愛着

早坂慧悟

全話





                1

 子供の頃は恐竜が大好きだった。

 当時、父親にせがんで恐竜図鑑やいくつもの恐竜のプラスチックビニール製の模型を買ってもらった記憶がある。やがて興味は電車や新幹線に移っていき、何時しか恐竜の事は長い間忘れてしまっていた。

 そんなことをふと、電車内の「福井県立恐竜博物館」往復切符の広告を見て仁保(じんぼ)は思い出した。そこには勝山にある恐竜博物館の写真が載っている。

 恐竜博物館か。博物館の中でにこやかに笑う親子が写ったその写真をしげしげ見る仁保は大きくあくびをした。土日くらいはゆっくりしたかったが、週末に金沢で学会の講演会があるため朝一番の電車に乗って金沢に向かわねばならなかった。講演が始まるのは昼過ぎとはいえ病院の老教授たちはいつも早めに会場に入る為、それより先に会場入りし出迎えねばならないのだ。

 そんな事に気を遣って時間を費やすくらいなら、今取り組んでいる難治療性疾患の治験薬の評価報告書でも読んでいた方が医師として遥かに有意義である。そう思い家から関連書類を持ってきたのだがどうも車内では読む気になれずカバンの中にしまったままだった。

 早朝の特急列車「ダイナスター」に揺られながら、仁保の頭にはもう一つ昨夜の妻との会話がどうしても脳裏から離れずにいたのだ。

 中学生になる拓也が金沢の別の私立学校に行きたいらしく、私立では珍しい途中転校をさせたいというのだ。

 「そりゃ別に構わないが、拓也は大丈夫なのか?急に福井から金沢に通うなんて大変じゃないか?」

昨夜、のどぐろの刺身に醤油につけながら仁保が聞くと、妻は憮然とし澄ました顔で言った。

「金沢には私の実家があるのよ。わたしの実家からしばらく通えばすむと思うわ。将来の大きな目標の為に県外に転校するなんて今時どこのお宅もやってることよ。」

 しかし拓也が生来から人見知りする性分なのを知っている仁保はさらに聞いた。

「福井の学校に拓也は小学校の頃からずっと行っているじゃないのか。福井にはなじみの友達もたくさんいるだろうし、環境とか変わってしまうと彼も大変なんじゃないか」

 教育熱心な妻は最近輪をかけて拓也のことにかまけている。そのうち母子揃って金沢の実家に帰る積もりなのだろうかと仁保は思った。男の子なんて放っといても勝手に育つと放任のまま自分を育てたうちの母とは大違いだ。妻の家だって、そんなに娘に干渉しない家だった気がする。彼女はどうしてこんな子供べったりの母親になってしまったのか。

そんな仁保の気持ちを知ってか妻は畳みかけるようにこう言った。

 「なじみとか、友達とか。あなたこれは競争なのよ。拓也が立派な大人になるように、今のうちからしっかり導いてあげるのが親として当然のことじゃない。現実社会は厳しいから私たちが拓也の将来を守ってあげなきゃならないの」


 金沢駅に着くと、時間がまだ早いのかとても肌寒く感じられた。駅近くのホテルの会場に着き、それから数時間かけて一通り準備を終えると仁保にはもうこの日の夕方までやる事がなくなってしまった。会場にはまだ金沢の地元の人間は殆ど到着していない。ちらほら見えるのは福井や富山から来た者たちばかりだ。皆遠いから余裕をもって早めに着いたのか、それとも両県の人間がきまじめなのかそれは分からなかった。 

 今回の講演会は昼からのためお弁当は出ない。食事が出ないことには仕方がないので仁保は朝飯も兼ねてちょっと早い昼を食いに出ることにした。

金沢は不案内のため仁保(ジンボ)は用事が無ければ出歩きたくない町だった。この前来たのはずっと前の中学の課外学習の時ではあった。あの時は真夏の金沢の町を暑い中歩き回り金沢市内の観光地や寺社を回ってみんなでレポートを書いた思い出がある。この町はいつ来ても部外者に不案内で移動の勝手が悪く行動範囲も限られている印象を与えた。

 駅の飲食店はどこも開いてない。ランチにはまだ早かったのだ。仁保は駅から離れた場所に市場通りがあることを思い出した。こんな時間から空いている寿司居酒屋や海鮮問屋があるらしい。しかし歩いていくには距離があった。駅前のバスに乗るにも何処行きに乗っていいのか分からない、そもそもたかが昼を食べるのにバス案内所でバス系統を聞いて乗っていくのは観光客じゃあるまいしまぬけな話だ。さらに観光客に囲まれながら背広姿の自分が海鮮丼を頬張っている姿を想像すると次第に行く気は失せて行った。結局逡巡しつつバス停の方を眺めていると丁度目の前のカレー屋が開店するところだったので仁保はそこに入った。


