邦裕の孤愁 くにひろのこしゅう

ネツ三

邦裕の孤愁 くにひろのこしゅう

 邦裕の孤愁(くにひろのこしゅう)


1 朱莉がやって来る


 高校二年生が始まった日、朱莉は突然、邦裕と健人の住む家にやって来た。

 邦裕と健人は、三宅さんの所有するシェアハウスに住んでいる。そこから高校に通っている。

 邦裕は小学校六年生の時、突然両親が死んでしまい、叔父に引き取られて、二人で暮らしていた。中二の時に、叔父が結婚することになり、ここに来た。

 健人は裕福な家で、何自由なく過ごしてきたが、モデル業と芝居に夢中になり、親と衝突して実家を離れ、ここで一人暮らしをしている。

 邦裕と健人は一緒に暮らして二年になる。大きな喧嘩もなく、仲良くやってきた。

 そこへ、突然、朱莉が加入することになった。

 三宅さんに連れられてやって来たのは、今日、同じクラスになったばかりの朱莉だった。

学年一の美人との評判で、しかも成績優秀、しっかり者ときている。

 邦裕は、なぜ、朱莉がここに来たのだろうと思った。お互い事情は詮索しないのが邦裕たちのルールなので、彼女に直接聞くことはしない。事情よりも大切なのは、うまく同居をやっていくことだ。健人とは同性同士だったからやって来れたが、一人っ子だった邦裕には、女子と暮らすのははじめてだ。健人は彼女がいるので、女子のことはよくわかっているのが頼りだ。

 こんなことは、後から思ったことで、朱莉が三宅さんとリビングに入って来たときには、邦裕は、驚いてしばらく思考が停止してしまった。

 朱莉は、邦裕を見るなり、大きな目をさらに見開いて、

「あら、海城くん、ここに住んでるの?」

信じられないという顔で口を開けている邦裕の顔を眺める。

「今日からよろしくね」

そう言って白い歯を見せた。

邦裕の頭の中は現実感を失ったままだ。

三宅さんは、

「海城くん、今日からここで、一緒に住んでもらう、高島朱莉さん。仲良くしてあげてな」

その言葉に我に返る。

「もちろんです。僕たち、同じクラスなんです」

「そうか、それなら安心だ。健人くんにも、帰ったら、よろしく言っといてくれ」

「わかりました」

「部屋は二階の奥を使ってもらう」

「男子二人に女子が一人では、やりにくいかもしれんが、ゆずりあって気持ちよく暮らしてほしい」

三宅さんはそう言うと、朱莉を連れて二階へ行った。

 

 三宅さんが帰った後、リビングで邦裕と朱莉が話していると、健人が帰ってきた。

「こちらが長澤健人。僕らと同じ高二で、大阪の高校に行ってる」

「健人、今日からここで暮らすことになった高島朱莉さん。同級生なんよ」

邦裕が二人を紹介した。朱莉は健人を見るなり、大きな目をさらに見開いて、「カッコいい」とつぶやいた。邦裕はすかさず、「あかんよ、彼女がいてるから」と注意した。

健人は、「よろしく。仲良くやろうね」と言って、椅子に腰を下ろしながら、

「朱莉さんみたいにかわいい人は大歓迎」爽やかな笑顔を向けた。

「調子に乗って」邦裕が言うと、朱莉は満更でもない表情を浮かべている。


「ねえ、決まり事とかあるの?」

「自分の食器は自分で洗う、冷蔵庫に入れるものには名前を書く、洗濯物は自分で干して自分で入れる、トイレと風呂の掃除は順番で、共有スペース、リビングには、私物を置きっぱなしにしない、くらいかな」

「お金の貸し借り禁止もあるよ」健人が付け足す。

「そうそう、パンツはよく邦裕のを借りてるけどな」

「あれはやめてや」邦裕が突っ込むと、

「パンツは除外や」と健人が答える。

朱莉は笑顔でスルーする。


2 風呂場の悲鳴


 朱莉が来て三日目の夜のこと。

 邦裕が自分の部屋で、明日が提出期限の課題をやっていると、風呂場から「ぎゃーっ」と言う叫び声が聞こえてきた。朱莉の入っている時間だ。

 不審者が侵入したのだろうか、助けないとと思い、慌てて風呂場に駆け込むと、また、「ぎゃーっ」と言うさっきより高い声がした。

「大丈夫か、朱莉」と言って夢中で浴室のドアを開けると、朱莉はバスタブから、「そこ、そこ」と言って必死な顔つきで指を差す。ぞの先を見てみると、壁に、二〇センチはあると思われる真っ黒のムカデがじっと張り付いていた。

「うわっ、でかっ」

邦裕は、思わず一歩たじろいだ。見たことのない大きさだ。

「外へやって、早く、早く」

急かされても、素手で掴むわけにはいかない。

 こいつに噛まれると、激痛が襲い、しばらくは痺れて大ごとになる。邦裕は小学生の時、もっとサイズが小さいムカデに左腕を噛まれたことがあった。その痛さといったら二度と思い出したくないくらいだ。この世で、蛇と同じくらい嫌いな生き物だ。

とにかく朱莉を助けるために、こいつを始末しないと、邦裕はそう思って、風呂の中を見渡すと、風呂の腰掛けが目に入る。プラスチックだが、これの脚で潰してやろうと思って、腰掛けを手にした途端、ムカデは急に百本の足を動かして、壁を上り出して、朱莉の方に移動した。

「ぎゃーっ、早く、早く、助けて、助けて」

朱莉は浴槽から立ち上がり、ぬれたまま必死で邦裕の身体にしがみつく。

邦裕は壁のムカデに狙いを定めて、腰掛けの脚を思いっきり黒光りのする胴体に押し付けた。

「きゃっ、グロい」

朱莉はそういって顔を逸らした。

邦裕は力をさらに加えて、ムカデの胴体を二つに引きちぎった。風呂の床に落ちた二つの胴体はクルクル回って、頭の方はさらに逃げようとしてこちらに向かって進んでくる。邦裕は足元のムカデの頭部分を、腰掛けで狙ってガツンと叩いた。うまい具合いにムカデの頭に腰掛けの脚が当たり、そのまま力を押し付け続けた。

もう一方の胴体は床でクルクル回っている。今度はそちらを同じように押さえつけて始末した。

邦裕の鼓動は耳に響くぐらい大きな音を立てている。息も上がっている。

「やっと死んだ。もう大丈夫」

と言って、朱莉を見ると、彼女と視線があって、裸体で立ちすくむ朱莉を見つめる形になった。

一瞬、朱莉と邦裕の目が合って、わずかな間ができた。

「ぎゃ|、この変態」

「見ないで、すぐ出て」

そう言って湯を両手ですくって何度も邦裕の顔に浴びせかけた。


 慌てて風呂場から飛び出すと、ちょうど帰宅した健人が、朱莉の悲鳴を聞いて風呂場に駆けつけて来たところだった。

「お前、何やってるんや」と言って、邦裕の顔面をいきなり正拳で殴りつけた。邦裕は軽く吹き飛ばされ、廊下に倒れ込んだ。

「朱莉を入浴中に襲うなんて、お前は最低な男や」

健人は興奮して、失神している邦裕にのしかかり、さらに殴ろうとする。

「やめて、違うの」

バスタオルを身体に巻きつけた朱莉が、健人を背後から引き止めた。

「こいつ、許さん」

「違うのよ、この人は、ムカデを退治してくれたの、私を助けてくれたのよ」

「でも、さっきの悲鳴は?変態って叫んでたでしょ?」

「あれは、言葉のあやというか、ムカデを殺した後、この人と目が合って、気づいたら私、素っ裸だったからつい…」

「じゃあ、こいつが覗きや痴漢をしたのではなかったってこと?」

「そうなの、大丈夫かな海城くん」

「ヒロくん、起きろ、大丈夫か」


 邦裕はしばらくの間、気を失っていた。遠くから健人の呼ぶ声がしていたが、まだ朝じゃないから寝ていようと思って、目を開けなかった。

「ヒロ、起きろ」

健人は今度は平手で何度も邦裕の顔を叩くので、ようやく意識が戻った。

 目を開けると、健人と朱莉が、心配そうな顔で覗き込んでいるのが下から見えた。

「ああ、目が覚めたか」

「よかったわ」

健人は笑顔で邦裕に手を差し出し、体を引き起こす。朱莉は白のバスタオルを体に巻きつけている。でも、屈んでいるので、胸の谷間があらわに見えている。足の脛の白さが目に入る。

 立とうとすると、ちょっとふらつくので、健人が止める。

「すぐに氷枕で冷やそう。私、着替えてくるから」

「そうだな、冷やしたほうがいい。ヒロくん、ソファで横になれ」

健人はそう言って邦裕の脇を抱えてリビングのソファアまで運んだ。

「ごめんな、ヒロくん、俺はてっきり、朱莉を襲ったのかと」

「襲うわけないやろ。同級生やで。ありえへん、あかん、喋ると顔が痛い」

「冷やすから寝とき」

朱莉が服を着てきた。

「病院行かなくて大丈夫かな?」

「これくらいなら心配ないやろ」と健人が言う。

「骨にヒビが入ってるかもしれへん」邦裕が言うと、

「お前は大袈裟や」

「いや、お前が言うか」

「三宅さんに相談して、病院連れて行ってもらおうか」と朱莉。

「行ったほうがいいよ、海城くん」

「よっしゃ、俺が相談してくるわ」

健人は隣に住む三宅さん宅へ行った。


 三宅さんが知り合いの病院に電話してくれて、邦裕を車で連れて行った。

診察の結果、打撲だけで心配ないということで、邦裕は安心した。


翌朝、邦裕は起きて鏡を見ると、腫れがひどく、顔の右半分が痣になっていた。見るだけで、気分が悪くなった。大きめのマスクをするとほとんどが隠せたので、学校にはこれを付けていった。


