第2話 ルーンベル学園
思い返すと転生してから私はあまり外に出たことがなかった。皆無というわけではないが、多分自分の足で外に出たのはこれが初めてだろう。
最初に出てきた感想は「え、私の家でかくね」だった。
中で暮らしていたのだから大きいことは当然知っていたが、外観を改めて見ると想定のさらに上を行く大きさだった。
もしかすると先祖は相当すごい人だったのかもしれない。例の高名な魔法使いとやらの恩恵なのだろうか。
ともあれ学園に行くため先を急ぐとしよう。
さて……――。
「――あれ、学園ってどうやって行くんだ……?」
馬鹿か私。
え、待って。出てきたばっかなのに早速帰るの? 死ぬほど馬鹿じゃん。めちゃくちゃ嫌なんだけど。
「……はぁ」
溜め息とともにポケットに手を突っ込み、仕方なく踵を返す。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――あぁ……大丈夫かしら、あの子……」
マイを見送った後、ヴィクターの自室に集まっていた二人。
シェリルは先ほどから落ち着かないのか部屋の中をうろうろと歩き回っている。
「……シェリル、少しは落ち着かないか」
「お、お父さん……だって、あの子立てるようになってから泣いたこともないんですよ。それなのにあんな……あぁ、もう、大丈夫かしら」
「む、確かに言われてみればそうだったか……しかし――」
と、ヴィクターの声を遮るようにシェリルが声を上げた。
「――あぁっ!!」
「っ……何だ、突然」
シェリルはゆっくりとヴィクターを振り返る。
「……あ、あの子、学園の行き方わかるのかしら……?」
「お、教えてなかったのか!?」
「だ、だって先のこと先のことって考えてたから……逆に目先のことに気が回らなかったというか……」
どうしたものかと右往左往をまた繰り返すシェリル。ヴィクターも気が気でないのかどこかそわそわとし始める。
「――余計なことと思いましたが、私めがお嬢様のポケットにメモを忍ばせておいたのでそれは杞憂かと思われます」
声の主はブレット。手には盆が乗せられている。
どうやら用意していたお茶を持って来たらしい。
「そ、そうなのか。なら安心だな」
「よかったぁ……ブレット、ありがとう」
ブレットはカップをテーブルに並べながらわずかに首を横に振る。
「いえ、それには及びません。あくまで私が勝手にしたことですので」
盆を空にすると役目は終えたとばかりにさっさと奥へと消えていく。
その口元には微かな笑みが張り付いていた。
まるで、我が子を心配する二人を微笑ましく思っているように。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――カサ……。
突っ込んだ手に何かが触れる。
「うぉっ!?」
もしかして中に虫でも入っていたのかと勢いよく手を引き抜く。
遅れて小さな紙が地に落ちた。
「……ん?」
拾って中を確認すると、その紙には学園までの行き方が事細かに書かれていた。
どうやら学園にはバスで行くらしいが、バス停の位置が三つ記されている。どこから乗っても同じだが、その内二つには小売店のようなものが近くにあると書かれている。朝食は食べたが小腹が空くようなら買って行けると暗に教えてくれているのだろう。
そしてバスの時間も記載されているが、これもそれぞれのバス停ごとに五つずつ書かれていた。道に迷ったり寄り道したい場合でも対応できるようにという配慮だ。
「……完璧かよ」
呟き、まだわずかに見えている我が家を見やる。
「ありがとう、ブレット」
懇切丁寧なメモのおかげで無事にバス停までたどり着いた。
時間まではまだあと一〇分ほどある。
この世界の車は私の知っているものとはだいぶかけ離れている。
最大の違いはガソリンを使っていないこと、そして車輪が存在しないこと。
