人でなし

 ⑯



「おい、着いたぞ」


 ファミレスを出て、一時間ほど車を走らせたところで本来の目的地に辿り着いた。

 助手席の女の子は小さな寝息を立てて眠っている。


「起きろ」


 少し語気を強めて呼びかけるも反応はない。

 仕方なく体を揺すって起こそうと彼女の肩に手を伸ばす。ふと目に入った彼女の寝顔に、伸ばした手が止まる。


 穢れのない顔だった。俗世を遠ざけて、たった一人、真っ白な抗菌室で生きてきたような、そんな清潔感があった。  

 俺は思い直して腕を引き、長時間の運転で疲れた目を解そうと眉間をつまんで深く息を吸った。馬鹿げた話だが、俺のこの汚れた手で触れてしまったら、忽ち悪い病気にでも罹って死んでしまうんじゃないかと思った。


 俺はハンドルに両腕を置いて、そこに頭を預けた。横目で彼女を眺める。

 あれだけ溢れていた殺意は今、影を潜めている。……かといって、消えた訳じゃない。

 俺は確かに、一瞬夢を見てしまった、彼女との未来を。だが現実問題として、薄幸人間同士、上手くやれるんじゃないかという見通しは浅はかだった。

 

 冷静になった今省みると、俺は本心で雛木紫蘭との未来を嘱望していた訳じゃなかった。寂しさを埋める為の道具としてあわよくば彼女を利用出来ないかと、いやらしく策謀していたのだ。

  

 もし、純粋に彼女を好いていたなら、俺はただその衝動に従って、簡単に壊れてしまいそうなあの細い体を抱きしめればよかったのだ。それをしなかったのはつまり、どこまでいっても俺は、人を愛せない人でなしであることに変わりないからだ。


 …………俺はどうして、こんなにも冷たい人間に育ってしまったのだろう。

 

 ふと、頭に柔らかい感触がして、俺は隣で眠っていた筈の女の子のほうを見た。


「なんのつもりだ」


「撫でて欲しそうだったので」


 彼女はいつもの調子でおどけて言った。


「分からない奴だ」


 何気なく発した自分の声はなぜか、普段より幾許か覇気がなかった。虚勢の仮面が剥がれて、本来の自分が出てきたような、弱々しい声だった。



 ⑰



 エントランスを抜けて館内に入ると、彼女は感銘するように驚嘆の声を上げた。

 その反応は大袈裟なものではなかった。正直なところ、たかだか図書館の為にここまで遠征することもないんじゃないか思っていたが、いざ目の前にすると、精緻で芸術的な作りに圧倒されてしまった。

 

 傘状に伸びた屋根の骨組みが特徴的で、木造建て特有の自然のなまめかしさが独特の雰囲気を放っている。


 入口正面には机や椅子が置かれた半月状の中央ホールがあり、カーブのほうが本棚のエリア、直線側が読書エリアになっている。半月の中心からは木の柱が五本反るように伸びていて、その柱側に二階の渡り廊下が設けられている。また、半月の円側のほうには、書架が中央ホールを囲むように並んでおり、一列ごとに段差がある。その為、書架の波の最深部にいくほど高度になっていく構造だ。


「時雨さん、連れてきてくれてありがとうございます」


 若干舞い上がった声で彼女は礼をした。


「あぁ」


 俺はうわ言のように返事をして、彼女のあとを追った。

 本に関心のない俺は、特に何を思うでもなく、ただ風景とひとつとして辺りを眺めていた。

 

 どちらかというと、本そのものではなく、本を眺める彼女を見ている時間のほうが長かったように思う。

 彼女は落ち着いた足取りでゆっくりと書架の前を行ったり来たりしては、時折立ち止まって本を手に取り、パラパラとページを捲った。

 

 なにか気に入った本を借りるでも熟読するでもなく、ただ思うままに気まぐれにページを開き、前後の知らない小説の一部を読み、こんなものかとすぐに元の場所へと返す。その一連の行動にどんな意味があるのかは分からなかったが、彼女は満足気だった。



 ⑱


 彼女が手紙をしたためている間、俺はラウンジで缶コーヒーを飲んでいた。

 本当は煙草を吸いたかったが、この辺りに喫煙所はなく、またお誂え向きの日陰も見当たらなかった。

 

 寂れた施設であれば、駐車場で煙草を吹かすことも出来たが、ここら一帯は清潔に整備されている上に人の出入りも激しい為、路上喫煙が黙認されるような雰囲気じゃなかった。

 故に俺はこうして健康的な休息を取っている。

 そうしているうちに強い眠気に襲われて、俺はそのまま机に突っ伏してしまった。


 *

  

 ……どのくらい眠ってたんだ? 曖昧な意識を再起動させて、俺は徐に上体を起こした。


「おはようございます」


 ラウンジの向かいの席に彼女が座っていた。視界の奥に見えた掛け時計の針は三時と二十分を伝えていた。


「……もう書けたのか」


「はい。丁度さっき書き終わりました。お待たせしてしまってすみません」


 机の上には缶コーヒーがひとつ増えていた。

 銘柄は俺が買ったものと同じだったが、彼女側に置かれたコーヒーは微糖だった。

 俺はその缶コーヒーを掴んで、少し持ち上げる。


「嘘がヘタだな」


 数分前に買ったばかりであればまだ温かい筈のスチール缶は、真冬の寒気に侵されて冷え切っていた。


「アイスコーヒーを買ったんですよ」


「この銘柄はホットしか売ってなかった」


「謎に記憶力いいのなんなんですか」


 彼女は不服そうに眉をひそめた。

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