 クラスに入ると、マスク姿が注目されて男子の何人が、どうしたのかと驚いた。

 邦裕は、説明が面倒なので、自転車で転んで顔面を打ったと答えた。鈍臭いなあとからかわれたが、かえって気が楽になった。とてもじゃないが、朱莉の全裸を見てしまって、そのせいで殴られたとは言えない。そんなことが知られると、二度と学校には来られなくなってしまうだろう。

 担任にも自転車事故で怪我をしたというと、お大事にと言われただけだった。

 邦裕はそれでよかったのだが、朱莉は色々とうわさ話を耳にして辛かった。クラスの女子は、あれは絶対、ケンカでしょと言った。

 海城くんはおとなしそうに見えて、意外とやんちゃなのかも、カッコつけてボコボコにやられたんじゃないのなど、ひどい決めつけが話されていた。その話の輪の中にいるだけで、朱莉は責任を感じて、気が重くなった。


 帰宅してきた健人が、リビングで本を読んでいた邦裕に言った。

「で、ヒロくん、どうやった?」

「腫れは大分引いた。アザは大きいまま」

「そうか、すまん。で、どうだった?」

「何が?」

「朱莉さんのボディや」健人は急に声を潜めていった。

「見たんやろ?」

「うん。グラビアでも見たことないくらい。すごくきれいだった。」

「ほんまか。もっと詳しく教えて」

「あかん、お前には優奈さんがおるやろ」怒った顔をしていうと、

「それとこれは別や」

健人はそう言って、邦裕の肩を叩いて部屋に入った。

 邦裕は一人リビングで、物思いに耽った。やむを得ないとはいえ、他人に、しかも若い男に自分の裸を見られたら、いやだろうな。でも、邦裕が謝れば謝るほど、朱莉の気持ちはやり場のない怒りに満たされていき、どう振る舞ったらいいのかわからなくなるんだろうな、そう思って沈んだ気持ちで自室に戻った。



3 健人と彼女


 健人には優奈と言うかわいい彼女がいる。健人と同じようにモデルをやりながら、お芝居の勉強をしている。女優の卵といえばいいのか、しかし、少しも気取ったところがなくて、邦裕とも気さくに話しをする感じのよい子だ。健人とは、モデルの仕事を通じて知り合い、付き合って一年になる。時々、健人が週末に連れてくる。

 健人の帰りが早いときは、三人で一緒にご飯を食べにいったり、家でご飯を作って食べたりする。

 朱莉が来てから初めて優奈を連れてきた時は、だいぶ遅い時間だったので、すぐに健人の部屋に入ってしまった。

 邦裕は優奈が泊まりにくる夜は、リビングでしばらく過ごすことにしている。その日もソファで本を読んでいると、朱莉が降りてきて、「まだ起きてるの?」と不思議そうに尋ねた。

「ああ、ちょっとね」

「こんな所でいるより、部屋で読んだらいいのに」

「暗いでしょ、ここの灯り」

そう言って向かいに座る。スウェットの上下を着て、すでに睡眠態勢だ。

 邦裕は、いたずらな気持ちを起こしてしまった。

 声を小さくして、朱莉の耳に少し顔を近づけて、

「部屋にいるとよく聞こえる」

「えっ、何が?怖いものでも出るの?」

急に心配そうな顔で邦裕を見つめる。

「怖いと言えなくもないな」

勿体ぶっていると、

「何よ、教えて」

少し怯えた顔を近づける。

「声が洩れてくる」

「洩れるって」しばらく邦裕を見つめる。

そして、硬い表情になって、

「もしかして、二人?」

「そう。丸聞こえ。部屋、壁一枚やろ。だから、あれが始まると、リビングにそっと避難することにしてる」

「初めて聞いた時はびっくりした」

「興奮して寝付けへんかった」

邦裕がそういうと、朱莉は急に真顔になって、

「確かめよう」と言って、邦裕の腕を突いた。

「そっと入ればわからない?」

「おれの部屋に入る気?」

「夜中に男子の部屋に入るなんて、危険や」

「馬鹿なことしないでしょ、早く」

 仕方なく、音を立てないように、自分の部屋のドアを注意深く開けた。後ろからついて来ている朱莉に目で合図する。

 ドキドキしながら部屋に二人で入ると、朱莉は早速、健人との部屋の壁に耳を近づける。この時、邦裕は女子にも男子と同じように、セックスに関する強い関心があることを確認した。

 隣からは濃厚な気配と物音が、リズミカルな喘ぎ声とともに聞こえてくる。

興味津々の顔で聞き耳を立てる朱莉。邦裕は複雑な心境になった。目の前に、パジャマ姿の女子がいて、隣からは興奮した声が漏れてくる。ここは理性を強く持って、衝動を抑えつけるのみだ。

 そんなことを思っている間も、朱莉は隣の音に意識を集中している。

 今日の健人たちはいつも以上に長いな、そんなことを思っていると、激しい泣き声がした後、低く大きな呻き声がしたので、流石に邦裕もびっくりしてしまった。

 朱莉は驚きの顔を邦裕に向けて、声を出さずに「だいじょうぶなの?」と言ったのが口の形で判読できた。黙って頷いて、ドアの方を指さして、「リビングへ行こう」と邦裕も声を出さずに大きく口を動かして伝えた。

 リビングに二人で戻ると、朱莉は「ふーっ」と大きなため息をついた。顔が赤く上気している。

「スゴイ、わね」

スゴイを一音ずつ区切って発音する。

「あれをたびたび聞かされる俺の辛さ、わかるでしょ」

「愛し合うのって、大変ね」

「ちょっと意味違うと思うけど」

邦裕が注意すると、朱莉は正気を取り戻したようで、

「私には無理」と言った。そして「いつもあんな声聞こえてくるの?」と聞いてきた。

「いつもじゃないけど、今日は格別に」

「健人くんの彼女って、いくつ」

「俺らと一緒」

「ずいぶん大人ね、二人とも」

そう言って、邦裕の顔をチラッと見て、

「変なことしたら警察呼ぶから」

「それくらいの理性はありますよ」

邦裕は、ちょっとムッとした。

 

