私はもう、疲れてしまいました。



「始まりは、中学三年生の、暑い夏の日でした。その日は体育でマラソン大会があり、体力の少ない私は最後尾を走っていました。滝のような汗を流しながら、なんとか校門までは辿り着いたのですが、暑さと疲労にやられて、ゴール直前というところで意識を失ってしまったんです。そんな私を保健室まで運んでくれたのが、彼、日比谷圭くんだったんです」


 日比谷圭。俺は意味もなくその名前を脳内で繰り返した。彼女のような捻じ曲がった人間に、その男がどんな影響をもたらしたのか興味があった。

 

「目を覚ますと、ベッドの側に彼が座っていました。状況を把握しきれずに困惑している私を見ると、彼は人懐っこいチワワのような微笑みを浮かべて 『おはよう』 と、少し的外れなことを言いました。そして私も彼に釣られて 『おはようございます』 と、間抜けな返答をしました。そしてそれが、私達の初めての会話でした」


「その日比谷とかいう奴は……俺とは正反対の人間だな。苦手なタイプだ」


 そう言って俺は何気なくアイスコーヒーに口を付けた。氷が溶けて薄くなった黒い液体は、いつからか本来の味わいを損ねていて、とても美味とはいえなかった。


「確かに、時雨さんと彼は、どれだけ線を伸ばしても交わることのない対照的な存在だと思います」


 その細い指先で口元を隠しながら、可笑しそうに彼女は言った。


「でも、それは私も同じことだったんですよ。彼を光と譬えるなら、私は闇で、彼がアルタイルなら、私は地球でした」


「どれだけ手を伸ばしても届かないって訳か」


「少し、ニュアンスが違います」

 

 彼女は控えめに首を横に振った。


「アルタイル……恒星は、自ら光を発することが出来るんです。比べて地球のような惑星は、その光を受信するだけで、自分で光を放つことは出来ない。私も、惑星のようなものでした。彼は私に沢山のものをくれましたが、私は彼に、なにも返すことが出来なかったんです。……いえ、返せるものがなかった、と言ったほうが正しいのでしょうね」


 陰りのある声色だった。恐らく彼女は、その日比谷という男に対して、もしくはそんな自分について、負い目を感じているのだろう。

 

 俺は彼女の些細な表情の差異から、そう推測した。

 彼女は分かりやすく大きく笑ったり、大袈裟に悲劇を気取ったりはしないが、かといって表情に乏しいという訳でもないのだ。

 

 どちらかといえば、彼女は分かりやすいほうだと思う。感情を言葉や動作へと変換することに神経質なだけで、彼女の目はどんなステレオタイプの表現法より正直だ。


「その日を境に、彼と接する機会が増えました。彼は私に、明確な好意を示してくれていました。いつも一人でいる私に率先して話しかけてくれたり……時には彼の友人を巻き込んで遊びに誘ってくれたこともありました。一方で私は、彼との間に一つ線を引いて、そっけない態度をとっていたんです。休み時間になると、彼の熱心なアプローチを振り切って、読みたい本があると法螺を吹き、図書室に逃げ込むことが多々ありました。彼が嫌いだったとか、苦手だったとか、そういう訳ではなかったんですけどね」


「……怖かったんだろ」


 俺は彼女から視線を逸らして言った。代弁している筈が、自白しているような気分で、バツが悪かった。


「よく分かりましたね。そうです、私は……好意という、得体の知れない劇薬を飲み下すのが怖かったんです。だから私は毒味をするように、少しづつ、少しづつ侵入禁止区域のバリケードを後退させていきました。彼が私にとって害のない人物だと確かめるために」

 

 ロクでもない人生を送ってきた人間にありがちな疑心暗鬼だ。

 人生のどこを切り取っても悲劇の型に収まるような人間にとって、自分に都合のよい展開というのは、今以上に深い絶望へ突き落す為の前座にしか思えないのだ。そしてそれは単なるネガティブシンキングなどではなく、経験則に基づく合理的な予測だ。