これでどうやって動いているのかと言えば、車に内蔵された術式によって地面から十数センチほど浮いておりそのまま平行移動しているのだ。
原理は私も完全には理解していないが、“アクセルを踏む”という行為が“対象――車を前方に移動させる術式を起動する”に繋がっているらしい。この前方という方向をハンドルによって歪めることで右折、左折を可能にしているのだとか。
ちなみに真横に平行移動する操作もあるらしいので縦列駐車も簡単にできる。
さらにはマナの感知による自動ブレーキまで搭載されているので基本的には絶対に事故は起きないとされている。
私が知っている世界でも自動ブレーキはあったが、この世界のそれはさらに上。
マナを感知するということは生物を感知する。そのマナをリアルタイムで観測し、動きの方向やペースから絶対にぶつからないように自動的に速度上限を課すのだ。感知範囲はまちまちだが平均半径五〇メートル、よっぽど高速で接近しない限りぶつからない。
「やっぱ魔法ってすごいんだなぁ……」
バス停のベンチに腰を下ろし、行き交う車を眺めながらこぼす。
無機物に対する感知はおそらく私たちの世界と変わらないが、マナの感知は人身事故を極限まで減らすだろう。
運転している人にとっては枷に感じるかもしれないが、この世界の車はマナの感知が標準装備だ。最初に作成された車にはすでにそれがあった。
比較するものがなければ特に不便に思うこともない。人間の脳みそというのは賢いようで単純なのだ。
「……お、来た来た」
時間まではまだ少しあるが早くもバスがやって来た。
「いいね、遅過ぎず早過ぎず。個人的には高得点だ」
間もなく停車するバスに乗り込む。
中はガラガラ、私以外に乗客はいない。
適当な座席に腰を下ろして正面を向くと、妙に目を引く電光板があった。
このバスがこれから向かうバス停と、そこに到着するまでの予想時間が書かれている。
「ハイテク過ぎでは……?」
魔法なのだ、ハイテクノロジーは当然と言えば当然。
むしろこれくらいのハイテクさがなければ逆に悪態をついていたかもしれない。
ともかく、ルーンベル学園に着くまではしばらく時間がかかるらしい。大体三時間くらいだ。
今日のところは寮への引っ越しがメイン。入学式的なものは明日の予定なので特に時間は気にしなくてもいいだろう。
動き出すバスの中で思い切り体を伸ばす。
背中、肩、首の骨がポキポキと小気味のいい音を返す。
とりあえず、少し休むことにしよう。
ここに至るまでに何かしたわけでもないしこれから何をするわけでもないが、とにかく暇だ。暇つぶしなど寝る以外にあるはずもない。
――何かが私の肩に触れた。
「……ん」
自分で寝る選択をしておきながら、いつの間にか寝ていたのかなどと思いつつ目を開く。
バスはまだ動いている。どうやら隣に誰かが乗って来たらしい。
もうそんなに人が増えてきたのか。
そう思いながら顔を上げるが、乗客の姿は全く見えない。
「あれ……?」
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
声は隣。
やはり私の隣には誰かが座っている。空席がこれほどあるというのに、だ。
「あ、え、っと……だ、大丈夫」
座っていたのは同い年くらいの少女。
何だろう。私だけではないと思うのだが、年上の人と話すのは大丈夫なのに同年代の子と話すのは少し緊張してしまう。
「よかった」
少女は屈託のない笑顔でそう言った。
え、なんでだ。なんでこの子は私の隣に座っていて、なんでこんなにフレンドリーに接してくるんだ。怖い。
「え、えっと……」
何を言うべきか、とりあえず避けるべきは沈黙と思って声を発すが先が全く続かない。
「あ、あたしはデリア。デリア・ブラックフォード、あなたは?」
「あ、その……マイ・アージェント」
「そっか。よろしくね、マイ」
少女――デリアはそう言ってまた笑顔を向ける。
よろしくね、とは?
