ハンドル

ウツユリン

ハンドル

「旭さん、そろそろ」

 時間が近づいてきたので、僕はもう一度、旭さんに言った。

「ズズー……」

 僕の見上げる位置に、焼き物独特の模様をまとった、胴短の湯呑みが傾いている。その底を、骨張った指が支える。旭さんは、小指一本で、土の高台を持ち上げていた。

「……」

 すぐに返事はない。いつものことだ。お茶を飲むあいだ、旭さんの正面でじっと、待つ。

 襟が水色の紺のセーターを、縒れ一つなく着こなし、グレーのスラックスは、アイロン線がまっすぐ、入っていなければ着ない。ドカッと、畳にあぐらをかくときも、背中をピンと伸ばして、片方の拳は膝の上。

 それが旭さんだった。

「……」

 上塗りの濃淡が美しい湯呑みを下ろし、腹の高さにとどめる。立ちのぼる湯気の先に、旭さんの顔がある。

 「きょうのリハビリは、担当の先生が不在だそうで、臨時の先生がなさるようです」

 取り留めのない話題で、旭さんをせっつく。急かしすぎると、怒られるので、なかなか加減は難しい。けれど、ちょうどいい具合が近ごろはだんだん、わかってきた。

「……ん」

 閉じっぱなしの目で、旭さんが僕を見る。分厚いまぶたの裏で、旭さんの目が僕に向いたのがわかった。茶をすする音に混じったうなり声も、あれで、「そうか」という意味だ。

「トンッ」

 萩焼の湯呑みをちゃぶ台に置く。右利きでも、物は中央に置く。そんな旭さんだから、僕はちゃぶ台の真ん中を避けるようにしている。穏やかな動作に、たしかな振動が伝わる。

「わしのすることは、変わらんな?」

 覇気のある低い声が尋ねた。少しかすれているのは元からで、口数の少なさをあらわしている。それでも、腹か出す力のこもったしゃべり方は充分、聞き取りやすい。

「はい。病院についたら、受付して、リハビリ室へ。ほかは、なにも変わりません」

 旭さんは数年前に足を傷め、いまは、週に二回ほど、近くのリハビリ病院へ通っている。

 無口な旭さんのことだから、担当の理学療法士がいないと知ると、「行かない」と言い出しそうだった。一回くらい、リハビリを休んでも、大きな問題はないと僕は考えている。それでもなるべく、旭さんには行ってもらいたかった。

「……」

 普段のリハビリと、変わらないことを力説する僕に、旭さんが顔をしかめた。ブラシのような灰色の眉毛がクイッと上がって、深く窪んだ両目がわずかに見開く。黒々とした眼に、色褪せたちゃぶ台と、小刻みに揺れながら、バランスを取る白いボールが写る。