 翌朝、邦裕と朱莉がリビングで朝食を食べていると、優奈がシャワーを終えて、健人とリビングに入ってきた。

「紹介するわ、優奈。こちらは、朱莉。四月から一緒に住んでる」

「初めまして、佐藤優奈です。健人がいつもお世話になっています」

 邦裕は昨日の声の一件が頭にあるので、優奈の顔をまともに見ることができない。

朱莉は、むしろ目を輝かせて、

「こちらこそ、よろしくお願いします。高島朱莉です」と挨拶して、邦裕の横に腰を下ろした。

健人と並んで腰掛けた優奈に、

「昨夜は遅かったの?」と尋ねた。

邦裕は、横から朱莉の太ももを足で突いた。

笑顔を邦裕に向けた朱莉は目で、「何するのよ」と非難する。

「昨夜は仕事で遅かったんでしょ」と邦裕がフォローをする。

「仕事が長引いて、来るのが遅くなって、挨拶できなくてごめんなさいね」

「気を使わなくても、いいよ」

邦裕がそう言うと、

「いつからお付き合いしてるんですか?」と朱莉が聞く。

今度は朱莉の太ももを思い切りつねった。

急にこちらに顔を向けて、笑顔のまま「邪魔するな」と目で言っている。

邦裕は目で「聞くな」と合図した。

朱莉は渋々、お茶入れて来ると言って立った。


 健人と優奈が出かけたあと、リビングで朱莉と話した。

「あんな話題を振ったらだめでしょ」邦裕がそう嗜めると、

「だって、気になるもん。どんなふうに付き合ってるのか」

「たんに羨ましいだけじゃない?」

「わたしが?そう見えた?」

「張り合おうとしてるんじゃない?」

「ええ?どう言うこと?」

「健人みたいな恋人がいて、週末には愛し合って、楽しそうにしてるから」

「そんなつもりはないんだけど、そう見えたのね」

「朱莉は美人だし、男なんていくらでも近寄ってくると思う」

「でも、今まで付き合ったことないもん」

「それは…」

 邦裕は、それは気が強い性格のせいだとは言えなかった。

「朱莉さえよければ、いつでもお付き合いするよ」

「無理やわ。そんな目で見られへんから」

「そうはっきり言われると、応えるなあ。で、恋人ができたらできたで、色々あるんやから」

「まるで恋人がいたような口ぶりね」

「そら、ないけど。健人のところもあれで、大変なことも…」つい口をすべらせた。

「何かあるの?教えてよ」

身を乗り出してくる。

「ここだけの話やで。優奈さんの嫉妬がすごい」

「健人はモテるから、心配なんやろな」もっと聞きたそうだ。

「健人も人がいいから、近寄ってくる子には優しくしてしまう。それで喧嘩になるみたいやな」

「優奈は、朱莉のことを気にしたはずや」

「そんなものかな」そう言って、朱莉は首をかしげた。

「朱莉は大学行ったら、キャンパスクィーンとかに選ばれると思う。男選び放題やろうな」

「そうだといいけど」


「風呂入ってくるわ」

風呂は朱莉が一番に入ることになっている。

「ムカデが出ても助けへんから」

「そんなこと言われたら怖くなるでしょ。また出たら助けにきてね」そう言って、わざと困ったような表情をつくる。あざといなと邦裕は思いながら、

「今度助けを呼ぶときはバスタオル巻いとけよ。俺はムカデよりも朱莉の方が怖いわ」

「ふふっ」と笑いを漏らして風呂に行った。



4 偽装カップル誕生


 健人が優奈を連れてきた翌週の土曜日は、珍しく健人も家に居て、三人で晩御飯を食べていた。

 健人は頼みがあると言って、話を切り出した。

「優奈を連れてきたあと、優菜が朱莉に嫉妬して酷いねん。タイプやろとか、一緒に住んでたら好きになるとか色々言ってきて」

「健人のことが心配なんやろな」邦裕がそう言うと、

「お互い愛し合ってるんでしょ?」と朱莉が意味ありげに言う。

邦裕は、朱莉の太ももを膝で突いた。

ムッとした顔で見る朱莉を無視をして、健人の言葉を待つ。

「二人に頼みがある。朱莉には悪いんやけど、こいつと付き合ってることにしてくれへんかな?そうしたら優奈も安心して、あれこれ詮索しなくなると思うんや」

「付き合うって、この人と?無理やわそんなの」

「いやいや、優奈が来てる時だけ、付き合ってることにしてくれたらいいだけや」

「嫌なのに無理に付き合ってくれと言ってるのと違うで」

「嫌なのには余分ですけど」邦裕が口を挟む。

「ね、お願い。俺を助けると思って、あいつがきた時だけでいいから」

「そんなに頼まれたら、断りにくいやん」優菜は渋々返事をする。

「本当?ありがとう!助かるわ。このお礼は絶対させてもらうから」

「調子乗ったらあかんよ。手繋いだり、ボディタッチとか絶対せんといてね」

朱莉は邦裕に釘を刺した。

「するわけないでしょ。飢えた狼みたいに言わんといてほしいわ」

「俺には強固な意思と節欲があるのをわからせてやる」

「まあ、とにかく、あいつがくる時は二人はカップルということで、お願いするわ」

健人はそういうと安心した表情を浮かべた。


 朱莉が食器を片付けて二階の部屋に上がったあと、邦裕と健人はリビングに残り、話し込んだ。

「優奈の嫉妬もすごいけど、だんだんとあれを求めるのが激しくなって、ちょっと困ってるんや」

「あれって、優奈、そんなに絶倫なん?」

「この頃、一回や二回ではおさまらへん。何回も求められて、俺はクタクタになってしまう。底なしの性欲や」

「あんなかわいい顔して?」

「顔は関係ない。あいつには好色の傾向があるのやろな。その蓋を開けてしまったのは俺やけど」

「健人、実は最近、部屋に声が激しく漏れてくるねん」

「ほんまか。それは悪かった。あんな声聞かれたら、恥ずかしいわ」

「始まったらリビングに行って、聞かないようにしてる」

「それは知らんかった。気を使わせて悪かったな」

「あの最中って、あんな大きな声を出すもんなん?」

「あいつは特別や。みんながあんな声出すわけじゃない。とにかく、今度から気をつけるから、漏れて聞こえてたら後で言うてくれ」

「うん、わかった」

「それと朱莉に聞かれたら、やばいからな。あいつ、純情やから、きっとショックを受けると思う」

邦裕はもう手遅れだと思いながら、

「堅物だから、聞かれない方がいい」と答えておいた。


 翌週の週末に、優奈が泊まりにきて、持ってきたケーキを四人で食べた。

「お二人、つきあってたんやね、お似合いやわ」

優奈はケーキを食べながら、邦裕と朱莉に笑顔でそう言った。

「いつから、つきあってるの?」

「どれくらいになるかな?」と言いながら邦裕は朱莉に目で合図する。

「半年くらいかな。去年の秋くらいから」

「ヒロくんのどこが良かったの?」優奈はさらに尋ねてくる。

「うーん、見た目は好みじゃなかったけど、優しいところかな」

「ヒロくん、カッコいいやん、見た目も」優奈は優しい。

「じゃあヒロくんは?」

「この気の強いところと、ナイスな」

言いかけたところをテーブルの下で朱莉のキックが急所に当たる。

「うっ…」暫し沈黙する。

「ナイスな?」

「ナイスな笑顔が…」痛さを誤魔化してなんとか言えた。

「初めてのキスはどこで?」

「えーっと、風呂場で」

「風呂場で?いきなり?」

優奈が目を見開く。

「違うねん、風呂掃除をしてるときに、ムカデが出て、朱莉が悲鳴をあげて、俺が退治して、その時、朱莉が抱きついてたからつい」

「ついしたの?」

「いやいや、そうじゃなくて、そのタイミングでって言うこと」

朱莉はよく言うよという顔をして聞いている。

「今度、一緒に遊びに行かない?」

「いいね、朱莉」邦裕がそう言うと、

「うんいいよ」と笑顔をつくって答えた。


 健人と優奈が部屋に入ると、残った朱莉は、

「わたし、ダブルデート、行かない」

「すぐに行こうって言ってるわけじゃないから、そんなに決めつけなくてもいいんじゃない?」

「そのうち、行きたくなるかもしれん」

「絶対、ないわ」

「その、白か黒かの二分は良くないよ、ほどほどに流すってやつも必要」

「なんでよ」不満そうな顔を見せる。

「朱莉は、完璧主義だから」

「自分にも厳しいけど、他人にはもっと厳しくない?特に、俺にたいして」

「あなたは言われるようなことするからでしょ」

「そう言う決めつけがなかったらなあ」

「決めつけじゃないでしょ」

「そこで、そう言う考えもあるわね、って言う余裕が欲しいな」

「心が狭くて残念ね」

「そら、またムキになる。そこが丸くなれば…」

「なんなのよ、言いなさいよ」

「言い寄る男が列をなすやろな」

「このままならモテないって言いたいの?」

「いやいや、誤解せんといて。今でも十分魅力的やけど、もうちょい、丸くなれば、さらに魅力が増すって言うことや」

「褒めてるのか貶してるのか分からんわ」

「貶してなんかない」

「どっちにしてもダブルデートはお断りやわ」

「まだ言うか。そんなに嫌なら、誘われたら自分で断りや」

「俺は健人を守るために賛成しただけや。それを利用して朱莉を口説こうとしてるんじゃないから」

邦裕は本当に腹が立った。


5 勘違い


 梅雨になって暑かったので、邦裕と健人は入浴後、上半身裸で、リビングでくつろいでいた。よくある光景だ。ところが、朱莉が降りて来て、邦裕と健人が裸で並んで体をさすっているのを見て、

「キヤッ」と短い悲鳴をあげて部屋に逃げ込んだ。邦裕らはただ、お互いの筋トレの成果を自慢し合っていただけだったのだが。


 健人が部屋に引き上げた後、邦裕がリビングに残っていると、朱莉がそっと上から覗いて、邦裕が服を着ているのを確かめると、そっと降りてきた。

 邦裕が素知らぬ顔をしていると、朱莉は遠慮がちに尋ねた。

「ヒロくんて、健人くんを好きなの?」

「ああ、好きだよ」

朱莉は大きな目をさらに大きく見開く。

暫し、朱莉の目と邦裕の目が交差する。

「それって、男の人が好きってこと?」

「俺が、健人を好きって言うのは、友達として好きって言う意味だよ」

「本当?」

「今まで俺は女性を好きって何度も言っているでしょ。なんでいきなり、男を好きだと思うのか…」

「だって、さっき、体を触り合っていたでしょ、わたし、愛撫してると思って」

「愛撫?誤解や、誤解。お互いの筋肉の具合を確かめてたんやて」

「本当?それなら良かった。男同士でって思うとびっくりして。健人くんは優奈さんいるのにって思っちゃった」

「朱莉、このあいだ学校で講演会あったやろ。元は女性だったっていう講師さんは、どう見ても男性だったやん。LGBTって、性の多様性について話してたでしょ」

「世の中には色々な人がいて、色々な性の考えがあるというのはわかるけど。わたしは、男の人同士のカップルって知っている人がいないから、びっくりしたのかも」

「カップルちゃうけどね」

「男子って、裸のおつきあいに平気だったり、必要以上に距離が近かったりしない?」

「割とそういう傾向はあるかも。でも、みんなじゃなくて、そういうのが苦手な人もいるよ、俺もどっちかというと苦手」

「もし俺が男子も女子も好きになる人だったら、朱莉はどう思う?」

「もともとあなたを好きにならないから、その問いは無意味ね」

「じゃあ、朱莉が好きになって付き合った男の人がそうだったらどうする?」

「わたししか好きにならない人じゃないと無理ね」

「逆にヒロくんはどうなの?」

「異性も同性も限らず、好きになる人の振れ幅が大きい人は苦手かも。やっぱり俺だけを大事にして欲しいと思うから」

 こんなやりとりがあった後、邦裕は改めて考えてみた。

 健人は確かに男の邦裕から見ても、十分魅力がある。もし、俺が女子だったら、きっと付き合いたいと思うだろう。顔は言うまでもなく、スタイルも抜群にいいし、優しいし、しっかりしたところもある。悪い点は女の人に甘くて、近寄ってくる女性みんなに優しくしようとする点だ。優奈が心配して嫉妬するのもわかる。俺が恋人の立場だったら、健人を放し飼いにはできないだろうな。

 もし、朱莉が俺と付き合うとしたら、俺は朱莉のことを束縛するだろうか。他の男と親しく話していたら、嫉妬に駆られるかもしれない。逆に朱莉は、俺が他の女性と仲良くしていたら、どんな気持ちになるのか。男と女、いや、好きなもの同士の気持ちって、難しい。

 邦裕はそこまで考えて、頭が混乱してしまったので、考えるのをやめてしまった。

 

6 ボディーガード


 電話から朱莉の緊迫した声が聞こえたので、邦裕は慌てて、上着を掴んで家を飛び出した。その間、電話を繋ぎっぱなしにして、朱莉の声を聞けるようにした。

 朱莉は金曜の夜、電車で二駅離れた塾に通っていた。以前から男につけられることがあったそうだ。

 その夜は、それらしい男が電車の中で朱莉のすぐそばまで近づいてきて、チラチラ視線を向けて来たので、朱莉も気付いていた。駅に着くと一番にドアから降りて、早足で改札を抜けた。そしてほっとして歩を緩めると、その男が早足でいったん朱莉を通り越して、何歩か先で立ち止まり、朱莉を見つめて来たそうだ。

 朱莉はその異常さに気づいて、邦裕に電話をかけてきた。

 とにかく、人通りの多いところで待つようにと言った邦裕は、徒歩では駅まで十五分くらいの道のりを走って行った。

 朱莉はこわばった表情で立っていた。邦裕は「まった?」と大声で声をかけた。当然、その男に聞かせるためである。何人もの人がいて、どれがその男なのか邦裕にはわからなかった。