 新幹線が金沢に開通してから利便性が向上し観光客が増えたのか、金沢の街には昔より活気があった。以前来た時と比べても、古いお店や老舗などが建物を改装したのか綺麗になった気がする。

 仁保は食後の散歩も兼ねて金沢駅の周りを軽く散策しようと歩き出していた。思いの他、歩いてみればの金沢の街が新鮮に映り、仁保の歩みは駅からどんどん離れていった。気が付くとさっき行こうとした近江市場の建物が目の前にあった。この通りは百万石通りだったか、このまま進んでいけば茶屋町くらいまでは余裕行けるかと思い更に歩を進めた。前の方には弓道部か肩に大きな弓を掲げた少年が歩いている。 あんな小さい時分から弓なんて引けるものなのかと仁保は感心した。

 そのとき弓の少年が急に立ち止まり歩く方向を変えたため、仁保方へちょうど前を歩いてきた女の人の顔に少年が後ろに掲げた長細い弓の先が深く直撃した。ぼがんという鈍い嫌な音がした。

 不意に顔面打ちを食らい女性は顔の当たった場所を手で押さえると、よろめいてその場に座り込んでしまった。

 少年は後ろに何かに当たったことは分かっていたがちらっと見て「すみません」とだけ言って立ち去ってしまった。

 「きみ、待ちなさい!」

 一部始終を目撃していた仁保はその少年を呼び止めたが、少年は一目散に走って逃げてしまった。

 「ちょっと、きみ!」仁保が追いかけようとすると、しゃがみ込んでた女性が言った。

 「あ、いいんです。ちゃんと前を見なかった私がいけな・・い、いた、痛たたた・・」

 女性は蹲(うずくま)る。

 「大丈夫ですか?これで目を押さえてください。」

 神保は未使用の茶色いハンカチを鞄から取り出すと、それで目を押さえるよう女性に指示した。

 「痛みますか、痛みますか?」

 ハンカチで目を押さえてしゃがみ込む女性に寄り添い、仁保は静かに訊いた。

 女性は痛みがひどいためか返事もままならない。

 「涙が出るなら全部流してください、出来るだけ多く。あと、血が出ていないのなら、あまり強く目を押さえない方がいい。」

 「はい。」

 女性は小さく頷いた。

 しばらくして痛みが引いてきた女性は、仁保との受け答えも出来るようになった。しかし女性は懸命に立ち上がろうとするが、衝突のショックでフラフラしている。もしかして脳震盪を起こしているかもしれないと仁保は懸念した。仁保は女性の弓の先が中(あた)った目を看た。眼科医でないのであまり詳しいことはわからないが、目は充血して腫れていたが幸い出血はなかった。彼女に訊くと、ソフトタイプのコンタクトレンズを付けているとのことだった。

  「そのまま、そのままでいいです。今救急車を呼びますから」

 やがて仁保が掛けた電話で救急車がやって来た。立ち上がれない女性は救急隊の担架で車の中に搬入されていった

 仁保はこの日学会で挨拶の為に持ってきていた名刺を胸ポケットから取り出すと、その裏に何かを書き記し救急隊員に渡した。

 「ええと、これは市内の村田総合眼科という外傷専門の眼科院でここから近い。急患も見てくれます。着いたらわたしの名刺の裏のこのメモを医者に見せて下さい。」



2

 妻から拓也の転校についての話を聞いてから一週間後、拓也と久しぶりに一緒に出掛けることにした。金沢への転校をどう思っているのか、普段顔を合わせている家の中ではなかなか本音を話聞く機会がないと思ったからだ。そこで場所を変えるのと遊び半分で県内のいくつかの博物館や美術館、それも嫌なら駅前の新しい図書館や養浩館めぐりまでも用意して提案するつもりでいた。勝山の「恐竜博物館」なんて拓也の年では父親と一緒に今さら行くのは嫌がるだろうと思っていたが、予想に反してはじめに提案したそこに行くことに拓也は応じた。

 この日は妻が車を使うらしかったので、親子二人で電車に乗って出掛けたのだが、市内を走るえちぜん鉄道なんて乗って出かけるのは実に何年振りのことだろうか。ガタゴト揺れるワンマン電車に乗っていると、仁保は何だかいつもより心が平静になるのを感じた。この時も仁保は家に持ち帰っていて月曜までにやらねばならぬ仕事が山積みであったが、出掛けてからは極力仕事のことは話したり考えないようにした。