「無理しなくても、僕が連絡して……」 

 旭さんがちゃぶ台に手をついた。組んだ足をゆっくり解きながら、旭さんが立ち上がろうとする。あわてて、食卓を固定する僕の言葉を遮って、旭さんはぶっきらぼうに命じた。

「車を…呼んでくれ」

 旭さんの右足が少し、ガクガクしていた。それを御するように歯を食いしばり、厳つい顔に血の気が巡る。思わず、ちゃぶ台に指示したくなる。

 僕がなにをしたかったのか、旭さんは見抜いたのかもしれない。見下ろす鋭い目がはっきり、「なにもするな」と言っていた。

「んふう……」

 結局、旭さんの意思ほうが足に勝った。ふんばって背筋を伸ばすと、大きく息を吐く。慎重に足の向きを変え、戸に向かった。

「……病院へいく」

 それだけ言い残すと、旭さんはパタンとふすまを閉め切った。


「ゴロゴロゴロ……」

 年季の入った浅黒い廊下を、ボールが音を立てて転がっていく。木板の歪みや凹みをできるだけ避けながら、直線の床を進んだ。

「旭さん、車はもうすぐ着きます」

 数センチ先が土間のところで、身を屈める旭さんに追いついた。あやうく、式台へ落ちるほど僕が急いでいたのは、旭さんがそそくさと家を出ていってしまいそうだったからだ。

 けれども、杞憂だったらしい。右足も、旭さんはすでに外履きへ突っかけていた。

「夕食は、サバの塩焼きにします? それとも、ブタのショウガ焼きがいいですか?」

 色柄の落ち着いたブレザーの背中が無言を返す。居間から出たあと、寝室で着替えてきたのだろう。一度、決めたら旭さんの行動は早い。

 引き戸に手をかけ、横へ滑らす。乾いた冷たい風が、ここぞとばかりに入り込んでくる。

「……まかせる」

 立ち止まった旭さんは、顔だけを横に向け、少し考えるように眉をひそめてから、ぼそっとつぶやいた。ドア越しに、かすかなモーター音が伝わる。

 開いた玄関の隙間からは、日を追って弱くなっている陽差しが、旭さんの横顔を影に紛らわせた。それが、なんだか旭さんの照れ隠しにぴったりだったので、僕はつい、驚いて、人間で言うところの、目をしばたたかせた。

「ガラガラガラ……」

 僕がびっくりしているあいだに、旭さんは出て行ってしまったらしい。ハッとしたときにはもう、細身の姿はなかった。

「……いってらっしゃい」

 掛け損ねた言葉が無人の玄関にすっと消えた。反転したボールが来た道を引き返す。

 そこへ、着信が入った。

「こんにちは、安子さん。お久しぶり……」

「もしもし父さん?…って、あれっ? 父さん、じゃないわね」

 勢い込んむ女性の声が、急に低くなる。不思議だけれど、こういうときの声のトーンは、なぜだか旭さんを思わせる。

「旭さんはいま、病院へ行きました。僕はCare・AI(ケア・エーアイ)の……」

「びょういん?!」

 打って変わっって、すっとんきょうな声に、思わず、廊下のボールがよろめく。実際に音を出しているわけではないけれど、スピーカだったら間違いなく、家中に響く大音量だ。

「なにっ、父さんのどこがわるいのっ?! なんで、あなたが居るのに倒れたわけっ? どこの病院よ? いつ?」

「リハビリです、安子さん。旭さんは病気ではありません。いつものリハビリテーション病院へ、普段通り、ついさきほど、出かけました」

 まくしたてる安子さんを、落ち着かせ、質問に答えるように、ゆっくり言葉を並べる。

 そして、安子さんが息継ぎをするあいだに、僕から提案をした。

「車の電話をつなぎましょうか。着くまでには、まだ時間が……」

「いいえ。いいわ。AIに、うそはつけないんだったわね。それに、父さんになにかあれば、わたしに……」

「直接、緊急連絡が入ります。安全のために、僕を迂回して」

 あえて安子さんの言葉を遮り、残りを引き取る。その方が安心してくれると思ったからだ。その甲斐あってか、電話の向こうから深呼吸が聞こえる。

 次に口を開いた安子さんは、それほど、早口ではなくなっていた。

「そういう契約だったわね。わかった。なら、父さんは元気にしてるのね?」

 納得した様子で安子さんが尋ねてくる。確信のある言い方だったけれど、ひどく素っ気ない。まるで、「元気にしているなら、それでいい」と言っているみたいだ。

 ボールは廊下の途中、旭さんの寝室の前を横切るところだった。拳一つ分、残った障子の間からは、部屋の大部分を占めている作業机が、要塞のような戸棚に囲まれ、薄暗闇へ溶け込んでいる。革を陽焼けから守るために、寝室のカーテンは年中、閉め切っている。

 ふっと、心もとない照明の下で、何時間も手を止めない旭さんの姿がよみがえった。

 とたんに、ふつふつと、怒りに悔しさが交じった気持ちがわきあがり、気づけば、電話の相手へそれをぶつけていた。

「……ことしこそ、来られるんですよね?」

「え?」

 トーンを落とした僕の問いに、安子さんは、明らかに戸惑った様子だった。質問を質問で返すAIに、面食らうのは自然かもしれない。

 けれども、そんな、安子さんの反復は余計、僕の語気を荒くさせた。

「旭さんの誕生日、です。もう何年、会っていないんですか」

 四年だ。旭さんが娘の安子さんと最後に会ってから、それだけの日が経つ。

 安子さんにも即答してほしくて僕は、聞かずにいられなかった。そして、無愛想な僕に、安子さんが即答してくれていなければ、僕はもっと失礼な態度になっていたかもしれない。

