションがあると、一気に生存率が跳ね上がるんです。……ここはざっと三十メートルくらいの高さがありますし、緩衝材になりそうなものもありません」


 彼女は振り返ることもなくそう話す。


「つまり、時雨さんに気を遣ってあげたんですよ。今ならほら、軽く背中を押だけで殺せますよ」


 そのときが来たのだと、俺は覚った。


「いや……実感があったほうがいい」


 俺はポケットから折り畳みナイフを取り出して、親指で刃を少し浮かせる。次に、勢いよく手首を返して、格納されていた刀身を展開させた。


「まあ私としても、そっちのほうが嬉しいですけど」


 嬉しい? 俺は彼女が何を言っているのか分からなかった。


「飛び降りのほうが楽なんじゃないのか」


 俺がそう言うと、彼女はクスっと一笑した。


「それはそうなんですけど、そういうことじゃないです」


「じゃあ……」


「時雨さんの言った通りの意味です。私としても、時雨さんには実感を持って、手を下して欲しいんですよ」

 

 腑に落ちなかった。自分を殺した罪悪感にとらわれながら生きて欲しいとか、彼女がそんなことを考えているようには思えなかった。


「ちゃんと、覚えていて欲しいんです、私のことを」


 思考が止まる。

 しばらくして、また動き出したところで俺は納得した。そうか、俺が人を殺そうと思ったのも……。

 いや、駄目だ。今はまだ、人殺しとして、俺は俺を律さなければならない。

 脳脊髄液の水面に浮かび上がったひとつの真実を、俺は一旦保留にすることにした。


「崖から突き落とす程度じゃなくて、そのナイフで直接私の首を切って、血まみれになった手のひらを見つめながら『あぁ、俺はこの手であの子を、雛木紫蘭を殺したんだって』胸に焼き付けて欲しいんです」


 ヒステリーだとは思わなかった。俺には十二分に彼女の主張が理解出来た。しかし彼女にとっての主題はあくまで死であり、俺に殺されることではない筈だ。

 だが今になって考えると、本当にただただ終わらせたいのであれば、こんな煩わしい方法を選ぶ必要はなかったように思う。

 

 やり残したことも“かくれんぼ”以外は彼女一人で事足りていた。

 結局鬼の役目を果たせなかったことを考慮すると、かくれんぼすら、ある意味彼女一人で行ったことになる。

 生への執着という呪いを解く方法が“やり残したことを全てやる”のであれば、俺の存在などいらなかっただろう。

 経済力や社会的立場による行動の制限を解消する為、ドライバー役として俺を利用したのであれば、やり残したことを終えた時点で、自ら手を下すことだって出来た筈だ。

 要するに彼女は、死ぬのが怖いから 殺して欲しいんじゃない、純粋に、殺して欲しいのだ。 

 それも、記憶される為だけに。

 

