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ミリアムはいつまでもきれいなままなのに、私を取り巻く世界は、いつからこんなに醜いものになってしまったんだろう。
梓は時々そんなことを考える。教室の机に頬杖をつきながら、家の食卓で味気ない食事をとりながら、さながら何も感じていないかのような顔をして考える。祖母が亡くなって以降、それは一段と増えたようだった。
ミリアムの顔をふと思い浮かべて、梓は(今私の「感情の目盛り」はどこを指しているんだろう)と考える。それはミリアムが持っている目盛りのどこにもない、もっと深くて暗いところを示しているような気がした。
昼休みを迎えてざわめく教室の中、梓は決まって一人で、自分で用意してきた弁当箱を開く。そこにおしゃべりしながら通りかかったクラスメイトが、梓の机にガタンと音を立ててぶつかった。衝撃に思わず顔を上げた彼女と、クラスメイトの視線がかち合う。
「いったぁーい」
嘲りを含んだ声で言いながら、クラスメイトは歩き去る。彼女たちの方からどっと大きな笑い声があがるのを、梓はなるべく聞かなかったことにしようと努力した。
細やかな嫌がらせは、梓が高校に入ってからまもなくして始まった。何か明確なきっかけがあったわけではないはずだ、と彼女は考えようとしていた。ただ集団がまとまるために、その中にスケープゴートを作る必要があっただけ。その矛先がたまたま自分に向いただけだ。
もっとも、理由がまるで思いつかないわけではない。初対面の人と仲良くなるのが苦手とか、赤面症とか、見た目が地味でおしゃれじゃないとか。高校に入りたてのとき、かつて軍隊に所属して戦争に関わったことがある人をすべて一緒くたにして、「殺人に加担した」と責める教師が、担任として当たったこととか。
(おばあちゃんとミリアムは、犯罪者なんかじゃない)
かつて国連軍が敵とし、ミリアムたちが現地に乗り込んで戦ったテロ組織が未だに存続していたら、もっと多くの犠牲が生まれていたはずだ。梓は何度もそう言おうと思ったけれど、いざ人前に立つと顔が熱くなって、足が震えて声が出なくなってしまう。
陰湿なクラスメイトたちよりも、梓は弱い自分自身が厭でたまらなかった。ただじっと耐えることしかできない彼女には、ひとつだけ希望があった。
(卒業まであと一年)
自分で冷凍のご飯とレトルト食品を詰めて作った弁当を食べながら、梓は心の中で呟いた。
(あと一年我慢しよう。我慢して勉強して、都会の大きな大学に入ろう。都会に行ったら色んな人がいて、多少変わった人でも全然目立たなくなるって、おばあちゃんが言ってた)
そしたらきっと、自分を受け入れてくれる人にだって出会えるはず。そうならなくても、こんな嫌がらせからは逃れられるはず。
(あと一年。卒業まで)
このおまじないはよく効いた。梓の父親は歯科医院を経営している。仮にも開業医である家の経済状況なら都会の大学に通うことは十分可能だろう、と彼女は思っていた。
思っていたのだが。
「梓ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。ミリアム」
祖母が暮らした一軒家は、白壁に蔦の這う、絵本に出てきそうな建物だ。主のいない家は、外観からしてどこか寒々しかった。
祖母は片付けが苦手な人で、たとえばポストから持ってきた郵便物をそのままダイニングテーブルの上に放り出しておいたりする。カーディガンは椅子にかけられたまま、読みさしの本はサイドチェストの上に積まれ、窓辺には幼稚園生だった梓があげた折り紙の花が未だに飾られている。雑多だが、その光景は不思議と調和がとれ、犀川弓絵という人物そのものを表しているようでもあった。
今、郵便物は整理され、カーディガンはクローゼットに片付けられ、本は本棚に、梓の贈り物はひとつの箱にまとめられている。すっきりした一方で、この家そのものがどんどん生気を失っていくような感じがした。
「なんか、すごくさっぱりしちゃったね」
梓がそう言うと、「弓絵が見たら驚きますね」とミリアムは答えた。特注サイズの白いワンピースを着た彼女は、今日も梓の目に、この世のものとは思えないほど美しく映った。
ミリアムの淹れてくれた紅茶を飲みながら、梓はさてどうしたものかと今更のように考えた。ここに来た理由を、なんと説明したらいいだろう。ただ「遊びにきたよ」というだけでいいのだろうか。それとも「嫌なことがあったから聞いて」と正直に話すべきだろうか。
「梓ちゃん、嫌なことでもありましたか?」
ダイニングテーブルの傍に置かれた専用の大きな椅子に腰かけながら、ミリアムが突然そう言った。思わずソーサーにカップをガチャンと荒々しく置いて、梓はテーブルの横に立っているミリアムを見上げた。
ミリアムは「喜=20 怒=20 哀=20 楽=20 恐怖=20」、つまり「ニュートラル」の表情をもって、梓をじっと見下ろしている。
「学校でお友達と何かありましたか?」
「友達とは何にもないよ」
梓は慌てて否定した。