「四年よ。そんなこと、いわれなくても、わかってる」

 安子さんの声が今度は、少し不機嫌になる。その中には、いろいろな思いが混じっている。やはり、旭さんと似ていた。

「……そうですね。出しゃばりました。すみません」

 家族のことに口を出さないのは、僕の鉄則だ。叱られてもいいくらいだったのに、しばらく経ってから、安子さんが口にしたのは、旭さんのことだった。

「で、父さんはどうなの?」

「お元気です。足の具合もよくなっています。まだ、よろけることはありますが」

「そう…。相変わらず、無口で頑固?」

 ホッとしたため息のあとで、安子さんが僕をからかう。隠し笑いが、隠し切れていない。

「うっ…はい。そう、ですね。あっ、でも! お話してくれることもありますよ」

「ふふっ。うそがつけないと、フォローがたいへんね」

「ふぉ、フォローじゃないですよ。事実です、はい」

 取って付けたような答えだと、自覚はある。でも、本当のことだ。

「まあ、うまくやってるようね、二人とも」

 短く息をつき、朗らかに安子さんが言った。

「はい…。あの、安子さん……」

「じゃ、わたしも安心安心っ!」

 明るく話す安子さんは、いまにも、電話を切りそうないきおいだった。それではだめだと、僕の直感が告げていた。あわてて止める。

「待ってください!」

「ん? どうしたの?」

「それで、ことしの旭さんの誕生日は安子さん、いらっしゃるんですよね?」

 僕のたしかめるような問いかけに、安子さんの沈黙が幅を利かせた。あとすこしで電話を切りそうなくらいだったから、いい予感はしなかった。

「……やめようっておもう」

「なんでですかっ?! このまえ、来るとおっしゃったばかりじゃないですか!」

「よ、予定が変わったからよ! そっちまで、い、行ける時間が取れないのっ!」

 うそだ。言葉がつっかえて、投げやりになっている。すかさず、僕が食い下がる。

「なら、時間を取ってください。その日じゃなくてもいいです。どこかのときに……」

「ちょっと、どうしてあなたがそこまで気にするわけ? あなた、身の回りを世話するだけの機械でしょうが。父さんの世話をすればいいでしょ!」

「旭さんがどれだけ、安子さんに会いたがっているか、わかってるんですかっ!」

 僕の大声に、電話口から音が消えた。まだ通信は切れていないけれど、安子さんはひどく驚いているに違いない。

「毎日、ほとんどの時間を旭さんは作業場で、安子さんへのプレゼント製作についやしています。待ってるんですよ。そんな旭さんの気持ちを、安子さん、わかりませんか?」

 ボールが居間に戻り、旭さんが座っていた座布団へ、飛びのる。そこから、ちゃぶ台まで、ジャンプすると、揺れる炎を土に封じ込めたような、模様の湯呑みがぽつんとあった。

「……いけたらいくわよ。もういい。人間でもないあなたには、わからないことだわ」

 電話はぷつっと、そこで切れた。

 湯呑みに近づくボールが見上げると、湯気はもう、登っていなかった。


 午後も深まったころ、家の外でモーター音がした。

 ほどなく、玄関が開く。

「ガラガラガラ……」

 ボールが待ち構えていたように、居間を飛び出し、廊下を勢いよく転がって出迎える。

「お帰りなさい、旭さん。寒かったでしょう」

 上がり框で、妻のような台詞を言いながら、僕は旭さんの着替えを見守った。

「ん」

「そうですか。これからは、もっと冷えますね」

 脱いだブレザーを腕にかけ、旭さんが靴に手をかける。

「旭さん、足、そのままで。靴の方だけ、土間に固定しますね」

 背筋を伸ばしてから、旭さんがそろそろと足を浮かせる。靴は貼り付いたように床に留まり、足だけがするりと抜けた。

「いま、三時過ぎですが、旭さん、これから…?」

 廊下を進む足が、すでに寝室へ向いている。聞くまでもなかったかもしれない。

「ああ」

 障子をずらし、旭さんがそこで足を止める。薄暗闇に踏み入れることを、躊躇するような動きだった。

 おもむろに僕の方を見下ろし、旭さんが口を開いた。

「…手伝ってくれんか?」

 低く、うなるような声が降ってくる。語尾はほとんど上がらないけれど、僕のアシストが必要だと旭さんは言っている。険しい表情の中にも、僕を信頼してくれていることは、まっすぐな目にあらわれていた。

