人形
セダンに体を預けながら、咥えた煙草をゆっくりと吸い込む。肺に煙が入っていく感覚に安堵しながら、俺は彼女が郵便受けに手紙を入れるのを見送った。
「いくか」
トボトボとした足取りでこちらに帰ってきた彼女に俺は言う。
「……どこにですか?」
彼女は心なしか鋭い眼差しで答える。
「どこって……家だろ。それともなんだ、まだこの街に用があるのか」
彼女は何も言わず、俺と同じように車に背を預けると、駐車場向かい側の歩道を見つめた。
俺も彼女に倣って、人通りの少ないその狭い歩道に目を向ける。
高校生くらいの男三人が、それぞれ微妙に違った方法で、愉快さというものを肉体で表現していた。奥の奴は大袈裟な笑顔で、手前の奴は手を叩いて、真ん中の奴は腹を抱えていた。
年は、彼女と同じくらいに見えた。彼女は掴みどころのない表情で彼らの背中を見送る。
「羨ましいのか」
根拠のない疑問を、俺は隣の女の子に投げかけた。歯車が狂わなければ彼女も今頃、あっち側にいただろう。
こんな風に、気の狂った殺人鬼と共に死に急ぐことだってなかった筈だ。
「いえ、ただ……そういえばまだ、冬休みだったなと思って」
いつも以上に抑揚のない声で、特に関心もなさそうに彼女はそう呟いた。
「憧れられるうちはまだ、マシなのかもしれないな」
残り僅かとなった煙草を一口吸って俺は言う。
「? ……どういう意味です?」
「本来なら、お前は奴らを見て羨望するべきなんだよ。別にあいつらは、異世界の住人でもなければ、フィクションでもない。普通に生きていくことを諦めきって、死んだ蝉みたいな目をするにはお前はまだ若すぎるんだ」
俺は携帯灰皿で煙草の火を消しながら、また深く息を吐く。彼女は既に、憧れることにすら疲れて、無関心になる段階まできているのだろう。
十八歳という若さで、人生に絶望しきっているのだ。
「殺そうとしてる人間に前を向けっていうんですか?」
嘲るように微笑みながら彼女は言う。しかし俺は自分でも意外なくらいに、その嘲笑に腹を立てることはなかった。
それは彼女のこぼした笑みが、あまりに痛ましいものだったからだ。
自分の首元くらいの高さにある彼女の顔を見ながら、この女の子は今まで何を考えて、何に傷ついて、何を大切にしてきたのだろうと俺は気になった。彼女が抱える重荷の正体は、なんなのだろう。
他人にここまで関心を抱いたのは、彼女が最初かもしれない。
「それに時雨さんだって――」
俺の視線に気づいたように彼女もこちらに視線を移した。そうして目が合ったとき、彼女は話を中断して、なにか珍しいものでも見つけたように俺の顔を凝視した。
俺も流れのままに彼女の瞳を見つめ返す。
その時俺は、何も考えていなかったと思う。彼女との関係性を確かめたかったとか、欲情したとかいう訳でもなかった。
俺は無心で彼女に惹かれていた。数十秒くらいの時間をかけて慎重に彼女に顔を寄せると、唇と唇の距離が、あと数センチというところまで近づく。
彼女は俺が触れようとしていることには気付いているようだったが、拒絶する様子はなかった。
――もう、揺らがないで下さいね。でないときっと、どちらも逃がしてしまうことになります
俺は思い出したように我に返った。
……俺は今何をしようとしていたんだ?
状況が理解出来ず、数秒脳が硬直したが、彼女の髪が放つ甘いシャンプーの香りで自分の取った行動を理解した。
視覚情報に意識を戻すと、間近に彼女の大きな目が飛び込んでくる。
まるで人形のように、生気のない目だった。
至近距離で見る彼女の目には、光がなかった。その大きな黒い瞳には、腐りかけの肉もなく、残っているのは骨組みだけだった。
俺はいつか彼女が言っていたことに、今頃納得していた。確かにこれはもう、手遅れかもしれない。もう一度やり直すチャンスなんてものは、とうの昔に息絶えているのだろう。
顔を横に背けて、体を元の体勢に戻し、俺は意味もなく口元を拭った。
「行きましょう」
助手席のドアを開けて、何事もなかったかのように彼女は言った。
「あぁ、そうだな」
一抹の不安が、むずがゆく肺を撫でる。俺はジーンズのポケットに忍ばせた折り畳みナイフを強く握りしめながら、これから向かう場所について、頭を捻らせた。
車に乗り込もうとしたタイミングで、雪が降りだした。
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