「それじゃあ望み通り、やってやる」


 俺は彼女に向かって前進する。逡巡するのは止めだ。どれだけ彼女を理解したって無駄なのだ。

 笑える明日なんて来ない。俺達は後に引けないところまで来てしまった。


「お手数お掛けしてすみません」


 丁度いい距離まできて、俺は彼女の喉に向かって下からナイフを伸ばす。

 腹の辺りまで腕を上げたところで、左手でも柄を握る。

 そうして両腕を伸ばして、両手で握ったナイフを彼女の首の高さまで近づける。

 あと数センチで、刃先が当たる距離だ。  


「殺されるの、時雨さんでよかったです」


 俺は極力彼女の声を聞かないように心掛けた。声を言語として認識する前に、思考を遮断した。何も考えなければすぐに終わる。ほんの少し、力を入れるだけだ。

 俺は彼女の喉に意識を集中させる。

 憎しみを掘り起こせ。そうすればもっと具体的にイメージ出来る筈だ。

 俺をこんな風にしたあいつ、期待に応えるチャンスすらくれなかった親、ろくでなしの教師、低能なクラスメイト、全員。


 思えばいつも、殺したいだらけだった。


 強く握り締めたナイフを、俺は彼女の喉に突き立てた。


 殺す。殺す。殺す。長年鬱積した憤懣に身を任せて、彼女が書いたあいつのように、人を殺す。

 悪いのは俺じゃない。俺をこんな風にしたのは、俺だけのせいじゃない。

 それにこいつだって、殺されたがっているんだ。

 誰も損はしない。これは単なる利害の一致だ。何より俺には、人を殺す権利がある。そこに正当性がなくとも、誰に文句を言われる筋合いはない。


 満たされていて、それでも尚奪おうというなら、それは罰せられるべき悪行だ。だが、俺は何もないから奪うのだ。人を殺すのに、これ以上の動機があるか?

 

 俺は間違っていない。


 その筈なのに、どうして俺は、こうして自分に言い聞かせているのだろう。


 憎くて、殺したくて仕方がなかったのは、自分の存在が、誰にも受け入れられなかったからだ。

 …………じゃあ俺は、愛そうとしただろうか、認めようとしただろうか? 求めるだけ求めて、俺は彼らに何を差し出したのだろう。

 

「全部自分が悪いんじゃないか」


 微かに聞こえたそれは、俺の声だった。気持ちの悪い、自分の声。

 意思にそぐわず、刃渡り十数センチの殺意は不発に終わっていた。


「やっぱり」

 

 呆れたように彼女は言った。


「殺せないんですね」


 俺は鋭く彼女を睨んだ。裏腹に、ナイフを握り締める手は酷く震えていた。


「初めからそんな気はしてました。あなたは、人を殺せない」


 奥歯を噛んで、荒い息をする。全部自分のせいだから、殺せないのか。

 殺人に正当性なんてそもそもないじゃないか。俺は……どうしたかったんだ? 

 力なく下ろした両腕が、ぷらぷらと垂れる。


「あなたはあなたが思うより、悪い人間じゃないんです。自分でも薄々気付いていたでしょう? こんなのは茶番だって」


「いい人間は、人を殺そうだなんて思わない」


 俺は右手に持ったナイフを見つめる。本当にもう……駄目なのか? 俺はまた、埋められないのだろうか? 


「確かに、善人かと聞かれたら、そうじゃないかもしれません。ただだからといって、時雨さんは悪人という訳でもないんです」


「……お前に何が分かるんだ?」


「分かりますよ」

 

 間髪入れずに彼女は言った。

 

「今まで生きてきて、一度も他人から認められたことがないから、この先もずっと、誰からも認められない。そんな風に考えてしまうのも仕方がありません」


「なんの話を――」


「愛されなかったあなたは、愛を知らない故に、人を愛することが出来なかった。そして人を愛せないあなたが、人から愛されることはなかった」


 図星だった。認めたくない自分の真実を言い当てられても、俺は逆上する気にはなれなかった。寧ろ彼女の洞察眼に関心していたくらいだった。


「だからあなたは、有り体に言うと、割り切ったんです。自分が他人に愛されるような人間じゃないことを認め、他人との純粋な交友関係や恋愛関係を求めること自体を、諦めた。人から好かれることを諦めたんです」


 そう、初めから期待しなければ裏切られることもないと、俺は傷つきながら人を愛そうとすることを諦めたのだ。


「それでも尚、人との繋がりそのものだけは諦めきれなかった。だからあなたは……」


 左胸に手を置いて、彼女は真っすぐに俺を見つめた。


「私を殺そうとした」


 思いがけず、湿気た笑いが零れた。


「大したもんだ」


 彼女は、俺より俺のことを知っているようだった。彼女の洞察眼の賜物というより、今まで俺が俺を知ろうとしなかったから、そう感じられたのだと思う。

 俺は常日頃から、自分に対しても分厚い鎧をまとって接していた。吹っ切ったつもりになっても、結局のところ、俺は自分の弱さを認められていなかったのだろう。


「人を殺すことで、人との物理的な交流を図ろうとしたんです。殺人なら、自分の存在を相手に認めて貰えなくても、一方的に交わることが出来る。他人の人生に、自分という存在を強制的に刻み込める」


