【1ニチ1カク】背中

めでとゆんで

背中

私は父の背中が大好きだった。

大工だった父は、私が休みの日に良く現場に連れて行ってくれた。

現場に行ってお掃除を手伝ったり、ボンドを詰め替えるのを手伝ったり、時には邪魔したりしながら、自分の背丈より大きな木材を運ぶ父の背中を、壁に釘を打ち込む背中を、後ろからこっそり見ていた。

今でも父の事を考えた時真っ先に思い浮かぶのは、汗と木屑にまみれた父の背中だった。

大工なのに大人しく、口数も少ない父がお酒を飲んだときだけ少し饒舌になり、顔を真っ赤にしながら昔の歌を歌ってくれるのも好きだった。


母はそんな父が嫌いだった。

母は自分は良いトコのお嬢様で大工なんかの所に嫁ぐつもりはなかった、父が事業にさえ失敗しなければこんな貧乏生活することもなかった。私は才能もあるしもっと良い人に嫁げたはず。なんでこんな生活しなきゃいけないんだ、と繰り返していた。

そしてその後に続くのは父の悪口。

台所仕事をしながら父の悪口を並べ立てる母の背中を、私は悲しい気持ちで見ていた。


母は自分に良く似た顔立ちの姉と、自分に良く似て出来の良い兄を溺愛していた。

そして、父に似た私を、運動も勉強もできない私を常に否定し続けた。

「お腹の中にあった良いものを、お姉ちゃんとお兄ちゃんが全部持って行った後でお前ができたから、お前みたいな味噌っかすが生まれた」

「うちはもう男の子も女の子もいるから、三人目のお前は必要なかった」

母は繰り返しそう伝えた。

そして私の嫌いなピーマンを毎日のように私の料理にだけ入れた。

「好き嫌いしちゃダメでしょ。残したら・・・お仕置きよ」そういいながら母は私の背中をそっと撫でる。

私は怯えた目で母を見る。

そして思い切ってピーマンを口に放り込む。

『お仕置き』が怖い私は必死で飲み込もうとするが、苦味が口の中に広がった途端吐き気がする。

これで口から出してしまったら『お仕置き』が待っている、と思い必死で飲み込むが、その顔をみて「まだ好き嫌いがあるのね。やっぱりお仕置きが必要ねぇ」とわざとらしくため息をつく。

結局食べても食べなくても同じなのだ。

でも、食べないほうが酷いことになることを知っていた。

そして私は、夜眠れないほど背中に傷を抱えることになる。

傷は毎日更新され、古い傷が消える前に新しい傷ができ、私の背中にはいつのまにか消えない痣のような傷が無数にできていた。

父はそういう母を諭す程度で強くは言えない人だったが、そんな私を不憫に思ったのか、休みの日には母から引き離すため私一人を現場に連れていってくれたのだ。


姉は母が通っていたという私立のお嬢様学校に、兄は地元で有名な私立の学校にそれぞれ中学から大学まで通ったが、私だけ公立の学校で大学進学も許されず、高校を卒業後、私は地元の小さなインクの製造工場の事務として就職した。

そしてその頃父が病気で亡くなり、姉と兄が遠方に就職していため、私は母と二人で生活をするようになった。

母の変わりに料理をつくり、掃除をし、仕事をし、稼いだお金は全て母に吸い取られていた。

たまに姉が帰ってくると、母は私が稼いだお金から姉に服やアクセサリーを買い与えた。

兄の車のローンを支払ったのも私の給料からだった。

どこから麻痺していたのか、もうわからない。

でもその頃の私は、それが当たり前だと思っていたし、そこから逃げようという考えすら浮かばなかった。


そんなある日、母が脳梗塞で倒れたことでそんな生活が一変する。

母の脳は大きなダメージを受け、言語障害を起こし、また右半身の麻痺も残ったため、誰かの手助け無しには生活ができなくなってしまった。

そんな母の介護をしたのは、『私に良く似て可愛い子』とたくさんの服を買い与えられた姉でも、『私に良く似て賢い子』と山ほどの本を買い与えられた兄でもなく、味噌っかすと言われた私だけだった。

姉と兄は少しのお金を送ってきただけで、連絡すらまともに来なくなった。


それでも、私はこの状況がとても嬉しくもあった。

母はいつも「私の母」ではなく、兄の母であり姉の母でしかなかった。

今やっと母は「私の母」になったのだ。

私は仕事を辞め、短時間の仕事を探し、家事と母の介護をした。

自分の人生のほとんどを母のために費やしていた。

母は嬉しそうな顔など一度もしないけれどそれでも構わない。

私といてもどこか不満げで、表情がかわるのは食事の時くらいだった。

そして、私の準備した食事を見て、苦手な鶏肉がお皿に乗っているのを確認して、悲しそうにこちらを見る。

私はいつものように「好き嫌いしちゃダメでしょ。残したら・・・お仕置きよ」そう言いながらそっと母の背中を撫でた。



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