「ありがとう」

ひきつり気味の笑顔で朱莉が言った。

「まだいる」

震えながらささやく朱莉の右腕を掴んで、「帰ろうか」と、これも大きな声を出していった。

 邦裕は、身長が一八〇センチあるので、かなり大きく見えると思う。この時は一段と体を大きく見せて肩を怒らせ、大股で歩いた。

 しばらくして、人気がなくなったところで、

「ごめんね、怖かったの」と朱莉は小さな声で言った。

「俺が来たから大丈夫。このまま家まで帰ろう」

「前からつけられてる感じがしてたの」

「知らない男の人。今日は近づいて来たから怖くなって」

「しばらくは迎えにくるよ、朱莉が嫌じゃなかったら」

「ありがとう、助かる。でも、ヒロくん、迷惑じゃない?」

「俺は全然大丈夫」

「じゃあ、お願い」

朱莉はそう言うと、笑顔になって白い歯を見せた。

邦裕はこのままずっと朱莉と歩き続けたいと願ったくらいだ。


 朱莉は東京の大学に進学したいと言っている。受験勉強のため週に一回塾に通っているのも、そのためだ。 やりたいことがまだ見つかっていない邦裕は、勉強に励んでいる朱莉が羨ましくもあった。

 街灯のない暗い場所では、朱莉は腕を握る力をぐっとこめてきた。邦裕はたびたび後ろを振り返って、男がついてきていないかを確かめた。


 朱莉の身体の線を感じながら家の前まで帰ってきた時、闇のむこうから「ヒロ!」と呼び掛けられた。近づくと、健人と優奈だった。

優奈は邦裕と朱莉が腕を組んでいるのを見て、

「恋人繋ぎ?いいなあ、健人もやって」

と言って羨んだ。

「お前、どうして俺らが来るのわかった?」

健人は邦裕に近づいて小声で聞いてきた。

「いや、偶然なんよ。これには訳が」

「優奈に見せつけるためやろ?」

「あとで話す」邦裕も小声で健人にそう言って、

「いらっしゃい」と優奈に笑顔を見せた。

「お似合いね、お二人は」優奈は朱莉に近づいて、ニコニコして話しかける。邦裕らが本当のカップルだと思っているらしい。怪我の功名になるのか、ともかく、健人への嫉妬が無くなれば、安心だ。


 それからは、塾帰りの朱莉を駅まで迎えに行くのが、邦裕の大事な役割になった。男はあれ以来、姿を見せなくなっていた。しかし、しばらくは用心した方がいいと思うので、金曜の夜は、アルバイトも遊びも入れずに空けておくことにした。














7 震災と悪夢


 三宅さんの話を聞き終えて、邦裕らは、ふーっとため息を漏らした。この家の持つ歴史が明らかになった。二十数年前、ここにあった三宅さんの実家は、地震により全壊し、ご両親が亡くなった。

 まずは、この家が建てられ、その十数年後、隣に今の三宅さんの家ができた。この家は東京で働く息子さんがこちらに帰ってきたら住むようにと置いていたが、息子さんは、東京で家を建てて住み、こちらには帰ってこないことになった。人に貸すのも気を使うので、NPOの知り合いに相談して、邦裕らのような、事情があって家族と同居しない学生を受け入れるところとして使うことにした。


 三宅さんは一月十七日が近づくと、震災を忘れないためにも、この家に住む学生に話をしておこうと思っていたが、なかなかその機会がなく、できなかったそうだ。

 邦裕と健人は、初めて聞く話だった。もちろん、朱莉もそうだ。三人とも神妙な顔で三宅さんの話を聞いた。この近所でも多くの家が地震で倒れ、犠牲になった人もいたそうだ。今は、全くそんな惨状を想像できないくらいに復興している。いや、何も震災をうかがえるものが残っていないと言った方がいい。邦裕らは学校で習った出来事として、阪神大震災は知っていたが、まさかこんな身近なところにその痕跡があったとはわからなかった。

 「今度大きな地震が来ても、この家は大丈夫。しっかりした耐震構造になっているからね」

三宅さんはそう言って、沈んだ表情の邦裕達を見回して、明るい顔で言った。


 その夜、十二時を過ぎて、邦裕が布団に入ってうとうとしたとき、ドアをノックする音で、跳ね起きた。

ドアの向こうから、

「もう寝てる?」と小声で朱莉の声がした。

ドアを開けて、「どうしたん?」と聞くと、

「ちょっと、変な感じやねん」と言う。

「何が?どうした?」

「寝てるとな、胸が重くなって、少し苦しくなって、目を開けたら、何か黒い影みたいなものが視界を横切るのが見えて」

「何?それ」

「動悸が激しくなって、汗が出てきて」

「物凄く怖くなって」涙目になっている。

「変な夢でもみたのと違う?」

「ううん、目覚めてたから」

「黒い影ってどんな形?」

「わからん、ぼやけてて丸いような」

「お前、霊感強い?」

「幽霊なんか見たことないよ」

「じゃあ、やっぱり寝ぼけてたんと違う?」

邦裕はちょっと冷たく言った。

「そんなことない、私、怖いねん。部屋見に来て」


 朱莉が懇願するので、邦裕は仕方なく、一緒に確かめに行くことにした。健人を起こそうかと思ったが、明日の朝は仕事で早起きだと言っていたので、やめた。念の為、スマホと懐中電灯を持って、朱莉を後ろにして階段を上がる。

 朱莉の部屋のドアを開ける。恐る恐る部屋の中に足を踏み入れる。電気は点いたままだ。部屋の壁を丁寧に見渡す。邦裕の背中に縋るように朱莉が両手をかけている。

「何も変わったことないよ」邦裕がそう言って朱莉の顔を見た瞬間、バサっという音と共に20センチはある巨大なムカデが、天井から朱莉のベッドの上に落ちて這いずりだした。

「ぎゃーっ」と悲鳴をあげて朱莉が邦裕にしがみつく。邦裕は、後ろから歯がいじめにされて動けない。

 床に落ちて走りだしたムカデの頭を狙って、手に持った懐中電灯を力づくで押しつけた。身をくねらせるムカデの腹が、生ゴム色で気味悪い。何度か頭を力一杯で押しつぶして、逃れようとするムカデを弱らせて、抑え続けていると、ようやく動かなくなった。


「新聞紙かなんか、いらない紙くれ」

朱莉に命じると、ベッドの側から雑誌を取り出し、黙って手渡す。

何枚かを破り、重ねてそれでムカデの死骸を包み、台所まで運んだ。ゴミ袋に入れて、袋を固く縛りつけた。朱莉は硬い顔つきで邦裕の所作をじっと見つめている。


「こいつが黒い影の正体かもしれんな」

「朱莉の無意識が、ムカデの出現を感じ取って夢で知らせたんと違うか」

邦裕は、思いつきを述べて朱莉を安心させたかった。

「もう心配ないよ」

朱莉は今にも泣き出しそうな顔で、

「やっぱり無理。一人で寝られへん」

「ねえヒロくん、部屋で寝させて」

朱莉の顔を見ると、真剣である。沸き起こる妄想を悟られないように振り切って、「いいよ、俺がいるから大丈夫」と笑顔で答えた。


 朱莉を連れて部屋に戻る。

「俺はここで寝るから、朱莉はベッドで寝て」そう言って、邦裕は床に毛布とクッションをセットした。男臭い匂いを気にする朱莉のために、ベッドのシーツを洗濯したものと取り替える。


「電気は消さないで」

「ごめんね、わがまま言って」

妙にしおらしい。

「震災の話を聞いて怖くなった?」

「幽霊っているのかな?」

「そんなもの見たことない」

「私ってムカデに取り憑かれてる」

「虫がつくっていうやろ、美人だからや」

「ヒロくんみたいに優しい虫ならいいのに」

「俺、虫か?」

「私に危害加えないでしょ、だからいい虫」

「ちょっと話がおかしくない?」

「突然脱皮して変態するかも」

「変なこと言わんといて。もう寝る」

 ものの五分もしないうちに寝息を立てて寝入ってしまった。意外と神経図太いなと感心しながら、自分は床が固くて寝られそうにない。しばらく、天井を見つめていると、朱莉が寝返りを打って顔をこちらに向けた。寝顔が可愛い。こんなにじっくりと朱莉の顔を見たことがない。

 鼓動が速くなる。閉じた唇が綺麗なピンク色で、見つめていると吸い込まれそうになる。

「あかん、ここでなんかしたら、人生終わりや」

 邦裕はすっかり目が覚めてしまった。甘い匂いが漂ってくる。朱莉の体から発せられたその香りは、邦裕の鼻腔を直撃する。

 安心し切って眠る朱莉の様子を見ると、とても体に触れることなどできない。自分の煩悩の強いことを恨みたくなる。寝返りを打つ朱莉。大丈夫、起きない。

  邦裕は、そっと立ち上がり、部屋を出た。リビングのソファに腰を下ろしてほっと一息つく。朝まで、気づかずに寝ていてくれるだろうか。それにしても、朱莉が見たという黒い影はなんだったのだろうか。震災で亡くなった三宅さんのご両親の霊なのか。でも、それは違うと思う。

 朱莉を脅かす理由がない。むしろ、ムカデの出現を知らせるようなもの、朱莉の予知能力のようなものではないだろうか。風呂場で出現したムカデと今回、朱莉の部屋にでたムカデと、とにかく大きなムカデがよく出る家である。三宅さんにお願いして、防虫対策をしてもらおう、そんなことを考えているうちに邦裕は眠ってしまった。

 明け方、人の気配を感じた。そっと邦裕のほおを柔らかいものが触れる感覚がした。

目が覚めたのは早起きの健人に「風邪ひくぞ」と言って揺すぶられたときだった。




8 後輩の出現


 邦裕は軽音楽部でギターを担当している。中学の時に始めたアコースティックギターを高校からはエレキギターに変えた。ようやく一曲を弾きと押せる程度の腕なので、まだまだ修行中だ。