何故私は今よろしくされてるんだろうか。いや、別に迷惑だとか嫌だとかそういうわけではなく単純な疑問としてだ。
「……あぁ、えと、うん」
煮え切らない態度の私にデリアも何かを感じ取ったのか、おもむろに私の荷物を指した。
「荷物。マイも学園に行くんだよね、だからよろしくねって」
ようやくだ。
ここでようやく点と点が線になった。
ここまでフレンドリーに接した理由も解消されたし、そもそもガラガラの車内で何故私の隣に座ったのかも理解した。
「やっぱり知らない人ばっかりだろうからさ、着く前に同じ境遇の人に会えるとちょっと安心するよ」
「そう、だね」
敬語で話すべきなのかタメ口にするべきなのかよくわからない。
どう考えてもタメ口にするべきなのだが、実年齢で言えば確実に私のほうが年上なわけだ。明らかに年下の子がぐいぐい来ると逆に敬語にしなければ失礼なんじゃないかと思ってしまう。
「マイはさ、なんで冒険者になろうと思ったの?」
「なんで……まぁ、私が知ってる限り最年少で安定したお金が稼げそうだから……かな?」
「おぉ、なんかよくわかんないけどいろいろ考えてるんだね」
まっすぐすぎるのが玉に瑕。
悪意のない刃が私に刺さっているような気がする。そんなによくわかんないだろうか。
「あたしはね、冒険者になって村のみんなを守りたいんだ。小さい村で、戦えるような人もあんまりいないからさ、魔物とかが襲撃してきたら大変だから」
……そうか。
そういえば当たり前だ。
ここは異世界、“魔のものが巣食う世界”。事実として認識してはいたが人の住んでいる場所に襲撃してくることだってあり得る話。
私のような理由は一般的に浅いと言えるのかもしれない。自分では一般的かつ現実的だと思っていたがその認識は改める必要がある。
「村ってことは、けっこう遠くから来てるってこと……?」
「そうだね。列車で二日、フォルクマーレで安宿に泊まってこのバスに乗ったの。やっぱり安い宿のベッドって硬いし背中とおしりが痛くてしょうがないよ……。マイはどのあたりから来てるの?」
ものすごく気まずいんだけど。
列車で二日ということは多分クリフォードの外から来てるはずだ。養成学校の絶対数の少なさがここからでも垣間見える。
「……わ、私は王都に住んでるから、数時間前に家出てきたばっかり」
「じゃあ、ご両親も安心だね」
これは一〇〇点の回答。花丸、先生がニコちゃんマークを書いてあげよう。
この子聖人かな。
「あたしなんて家出てから見えなくなるまでずーっとハンカチ持った? とかどの列車乗るかわかる? って言ってたよ。心配しなくてもそんなに子どもじゃないよ、ね?」
「……」
「……? マイ?」
……まただ。
またフラッシュバックする。
「でも、やっぱり親は心配するよ。自分の目が届かないだけで不安になる、家族なんだから心配するのは当然だと思う」
「……」
「……ぁ、い、いや、ごめん」
唐突な沈黙に思わず頭を下げる。
デリア――自分より年下の子――と話しているという意識が完全に抜け落ちていた。過去の自分への戒めとでも言おうか。ただの独白に近いものが漏れてしまった。
「ううん、謝ることなんてないよ。むしろ謝るのはあたしのほう。マイって相手が言うことに対して何でもかんでもそうだよねーって言うような子だと思ってた」
うん、さすがに正直が過ぎるのではないだろうか。
過去を振り返るとあながち間違っていないのがさらにダメージを増幅させる。
と、そうこうしているうちにバスが停まった。
『終点、ルーンベル学園前まで到着いたしました。ご乗車のお客様は降車願います。なお、お忘れ物のないよう――』
定型の録音されたアナウンス。
ルーンベル学園前、確かにそう言ったはずだが周りを見ても森しか見えない。
しかし終点と言われてしまえば降りなければならない。
ひとまず荷物をまとめてバスを降りるために先頭まで歩き、指定の料金を払う。
「ごめんね、バスだとここまでしか来れないんだ」
すると運転手のお兄さんがそう言った。
「この先、そこをまっすぐ進めば門が見えるはずだから」
「あ、ありがとうございます」
運賃を支払い礼を述べる。