 えち鉄の福井の新駅から線路は高架の上で、その走る車窓から福井の街並みを随分遠くまで見渡すことができた。ふと下の方を見ると子供のころに家族でよく行った焼肉屋がポツンと見えた。その店の軒先は赤い梁がもうボロボロで遠くから見ても店名が分からないほど傷んでいた。遠くによく行くゴルフ道具屋の黄色い看板が見えた。たまにはこうやって電車に揺られて出掛けるのも良い物だと感じながら、目の前の拓也の顔を改めて見た。

 ボックスシートの窓側に座っているので、拓也は顔に丁度金属製の窓枠から日の光が反射して強い照り返しを受けている。こうしてみると、拓也の口もとは母親である妻にとても良く似ていた。拓也の顔を正面から慥(しっか)りと見るのは久しぶりだった。

 「学校の勉強はどう、受験とか」

 仁保の抽象的な問い掛けに、拓也は窓の外を見ながら答えた。

 「別にどうもこうも、前と変わらないよ。」

 仁保はすこし拓也の方に身を乗り出すと、まるで内緒話する同級生のような面持ちで訊いた。

 「この前母さんから金沢の学校に転校したいって聞いたんだ、拓也は今の学校は嫌か、金沢の方に移りたいのか?」

 その問いにも拓也は表情を変えず、淡々と答えた。

 「本当はどっちでもいいんだけど・・母さんがあっち(金沢)方が競争が激しくてレベルも高いから、進学がし易いって言うから。」

 仁保は深く座席に座り直すと言った。

 「そうか、福井にも教育熱心な先生は沢山いて、父さんはいいと思うけどな。父さんも福井の学校出て医者になったわけなんだし、レベルも低くないけどな。」

 拓也は何も言わなかった。それっきり2人は電車の中で転校の話はしなかった。

 話が終わると拓也はまた受験本を読み出したので、仁保は窓の景色に目を遣った。それにしても今乗っているこの電車、えちぜん鉄道になってから京福電鉄時代とは比べものにならないくらい快適になっている本当に別会社のようだ。駅舎も車両も真新しく綺麗で、なによりこの高架の線路は展望がよくて爽快だった。この高架は前身の京福電鉄の頃からあったものだろうかよく覚えていなかった。仁保は久し振りの車窓の景色を満喫していた。昔子供のころ乗ったことがあったが、なにぶん古い記憶なので、霧のように判然としなかった。仁保はそう車窓を眺めぼんやり考えていた。そうして電車に揺られ仁保はいつのまにかうつらうつらうたたねをし始めた。向かいの拓也はそんなことに構わず参考書を静かに読み耽っている。仁保たちを乗せた二両電車が博物館のある終点勝山駅まで着くにはうたたねで夢を見るのには十分なほどの距離と時間があったのだ。

 「父さん。」

 「ん?」

 終点の勝山に間もなくつく頃に目を覚ました仁保が半分眠たそうに返事をすると拓也が言った。

 「母さんと話をしてる?母さんいろいろと父さんに話したいことがあるみたいだよ。」

 妻の話題が出ると仁保は外の景色がどうでもよくなった。

 「そうか。じゃあ今度は母さんも連れてこような。」

 

 県立恐竜博物館に着くと、周りは子供連れの若い家族ばかりだった。仁保は拓也を連れて博物館の中に入ると、展示されているものをひとつひとつ丁寧に時間を掛けてみて回った。

 館内には恐竜だけに限らず古代の地質学や植相学に関わる展示など、恐竜に限らなず古代史全般のかなり広範囲に亘る内容の濃い展示品も多数あって、この辺をそこそこ学のある仁保親子は様々な意見や質問を出し合いながら見て回ることができた。仁保はわが子が幼くなくなって成長した後でもこうして学問的な興味を基に非常に有意義な鑑賞が出来るものだと感じた。拓也も仁保に劣らず色々な領域に知識を持っていて、仁保は逆に拓也から教わることも多かった。

 そして、圧巻はなんといっても何十体と展示されている巨大な恐竜たちの骨格標本であった。竜盤類や鳥盤類を問わず、これらの骨格標本を前にすると、生物として不思議な畏怖を感じた。それは興味や知識といったものだけではなく、いい大人でも童心に返って熱中せざるを得ないものであった。