 軽音楽部で目立つのは、ボーカルとベース、ドラムの順だ。ギターはやる人が多いし、今時の曲はギターソロもないし、目立つ要素に欠けている。でも邦裕は、ギターそのものが好きで気に入っている。自分の感覚にぴったりあっていると思う。

 軽音楽部では、文化祭のライブ演奏の時に、曲を決めてから楽器の担当者を決める。邦裕は六月の文化祭では2曲担当した。 三年の部長がすばらしいボーカルなので、一曲を一緒にやれることが決まった時は嬉しかった。

 部長はルックスよし、性格もよしなので、下級生に人気があり、ファンクラブのようなものができている。文化祭のステージでも、部長が歌う時は女子の声援が飛び交って、最高に盛り上がった。ステージ前に詰めかけた大勢の女子が踊り狂う異常な光景が見られた。

 そのステージで、演奏を終えて袖に引っ込んだ邦裕に、一年生の後輩女子が、「かっこよかったですよ」と声をかけてきた。その時以来、この後輩がよく話しかけてくるようになった。かわいい顔立ちをしているし、歌も歌えるので、相手をしていた。そのうち飽きて離れていくだろうと高を括っていた。

 ところが、一学期の期末考査の終わった日、クラブをサボって帰っていると、家に入る直前に、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、その後輩が笑顔で立っていた。駅で見かけて後を付いてきたと言う。家の前で立ち話するのも具合が悪いので、邦裕は仕方なく後輩を家の中に入れた。


 リビングで話した。物おじしない子で、なぜシェアハウスに住んでいるのかとか、家族はどうしているのかとか、通常は遠慮して聞かないことを聞いてきた。答えられない問いはごまかした。彼女が次々と話題を出して、邦裕が話を合わせる。一時間ほど喋っていると、健人が帰ってきた。

 玄関に見慣れない靴があるのを見て、気づいていたようで、リビングの外から邦裕を呼ぶ声がして、行くと、「誰?」と声を出さずに聞く。

「クラブの後輩、あとをつけられた」と健人の耳にささやいた。

「仕方ないけど、朱莉のこともあるから、来させない方がいい」健人はそう言って、早く帰すように促した。


「そろそろバイトに行く時間だから駅まで送るよ」邦裕は後輩をすぐ帰すことにした。

 家を出たところで、朱莉と出くわした。朱莉は邦裕が女の子を連れて家を出るところから気づいていて、驚いた顔で立ち止まっていた。

「クラブの後輩、駅まで送ってくる」

「お邪魔しました、軽音部の高橋です」

後輩は、朱莉も住んでいることを知って驚いたようだ。駅まで歩く間、いろいろ聞きたそうに話してきたが、邦裕は朱莉のことは答えなかった。彼女は邦裕の口が重いのを察したのか、追求してこなかった。邦裕は、シェアハウスのことを彼女に強く口止めをした。


 帰るとリビングにいた朱莉が、「なんで連れてきたの」と言った。

「後を付けられたんだ」邦裕が弁解がましく言う。

「私のこと誰かに話さない?」

「ここのことは絶対話さないように口止めした」

「そう、それならいいんだけど」

朱莉はそう言うと、邦裕から顔を背けた。









9 健人が発見する


 「ヒロ君、これ見て」

健人がスマホの画像を邦裕に見せた。

朱莉が家の前で立っている写真が、投稿サイトにあげられていた。軽音部の後輩女子の高橋が、うちに来たときに撮ったとしか考えられない。いつ撮ったのか、邦裕は全く気づかなかった。

「やばいぞ、朱莉のことがばれる」健人が言った。

「すぐ削除させる」邦裕はそう言って、軽音部の連絡網で高橋にメールを送った。

「本人の同意なしであげるのは犯罪って言ったら、削除した」健人に報告すると、

「広まってなかったらいいんだがな」と健人は言った。


 朱莉には言わないことにして、何もなく一週間が過ぎた日、邦裕が早く帰宅して一人でいると、中年の男が朱莉を訪ねてやって来た。

 玄関モニターに映ったその男は、こに住んでいる朱莉を尋ねてきたと告げた。邦裕はとっさに知らない、そんな人は住んでいないと答えてすぐにモニターを切った。カーテンに隠れて外を見ると、男はしばらく家を眺めて佇んでいた。やがて駅の方に立ち去った。


 帰宅した朱莉にそのことを告げると、表情が険しくなった。

 詳しく教えてと言うので、男の様子や話した内容を説明した。朱莉はソファで頷きながら聞いた。「きっと父ね」と一言言った。

「お父さん?」

「私、父から逃げてるの」

朱莉はそう言うと、邦裕から目をそらした。


「学校に来るのも時間の問題と思ってたけど、ここを見つけ出したのね」

「あの写真がまずかったのかもしれない」邦裕がそう言うと、朱莉は、頷いた。

「でも、早くなっただけで、どっちにしろ、現れると思ってたから」そう言うと、三宅さんと相談すると言って朱莉は出て行った。


 朱莉は一時間ほどして帰ってきた。邦裕は部屋に行こうとする朱莉を呼び止めて、どうしたらいいのか教えてほしいと言った。朱莉は立ち止まって、振り返って邦裕のそばまで来るとソファに座った。

「三宅さんと相談して、しばらくここを離れることになった」朱莉が言った。

「しばらくは別のところに移った方がいいって」

 三宅さんは朱莉を安全なところに移し、その間に弁護士と相談して問題を解決するそうだ。警察にも相談済みだと言う。


 朱莉がこの家に来た理由は、父親のDVから逃れるためだった。

 朱莉の父は会社を経営し、経済的に何不自由のない生活を送っていた。ところが、この数年、父が家族に暴力を振るうようになり、朱莉の母は、それに耐えきれずに妹を連れて実家に帰った。そして人を頼って三宅さんに朱莉を預けた。

 父はその実家にも押しかけて、朱莉の祖父母にもひどい暴力をした。警察を呼ぶ事態になった。

 

 邦裕は朱莉からこれだけの話を聞いて、なんともいえない嫌な気持ちになった。語る朱莉の口調から、その深刻さが伝わってきた。そんなひどいことをする父親がこの世にいるのかと信じられない気持ちがある一方で、朱莉が耐えてきた実際の苦痛を想像すると、激しい憤りが邦裕の全身を震わせた。

 三宅さんの予想だと、一週間から十日ほどで朱莉の避難生活は終わるだろうとのことだ。その間、朱莉は学校も塾も休むことになる。

 邦裕は心配だと言うのが精一杯だった。朱莉は笑って、心配いらない、わたしがいない方がかえってのんびりできるでしょと言った。


 朱莉がいなくなって初めての週末、健人と昼ご飯を食べていると、インターホンが鳴った。

邦裕はいやな予感がしたので、応答に出ようとする健人に、朱莉の父かもと言った。モニターを見ると、先日やって来た男だった。邦裕がそう言うと、健人は、頷いて、任せとけと言った。


 玄関には健人が出て、男と話し、その間に邦裕はリビングから警察に通報した。DVで相談した人物が来て困っているので、すぐに来てほしいと言った。様子を詳しく伝えるようにいわれたので、大声で恫喝して暴れ出したというと、すぐに向かうと言った。その間、健人は、うまく話を繕って男を引き留めていた。パトカーが来たとき、気づいた男は急いで立ち去ろうとした。健人が男の左腕をつかみ、引き留めた。邦裕は駆けつけて、健人に加勢した。三人がもみ合いになったところに警官が駆けつけて、男を引き離した。男と警官二人は押し問答をしている。「事情は署で聞こう」そう言って、パトカーに乗せて男を連れて行った。

 邦裕は全身の力が抜けて、玄関でへたり込んでしまった。

健人は男ともみ合ったとき、腕に擦り傷ができていた。邦裕が言うと、たいしたことないと言って、気にもとめなかった。


 朱莉は翌週の木曜日に戻ってきた。三宅さんと一緒だ。硬い表情でリビングに入ってきて、健人と邦裕の顔を見た途端、涙ぐんだ。邦裕は動揺してしまい、何も言えなかった。健人が「お帰り、待ってたよ」と言った。