「じゃあ気を付けてね」
私たちがバスを降りると、バスはぐるりと円を描いて来た道を戻っていった。
運転手のお兄さんが示した道を二人で見やる。
先の見えない真っ暗な道だ。門らしきものはここからでは窺えない。
「え、これまじ?」
「とりあえず、行くしかない……よね」
デリアの言う通り行くしかない。
バス停にはっきりと「ルーンベル学園前」と書かれている以上、この先を進めば門はあるのだろう。
まさかこの荷物で来た道を引き返すわけにもいかない。
入る前からうんざりしながらも、私たちは森の中へと足を踏み入れた。
五分ほどしただろうか。
いまだに景色は変わらない。強いて言うのであれば背後の景色が変わったと言えなくもないか。
冒険者養成学校、その門までの道のりというものは普通こうなのだろうか。
何か、おかしい気がする。
「……」
最低限の自衛手段、それが入学にあたっての条件だった。
それをどうして今思い出したのかはわからない。だが現在の状況と照らし合わせるとそうとしか思えない。
「……デリア、この状況で戦闘になったら戦えそう?」
「えっ? い、いや、ちょっとこの荷物だときびしいかも。どうして?」
「確証はないけど、何かがあるのかもって思って」
核心には触れずにあえてぼかして言うが、それでも私の言いたいことはデリアに正しく伝わったらしい。
「いやぁ、そんなこと……あるかもなぁ」
そう、否定できる材料もないのだ。
何せ冒険者養成学校、その上で最低限の自衛手段を用意しろとのお達し。
――ガサッ。
不意に私たちの左側から音が聞こえた。
次の瞬間、狼のような動物が私たちに飛びかかって来た。
「――あっ!」
デリアは一瞬で臨戦態勢に入り、荷物を持ったまま構える。
「大丈夫」
しかし、狼は何かに阻まれたように弾かれた。
ガサガサッ。
不思議に思う間もなく、今度は右側から音がする。
「っ、二時の方向!」
現れたのは先ほどと同じ生物、今度は三匹。
「大丈夫だって」
するとその三匹も同じように何かに弾かれた。
一瞬、獣と何かが重なった瞬間だけそれは可視化される。
「魔法障壁、覚えといてよかった。けっこう万能かも」
私とデリアを覆うように半球状の透明な障壁を張っておいたのだ。
魔法障壁とはその名の通りマナで形成された魔法の障壁。複雑な術式は必要ないため難度は低いが充填するマナの量で強度が変化するので、極めれば基本的には何でも防ぐことができるらしい。
「……マイって、何者なの?」
「えっ、これくらい普通じゃないの? 本に書いてあったよ」
家にある魔法書には魔法の戦闘における基本の防御法として載っていた。しかし発行された年数はかなり昔のもの、今は古いのかもしれない。それとも、実用的ではあるが基本的過ぎて口伝されなかった結果浸透しているのは一部に留まっている、とか。
と、薄暗かった前方が途端に開けた。
先には門のようなものも見える。
「あ、あれかな」
どういう原理かわからないが、おそらくこれは試練のようなもの。“最低限の自衛手段”を持っていると判断されたことで門が現れたのだろう。
そうして門の前までやって来るとそれはひとりでに開け放たれる。
『ようこそ、ルーンベル学園へ』
声が頭の中に聞こえた。
デリアのほうを見るとそちらにも同じ現象が起こっているらしいことがわかる。
揃って門をくぐるとまた声が続く。
『門を背にして右手が寮となっています。部屋割りなどは掲示されている通りですので寮に着きましたらご確認ください。なお、明日の九時までに全員グラウンドに集まるようお願いいたします』
それきり頭の中の声は聞こえなくなった。
「えっと……とりあえずやっぱり寮かな」
「そうだね、荷物も重たいし早くふかふかのベッドに行きたいよ」
私は特にそういう欲求はないが、さすがにデリアは二日半もかけてここに来ているのだ。落ち着ける場所でまったりしたいことだろう。
声の通りに右手に向かって進んでいくとすぐにそれらしき建物が見えた。
そしてこれまた声の通り、寮に入ると部屋割りの掲示をすぐに発見。
……待てよ、考えてみたら私は今とんでもなく重要な情報を目にしようとしているのでは?