 もはや言葉を返す気にもなれなかった。揺り籠の中で、母親に童話を読み聞かされている三歳児のような心情で、俺は彼女の推察に耳を傾けていた。


「つまりあなたは、寂しかったんです。ひとりぼっちが、苦しかったんです。それを紛らわせる為なら、人を殺してもいいと思う程に」


「自分勝手な奴だよな」


 俺は対岸の火事を煽ぐ野次馬のように言った。


「私はそうは思いません。誰だって、時雨さんのようになってしまう素質があると思うんです。雑踏に塗れ込む一人一人に、殺人者の素質があるんです。あなたは、多分元々、普通の人だった。特別いい人でもなければ、特別悪い人でもない。それでもあなたは、殺人を企てるまでに歪みました。普通の人と、何処までも救いようのない、決定的な違いがあったから」


 そう、そしてそれが、あまりにも致命的すぎた。それさえなければ俺は今頃。


 「あなたは生まれながらにして孤独だった。そしてそれは、あなた一人でどうにか出来るような些細な孤独ではなかった。言うなればそれは、業だったんです。あなたは生まれながらにして、孤独という業を背負って生きてきた」


 あのときああしていたらなんて、以前の問題だった。この巨大な空洞を埋める為にはもっと抜本的な変革が必要だった。それこそ、産声を上げた場所を書きか変えるとか、著しく倫理を冒すとか、そういうレベルだった。


「その致命的なズレが人格を歪める原因となり、そしてそんな絶望の最中、誰も救いの手を差し伸べなかったが故、孤独が更に深い孤独の連鎖を呼び、やがて殺人衝動を孕むまでに、あなたの中の怪物は愛に飢えていたんしょう」


 俺は長い溜息を吐いた後、気怠く首を回して、白目を剝いた。


「俺の負けだよ、大した洞察力だ。それで? どんな手を使ったんだ?」


 彼女は波打つように視線を流して、最終的に俺の瞳に漂着させた。


「目を見れば分かるんです。あぁ、この人は一度も本心から愛されたことがないんだなと」


 そう語りながら、彼女はじっと俺の瞳孔を見つめる。


「あなたの目には、何の色も見えません。“愛色”でなくとも、大抵の人間の目には、一種類は色があるんです」


「色?」


「はい。例えばそれは、夢色だったり、恋色だったり、熱色だったり、欲色だったりと、自分の心が躍るような情景を、人は目に宿すんです。でもあなたの目は、本当に只々、空っぽなんです。まるで深海の奥底で眠っているかのような、そんな、真っ暗で、悲しい目をしてるんです」