「迷惑かけてごめんね。大変だったんでしょう?」

「ほら、これで拭いて」健人がティッシュ箱を手渡すと、朱莉は目を拭った。

 三宅さんは、朱莉の父は今後、起訴されておそらく有罪になるだろう、朱莉は安心して生活できると言った。

「よかったね、また三人で暮らせる」邦裕が言うと、

「さびしかったでしょ」と朱莉は笑顔で邦裕に言った。

「ああ、ずっと」邦裕は本心からそう言った。

「君ら、本当の恋人同士みたいやな」健人が茶化した。


10 料理


 「今日、晩ご飯作るから食べずに待っててね」

朝、出がけに朱莉が邦裕と健人に告げた。

健人と顔を見合わせて、「ごちそう食える!」

「材料費は後で折半するからレシート置いといて」邦裕が言うと、朱莉は「好き嫌いなしね」と言った。


 帰宅すると、朱莉がキッチンで食材を切っている。

 邦裕がのぞき込み、

「何作るん?」と聞くと、

「後の楽しみ」と言って教えてくれない。

「鍋かな?」

「部屋行っといて」追い立てるように、包丁を向けた。

「おおこわ」邦裕は慌てて部屋に入った。


 しばらくして、邦裕がリビングでくつろいで漫画を読んでいると、朱莉に呼ばれた。

「これ、どうしたらいいかわかる?」

朱莉が言うのでみると、発泡スチロールの箱の中に、伊勢エビが3匹動いていた。

「うわ、でか!これ、買ってきたん?」

「三宅さんが持ってきた。三重の知り合いがたくさん送ってきたから、お裾分けだって」

「これどうする?」

「それがわからんから、呼んだのよ」

「刺身は無理やし、とりあえず茹でようと思う」

「水から入れて茹でんとあかんで」邦裕が言った。

「なんで?」

「おじいちゃんに聞いたけど、沸いてから入れたら、伊勢エビが暴れるらしい」

「ふーん、そうなん。じゃあ水入れるから伊勢エビ入れて」

 邦裕が恐る恐る伊勢エビの胴をつまむと、触角が動き回って手に当たった。

「痛っ」

思わず手を離すと流しに伊勢エビが落ちて、そこで跳ね回った。ステンレスの流し台がキシキシと音を立てる。

「押さえて」朱莉の命令に、恐る恐る手を伸ばす。

「えいっ」と声を出して、伊勢エビを再びつかむと、水がいっぱい入った鍋の中に投げ込んだ。

「一丁上がり」得意げに言うと、朱莉は、

「後二匹やって」と、また命令口調で言う。


「なんかグロいねん」

「さっさとして」

「はい」邦裕はそう答えて、二匹目をつかみ、無事に鍋に投げ込む。三匹目は触角で手をつかれて難儀した。

「こいつー」やっと鍋に入れた。

朱莉が火を点けた。

「こいつら、茹でられるのに気づかずにじっとしてるな」と邦裕が言うと、朱莉は、

「ちょっとかわいそう」と言った。

「何か手伝うことある?」

「邪魔やから部屋にいていいよ」

「邪魔なんかい」邦裕はむっとして部屋に戻った。


 「できたよー」という大声で部屋から出ると、食卓には伊勢エビの料理が並んでいた。

伊勢エビのチリソース、茹でたむき身の盛り付け、半身の焼き物、伊勢エビの味噌汁。

「すごくない?」邦裕が感心して言うと、健人は「俺、代金払うわ」と言って財布を取り出す。

「勉強だけじゃない、料理もできるってことがわかった」邦裕が褒めると、朱莉は、

「時間があればいつでも作るんだけど」と言って、ご飯をよそおう。

「天才!」チリソースを食べながら健人が叫ぶ。

「まさにお袋の味!」

「私、あんたのお母さんと違う」

すべての料理を食べきって、後片付けを健人と邦裕でやった。

「家族の味を思い出すよ」しんみりと健人が言う。

「俺たち、なんか家族みたいだね」

「うーん、見ようによれば、だね」



11 進路でもめる二人


 健人はモデルの仕事をしているが、俳優になることが目標だ。東京で仕事があるときに、オーディションを受けている。

 演技や歌、ダンスのレッスンはもとより、日本舞踊やスタントマンのようなアクション、絵や、ピアノ、英会話、中国語の勉強。将来、演劇の仕事に関わることは何でもやっておきたいと、挑戦している。毎日忙しくしているのだが、一度も健人の口から愚痴を聞いたことがない。好きでやっているということもあるだろうが、普通の人の何倍も多忙なはずだ。

 何も目標がない邦裕からすれば、健人のことがうらやましい。


 邦裕の学校で、進路学習があり、自分のやりたい仕事や学びたい分野を調べるという課題がある。邦裕は、そのたびに困ってしまう。自分が何をやりたいのか、わからない。どうやってそれを見つけるのかもわからないのだ。クラスのほかの人たちは、適当でいいと気にもしていない。邦裕は自分の才能とか適性とか、そんなものはすぐに見極められるとは思えない。毎回、進路学習の時間が憂鬱だ。

 帰宅してそんな話を朱莉にすると朱莉は、

「ヒロ君は何か探してる?探す努力してる?」と言った。

「担任か!」邦裕が言うと、

「心配して言ってるんでしょ、そんなこと言うなら、知らん」顔を背けてしまった。

「ごめん、悪かったです」

朱莉は顔を邦裕に向けた。

「朱莉はどうする?」

「私は東京の大学に行く。いろいろクリアしないといけないけど」

「強いよねえ」

邦裕が感心して言うと、

「一度きりの人生でしょ、やりたいことに挑戦しないと」

邦裕の目を見て、

「ヒロ君は音楽じゃないの?」

「音楽で食っていく自信ないし」

「やる前から言ってたらダメでしょ。挑戦してみないと」

「音楽で食っていける人なんて、何万人に一人だろう」

「失敗を恐れてやらないなんて、どんだけ守りの人生?」

「言っちゃ悪いけど、あなた、守らなければならないものなんてあるの?」

邦裕は何も言えなかった。その通りだからだ。しかし、図星を指されると、反発心が湧き上がってきた。

「親はない、金もない、特別な才能やルックスも持ち合わせてない、俺は何を支えに生きていけばいいのだろう」

つい、言わないと決めていた愚痴を口走ってしまった。

「何もこだわらなくていいんだから、むしろ最高の条件じゃない?」

朱莉は同情すら見せずに、弱気な邦裕をたたっ切る言葉を返した。

「あなたの年で、何にも縛られず、自分一人の考えで生き方を決められるなんて、そんな人、いないわよ」

「分かった、考えるから、それ以上言わないでくれ」

「何よ、あなたが言い出したんでしょ」

邦裕は、それには返事せずに自分の部屋に入ってしまった。









12 不思議な能力


 「すごいぜ、ヒロ君」帰宅した健人が、邦裕の部屋のドアを急に開けた。

 「三十分で、三万円とこれ」そう言って、大きな袋を差し出した。お菓子やインスタント、食料品がいっぱい入っていた。

 「朱莉の言うとおりしたら、この戦果や」

 「あの子は何か持ってると思ってた。ミラクル朱莉と呼ぼうか」

 健人は興奮した口調で言った。

 邦裕は訳がわからず、どういうことかたずねた。

 健人が言うには、帰りに駅で朱莉とばったり会って、明日から二泊で東京に事務所のオーディションを受けに行くことになったと言うと、東京に行くことを迷ってるでしょ、でも行った方がいい、将来がうまく開けていくからと言われた。東京に行くのを迷ってることは話したことないし、不思議なことを言うと思ってると、朱莉は、わたしには未来が見えるって言う。そして駅前のパチンコ屋の台の位置を示して、嘘か本当か、試してみてって言うからあとでパチンコをしてみたら、出るわ出るわで、この収穫になった。

「朱莉の予知能力はこれで証明やからな。占い師よりも不思議なパワーがある」と

健人が言った。

 「朱莉はいつからそんな力を持ってたんやろうか」

 「ここに来てかららしい」

 「じゃあこの家か、俺らが関係してる訳か」

 「本人もわからんことかもな」

 「そうやな」

 邦裕と健人はこれ以上、追究するのをやめてしまった。


 健人は部屋にこもり、邦裕がリビングでいると、朱莉が降りてきた。

 「健人の収穫。あと現金三万」

 「お菓子がいっぱい。すごいわね」

 「予測したそうやね。どうやったらわかる?」

 「なんか、胸騒ぎみたいにひっかるのよ。最初は。だんだんそれがはっきりとわかってくるって感じ」

 「いつからその能力に気づいた?」

 「そうね」と言って、朱莉は考え込んだ。

 「塾帰りにつけられたでしょ、男に?あの時にいやな気分がして、そしたら男につけられてた」

 「その頃からなんか不思議なことが続いて、おかしいなと思いながら、はっきりわかったのは、部屋にムカデが出たときから」

 「朱莉に危害が加わることを予知する能力って言うことかな」

 「どうかわからんけど、使えるようになってきたのは最近」

朱莉の言葉に邦裕は飛びついた。

 「じゃあ、俺の将来は見える?」

 「それがヒロくんは何も見えないのよ、健人くんははっきり見えたのに」

 「ええ、何で俺はだめなん?」

 「わからない」朱莉は首を振った。

 「そうか…」

 自分の将来を見通してほしかった邦裕は、心底がっかりした。

 健人の東京行きを予言して以来、朱莉と健人が話し込む姿を見かけるようになった。

 邦裕は、何を話し込んでいるのだろうかと気になってしまい、それを口にできない自分にイライラした。

 ある日、帰宅した邦裕は、リビングに入ると、朱莉と健人がソファに並んで座っている姿を見た。何か楽しそうに話していたようで、朱莉が健人の肩を軽くぶつフリをして笑い合っている。

 「おう、帰ったのか」邦裕に気づいた健人が声をかけ、そのまま二人でおしゃべりを続ける。

 邦裕は二人の親密な距離を苦しく感じて、黙って部屋に入った。



13 嫉妬


 朱莉と健人が、キッチンで食器を洗っている。その声がリビングにいる邦裕に届く。楽しそうにしゃべり、体をぶつけ合うような気配もする。


 邦裕はいたたまれなくなって、自分の部屋に入る。イヤホンをして推しのアルバムを聴く。

 耳に入ってこない。頭に血が上った思いが続いている。

 健人には優菜という彼女がいるじゃないか。朱莉はそれを承知の上で、あんなに楽しそうに健人と話をしている。健人も邦裕が朱莉のことを好きなのを知っていて、遠慮もなく朱莉と楽しく話をしている。


 そりゃ、自分は朱莉の恋人ではないし、朱莉からも、あなたとはない、と告げられていることは、十分自覚している。しかし、自分にはあんなに楽しそうに接してくれたことのない朱莉に対し、いやな気持ちを持つなという方が無理だ。かわいさ余って憎さ百倍というか、今はそんな気持ちなのかしらん。とにかくいやだ。朱莉も健人もそうだし、嫉妬に駆られている自分自身もいやだ。


 こう考えてみるのはどうだろう、自分は朱莉と健人に依存しすぎていないか。二人が家族のように大切な存在だと思うから、かえってこんなに嫉妬してしまうのではないか。どうでもよい存在、その他の人と同じように二人のことを見なせたら、いやな感情も起こらないのではないか。

 また、自分がもっと強い人間になれたら、こんな思いをしなくなるのではないか。父も母も存在しなくなって、三宅さんに世話になって、健人と知り合い、仲良く過ごしてきた。そこに朱莉が加わった。そういう関係性の中で、自分は生きているのはわかっているのだが、それらを取っ払って、一個の生物として俺は生き続けていく、そう思えたなら、こんな思いは消え去ってしまわないか。

