第8話ぼくと価値観

僕は小学生より西成に親しんだ。暴言を吐く人達は殆ど居なかった。寧ろ自分達の事を世に伝えたいという人が多かった。僕は大阪人だけど決して裕福な環境で育った訳では無い。寧ろ就職氷河期の只中に放り込まれた人間だと言うのが正しい。ありとあらゆる労働を労働体系に変化させながら生き延びてきた。昨今はむしろ労働者に不利な労働環境に置かれると言った事が多い。僕は労働者の炊き出しのボランティア活動をしている。感じるのはやはり労働者の高齢化である。以前は若い人も見かけたが最近はすっかり見なくなった。釜ヶ崎が日雇い労働者の陰の部分とするならば、派遣企業は陽の働き方だろうか。そんな時、あるオッチャンとの会話が思い出せる。


「釜ヶ崎でも月30万稼げた時があるんや」


それは真実だろう。バブル真只中まっただなかではそれでも雇用は有った。労働者は自由に労働を選択する事が出来、自由に選択する事が出来た。しかし現在はどうだろうか。


「若ければ若いほど良い」


その選択が先行している気がしないでもない。中年のオッチャンよりも若くて弱音を吐かない労働者を社会は求めている。そんな時、ホルモン屋でのやり取りを思い出すのだ。中学生になって初めての頃、相変わらずホルモン屋巡りを止めない僕達に必ずおごってくれるオッチャンが居た。その人は必ずその店に居て、僕達が行くと必ず一品奢ってもらえた。僕達はそのオッチャンに頭が上がらなかった。


「俺みたいになるなよ。勉強して偉くなるんや」


僕たちは多くを聞かない。それは不文律というか、決して触れてはいけないと言うのを本能的に察したのかもしれない。モリモリとホルモンを食べる僕達はそのオッチャンにどう見えただろうか。きっと若々しく見えたのかもしれない。それはとても残酷な行為かもしれない。自分があの頃ならばもっと勉強しておけば(それは僕自身強く思うが)良かったなと思ってオッチャンは奢ってくれていたのかもしれない。或る日、同じ店に悪友たちと行ったがそのオッチャンは居なかった。どうしたのかとお店の人に聞くと仕事で怪我をしたと言う。お見舞いに行きたいと思ったが店の人も見当がつかない。僕達はそもそもそう言った人達で出来ているこの西成を知った風でいた。しかしそれは大きな間違いだった。


「刹那に生きる人々」


だったのだ。何も求めない、その場限りの交流、連帯。自己責任で自由であった。僕達はその場に居てはならないであった。


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