かくれんぼ

「本当にここであってるのか?」


 街はずれを抜け、三十分程度走って到着した場所は、人気のない山岳地帯の道路沿いだった。

 どこか名の知れた山道の入り口かと思ったが、それらしい案内看板は見当たらない。

 昼頃と比べて曇りだした空模様のせいか、まだ太陽が出ているというのに周囲は薄暗く、降り注ぐ雪は勢いを増して、視界を白く飾っている。


「はい、ここであってます」


 そう言って彼女は、草木の生い茂る獣道を掻き分けて進んでいく。

 辛うじて人が行き来した形跡はあるものの、道の舗装などはされておらず、歩きづらくて仕方がない。


「正式なルートじゃないんですけど、この道を真っすぐ進んでいくと渓谷の頂上に出るらしいんです」


 少しでも遅れをとると途端に枝葉や山萩に彼女の背が覆い隠されてしまう為、俺は会話に割くタスクと同じくらいの領域の意識を、歩くという原始的な動作信号に使っていた。


「土地勘がある訳でもないのに、地図にも載ってない場所の情報をどうしてお前が知ってるんだ?」


「スレッドに書いてあったんですよ」


 スレッド…………掲示板。

 俺は適性者を探していた頃に見漁っていた自殺志願者が集う掲示板のことを思いだしていた。

 やっぱりこいつ……。


「おい……これはやり残したことに関係があるのか? いい加減答えてくれ、何を考えてるんだ」


 少なくとも今分かることは、こいつがロクなことを考えていないってことだけだ。


「黙って付いてきて下さい」


 いつになくとげとげしい口調で彼女は言った。

 

 ……もし今日がそのときだとして、俺に黙ってこんな遠回しな方法をとる必要がどこにある?

 雛木を突き動かすなにかがあったにしろ、予兆があったっていい……はず………。

 

 そこまで考えて俺はやっと気が付いた。予兆なら、いくらでもあったじゃないか。

 事ある毎に彼女の口を衝いて出た自罰的な言動、やり残したことを実行する度、再三浮き彫りになったペシミズム、あの人形のような瞳。


 俺の知らぬ間に、彼女はずっと最後の日のことを考えていたのかもしれない。

 さらに言えば、あの駐車場で男子学生達を見送ったとき、明確に決意を固めたのではないか? 


 そうだとしたら、俺は今日、彼女を殺すことになるのだろう。

 ……何を恐れる必要がある? あれだけ待ち望んだことじゃないか。


 そう、どの道、どの道なんだ。

 ここから逃げ出したとして、なんになる?

 あのアパートに戻り、真っ暗なテレビモニターを眺め続けて、この期に及んでまた洞ヶ峠を決め込むっていうのか? 


 …………正当な手段じゃ報われないから、俺は人を殺そうと決めたんだ。


 迷うのはやめにしよう。俺は今日人を殺す。

 それに俺には、後に引く安息場など、元よりないのだ。



 十分ほど足場の悪い山道を登ったところで、開けた河原に出た。正面に見える川の流れを目で追うと、右手側に滝口があった。彼女の言っていた情報はどうやら間違いじゃないようだった。

 

 早いペースで急斜面を上ったせいか、大雪の中だというのに体は熱くなっていた。

 千鳥足で川のほうへ向かう彼女の後ろ姿は、とても頼りなく映った。

 心細くて、侘しさで一杯で、誰かに抱きしめてほしそうな情調があった。


 ベージュのコートの肩の部分と、頭の上に、雪がかかっている彼女を見て、俺も何気なしに自分の肩に目をやる。またすぐ前を向く。


 彼女は川の側で淑やかにしゃがみ込むと、右の手で流水をすくった。

 冷たそうだと思った。十二月の、雪の日の川の水だ、触れた時どんな温度感なのかは想像に難くない。

 何度かそんな行動を繰り返した後、立ち上がるのと同時に、彼女はやっとこちらに体を向けた。

 

「すみません、ケガをさせてしまって」


 先ほどまでの鋭利な雰囲気は消え、普段通りの口調と柔らかい表情で彼女は言った。


「ここ、血が出てます」

 

 そう言って、彼女は左手で左の頬を指さした。彼女が示した辺りを軽く撫でると、生暖かい液体に触れた。

 道中で切ったのだろう。


「やり残したこと、最後なんだろ。俺は何を手伝えばいい?」


 そんなこと一々謝らなくたっていいんだ。


「いくら時雨さんといっても、流石に勘付きますよね」


 彼女は雪の降る空を見上げた。俺もそうしていた。


「いくら私が誰からも必要とされていない人間だからといっても、少しくらいは、気にしてくれる人がいるんじゃないかとか、思ってたんですよね」


 地上から離れた森の奥は静謐としていて、彼女の声が濁ることなく聞こえる。


「誰からも連絡、来てないんです。人が一人、二週間近くいなくなってるっていうのに」


 俺は何も言わずに黙っていた。言えないんじゃなく、言わなかった。彼女が今、俺からなにか気の利いた返答を求めている訳ではないことは分かっていた。


「時雨さん、目を瞑ってくれますか」


 俺は言われるがままに暗闇の中へと飛び込んだ。


「かくれんぼ、しましょう」


 隠れん坊。もういいよの合図で、鬼が隠れん坊を探す、子供の遊び。

 ここで隠れん坊をする意味はなんだろうかと、俺が疑問に思ったのは、ほんの一時のことだった。

 

 <見つける>

 