 そんなことを考えると少しだけ勇気のようなものが湧いてきた。自分一人で強く生きていく、言葉にすればこんな単純なことだ。

 推しのアルバムが終わり、また先頭の曲になったところで再生を止めた。

健人や朱莉を失うことを恐れるあまり、自分の立ち位置を人に委ねてしまっていると思う。しっかり自分の頭と足でこの地上に立たないと。


 授業で習ったのだったか、お釈迦さんが妻や子供、親も王子の身分もすべて捨てて出家したのは、生老病死という悩みを解決する、つまり悟るためだと言うこと。愛別離苦、四苦八苦といった言葉が頭に浮かぶ。自分とお釈迦さんには何の共通点もないが、同じように悩みの多い人間であると言うだけで、親近感を感じたことを思い出した。お釈迦さんに今の俺の気持ちを聞いてもらい、進むべき道や修行方法を教えていただきたいものだ。マジで。

 邦裕は、半ばやけになった頭で支離滅裂な考えをひねり出してみたが、それで自分が救われるとは思えなかった。





























14 ボランティア


 三宅さんから、関係する団体のイベントを手伝ってほしいと頼まれた。邦裕と朱莉が手伝うことになった。あるNPO法人が行う自然観察行事にスタッフとして参加し、小学生中心の参加者のお世話をするというものだ。場所は和歌山県の化石産地で、みかん山の造成地跡で化石の採集を行う。参加者が化石を探すのを手伝ったり、ケガをしないように見守ったりするのが仕事内容だ。スタッフに若い人が少ないと言うことで、三宅さんを通じて邦裕らがお手伝いをすることになった。参加者は現地集合で、邦裕らは三宅さんの車に同乗していく。朱莉は子供が好きで扱いには慣れていると言うし、邦裕は子供にもなめられるぐらいの、見た目は優しいお兄さんなので、ちょうどいい。邦裕は、朱莉と一緒に外出できるので、楽しみにしていた。

 当日は三宅さんの車に同乗して和歌山に向かった。湾岸線から阪和道を通り、有田で降りて海に近い目的地に着いた。指示された駐車場に車を止めて、三宅さんを先頭に山道を登る。三十人くらいが集まっている広場があり、そこで主催者の人らに三宅さんから紹介されて、仕事内容の説明を受けた。

責任者の人は中年の男性で、気さくに話しかけてきて、若い人の力で頼むよと言われた。邦裕らでもできそうなことだったので、安心した。

 はじめに化石の探し方の説明を参加者全員と一緒に聞いた。その後各自が散らばって思い思いの場所で、化石を探す。

 「お姉さん、これ見て」

朱莉に石の破片を見せる女の子。一年生くらいで、あどけない顔立ちがかわいい。

手に取り、小さな石を真剣に見つめる朱莉の顔を見ると、目が寄っていて思わず、「かわいい」と心の中で叫んでしまった。

 「にいちゃん、この石割って」

 やんちゃそうな男の子が二人、拳より大きな黒石を三個、邦裕の前に突き出した。

「堅くて割れん」小さなハンマーを持った男子が言った。

 「兄ちゃんの力で割ってや」

なんか馴れ馴れしいぞと思いながら、受け取った岩石を地面に置いて、スタッフから借りているハンマーで思いきり叩く。石はかすかなへこみができただけで、割れない。ハンマーの柄が振動して手のひらがしびれるように痛くなる。二回、三回とハンマーを振り下ろす。これでもか、と力を込めて振り下ろすと、石は真っ二つに割れた。

「あっ、なんかある」

男の子は、割れた石をさっと拾い上げ、顔の前に持って行く。

「兄ちゃん、これ、化石か?」

差し出す石の面を見ると、二枚貝の破片のように見えた。

「すごい、これ貝の化石やわ、あのおじさんに見てもらい」

指さしたスタッフの方に少年は走っていった。

「お兄さん、これも割って」

やりとりを見ていた他の子が石を持ってきて渡す。二三人同じように集まってきた。

「これはなかなか忙しいぞ」

右腕がしびれるほどハンマーを振り下ろす。

次々と化石が見つかった。どれも貝などの破片だが、子供たちはそれが本物の化石であることがうれしいようだ。

「一億年前の生き物やぞ」

「これ、絶対大発見や」

「ええい、こうなったら、割れん石全部もってこい」

やけくそになってそう叫ぶ。朱莉が横で笑っている。

「筋肉痛になるわよ」

「腕が上がらなくなりそう」

「調子に乗るから、ほら、あの子らいっぱい抱えてきたわ」

この後の労力を思うと、ため息が出た。

昼食は、コンビニで買ってきたもので簡単に済ませて、午後からも化石探しに没頭する。


 「お兄ちゃん、お姉さんのこと好き?」

小学低学年の男の子が、朱莉のことを指さして、邦裕に尋ねる。

「お姉さんとは友達。仲良しだよ」

「ふーん、好きじゃないのか」

「いや、好きなのは好きだよ」

朱莉の顔色を見ながら答える。

「好きなら、お兄ちゃんの彼女?」

「好きと彼女は別なの。もう少し大きくなったら教えてあげるわね」

「ぼくはあやちゃんが好きだから、あやちゃんが彼女だよ」

「そうか…、うらやましい、いや、なんでもない」

「あなた、変なこと言わないでよ」

朱莉が右肘で邦裕をつつく。

「お姉さんは彼氏いるの?」

今度は別の少年が尋ねる。

「あは、飛び火したじゃない。そうね、今はいないのよ」

「このお兄さんじゃどう?」

邦裕は思わずコーヒーを吹き出した。

「この人はねえ、スケベだからだめなの」

「へえーお兄ちゃん、スケベって言われてる、変態なんか?」

「ちょっと、君たち、どこでそんな言葉覚えた?間違ってるでしょ、人に言っちゃだめでしょ」

「うわー、変態が怒った、逃げよう』

そう言うと、その場にいた四五人の子供たちは走って離れていった。

「変なこと言うなよ」

朱莉に腹を立てて言うと、

「本当のことでしょ、人の裸見たくせに」

「一生覚えていそうやな」

「絶対忘れないわ」

「おおこわっ」


 邦裕は、母と男の子の二人組が気になっていた。

ほかの連れがいる風でもなく、離れたところでずっと二人で探している。

「何か見つかったかな?」邦裕が声をかけると、男の子は首を振った。

「全然見つけられないんです」若い母親は答えた。

邦裕は、手当たり次第に手頃な大きさの泥岩を割ってみた。

何も出てこない。男の子は邦裕が割った石のかけらを小さなハンマーでさらに割っていく。

その真剣なまなざしがかわいくて、絶対、見つけてあげようと思う。

「ぼく、ちょっとこれ見て」邦裕が差し出した破片には、2、3センチの大きさのネジのようなギザギザ模様がついていた。

スタッフに見てもらうと、小さな異常巻アンモナイトの一部という。

「やったー、やっとみつけた」邦裕が大きな声を出すと、男の子は走り寄ってきて、のぞき込む。

「ぼく、アンモナイトの化石や。あげる」

そう言って邦裕が差し出すと、男の子は「ありがとう」と言って母親に見せるために走って行った。

二人で石をのぞき込んでいる。

邦裕が近寄ると、母親は、「こんな貴重なものをいただいていいんですか?ありがとうございます」

と丁寧に礼を言った。

男の子は邦裕に、もっと探そうと言って邦裕の手を引いて石探しに連れて行く。

真っ黒になった植物片の化石も見つかった。男の子は大喜びで、恐竜も探すと言って、夢中で石を割る。石を割る邦裕の背中に乗ってくる。そのまま立ち上がって、しっかり首を持っとけよと言って身体を回すと、叫び声を上げて喜ぶ。何度もせがまれ、石割そっちのけで男の子と遊ぶ。

くたびれて邦裕が座り込むと、男の子は邦裕の膝の上に乗ってくる。

「すみません、疲れているでしょうに」母親が申し訳なさそうに言う。

「一人っ子なんで、お兄さんに甘えてしまって」

「いいんですよ」邦裕が言うと、

「ママ、トイレ」という男の子に母親が、指さして、「あそこの建物まで降りないと」と言う。

「後から来てね」と言って駆け出す男の子。

母親は、「パパがいないので、お兄さんが遊んでくれてうれしいんでしょう」と言った。

「今日は連れてきて、本当によかった」そう言って、男の子の後を追った。

邦裕は、なぜか涙があふれてきた。鼻水も出てきた。


「あれ、ヒロ君、泣いてるの?」いつの間にか朱莉がそばに来ていた。

「土ぼこりが目に入った」そう言って、タオルで目を拭う。

「鼻まで赤い、なんで泣いてるの」邦裕の顔をのぞき込む。

「うるさいんじゃ、ボケ、あっち行け」

 そう言うと、邦裕は男の子の行った建物の方へ下っていった。

遠くからスタッフが集合と叫ぶ声が聞こえてきた。





15 三宅さんと面談


 今日は邦裕が三宅さんと面談する日だ。面談と言っても堅苦しいものではなく、三宅さんの家でお茶をしながら、雑談する程度のものだ。

夕食を終えて片付けを済ませてから、指定の時間に三宅邸に伺った。

いつもの応接室に通されて出された紅茶とケーキを食べる。

三宅さんは雑談をしながら、時折、生活で困ったことはないか、健康上の不安はないかとたずねた。

 「進路の目標が見つからなくて、将来、どうしようかと思っています」

 「勉強したいことがまだ見つからないのかな?」

 「はい、それもありますが、進学するお金もないので、かといって就職して働きたい仕事もまだわからない」

 「担任は目標が見つからなくても大学へ行って探せと言います」

 「それもひとつの考えだが、行ってみて合いませんでしたでは、時間とお金がもったいないな」

 三宅さんはちょっと考え込む。

 「健人はお芝居、朱莉は東京の大学と、それぞれ目標があるけど、自分にはないので」

邦裕が愚痴をこぼすと、三宅さんは、

 「邦裕君、人と比べなくていいんだよ。他人は他人、自分は自分。自分が満足できることであればいいじゃないか」

 「今すぐに見つからなくてもいい。高校出た後、進路が決まってなかったら、うちで働かないか?嫌じゃなければ。一人が食っていけるくらいの給料は出せるから」

「それでやりたいことが見つかれば、その道に進んだらいい」

「焦らなくていいんだよ」

三宅さんは優しく、諭すように話した。邦裕は思わず目頭が熱くなった。

「健人も朱莉も、問題はあっても親がいる。俺には両親ともいない、何でこんな風に生まれてきたのか、理由が知りたくなることがあるんです」

「そうか、苦しいんだな。でも、運命がそうなる理由は誰にもわからない。わたしも両親の元に生まれ、両親を震災で亡くした、その理由が全くわからない。でも、生きていかなければ、乗り越えなければならない」