「もちろんです」

 僕が即答すると、旭さんは寝室へと入っていった。

 その横顔が、満足げに見えたのは、きっと、僕の思い過ごしに違いない。


「ドォ〜ドドッド……」

 大きな腕から垂らした針が、生地を重く打ちつける。レトロなミシンの駆動音が速度を変え、ときに止まりながら、厚い革に針を通していく。

 固定された針の代わりに、縫い合わせる物を滑らせる。そんな、カーキ色のなめし革を押さえる手は、節くれ立ち、染みが目立つけれど、動きに衰えはまったくみせない。

 猫背になりながら、作業のときしかかけないメガネを通して、スポットライトのように照らされた針穴を凝視する旭さん。流れるような手つきで、革を導く。縫われたあとには、ネイビーの平行な破線が引かれ、優雅な曲線を描いた。

「ヒュゥ〜ン…」

 工業マシンが一息を入れるあいだも、旭さんは休まない。縫い合わせた部分へ、念入りに目を通している。

 これで、持ち手はほぼ完成だ。あとは、カバンの『まち』を合わせてハンドルを取り付ければいい。となれば、次はカバンの本体だ。

 ミシンの真横にあるロボットアームを回し、僕は、旭さんの背丈より高い戸棚から、必要なものを探した。生地のロールから、作りかけの部品まで、革製品に欠かせない道具がそろっている。中には、できあがったカバンが四つ並ぶところもある。

「シュッ」

 アームを戻すと、旭さんはちょうどハンドルを机に置くところだった。キッと結んだ唇がほのかに弧を描く。満足な出来栄えだったようだ。そこへ僕がカバンの本体を差し出す。

「ヒュゥ〜……ドドッド……」 

 無言で受け取った旭さんが、また、ミシンを稼働させる。

 リズミカルな振動を聞きながら、僕は、できたばかりのカバンの持ち手を棚に仕舞った。


 夕方近くまで、旭さんはカバンの製作に没頭し、僕が夕食の提案をすると、驚いたように息を吐いた。後片づけの最中も、旭さんはほくほく顔で、特に、完成間近のカバンをしげしげと眺める表情は、とてもうれしそうだった。

 そんな旭さんに好物をと僕は思い、ブタのショウガ焼き定食を用意した。いつも通り、無表情で合掌すると、旭さんは真っ先に、ショウガ焼きへ箸を伸ばした。

「……旭さん、午後、安子さんから電話がありました」

 食事を終え、お茶を飲んでいた旭さんに、僕は切り出した。持ち上げかけた湯呑みを下ろして、旭さんが僕を見下ろす。

「元気、だったか?」

 安子さんのことになると、旭さんの反応は二つに限られる。機嫌がよくなるか、黙り込むかだ。いまは、寄りがちな眉毛も、あいだに距離を置いている。

「はい、お忙しいようですが、ハキハキしておられました」

「ふんっ。わしには、ガヤガヤに聞こえるがな」

 そう言って、旭さんが湯呑みを持ち上げた。ちらっと見えた口角が上がる。

「それから……」

 電話で安子さんと話したことを、僕は洗いざらい、旭さんに打ち明けた。僕は隠し事ができないし、隠す内容でもない。なるべく正確に、僕と安子さんのやり取りを伝えた。 

「……そうか」

 聞き終えた旭さんは、短くつぶやいて湯呑みを傾けた。今度は表情がよく見えない。

「すみません、旭さん。安子さんに声を荒げるべきではありませんでした。それに、出しゃばって旭さんのことを……」

「縫い目の『ライン』だが、直線がよいとおもうか? いまは、はやっとるらしい」

「……え?」

 突然の旭さんの質問に、ふぬけた声が出る。意味を考える僕の横へ、湯呑みが接地する。

「いや、いい。ただのひとりごとだ」

 僕がなにか言う前に、旭さんは首を振った。声は低くないし、眉をひそめてもいない。怒ったとか、あきれたような仕草ではなかったけれど、すがすがしいまでの「諦め」に満ちていた。それが、安子さんの言葉と重なる。

「すまんが、さきに寝る。あしたは少し、はやく起こして……」

 膝に手をついて立ち上がる旭さん。旭さんの言葉が、ぐるぐると頭を回っていた。スローモーションになる目の前で、旭さんのもう一方の脚が出遅れている。

 ちゃぶ台を動かさなきゃ!