ちらりと確認したところ一部屋あたり三人の割り振り。つまり私はこれからの二年間を、見知らぬ人間二人とひとつ屋根の下で暮らさなければならないということだ。
ハズレを引いたら悲惨なことになる。
頼む、ハズレだけはやめてくれ。
うるさい人はやめてくれ。
わがままな人はやめてくれ。
願いながら上から順に確認していく。
「……一〇五号室」
私の名前があった。
同部屋の人の名前は、リーゼル・グリント、ミアーナ・フォゼリンガム。
いや、結局名前を見たところでどんな人かなんてわかるはずがない。実際に会っての話だった。
「マイとは違う部屋だったね……どうせだったら同じ部屋がよかったけど、さすがにそんな偶然ないか」
「そうだね……」
あぁ、どうしよう。急に不安になってきた。
人懐っこいデリアでさえ緊張して上手く話せないのに、大丈夫なのだろうか。本当に、本当にデリアとは同じ部屋がよかった。それならいくらか気も紛れるし残るひとりがハズレでも何とか我慢できる気がする。
そしてデリアとは別れ早速割り振られた部屋に向かう。
まだ誰も来ていない部屋の鍵は掲示の場所に並んでいたが、私が住むはずの一〇五号室の鍵はなくなっていた。つまりもうすでにどちらか、もしくはどちらも来ているということになる。
部屋の前までやって来てドアノブを掴み、そして離した。
いきなり開けては嫌な子だと思われてしまう。まずはノック、大丈夫。ノックノック。
控えめにドアをノックし、そのまま扉を開けた。
「し、失礼しまーす……」
玄関を入るとすぐに廊下とキッチン、見たところ間取りとしては1K。
すると部屋の向こうからほんのりとドタバタという音が聞こえた。
「……?」
何やら焦りを感じる音、できるだけゆっくりと廊下を歩き部屋に繋がる扉を開ける。
シンプルな部屋。左手にベッドが二つ、右手にひとつ、中心には簡素な丸テーブルが置かれている。
そしてその丸テーブルには少女がちょこんと腰を下ろしていた。
「あ、あら、ようやくいらしたのですね」
「あ、えっと、その……はい」
「あなたはマイさん? それともミアーナさん?」
おっと、これはちょっと嫌な予感がしないでもないぞ。
まさかの私から名乗るのか。
とは言え消去法でこの子がリーゼル・グリントというのは確定しているわけだ。遠回しに名乗ったと取ってもいいのかもしれない。
「マイ、です。マイ・アージェント」
「私はリーゼル・グリントです。気軽にリーゼ、とでも呼んでください。それと、敬語は必要ありませんよ。もっと楽に……いえ、まあおいおい慣れてくだされば」
どの口で言ってるんだ。
そのセリフはそのまま返したいところだ。
するとリーゼは手で私に座るように促してくる。
それに従い腰を下ろすとリーゼは対称的に立ち上がり、部屋の隅でカチャカチャと何かを始めた。
「……えと、これをこう、で……」
間もなく、ほのかに心地の良い香りが漂ってきた。
どうやらコーヒーをご馳走してくれるらしい。お世辞にも慣れた手つきとは言えないが微笑ましさが勝る。
最初こそ地雷かと思ったがそういうわけではないようだ。安心した。
そしてリーゼがテーブルに戻ってくる。
「お砂糖とミルクは?」
「あー、いや、そのままでいいで……いいよ」
「えっ? ……あ、はい」
何だその間は。いや、私が言えたことじゃないけど何だその間は。
よくわからないがリーゼがブラックのコーヒーを私に差し出してくれたのでありがたくいただくことにする。
カップを手に取りいざ飲もうとするが、何故かリーゼは自分のカップを睨みつけていた。
「……?」
どうしたのだろうかと私が見つめていると、不意に視線を上げたリーゼと目が合う。リーゼは焦ったように急いでカップを手に取り口を付けた。私もそれに倣うように一口飲む。
「……あぁ、久しぶりに飲んだかも」
「うぇ……」
妙なうめき声が聞こえた気がするがさすがに気のせいだろう。
私はカップを置いて視線を上げる。
「ありがとう、コーヒー……って――」
礼を述べてリーゼを見やると、飲んだはずのコーヒーを口から垂れ流していた。
「――え、えええええええええええええ!!?? え、ちょっ、ちょっと!? なっ、何してん……えっ? なになに、どうし、何してんの!?」
「……ブラック、飲めない」
「じゃあ何で飲んだの! えっ、まじで意味わかんないんだけど!?」
「だ、だって……マイさんがブラックで飲むから、私も飲まないと失礼だと思って……」
人の目の前で口からコーヒー垂れ流すのは失礼じゃないのかな。