三宅さんは少し顔をゆがめて話した。

「君は子どもが好きで、しっかり世話をしていただろう?化石のボランティアの時に見ていたよ。あのときの参加者のかたから、お手紙をいただいた。それには君への感謝の言葉が書かれていたんだよ。君には、君にしかできないことが必ずある。感傷に流されずに、生きていけば、誰かの役に立っているし、救うこともある、大切な人生だから、焦らず、前へ前へ進んで行きなさい」

三宅さんはそう言って、紅茶を飲み干した。

「ありがとうございました」

邦裕は深々と頭を下げた。



16 エクロジャイト


 先日の化石採集での朱莉とのやりとり以来、邦裕は朱莉と口をきいていない。邦裕が泣いているのをわかっていて、からかうように声をかけてきたと邦裕は思っている。朱莉が謝らないかぎり、自分から朱莉に媚びていくことはしたくない。家の中でも目を合わせないし、話もしない。健人にはどうしたのかと聞かれたとき、話した。すると健人は、些細なことで意地を張るなと言って笑った。

 そんな状態が一週間も続いたころ、部屋で本を読んでいると、朱莉がちょっといいかと言って入ってきた。邦裕は身構えている。

「ずっと気になってたんだけど、机においてある緑の石、それ何?」

邦裕の机の端に、長さ4cmくらいで厚みが2cmほどの緑色をした石が置いてある。エクロジャイト、または榴輝岩と呼ばれる岩石の破片で、大変珍しいものだ。

「きれいな色だから」

邦裕は、口も効きたくないと思い続けるのも馬鹿らしくなっていたので、平静を装って、

「エクロジャイト」と感情を出さずに言った。

「エクロジャイト?宝石なの?」

「いや、ただの岩石。でも地底の一番深いところでつくられる特別なやつ」

「触っていい?」

「ああ」

朱莉の手に石をのせると朱莉は、顔を近づけて、

「赤い小さなつぶつぶがいっぱい」と言った。

「赤いのがザクロ石で、緑が輝石」

不思議そうに眺めている。

このエクロジャイトは、父が若いころ愛媛県の川原で拾ってきたもので、邦裕が保育所のころに、父がいくつかの小片に割って、くれたものだった。

「そんなに気になるならあげるよ」

「貴重なものなんでしょう、悪いわ」

「ほかにも何個か持ってるから、いいよあげる」

「そう、じゃあもらっとく。ありがとう」

朱莉はうれしそうに笑って、部屋を出て行った。

邦裕は変な気持ちになった。


 



17 朱莉の失踪


 邦裕は夜中に目が覚めた。ぼんやりした意識の中で、隣の部屋から女のうめき声が聞こえてきた。

また、健人が優菜と始めたのかと思い、しばらくの間、目を閉じて洩れ来る声を聞いていたが、いつの間にか眠ってしまい、目覚ましの音で目を覚ましたときにはすっかり忘れていた。

 健人は朝早くから仕事に出かけていた。朱莉は支度が遅い邦裕に、先に行くと言って家を出た。

 静まりかえった家の中で、ドアを開けっぱなしの健人の部屋の前を通ったとき、ガサガサという音が聞こえてきた。気になって健人の部屋の中に足を踏み入れると、音は一段とよく聞こえた。バリバリという音に変わった。緊張しながら音のする方を確かめると、ベッドの横のゴミ箱から聞こえてくるようだ。忍び足でゴミ箱に近づき、中をのぞき込むと、音はゴミ箱の底の方から出ているようだった。見ると、丸められたティッシュの屑の間に、SKYNと書いた黒い正方形の袋が二枚、見えた。

やはり昨夜の女の声はこれだったのかと思うのと同時に、真っ黒な、二〇cmは優に超えるムカデがゴミ箱の底から這い出してきた。

 邦裕はあっと短い叫び声を上げて後ろに飛び退いた。ムカデは素早く部屋を横切って廊下に出て行った。あっけにとられて見送るしかなかった邦裕は、恐る恐るゴミ箱の中を探ってみた。まだムカデが潜んでいるように思えたからである。しかし、たくさんの丸められたティッシュとスキンの袋しか出てこなかった。


その翌日、邦裕が学校から戻ると、家の中の様子が何か変だと気づいた。

 リビングに入り、ソファに腰を折りしてみても、何か違和感がある。なんとなく息をするのが苦しい。

 自分の部屋に入り、カバンを置いて、制服を着替えて洗濯物をまとめて風呂場に行くと、

様子が今までと違う。

 バスタオルの棚を何気なく見てみると、はっとした。朱莉のタオルがない。あたりを見渡すと、朱莉が置いていた小物類もなくなっていることに気づいた。

 キッチンに行くと、見慣れた朱莉の食器類がひとつもなくなっている。

二階に走り上がり、朱莉の部屋のドアの前に立って、一度大きく深呼吸をした。ノックをしても返事がない。何度も強く叩く。鍵がかかったままで、反応がない。

 一回に走り降りて玄関の靴箱を開ける。何足か並んでいた朱莉の靴が一足もない。

 慌てて朱莉に電話をするが、つながらない。

 これはどういうことか。落ち着け、落ち着けと自分に何度も言い聞かせる。考えよ、どうすればいいのか。そう、まず、健人に連絡しよう。


 何度かの呼び出し音のあと、健人の声が聞こえた。少し安心した。

「朱莉がいなくなってる、健人、何か聞いてる?」

「いや、いなくなってるってどういうこと?何かあったのか?」

邦裕が家の様子を説明すると、健人はすぐに帰ると言って、電話を切った。

邦裕は、しばらく呆然として立ちすくんだ。

 三宅さんはまだ帰っていないだろうが、三宅さんに聞くしかない。夜まで待とう。

 邦裕は朱莉がいなくなるなんて想像すらできなかった。

朱莉の周辺で何が進行していたのか。

 六時過ぎに健人が帰ってきた。

邦裕の部屋に入ってくると、「居場所はわかったか?」といきなり言った。

「居場所も何もわからない。家中の朱莉のものが全部消えてる」

「何でや」

「三宅さんに聞くのが一番早いと思う」

そう言うと、健人も少し落ち着いて、そうするかと言った。


 夜、三宅さんは邦裕がたずねていく前に、家にやって来た。

いつものように差し入れのおかずを差し出し、いつものように、リビングのソファに座った。

いつもと違って黙り込む邦裕と健人を前にして、三宅さんは、

「朱莉さんは四月から、東京の親類で暮らすことになった」と話し出した。邦裕と健人は身を乗り出した。

「父親のこともあってここに緊急に避難していたが、ようやくいろいろと解決してきて、母方の親類のところに暮らせるようになった」

「君たちには突然で驚いただろうが、まだ慎重に事を運ばないといけないことがあって、黙っていた。今朝の新幹線で東京に行った」

「荷物は午前中に業者が運んでいった」

「君たちにきちんとお別れをしたかったと言っていたが、近いうちにその機会をつくろうと思う」

「朱莉さんの幸せを考えると、こうすることがベストだと思う」


 そこまで三宅さんが語る間、邦裕は言葉を挟むこともなく、じっと床を見つめて聞いていた。

健人はまっすぐ三宅さんの顔を見据えたまま聞いている。

「三宅さん、朱莉の連絡先は?」

「それは彼女から連絡があるだろうから、それまで待ってくれ」

「必ず、連絡はありますか?」邦裕が聞くと三宅さんは、

「きっと連絡はある」

「悲しいだろうが、そっとしておいてやってほしい」

「わかりました」邦裕らがそう言うと、三宅さんはやっと安心したのか、帰って行った。


18 孤愁

 

 邦裕は黙ったままソファに沈み込んでいた。健人も黙って一緒にいたが、電話がかかってきて自分の部屋に引き上げた。

 邦裕は、部屋に戻ると、涙がひとりでに湧いてきて、何筋も頬に流れた。終いにはううっと声が漏れた。肩が震える。しばらく泣いたまま立ちすくんでいた。

 なぜ、朱莉に起こっている変化に気づかなかったのだろう。また、朱莉はそのことを話してくれなかったのだろう。

 思っても仕方のない考えがぐるぐると邦裕の頭の中で巡っている。自分でも想定していなかったことが起こってしまい、その悲しみに心が耐えられない。胸が本当に苦しい。息ができないくらい。

 

 健人が来て、飯にしようぜと言った。

一緒に三宅さんの差し入れを食べた。食べ終わると、自然と言葉が口から出た。

「東京は遠いなあ」

「ああ」と健人。


 寝る前に、邦裕は健人の部屋をノックした。

ずっと気にかかっていたことを、迷った挙げ句、健人にたずねた。

「おとついの夜、優菜来てた?」

「いや、でも、何で?」

「声がしたような気がしたんや、俺が寝ぼけてたんか」

「そうか」

健人は全く表情を変えなかった。


 邦裕がふと目を上げると、健人の机の上に緑色の物体があるのが目に入ってきた。

「その石、誰かのプレゼント?」

「これか?これは優菜が前にくれたやつ」

邦裕はおかしなことを言うと思って、

「そのエクロジャイトはおとついの夜、俺が朱莉にあげたものや。俺の親父の唯一の形見だから間違いない」

邦裕がそう言うと、健人の姿は消えてしまい、ゴミ箱の底から相変わらずガサガサ、バリバリと何かがうごめく音がして、邦裕はそそくさと部屋を出てしまった。

























































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邦裕の孤愁 くにひろのこしゅう ネツ三 @bluesboy

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