 彼女はそこで皮肉っぽく笑う。


「いいえ、違いました。悲しい目というのは、私の捉え方の問題でしたね。空虚な目。というのが、同情を抜きにした適切な表現でしょう」


 彼女の考察を聞き終わったとき、妙な感覚が芽生えていた。まるで長い眠りから覚めたような、そんな立体感のない心情だった。

 そしてもう一つ、急速に湧き上がってきたのは、あの日東口のロータリーで抱いたような強烈な殺意だった。


「やっぱり殺しますか?私はいいですけど」


 なにかに感づいたように彼女は先回りして告げる。

 俺は彼女の首元にナイフをあてがおうとした。しかし触れようとすると、手が小刻みに震えて硬直してしまう。まるで見えない壁があるようだった。


「時雨さん、人を殴ったこともないでしょう?」


 殺すどころか、傷ひとつ付けることすら出来ない俺を見て、彼女は澄ました顔で言う。


「違う」


 俺は長い黒髪をした女の子に向けていたナイフを自分の身体に引き戻した。


「何がですか」


 俺が憎いのは、殺したい程に恨んでいるのは、雛木でも、世界でもない。


 本当に……俺が憎いのは―――。


 俺は顔を上げて、彼女の双眸を真っ芯に捉えた。今俺は、誰よりも迷いのない、曇りなき目をしているだろうと思う。

 俺はナイフの刃先を自分の肩の位置まで上げた。あとはこれを、頸動脈にめがけて思い切り振りかぶるだけだ。


「時暮さん?………っ…馬鹿な真似は――」


 俺は自分の首を全力で掻っ切った。生々しく肉が裂ける感触がして、血しぶきが飛び散る。


「なにしてんだよ」


 俺が切ったのは、彼女の左腕だった。


「こっちのセリフですよ。なにやってんですか……自分を殺そうとするなんて、聞いてないですよ」


 彼女の左手首からは多量の赤黒い液体が流れていた。傷口からは骨が見えていて、今すぐに治療しなければ取り返しのつかない事態に発展するのは見て明らかだった。


 もう頭で考えている余裕はなかった。普段の俺なら、「雛木紫蘭を心配する自分」なんて認められなかったが、虚勢を張り付ける時間も惜しかった。

 俺はすぐさま彼女に駆け寄ろうと、足を踏みだした。


「来ないで下さい!」


 これまで聞いたこともないような大声で彼女は制止した。


「わざわざここに連れてきたのは、時雨さんが、人を殺せないことに気付いていたからです。この場所は…………保険だったんですよ」


 彼女は斜め後ろを向いて、崖下を眺めた。右手のコートの袖で患部を握り、気休め程度の止血はしているようだが、とてもそれで事足りるようには思えない。


「そこまで死に急がなくたって、いいんじゃないのか」 


 それでも俺は、彼女のほうを見れなかった。虫のいいエゴを押し付けている自分が疚しかった。


「全く、この期に及んでよくもまあそんな二枚舌が回りますね」


 彼女は大粒の汗をかいていた。見た目の通り、相当な激痛なのだろう。手首からはとめどなく血が流れ落ちている。

 どうすれば考え直させることが出来るだろうと、俺は熟慮した。だが、その場しのぎの中身のない言葉は反って逆効果になりかねない。


「どうやって引き止めようか、考えてるんでしょうけど、もうそういうのやめましょうよ、時雨さん。あなたが本当に怯えているのは、私が死ぬことじゃなくて、また以前までの無味無臭の生活に戻ってしまうことでしょう?」


 切迫した息遣いで、苦しそうに彼女は話す。黒目も若干上のほうを向いていて、意識を保つのに精一杯という様子だった。


「あなたは人に愛されたことはありますか。あなたは人を愛したことがありますか」


 彼女が発したそのセリフを聞いて、俺は反射的に回想していた。

 あれは確か、彼女のブログ、ひとりごと……雛は囀るとコンタクトをとったとき、直接会う条件として提示された質問だった…………。


「あの質問の意図、なにか分かりましたか? 時雨さん」


 俺は首をひねった。あの日保留にしてから、今の今まで忘れかけていた。

 今考えても、得心出来るような回答は弾き出せる気がしなかった。


「愛を知らない時雨さんだから、私は安心して一緒にいれたんです。どれだけ期待しても、どれだけ距離が近づいても、あなたと私じゃ、どうあがいても二人にはなれない。もしかしたら肌を寄せて暖めあうことも出来るんじゃないかとか、この期に及んで愚かな幻想を見ずに済むと思ったんですよ」


「間違っても人と恋に落ちれない、冷たい人間として、俺を選んだのか」


「……そうです。でも、誰でもよかった訳じゃないんです。私には、時雨さんじゃないとダメだったんですよ」


 聞き触りだけは甘い言い回しだったが、つまるところそれは、あなたがいないと駄目だという意味ではなく、あなたじゃなくてもいいあなたじゃないと駄目だったという、残酷な意味だった。


「……三番目はなんだったんだ」


 三 あなたは死にたいと思ったことがありますか?