テーブルの下はカーペット。ブラックのコーヒーなんてこぼしたら最悪どころの騒ぎじゃない。
私は急いで立ち上がると、被害を最小限に抑えるために置かれていた布巾でこぼれたコーヒーを拭いていく。
幸いカーペットまでは落ちていないが、リーゼのスカートに滴が少し落ちてしまっている。
「しょうがないなぁ、全くもう」
「ぁう……」
まるでイタズラが見つかった子どものようになってしまうリーゼ。
ように、とは言うがまさしくその通りなのかもしれない。
ある程度拭き取り終えるが、問題なのはやはりリーゼのスカートだ。
「……んー、だめだこれ。リーゼ、スカート脱いで」
「ふぇっ!? ぬ、脱ぐのぉ……?」
かわいく言ってもそのままじゃどうにもならないからね。
「シミ残っちゃうから、脱がないと洗えないよ」
「うぅ……」
完全によろしくない展開になっているが当の私にその自覚は全くない。
「このスカート、リーゼのお気に入りじゃないの?早く洗わないとシミ取れなくなっちゃうよ」
「そ、そうかもしれないけどぉ……」
一瞬、リーゼの注意が若干逸れた。その隙を見逃すことなく私はスカートに手を伸ばした。
「はーい、じゃあ脱ごうねー」
「えっ? あぁっ、やだぁ!!」
完全に脱がしたと思ったが思いの外リーゼの抵抗が凄まじい。
「ちょっ、いいから脱ぎなさい!」
「や、やだよぉ! 恥ずかしい!!」
と、不意に部屋の扉が開いた。
「――ぁ、あの……し、失礼しま……あ」
謎の来訪者と私たちの目が合った。
「「あっ……」」
「……す、すみません間違えました!!」
バタン!
「い、いやいやいやいや! 違うから! そういうのじゃないから!!」
「い、今の、え、わ、私見られ……ぅ、うわあああああああん!!」
「うるさい! リーゼはさっさと脱いで洗剤つけた布でポンポンして! そしたら今度は水で濡らして乾いた布でポンポンして! シミなくなるまで繰り返す!!」
言うだけ言うと私は先ほどの謎の来訪者を追いかける。
謎の、とは言うが十中八九ミアーナ・フォゼリンガムだ。誤解は早めに解いておかないとまずいことになる。
驚くべき早さで靴を履き寮の廊下へ出る。即座に左右を見渡すと外へ向かって走っていく少女が見えた。
「ちょ、ま、待って!!」
速く走ろうとするあまりその結果に繋がったのだろうか。
私は無意識のうちに脚力強化の魔法を行使し超加速した。
「――ぴぇっ!?」
一歩で少女の前に回り込むと両手を広げて立ちふさがる。
「お、お願いだから一回落ち着いて、話だけでも聞いてくれない、かな」
「……え、えと……は、い」
「さっきのはコーヒーをスカートにこぼしちゃって、早く洗わないとシミになっちゃうから……その、ああいう感じになってただけで……。と、とにかく、多分想像してるようなことじゃないっていうか……」
あれほどの強い拒絶を見せたのだ。
そう簡単に納得するとは思えなかったが、少女はあっさりと首を縦に振った。
「あ……は、はい。わ、かり、ました……その、わ、わたしも急に逃げちゃって、すみ、ません」
「私が逆の立場だったら多分同じような反応だったと思うし、そのへんはまあ……。あ、そうだ。遅くなったけど私はマイ、で、ミアーナでいいんだよね?」
「は、い。よろしく、お願いしま、す……」
どこかたどたどしい口調。
しかし意思疎通は問題なくできるので特に困るようなことはないだろう。そこをほじくるのも野暮、もう少し仲良くなったら聞いてみてもいいかもしれない。
「じゃ、とりあえず部屋に戻ろうか。私もそうだけど、ミアーナも荷解きとかあるだろうしね」
ということで私たちは揃って一〇五号室へ戻る。
つい先ほど出てきたばかり、それにリーゼとはもう顔合わせも済んでいる。なので私は特に扉をノックせずにノブを回した。
「ただいまー、連れてき――」
扉を開け放つと、すぐそこのキッチンでパンツ丸出しのリーゼが半泣きでスカートを洗っていた。
「……」
……バタン。
「ちょっとぉー!! なんで閉めるのぉ!?」
部屋からくぐもった叫び声が届いた。
改めて扉を開ける。
「いや、ごめん。なんか閉めたほうがいい気がして」
「もぉー!」
「とりあえず、ミアーナは部屋で荷物下ろしてていいよ」
ぷんすかしているリーゼを無視しミアーナにそう言うと、ひとつ頷きそのまま私たちの脇を通り抜けていった。
「そんで、シミ落ちた?」
「……んぅ、これ……どう?」
スカートを受け取りよく見てみる。
一応私の指示通りにしたのだろうが、まだ薄っすらと色が残っている。
「……」