彼女は学校でのことを、両親にも、祖母にも相談したことがない。すれば必ず、祖母とミリアムが戦場にいたことが原因かもしれない、と話してしまう気がしたからだ。そのことがどんなに彼女たちを傷つけるだろうと思うと、どうしても言うことができなかった。
それでも祖母は薄々何かに――少なくとも梓が学校を楽しいと思っていないことには気づいていた節があった。だとすればミリアムも、情報を共有していておかしくはない。
話を逸らそうとして、梓は「それよりパパとママがね」と口にした。学校の話より、家族の問題について話した方がまだマシだと思った。
「梓ちゃんのお父様なら、昨日この家にいらっしゃいました」
ミリアムは「ニュートラル」のまま言った。「梓ちゃんの伯父様や伯母様たちとご一緒に」
「じゃあ、ミリアムも知ってるよね。遺産相続でもめたんでしょ」
「はい」
ミリアムはいっそそっけないほどの静かさでうなずいた。
「弓絵はお父様の相続分を、すでにお父様に生前贈与しています」
「はは、やっぱりそうなんだ。遺産が受け取れないって怒ってたけど、やっぱりパパのせいなんだね」
梓は昨晩、伯父や伯母を「守銭奴」と罵った母親の、見たこともないような顔を思い出した。
「百万でも二百万でもいいからとって来なさいよって、ママがめちゃくちゃキレてた。うちの病院、結構厳しいみたい」
知らなかった、と梓はぽつりと付け加えた。
「私だけ子供だったんだね」
「お父様とお母様は、梓ちゃんのためを思って黙っていたのでしょう」
ミリアムは言った。「弓絵ならきっとそう言います」
「そうかなぁ。だったら最後まで取り繕ってほしかったな」
深いため息をついて、梓はミリアムを見上げた。
彼女を見下ろすアンドロイドの、人工的で、しかしこの上なく美しい顔。
「……この世界にあるきれいなものって、ミリアムだけのような気がしてきた」
「それは梓ちゃんが若すぎて、視野が狭くなっているだけです」
「弓絵ならそう言うっていうんでしょ」
「はい。弓絵は私に美しいものをたくさん見せてくれましたから、私は私以外に、この世界に美しいものがたくさんあることを知っています。弓絵や和夫は、そういう世界を守るために一生懸命研究をして、働いてきたのです」
和夫というのは、戦死した弓絵の夫で、梓には祖父にあたる人物だ。早世した彼のことを、梓は写真と、祖母の昔話でしか知らない。
「美しいものって、ほかに何があるの?」
少し意地悪な気持ちになって尋ねると、ミリアムは「たとえば、梓ちゃんです」と答えた。
「梓ちゃんが生まれて七日目に、私はちっちゃな梓ちゃんを抱っこさせてもらいました。弓絵はなんて美しい子なの、と何度も言っていました」
「おばあちゃんってば、変なの」
「そんなことはありません」
ミリアムの瞳が動いて、ダイニングテーブルの上に置かれた写真立ての上に注がれた。彼女が自ら置いたものだろうか、葬儀の遺影として使われたのと同じ祖母の写真が飾られている。
火傷と左目の失明は、和夫が亡くなった基地の爆撃の際に負ったものだ。髪は薄くなり、年齢を重ねた顔には、化粧では隠せない皺やシミが浮かんでいる。
「おばあちゃんはどう?」
梓の言葉に、ミリアムはうなずいた。
「はい。弓絵はとても美しいです」
「しわくちゃで、火傷の痕があって片目でも?」
「はい。私にとっては、世界で一番美しいです」
きらきらと輝くミリアムの瞳を見ているとなぜか悲しくなって、梓はそっと目をそらした。
「ねぇ、ミリアムはどうしても軍の施設に帰らなきゃいけないの?」
帰り際に尋ねた梓に、ミリアムは「はい。そう決まっていますから」と答えた。
「たとえば、うちに引っ越してきたりできないの?」
「できません。それに、私は25日までには電池が切れます」
「それって、やっぱり特別な施設でしか充電できなかったりするの……?」
「いいえ、もう充電はできません」
ミリアムはきっぱりと言い切った。「私は対人戦闘型アンドロイドです。武器としての悪用を防ぐため、数々のプロテクトがかけられています。私を充電する際には、弓絵の生体認証が必要です」
「生体認証? でもおばあちゃんは……」
「亡くなりました。ですからもう充電はできません。次に電池が切れたとき、私は完全に停止します」
そう話すミリアムは、目盛りが「哀」に寄ったときの表情を浮かべていた。
美しいものはたくさんある、とミリアムは言った。
梓は家路を辿りながら、ふと辺りを見回した。すでに太陽は沈み、街灯が町並みを照らしている。立ち止まってその街灯にもたれかかり、スマートフォンを取り出す女性がいる。その前をせかせかと通り過ぎるスーツ姿の男性がいる。自転車に乗った小学生が、つまらなさそうな顔をして走り去る。タイムセールを呼びかけるスーパーのにぎやかな放送が聞こえる。
梓には、この世界にミリアムより美しいものがあるとは思えなかった。そしてそのミリアムは、あと数日ですべての活動を止めてしまうという。
(そうか、だから国連軍の人が回収に来るって言ったんだ。お迎えじゃなくて、回収なんだ)
俯いて歩く梓の目に、涙がせり上がってくる。下唇をぐっと噛み締め、手の甲で涙を拭って、彼女は足を早めた。
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