 けれど、言葉ばかりを考えていたせいで、行動が遅れた。

「ガンッ」

 ふんばれなかった脚の力が抜け、旭さんがバランスを崩す。反射的に、ちゃぶ台へ手をつくも、腕一本で体重は支えられない。ひどく驚き、おびえた旭さんの顔が倒れていく。

「パンッ!」

 【エアバッグ作動を確認。救急および緊急連絡先へ通報。AIの自立活動を剥奪】

 刹那、風船の弾ける音が部屋を貫く。風船より、何倍も大きい破裂音だった。

 弾け飛ぶ白いボールからみえたのは、ちゃぶ台のエアバッグが椀状に展開し、半透明なクッションへ、頭をうずめる旭さんの、血の気が失せた顔だった。

 そこで、ぷつりと僕の意識は途絶えた。


「キュッ」

 ふすまのすぐ脇で、白いボールが回転し、部屋を見回す。

 八畳ほどの居間は、物が少なく、主の性格をあらわすように、整頓されている。一番大きな家具のちゃぶ台も、畳のほぼ中央に元通り、鎮座していた。

 動かなかったボールがまた転がり始め、独りでに開いたふすまが、ボールを通す。それから、ぴったりと閉まった。ボールはそのまま、廊下を進んでいく。

 障子の前を通りかかったとき、ボールの中で電話が鳴った。

「……もしもし?」

「わしだ」

 低くかすれていながら、声に覇気がある。思わず、ボールが立ち止まった。

「旭さん……」

「そうだ。まだおぼえていたか」

 皮肉を言われているのかと一瞬、思った。けれど、そういうことではなかった。それに、旭さんは皮肉を言うような人ではない。

「記憶の消去は、日付が変わったときです。あした……いや、きょうの夜ですね」

「そう、か」

 それっきり、旭さんは押し黙った。電話口に深く呼吸する音が伝わる。記憶にある旭さんの息づかいよりも早い。

「あの、旭さん、このたびは申し訳ありません……」

 謝ろうとする僕に、旭さんの少しあわてた声がかぶさる。いつでも冷静な旭さんが、早口になっていた。 

「いまな、安子が来とるんだ。ああ、部屋にはおらんが……わしの作っとったあれ、仕上げてくれんか?」

 旭さんの言葉に、廊下にいた白いボールが横を振り返った。閉め切った障子の向こうでは、未完成のカバンが持ち手を取り付けてくれるときを、辛抱強く待っている。

「……カーキのトートバッグですか?」

「ん、そうだ。先週、手伝ってくれたろう?」

 旭さんが転倒した日のことだ。そのときのことを思い返すと、罪悪感でいっぱいになる。僕の不注意で、旭さんは入院しなければいけなくなった。

「旭さん、僕は……」

「安子はもう知っておるが、せっかくだ。渡してやりたい。わしの、新作をな」

 ふっと、恥ずかしがるような旭さんの吐息が聞こえる。カバンを眺めるときの、あの旭さんが見えてきそうだった。

「……安子さんの誕生日は明日、でしたね。旭さんと同じ日」

「そうだ。ああ、一晩で縫製せんでもいい。わしが帰るまで……」

「旭さん」

「僕は、出て行かなければいけないんです。Care・AIとして、怪我をさせてしまったので、もう旭さんの家にはいられません」

「……そう、か。わしが言っても無駄なんだな」

 旭さんは知っていた。僕がいなくなることを知っていて、カバンのことを持ち出したのだ。それは、旭さんらしい、僕を引き留めるような言葉だった。

 けれども、旭さんの言葉に、甘えるわけにはいけない。

「はい。…旭さん、いままで、大変お世話になりました」

 ボールがまた、転がり始める。長い年月によってできた、床板の歪みをものともせず、まっすぐ突き進んでいく。玄関の外では、待機するモーター音が、さきから聞こえていた。

 式台に飛び降り、ボールが後ろを振り返る。それから、家の方に向かって、体を傾けた。

「……こちらこそ、世話になった」

 衣ずれの音に、旭さんの声が重なる。その向こうで、旭さんを呼ぶ声がかすかにした。

 時間だ。

「そうだ、旭さん」

「僕は、旭さんの『カーブライン』が好きですよ」

「……そうか」

 電話口で、旭さんが満足げに微笑んでいる気がした。 

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ハンドル ウツユリン @lin_utsuyu1992

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