第4話

「ただいま」


と言いつつ俺は自室に引き込む。

最近は『ぐげ』のことに熱中しすぎてあまり妻や娘とコミュニケーションがとれていない。

『ぐげ』が日の目を見ることができて良かった、と高橋は言っていた。

本当にそうだろうか?

俺は近親相姦が産み出した哀しい存在に過ぎないと思っている。

しかし、別れ際に高橋はこう言った。


「『九尾の狐』は子孫繁栄を願ったありがたい獣として扱われています。もしかしたら『ぐげ』にも似たような御利益があるかもしれませんよ」


彼は『ぐげ』を単なる妖怪の一種だとしか認識していない。

俺は高橋に自分の家系のことは教えなかった。

もしかしたら同僚の口から清水の一族にたどり着くことがあるかもわからないが、その時はその時だ。

俺は奥付に刻まれた『清水春美』の四文字をぼーっと眺めながら考える。

彼女の行いは、清水の一族にとってどういう印象を与えたのだろう。

今の俺にはなんとなくわかる。

一族の「恥」をどんな形であれ世間に公表した清水春美はカビ臭く陰気な地下牢に閉じ込められたのだ。

『ぐげ』の伴侶として、彼の子供を産むために。

子孫繁栄という言葉が一気にキナ臭くなってくる。

もちろん、あなたの想像に過ぎないと笑われるかもしれない。

考えすぎだ、と。

あなたの脳みそが作り出した幻想だ、と。

だが、人間は望むと望まざるとに関わらず物語を紡いでしまう存在だ。

俺を含め、多くの人間が全身バーバリーに身をつつんだ家族を見たら金持ちだと思ってしまう。

彼らの内情が本当は厳しいものかもしれないとか、借金だらけで首が回らないのかもしれない、とは一切考えない。

服から得た情報で金持ちである、というストーリーを構築してしまうのだ。

例えば、俺の手元にある図鑑は何十年も前のものであるにも関わらずページの破損は見当たらない。

同僚は大切に保管されていたのだ、もしかしたら高価な品物かもしれない、というストーリーを構築した。

俺には別の見方ができる。

なぜ綺麗な状態を保つことができたのか、というとそれはとても単純な話で誰も読んでいないからだ。

村には子供たちだってそれなりの数はいただろうに、清水の一族は『ぐげ』の露見を恐れてこの図鑑を家の奥深くに眠らせたのだ。

焚き火やゴミを燃やすのが田舎の風景の一幕となってしまった昨今だが、モノを燃やすというのは案外目立つ行為だ。

燃やすとなると、煙が立ち上って人々の注意をひいてしまう。

だから隠したのだ。

図鑑の存在を無くしてしまえば『ぐげ』の秘密が明らかになることはない、と考えた者がいたのだろう。

俺の爺さんもそのうちの一人だ。

だから倉庫の奥深くに『山下書房 動物大図鑑』は眠っていた。

確かに高橋の仮説は面白かったし、少ない情報から『ぐげ』の正体へとたどり着いた力は本物だ。

単純に知的好奇心を充たすためならば、なかなかの娯楽となるだろう。


だが、俺はすでに気がついてしまった。

彼が思いもよらなかった『ぐげ』の由来に。

「卵が先か、鶏が先か」という有名なフレーズがあるが、笑ってしまうくらい今の我が家にぴったりの言葉だ。

今日も、賃貸の薄い壁の向こうから妻の罵声と食器が床に落ちる音が聞こえてくる。

俺が家庭をかえりみず、コミュニケーションも取らず『ぐげ』に夢中になったから妻のノイローゼが再発したのか?

妻のヒステリックな叫びに嫌気がさし、涙を流す娘から逃げるように『ぐげ』の探求にのめり込んでいったのか?

今となってはわからない。

わかったところでもはやどうやり直せばよいのか……

食器のぶつかる音。

娘の鳴き声。

無理矢理食べ物を口に詰め込まれ……


ぐううう……げええええ……


薄い壁の向こうで娘の嗚咽が響く。

ここ最近は毎日のように聞こえてくる。

この地獄は本当に俺の頭の中の想像に過ぎないのだろうか?

単なるノイローゼか?

いきすぎたしつけか?

あるいは虐待?

娘の嗚咽が聞こえるたび、俺はどうしても自分の身体の中に流れる清水の血、つまりは『ぐげ』の遺伝子を意識してしまう……




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『ぐげ』 コクイさん @kokuisan

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