「私は見ず知らずの他人と心中したいと思うほど、特殊な性癖はもっていなんですよ」


「そういうことか」

 

 彼女は初めから、こうなることを分かっていたのだ。更にいえば、この展開は一から十まで、彼女の筋書き通りだったのだろう。  

 

 自分の欲を満たす為の適性者として、俺が彼女を選んだつもりだったが、選んでいたのは彼女のほうだったのだ。


「一人で一人にもなれない私達じゃ、足りないんですよ。だから時雨さん、無理して止めなくていいんです。私がいなくなっても、時雨さんのせいじゃありませんから」


「無理して引き止めようとしてる訳じゃ……ない」


「じゃあなんで私の顔見ないんですか?」


 そう言われて俺は、彼女のほうを見た。

 愛色、夢色、恋色、熱色、欲色。

 彼女の瞳にも、どれも宿ってはいなかった。


「時雨さん、私、さよならは言いたくありません」


 彼女は悟ったような顔で、柔和に微笑んだ。


「偽物でいてくれて、ありがとうございます」


 身を翻して、彼女は進んでいく。落ちていく、彼女を想像した。

 これでよかったのだろうか? 俺は何がしたかったのだろうか。

 どうしてもう一度、この首を切ろうとしなかったのだろう。

 …………それはまだ、彼女が生きていたから。この手で傷付けた彼女をなんとかして救う為に、まだ俺に使い道があったからだ。

 だが、彼女はもう死んでしまう。あと数秒で、俺の使い道がなくなってしまう。

 

 俺はこの二週間近くの彼女の言動を思い返していた。そして俺が感じていたことも。いつの間にか、気付かぬうちに砕け散っていた破片達が、走馬灯のように逆流して、本来の姿を取り戻していく。

 

 そうだった。彼女が俺に殺されたがったのは、俺が彼女を殺したかったのは。

 

 身を投げる彼女の幻に実体が重なったとき、俺は走り出していた。






 愛されないからせめて、どんな形でもいいから、誰かに覚えてもらいたかった。






 だから俺は、水無瀬時雨を記憶した状態の雛木紫蘭を殺そうとした。


 そして彼女は、水無瀬時雨に記憶される形で雛木紫蘭を殺そうとした。


 自分の存在価値に自身を持てなかった俺達は「愛」という正当な方法をハナから放棄して「死」という物質的かつ不当な手段で、人と強い繋がりを築こうとしたのだ。


 仮令それがどれほど滑稽でも、多くの人間にとって割の合わない方法でも、俺達には、それくらいしか「誰か」の求め方が分からなかったのだ。


 

 愛色も、夢色も、恋色も、熱色も欲色もない俺達の目じゃ、「形のない大切なもの」なんて見えなかった。

 愛憎しか受けとったことがないから、愛情なんて信用できなかった。

 


 俺達が殺したかったのは多分、水無瀬時雨でも雛木紫蘭でもない。


 本当に殺したかったのは――。



「紫蘭!!!」



 耳がおかしくなるくらいの声量で、俺は叫んだ。

 勢いのままに彼女の手を握って、俺は力の限りその軽い体躯を引き戻す。

 彼女の目から零れていた水滴が、頬の傷口に掛かった。

 

 彼女は、驚きと悲しみを混ぜ合わせたような顔をした。



 俺はほくそ笑んだ。 



 やろうと思えば、俺も助かる事が出来たと思う。



 それでも俺は、彼女とすれ違う形で、体を空に投げた。



 こんな形で出会わなければ、俺達はきっと、この先数十年と幸せな日常を重ねてゆくことだって出来ただろう。だが、そう都合よく世界は回っちゃいない。

 


 俺達には初めから、破滅への片道切符を持って、馬鹿げた最終便に乗り込む他、辿れる筋書きなどなかったのだ。

 


 それならこれはこれで、よかったのかもしれない。  



 出会えただけ、



 よかったのかもしれない。



 今俺は、そんな風に、傍観的な目で、見送っている。



 俺がいたことを彼女は忘れないだろう。自分の身代わりに死んだ俺のことを、忘れることが出来ないだろう。



 これは、死を賭した一生解けない呪いだ。



 俺の復讐は成功した。



 がなり声で俺の名前を呼ぶ女の子の声が遠のいていく。



 しかしなんというかまあ、下らない人生だった。



 十二月の玲瓏な空に吸い込まれていく白雪は、どこかあの女の子のように、侘しそうな顔をしていた。

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君の呪いを解いて、君に呪いをかけた。 瀬戸あくび @nakinyako

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