 展示されているのはかつての生き物たちの骨と復元模型である、鉱石すら巨大なマグマが冷え切ったあとの地殻と言う生命に残滓に思われた。ここには死しかないわけだが、子供たちはその死の残骸や跡形から古代のえげつなく巨大な生物――生命たちを心の中でに復元し、その圧倒的な恐怖に喜び目を輝かせ興奮している。いい大人の大半がそれほど恐竜にもう夢中になれないのはそのためだ。心の中で理性が成熟しどのような痕跡からも、もう心の中で巨大な生物を構築することができなくなってしまうのだ。

「随分と大きな亀だな。古代亀かな。」

「アーケロンだね。」

魚竜の展示コーナーの一角に、首長竜とともに展示されていた巨大な古代亀の骨格標本は、きわめて躍動的に展示されていた。いまにも水面下の獲物に飛び掛かろうとするようだった。親子でその展示の前に立つと、あらためてその迫力に圧倒される。

 「昔、子供の頃に連れてってもらった時よりかなり展示もアレンジしているね。この古代亀も確か無かったはずだよ。」

 巨大な古代の大亀、アーケロンの骨格標本を目の前にして、仁保は自分が海の中でそれに捉えられて食べられてしまうところを想像した。それは恐ろしい想像であったが、この世に生まれた生物として不思議な清々しさを感じさせるものだった。このような経験をしたことは新保は幼いころからあった、まだ幼少のころ親族に連れていかれた三国の海岸で酔っぱらってふざけた浮浪者にあやうく海に落とされかけたのだ。後になって家族から、小さいときのことだから憶えてないでしょうといわれたが仁保はなぜかその時のことをよく覚えていた。すんでのところでその悪戯に気付いた親戚の叔父が仁保の衣服をつかみ、間一髪仁保は三国海岸の岸壁から奈落の底に落ちずに済んだ、そのまま海の藻屑と消えるところだったのだ。酒臭い髭もじゃの男にひょいと持ち上げられ青く輝く海面にむかって投げ入れられそうになった瞬間、空からの陽の光がきらきらと遠い海面を反射し宝石のように輝いていた。幼いながらも仁保はそれをこの世のすべての美しいものを集めた光燐として受け入れた、その瞬間あがらうことのできない死がやってきたとしても何もわからないまま光の反射の美しさの中無邪気に受け入れただろう、となぜかその後自分でも思うのだった。酔っぱらいの男は昭和の時代、取り押さえられるとその場にいた男たちから袋叩きにあい息の根も絶え絶えに警察に引き渡されたと聞いた。

 自然の食物連鎖の環の中に組み入れられて逍遥として死を迎えるのであれば、それまで一個の人間としてまっとうな人生を歩んできたとしたならば、そこに何の迷いも無いだろうと仁保はその時からいつも人生を達観していた。



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春の昼下がりー。越前朝倉家、一乗谷城。諏訪御殿に通された伴仁保(ともの・じんぼ)は座敷に座り丹平が現れるのをじっと待っていた。この館は最近京から腕利きの宮大工を呼んで建てただけあり室内にあらゆる趣向を凝らしていた。一本柱の仕口など様々な意匠が見てとれる。なんて贅沢な造りであろうかと改めて室内を見渡した。あの襖絵は狩野正信の筆によるものではないか。そこには幽愁な山を背に従えた大木が墨絵に大きく描かれていて、仁保は丹念にその筆跡を目で追って眺めていた。

その時、襖が開けられると越廼(こしの)丹平が目の前に姿を現した。仁保は姿勢を正すと顔を上げる。端正な羽織袴を着た丹平は武家の人間にみえないほど優しく穏やかな目をしていた。

「おお仁保どの、久方ぶりじゃ。この前の山崎様との面会の時以来かな?」

仁保はやや畏まって言った。

「その節は世話になり申した。山崎様とお会い出来たのもひとえに丹平どののお陰かと」

仁保との間に畏まった空気を作りたくない丹平は「いやいや」と頭を振りながら、わざとぶっきら棒に胡坐をかいて座った。堅苦しい雰囲気はどうも苦手らしかった。

「で、今日は仁保どの。相談というのはなにか?」

丹平は館の一番奥の畳間座敷に通されて、姿勢を崩さずにいる仁保に茶を出しながら聞いた。

一乗谷城への初登城以来、城下の町割りや道路や水利、館の庭園に至るまで朝倉家随一の普請番、普請代目付として活躍してきた二人は互いに他家から朝倉に迎え入れられた境遇であったため若い頃から意気投合しなにかと話をする機会が多かった。

丹平こと越廼(こしの)丹平は仁保より早く普請奉行を辞すると、その後は若くして朝倉家付留守居となり城内の館に常駐していた。いまは諏訪御殿の館に常駐し警固を担っている。