 もし俺が当時の彼女と同じ状況に置かれたら、こう考えるだろう。

 

 『こんなに上手くいくなんて、きっとなにか裏があるに違いない。今は偶然風向きがいいだけで、近いうちに揺り戻しが来て、この株は瞬く間に急落するのだろう。失望されるのか? 裏切られるのか? それとも自ら踏み潰すのか? ……過程がどうであれ、行きつく先はどうせ焼却炉だ。俺は今まで幾度となく期待を裏切られてきたんだ。もう騙されないぞ』


 期待の先にあるのは、いつだって陥穽だった。どうせ実を結ぶことのない希望なら、初めから抱かないほうが身の為なのだ。


「今以上を求めなければ、これ以上落ちる心配もないんだ。斜に構えて保身に徹するのも無理はないさ」


 俺はそう言って彼女に同調した。俺と同じような境遇にいた人間はこれまでにも出会ったことがあるが、彼女ほど俺と思考回路が似通っている人間はいなかった。

 俺達は恐らく、最も互いの心情を深く共有出来る理解者なのだろうと思う。

 今更そんなことに気が付いたって、どうにもならないのだが。


「まるで見てきたように語るんですね。心中お察ししますよ、時雨さんも昔、色々あったんですね」


 少し皮肉っぽく、そしてどことなく自嘲的な表情だった。


「人生の出来を二分化するとしたら、俺達は間違いなく失敗作のほうなんだ。……嫌でも分かるんだよ、負け犬の思考ってやつがな」


「理解者が現れたと喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか微妙なところですね」


「どのみちロクなもんじゃないさ。俺達の関係性なんて、路地裏の腐った缶詰と、それを貪る瘦せこけたネズミみたいなもんだ」


「なんですかそれ」


 先ほどとは違う、表裏のない笑みを浮かべて彼女は言った。


「そのままの意味さ」


 そう返して、俺は話を戻そうと口を開いた。


「……それで、お前のその対応で、日比谷圭は諦めたのか?」


「いえ」


 彼女は左右に首を振った。


「それどころか、私が冷たくあしらうのに反比例するように、彼のアプローチはより積極的になっていったんです。その結果、私は負けました。どれだけ彼を好かないように自分を律しても、限界がありました。……なにせ、慣れてなかったですから、人に優しくされることに」


「以外だな。お前が人を好きになるなんて、想像出来ない」


 俺は窓の外を向いて言った。向かいの道路に白い軽トラックが通って、枯葉が舞った。あの萎れた落葉のように、何も考えずにどこか遠く、地平線の彼方まで飛んでいけたら、俺もこんな――。


「私自身、こうして過去を手繰り寄せていると、あれは本当に現実だったのかと疑ってしまうくらいですからね。でも確かにあのとき、私は彼を、人を好いていたんです。そしてそれから数か月が経ったある日、私は彼に、告白をされました」


「よかったじゃないか。相思相愛だったんだな」


 俺は適当にそう言った。もし日比谷圭との関係がいい形で持続していたなら、彼女は今、ここにはいないだろう。つまり、日比谷圭と雛木紫蘭の間にはなんらかの悲劇があったのだ。 

 俺はそれを理解した上で、敢えて軽口を叩いた。ただでさえ暗い話をされているときに、こっちまで湿っぽく応対したら、とうとう気が滅入ってしまいそうだったからだ。


「ただ……彼の好意は、私のそれとは違いました」


 違和感のある苦笑いだった。彼女の引きつった笑顔はまるで、精巧なイミテーションのようだった。見ているだけで、悲歎の濁流が押し寄せてくるような感覚がした。

 それは、手のひらの皺が一つ増えた程度の、極小の歪。この数日間、臨戦態勢を解いた素の雛木紫蘭と接してきたからこそ、俺はその些細な変化を感じ取れたのだと思う。


「私にとって彼は、傍にいると気が休まる存在で、それ以上でもそれ以下でもなく、そこに恋愛感情や情欲などはなかったんです」


 男女間に友情は生じないという俗説を、俺は連想していた。特に持論がある訳でもないし、真偽についても興味がないが、要はそういう類の弊害があったのだろう。


「なるほどな……日比谷圭は異性として、お前は友人として、互いに別種の好意を持っていたと」


「いえ、厳密にいうと私は彼を友達だとも思っていませんでした。というより私は、感情を既存の型に嵌めて考えることに抵抗があるんです。千差万別の個人的感情をカテゴライズすることにどんな意味があるのか、私には分からないんです」