私は無言で置かれていた布を掴みスカートにあてがう。洗剤がついている場所で軽く拭き、それから水で濡れている場所で同じように拭く、そして何もついていない場所で水気を取る。二回もそれを繰り返すと、シミはひとまず目で見てわからない程度にはなくなった。
「はい終わり! さっさとスカート履く!」
「あぅ、は、はい!」
これでとりあえずスカート問題は解決。
あとは荷解きだ。
そしてスカートをしっかり履き終えたリーゼと部屋に入ると、そのままの状態のミアーナがおろおろと立ち尽くしていた。
そう、荷解きとはいえまだどのベッドを誰が使うかも決まっていない。そうなると自分のものをどこに広げればいいかわからない。逆に言えばベッドさえ決まればそのあたりは自然と決まるだろう。
じゃあベッドをどうやって決めるか。
「リーゼ、ベッドどこがいい? 最初に来てたのはリーゼだし好きなとこ選んでいいと思うけど」
「え、えっと……ま、マイさんは……?」
「私はどこでもいいよ」
「じ、じゃあ……み、ミアーナさんは?」
「わ、たしも、どこ、でも……」
「えっ、あ、ぁう……」
なんだこの時間。
いや、まあリーゼの気持ちはわかる。スカート事件で私たちにあのような情けない姿を見られたのだ。そんな状況でお前に決定権があるぞ、とか言われて不遜な態度を取るのも憚られる。よほど面の皮が厚くなければできない。
「じゃあ私あっちの奥、リーゼは私の隣。ミアーナはこっち、決定」
あまり良くない決めつけかもしれないが、ミアーナは自分の意思というものが希薄なように思える。であれば、どちらかと言えば誰かにこうしろと言われた方が楽かもしれない。
過程はどうあれ、二人は特に異論もないようでその通りにベッドは決まった。
というわけで荷解きが始まり十数分。
早速私の荷解きは終わりを迎えた。
そもそもの荷物が二人に比べて少なかったのもあるし、必要なものは適当に出して最終的な配置は生活しながら決めていけばいいと思ったからだ。
二人はまだ荷解き中、手の空いた私はリーゼがしてくれたようにコーヒーの準備でもしようと取り掛かる。
コーヒーは挽いたりドリップしたりする必要のない市販らしい粉末。
あれ、じゃあなんでリーゼはこれに手間取ってたんだ……?
いや、まあ一二歳やそこらならそんなものか。
しかしこれは別に備え付けというわけでもないだろう、おそらくリーゼが持ち込んだものだ。
「リーゼ、これ使ってもいい?」
「えっ? あ、はい、どうぞ」
特に引っ掛かりを覚えた様子もない。やはりこれはリーゼの持ち込み。しかしそれであれば何故自分が苦手なコーヒーを持ち込んだのだろうか。
答えの出ない疑問を、無駄に想像を膨らませながら考える。
そうこうしているうちに三人分のコーヒーが完成。
「ミアーナはコーヒー、砂糖とか入れる?」
「あ……い、いえ、ぶ、ブラック、で……」
「あーい」
ミアーナの返答にリーゼがほんのりと反応していたがそれは意識して無視する。
三つ並んだカップ、ひとつにはしっかりとミルク、砂糖を追加してやる。
大丈夫、リーゼにブラックは厳禁。ちゃんと覚えたよ。
二回に分けてテーブルに並べ、私は自分のベッドに近い場所に腰を下ろした。少し遅れてミアーナもこちらにやって来る。荷解きが終わったらしい。
「す、みま、せん……いただき、ます」
「うん」
とは言うもののミアーナが口をつける様子はない。猫舌なのだろうか。
かくいう私も猫舌寄りだが、実際には猫舌という性質はないのだとか。単に食べ方が下手というのをどこかで見た覚えがある。余計なお世話だ。口に入れば同じだしそれで苦労したことは一度もない。
湯気の立ち上るコーヒーをちびちびと飲むこと数分、リーゼの荷解きも終了したようでテーブルまでやって来た。そして置かれているカップを覗き込む。
ミルク、砂糖が入っているので当然色は黒ではなく茶色。
「い、いただきます」
「はいよー」
おそるおそるカップを手に取り口をつける。
瞬間その目が見開かれた。
「あっ、おいしい!!」
あまりにもまっすぐな感想に思わず笑みがこぼれてしまった。
「ま、私が小さい時に飲んでたのと同じくらい砂糖とか入れたからね」
無意識のうちに転生に言及しているとも取れる発言をしてしまったが私はそれに気付いていない。
リーゼはリーゼで「小さい時……? 小さい時……小さい時!」などと小声で繰り返している。
そろそろ熱も引いてきた頃、傍観していたミアーナもコーヒーに手を伸ばす。すぐには口をつけず、まずは口元に持って行って香りをかいでいるようだ。
そしていよいよカップに口が触れる。
カッ!