 ということに、単なる子供遊び以上の意図が込められているのだ。


「ここに私のスマートフォンを置いておきます。一分後にアラームが鳴るので、その音を合図に、私を探し出してください」





 俺には彼女を見つける自信がなかった。

 




 砂利を踏み鳴らす足音が遠のいていく。方角からして、恐らく正面のほうだ。

 意識を凝らして耳をすませると、等間隔で水が跳ねる音がした。

 彼女が発した音か、森の鼓動かの区別がつかないくらいになったとき、酷く気性の粗い風が吹いて、くたびれた樹葉が仰々しくはためいた。


 瞬間、俺が連想したのは、風に流されて飛んでいく枯葉の姿だった。何度だって憧れた、あいつのこと。

 宙を舞う落ち葉に、俺はどうしてか日常的に親近感を覚えていた。

 

 人々は彼に気付いても、素通りしていく。彼は誰からも必要とされず、時に踏み潰されて、いつも枯れ果てた、欠けた体で横たわっている。

 それでもたまに奇跡が起こって、風が彼を連れて行く。


 俺だって出来ることなら。


 アラームが鳴ったのとほぼ同時に、俺は瞼を開けた。

 自分の膝くらいの高さの岩に乗せられていた彼女のスマートフォンを手に取って、アラームを解除し、元の場所に戻す。

 

 川瀬を渡り、対岸に出て辺りを見渡すが、彼女の姿は見えない。川沿いには身を潜められそうな大きな岩は殆どない上に、すぐ右側には滝口がある。

 

 隠れやすい場所となると、やはりこの森の中だろう。

 森の中でかつ、一分以内で隠れられる場所となると、それだけである程度絞り込める。

 俺は正面の森林に入った。左右に首を振りながら、少しづつ前進していく。

 そうして十メートルくらい進んだあたりで、また少し開けた場所へ出た。

 円状に刳り貫かれたように、その空間だけが更地になっていて、まるで人工的に作られた秘密基地のようだった。  

 

 どことなく幻想的な物珍しい光景に化かされて、俺は一瞬本来の目的を放念していたが、頬に落ちた雪が傷口に染みる感覚で我に返った。

 探索を再開しようと秘密基地を立ち去ろうとしたとき、不意に違和感を覚えた。


 そいつの正体を探るべく、目を凝らしながら首を曲げていくと、右斜め上にある大木が目に留まった。

 そうっとそちらに近づいていき、すぐ傍まできたところで、俺は立ち止まった。

 

 小鳥の囀りのような息遣いだった。


 ……ここで彼女を見つけてしまったら、今日で契約が終わる。

 俺は、雛木紫蘭を殺したくないのだろうか? そう仮定したとして、他の誰かなら、俺は躊躇せず殺せるのだろうか。


 彼女は多分、どうあがいても死ぬのだろう。俺がナイフをとらなくても、自ら手を下すのだろうと思う。それだけは何故か、俺には確信がある。


「気付いてるんですよね」


 力のない声で、彼女は俺に背中越しに問う。


「どうして見つけてくれないんですか」


 俺は彼女が背を預けているであろう樹木の反対側に腰を預けて、脱力して座り込んだ。


「なにか言ってくださいよ。時雨さんにまで無視されたら、私は何になるんですか」


 俺は枯葉の上を這う小さな昆虫を見つめる。てんとう虫を黒く着色して、やせ型にしたような、知らない虫。


「もーいーかい」


 何を意図するでもなく、俺はそう呟いた。気持ちの悪い声だったが、素の俺は確か、こんな風に発声していたように思う。


「……まーだーだよ」


 数秒の沈黙の後、彼女は低いトーンで返した。


「棒読みすぎるだろ」


「お互いさまです」


「俺のほうがまだやる気があった」


「なんで人ってそうやってすぐに比べたがるんでしょうね。そういう物質主義的な競争性を安直に振りかざす人が多いからきっと生きづらい世の中になって―――」


「分かった分かった。悪かったよ」


 突然早口でまくし立てるように語りだした彼女に俺は内心可笑しくなった。


「なあ、ひとつ質問があるんだが、もし俺がここから――」


「ダメです。現在質問は受け付けておりません」


「融通の利かない奴だな」


「言ったでしょう? もう迷わないで下さいって。私としても、最終防衛ラインは死守しないといけないんですよ」


「ここが限界なのか」


「はい。これ以上は譲れません」


「そうか」


 俺は煙草に火を点け、深く息を吸い、温かい煙を吐き出した。

 無性に、過去を掘り返していた。

 いい思い出は、以外にもそれなりにあった。しかしそれ以上に、悪い記憶のほうが圧倒的にメモリを食っていた。

 かといって別に今更、悲しくもない。


 小枝が折れる音と共に木の裏の気配が大きくなると、視界の隅に彼女の両脚が映った。


「時雨さん、鬼の役目は、まだ終わってないですよ」


 膝を抱き抱えるようにして、彼女は俺の目の前でしゃがんだ。


「まだ、見つけてない」


「いるじゃないですか、目の前に」


 彼女はそう言って、顔の上半分で悲しんで、下半分で笑った。


「先延ばしにしたい訳じゃない」


 あの殺意はまがい物じゃない。揺るいだ決意ならもうセメントで無理やり固めた。それでも。


「なら、もったいぶらないでください」


「見つけられないんだ」


 彼女から目を逸らして、俯きながら俺は言った。

 体感で十分くらいの沈黙があった。俺はその間も一切彼女のほうを向かなかった。

 

「じゃあせめて、殺してくれますよね」


 雛木紫蘭とは思えないほど低い、無機質な声だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る