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「このままじゃ梓を遠くの大学になんかやれないわよ。授業料が免除になったって、生活費にいくらかかると思ってるの? そんなギリギリの計画だから、開業だって上手くいかなかったのよ!」
母親の金切り声に応えるように、パン! と乾いた音が聞こえた。幼児のように意味のないわめき声が続き、よそで働いたこともないお前に何かわかるんだ、と父親の声がした。
二階の自室に籠もり、ドアを閉めて布団をかぶっていても、梓には聞こえてしまう。
(やっぱりちっとも美しくなんかないじゃない、ミリアム。おばあちゃん)
梓は布団の中で、離れた場所にいるミリアムと祖母に語りかけた。
(パパとママがどんな顔して怒鳴り合ってるか知ってる? すごく厭な顔してるんだよ。こんなとき、おばあちゃんならどうする? 何て言ってくれるの?)
弓絵ならこう言うでしょう、と即時に答えを出せるミリアムを、梓は羨ましいと思う。そのうち電池が切れて動かなくなるという彼女のように、この世界から静かに去っていけたらどんなにいいだろう。
「梓ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。ミリアム」
次の日から、梓は毎日朝からミリアムの元に通った。彼女の片付けを手伝い、祖母の話をして過ごした。高校には自分で欠席連絡を入れた。
「ミリアムは、学校はどうしたのって訊かないの?」
「弓絵なら訊かないと判断しました。きっと私がここにいる間だけなのでしょう? 学校を休むのは」
「どうしようかな……」
ぽつりと呟くと、ミリアムは片付けの手を止めて梓をじっと見つめた。
「弓絵なら、高校くらいちゃんと卒業しなさいと言うでしょう」
「だって、勉強しても意味があるかわからないんだもん」
「進学するにしろ就職するにしろ、とにかく卒業はきちんとしなさい」
「って、おばあちゃんなら言う?」
「はい、そうです」
「はいはい」
確かにそれはそうだろう。梓の少ない人生経験でも、それが無難だろうということは何となくわかる。
でも、「頑張って都会の大学に行く」という目標が、どうやら自分の努力の及ばない場所で潰えてしまうらしいとわかった今は、無理に張っていた糸が切れたような気分だった。今までのように何も感じないふりをして、それこそ旧時代のアンドロイドのような顔で学校に通い続けることを思うと、気が遠くなりそうな絶望感が襲ってくる。
「奨学金のことは調べましたか? アルバイトは?」
古本を段ボール箱に詰めながら、ミリアムが言った。
「うん。でも最近って、給付型の奨学金ってほとんどないのね。あってもすごく狭き門で私の成績じゃ無理だし、貸与型はママに反対されちゃった。借金をするくらいなら、家から通えるところにしなさいって」
「それでは駄目ですか?」
「地元だと、同じ学校の人とたぶん一緒になっちゃうから。それじゃ意味がないんだ。あ、あとバイトは校則で禁止」
「そうですか」
ミリアムの表情が少し歪んだように見え、梓は自分の失言に気付いた。
「あの、別に殴られたりとか、お金とられたりとか、そういうのがあるわけじゃないんだ。ただ私が人付き合いが下手ってだけ。でもやっぱり、合わないひとたちと一緒なのってしんどいでしょ?」
そう取り繕うと、「そうですね」とミリアムはうなずいた。「わかります」
人付き合いのしんどさなんてミリアムにわかるのかな、と梓は何だかおかしくなった。それもまた、「弓絵ならこう言うでしょう」の一環なのかもしれない。
夕方になると、ミリアムは必ず梓を家に帰そうとする。玄関で渋々靴を履きながら、梓はミリアムに「充電が切れるのっていつ頃?」と尋ねた。
「おそらく、24日の正午までには切れると思います」
今日はもう22日だ。もう時間はあまり残されていない。
「じゃあ明日、こっちに泊まりにきてもいい?」
ミリアムはちょっと間を置いた後、「ご両親のお許しがあればいいですよ」と言った。
タスクができたな、と思った。「両親に声をかけて外泊許可をもらう」というだけの、でも今は気が進まないタスク。
足元を見ながら商店街を歩いていた梓は、突然「犀川さん!」と声をかけられて顔を上げた。
クラスメイトだった。四人いるうちのひとりは、この間梓の机にぶつかってきて「いったぁーい」と笑った子だ。逃げ出せばよかったのに、思わず足が止まってすくんでしまう。その間に四人は梓の周りをとり囲んでしまった。
「犀川さん、学校休んでるけどどーしたの? 病気?」
さっきまで普通に出ていた声が、喉の奥につっかえたようになって出てこない。話している言葉自体は親切そうでも、口調には明らかに侮蔑が浮かんでいる。
「無視かよ」
誰かがそう言って、どっと笑い声があがる。顔がますます熱くなり、目の縁に涙が溜まってくる。走って逃げだす勇気もない自分が情けない。二の腕を誰かの肘が突く。
「犀川さん、そういえばこないだお葬式だったんだって? それで休んでるの?」
「そうなんだぁ。ねぇ誰の? ねぇねぇ、誰が何で死んじゃったの?」
くすくす笑いが周りを取り巻いている。伏せた顔を上げたら、クラスメイトたちの顔が目に入ってしまう。きっと厭な顔をしているんだろう。喧嘩をしているときのパパとママみたいに。
やっぱり世界にきれいなものなんてない。
この子たちも、パパもママも、私だって醜い。
「こんばんは、皆さん」
突然、凛とした声が梓の耳に響いた。
顔を上げると、目の前に見上げるような白い人影が立ちふさがっていた。
ミリアムだった。いつの間にこんなに近くに来たのだろう。梓は彼女が対人型戦闘用アンドロイドだったことを思い出し、ふと背筋が寒くなった。2メートルを超える長身の彼女が目の前に立つと、まさに行く手を塞がれる、という感じがする。
ミリアムは青く輝く瞳と引き締まった唇に強い「怒」を載せていた。しかし彼女はあくまでも静かに梓たちを見下ろしながら、
「梓ちゃんを哀しませないでください」
と言った。
「何この人……」
「梓ちゃんを哀しませないでください」
「ねぇ」
「梓ちゃんを哀しませないでください」
街灯の灯りに照らされ、凄絶なほど整ったミリアムの美しい顔は、それだけに異様な迫力があり、見慣れた梓にすら怖ろしく感じられた。「ねぇ、行こ」と誰かが囁き、クラスメイトたちは一斉に踵を返して反対方向に走っていった。
取り残された梓は、ミリアムの顔を驚きと共に眺めた。彼女の顔から見る見るうちに「怒」が消え、代わりに「哀」が満ちていった。
「ごめんなさい。私は規則により、民間人を攻撃することができません。こんなことしかしてあげられなくて、ごめんなさい」
しょんぼりと口角を下げるミリアムの、大きくて形の整った白い手を、梓はそっと握った。不思議なほど気持ちが軽くなっていた。
「本当はずっと誰かに助けてほしかったの」
言葉を口に出すと、堪えていた涙があふれた。
「ありがとう、ミリアム」
家に着いた梓を、珍しく玄関に出てきた母親が出迎えた。
「ねえ梓。先生からさっき電話があったんだけど、あんた学校……」
休んでるんだって、と言いかけた母親を遮って、梓は頭を深々と下げた。
「ごめん、ズル休みした。でも24日まで休ませて。お願い。そしたらその後は絶対、学校に行くから」
高校くらいちゃんと卒業しなさいよって、きっとおばあちゃんなら言うだろうから。
そう言って、梓は顔を上げた。
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