音がしそうなほどに勢いよく見開かれる目。
「これ……グロース産のコーヒー豆ですね!!」
「えっ……あ、多分そうだと――」
突如として豹変したミアーナにたじたじのリーゼ。
ミアーナはリーゼの返答を最後まで聞くことなく続ける。
「――鼻から抜けていく風味、そして奥深いコク! 若干のクセはありますがこの風味とコクはブレンドでは再現できません!!」
「へぇ、そうなんだ」
特に他意もなく相槌を打つが、どうやらミアーナはそれをネガティブに捉えてしまったらしい。
「ぁ……う、すみ、ません……わ、たし、食べ物とか、こういう、ふうに、なっちゃって……」
「別にいいんじゃない? それもミアーナの個性ってことでしょ。好きなものとか興味がどうって、人に言われて変えるようなものじゃないし」
むしろ羨ましいとさえ感じる。
こだわりや興味はその人における色だ。無色透明ほど面白くないものはない。厳密には無色透明なんてものはないのだろうが、目立つ色ほど様々な面で役立つ、ないしプラスに働くと思っている。
こうして表出してきたミアーナの色はきっとプラスのものだ。だから謝る必要はおろか気にする必要も全くない。
私がそう言うとミアーナは感銘を受けたようにはっとして、それから少し顔を綻ばせた。
「ありが、とう、ござ、います……」
まったりとしたティータイム、もといコーヒータイムを過ごしていると頭の中には当時のことが思い出される。
聴覚、嗅覚、味覚……この三つは記憶というものに非常に強く結びついていると思う。ふとした拍子、完全に忘れ去られたと思っていても驚くほど鮮明に蘇って来る。
多分私が一番コーヒーを飲んでいたのは一五の時、高校受験のタイミングだ。勉強なんて大嫌いだったが、親の負担を減らすために公立の高校を目指したのだ。一般に私立より公立のほうが学力が求められる。何もせずに公立高校に受かるほどの学力がなかったために必死で勉強した。
苦さで目を覚まそうとブラックを飲み続けていたのだが、いつしかその苦みにも慣れたというわけだ。
思い返していると唐突にあることに思い至る。
私は向こうの世界で齢一八にして死を迎えた。そしてこちらで一二年、つまり精神年齢は単純計算で三〇ということだ。
「……私もけっこう、いったなぁ」
「何の話ですか?」
突如として襲い掛かる自己嫌悪。
体が若いだけまだましと言えるかもしれないが、凝り固まった思想は精神に依存する。一歩間違えればただのおばちゃんだ。
ちょっと死にたい。
「……はぁ」
やる気がどこかへ飛んでいく。
本当ならデリアと敷地内の探索やらしてもよかったが、すでにその気力は私に残されていない。
気付くと飲み切ったと思っていたコーヒーが注ぎ足されている。おそらくリーゼが注いでくれたのだ。
私は無気力状態のまま惰性でそれに手を伸ばす。
溜め息を繰り返しながら一頻り落ち込み、次に顔を上げると目に入ったのは人工的な明かり。すぐさま振り返り窓を確認するとすでにカーテンで閉め切られている。
「マイさん、そろそろごはんに行きませんか!」
どこか熱の入った語気で言われる。
さすがに数時間も落ちこんでいれば気になるだろう。悪いことをしてしまった。
「んー、行くかぁ」
「じゃあ行きましょう! ミアーナさんも行きますよ」
「あ、は、はい」
そして私たちは揃って寮を後にした。
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