 そう言うと彼女は突然吹っ切れたような顔になった。


「私は彼に全てを話しました。私の恋愛観も、友情観も、異性としては見れないことも」

 

 俺は溜息を吐いて彼女から視線を逸らした。この先の展開を想像すると、気落ちせざるを得なかった。


「彼は、いなくなりました。そして私は、分からなくなってしまったんです。人を愛することが、なんなのか」


 そんなこと、俺だって知らない。


「私は彼が好きでした。ただ傍にいてくれるだけで、その空間は満ち足りていて、そこにキスもハグもいりませんでした。でも彼の好きは私のとは違ったようで……。私が彼の隣に居続けるには恐らく、恋愛をする必要があったんだと思います」


「ただ人を好くだけじゃなく、正しい手段用法で行使しないと、有効じゃなかったって訳だな」


「そうなんですよ。やっと人を好きになれたかと思ったら、今度は愛のあるべき形を問われることになるだなんて。……でも、ある意味仕方がないことなのかもしれません。彼は私の穴にすっぽりと嵌る形をくれたんですから、私も彼が求める形の愛を提示する義務があったんでしょうね」


 彼女は妙に清々しい笑みで言った。前向きな表情ではなく、どちらかというと、やけくそ的な意思を含む微笑だった。


「特殊なすれ違いだったんだな。一応は両想いだったってのに」


 彼女は溜息をひとつ吐いて座り直すと、硝子窓の向こう、澄んだ青空を見上げた。


「その一件以来、私はなんだかもう、疲れてしまいました。正しく人を愛せない自分が、どうしようもなく無力で、立ち上がる気が起きなくなってしまったんです。」


「……話を聞く限りだと、いい思い出ばかりだったって訳じゃなさそうだが……手紙を書きたいってのは、どういう意図があるんだ?」


「もう一度ちゃんと、伝えておきたいんです。私が本当に、彼を好いていたことを。当時はお互いに至らない点が多くて、正義のぶつけ合いみたいになっていたと思うんです。分かろうとするんじゃなくて、分かって欲しい気持ちを言い合っていたんです。だから今一度正確に、語弊を生まない形で、彼に思いを伝えておきたいんです」


 そう語る彼女の表情は柔らかいもので、そこに怨念の類は感じなかった。


「恨んでる訳じゃないんだな。そいつのこと」


「当然じゃないですか。私に彼を恨む権利なんてありませんし、どちらといえば感謝しているくらいです」


「感謝?」


「はい、彼は確かに、私に安らぎを与えてくれたんです。結末は悲惨なものでしたけど、それだって元を辿れば私のせいなんです。私が憎んでいるのは寧ろ、自分のほうです」


 前に俺も、同じようなことを考えていたな……いや、俺は雛木とは違う、俺はその矛先を、世の中や他人に向けた。

 

 だがそれはコイントスの結果のようなもので、彼女が俺側になっていてもおかしくなかっただろうし、またその逆も同様だ。自罰的に生きるのも、他罰的に生きるのも、ある意味同じようなものだと思う。

  

 行き場のない冷たい衝動を、俺は他人に向け、彼女は自分に向けた。

 目的はお互い、終わらせることだ。寂寥と暗闘するだけの毎日と、奇跡を乞って瞼を腫らす夜に、俺はいい加減うんざりしているのだ。

 

 俺達はもう、今どき誰も見向きもしない予定調和の悲劇の顛末なんて、嫌という程に知ってしまっていた。

 

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