「じつはまた妻のことで相談がある。鶴の丸が亡くなって二年もたつというのにふさぎ込んだままだ。一日中家にいて何も話さないのだ。」

黙って聞いていた丹平は庭の景色を見た。御影石の影に庭の池から鯉が跳ね上がったのが見えた。

「空どのことか・・・。」

仁保は静かに言った。

「鶴の丸が亡くなってから、妻はまったく別人になってしまった。誰とも話さず笑わなくなった。以前の妻はあの日を境ににこの世からいなくなったのかと思うくらいだ。」

仁保には鶴の丸という男児がいた。伴家の嫡子であり大切に育てていた。特に妻の空は宝のようにわが子を可愛がっていた。いまも鶴の丸が着ていたべべを前にたまに居間でぼんやり座っていた。鬼が山からやって来て幼い鶴の丸の命と空から心を奪って行ってしまったのだ。

「ありがたいことにいまだ城内の者たちが墓に花を手向けに来てくださる。しかしこのままの様子で妻がいるのが不憫で仕方ない。丹平どの、これは病か?京から名医を呼んで治してはもらえぬかの」

丹平はそう問われて暫く黙っていたが提案した。

「うむ、薬師に頼るより・・・まず働くのがよかろう、多くの人や物事に囲まれて己を忘れることが一番じゃ。」

「・・・・。」

困惑する仁保に丹平は言った。

「城内の館ではお子との思い出も積もっておろうから、いっそ城下に出るというのはどうじゃ。どこかの武家屋敷にいくとよい。辻町に隠居した花方左衛門様がおる、最近新しい旅籠屋の手伝いを探しておるようだ。旅籠とはいえあそこは機織り木綿問屋、加賀の染め物商家の出の空どのなら織物にもさぞ目が利くことだろう。」

意外な提案だった、しかし辻町なら武家屋敷が多く殆ど城内と同じようなもの気分転換にはいいかもしれない。

「先方に話しておこう。」

そういって丹平は茶を啜った。


この日を遡ること二カ月前、仁保は同じ城内を山崎吉家公との面談のため訪れていた。

山崎吉家とは朝倉家臣団の中にあって最も若く進取の気風を好む人物だった。開明的な頭脳の持ち主で、日ごろ身分を問わず様々な人間を屋敷に呼んではいろいろな意見を聞いていた。朝倉家がこれまで戦で勝利を収めてこられたのもこの重臣山崎によるところが大きかった。最近では戦に限らず内政に関しても様々な施策を行っている。

山崎の屋敷は城内の中枢、一の丸の正面に兵の詰所や武器庫と並んで千畳敷の真ん中に建っていた。筆頭侍大将の屋敷だけあって堀の外も内も武器を携え警護番がしっかりと目を光らせている。夜半過ぎに訪れた仁保らは何人もの番詰にじろじろと見られ検分されてようやく屋敷の中に通された。

山崎は朝倉の信頼も厚く城内では若年寄に近い扱いだったが、おごりや偉ぶった態度を見せないその顔は始終笑みで溢れていて、一乗谷のすべての軍事を掌握している軍大将には見えなかった。夜半過ぎの訪問にも関わらず、山崎は仁保たちを出迎えると、ヤヤよく参られたと労った。

「越廼殿からよく伺っております。伴殿も近頃は兵評議にも参加されているとのことでしたな。」

そう型通りの挨拶が済むと、酒を組みしながら昨今の情勢について山崎様が二人に語り始めた。

「知っての通り、今や当家の家臣団は全員が織田を討つべしの一点で結束していると言っていい。あれだけいた和平派は全員、評議役を下ろされるか追放されてしまった。親方様の側近がいかんのだ、自らは出陣せぬくせに、景鏡様や我ら家臣に執拗に織田家打倒の起請文を書かせるものだから皆その気になってしまう、これでは朝倉は織田との決戦を日々準備しているようなものだ。すべて織田側に筒抜けだ。将軍菅家をはじめ、浅井、武田、上杉の遠藤、果ては最上や毛利に至るまで対織田包囲のために朝倉家がどの国に書状を送ったか織田は全部知っておる。それで織田家はいまや朝倉家を一番の目の敵にしておるのだ。」

出された酒を恐縮気味に啜りながら丹平が聞いた。

「山崎様。やはり織田は手ごわいですか、あれは稀に見る戦の鬼神で、滅びたくなければ戦の相手にせぬ方が良いと聞きますが。」

ふむ、と酒を一献傾けてから山崎様は流暢に答えた。

「そこが違う、戦で言えば織田は存外弱い。あのように絶えず虚勢を張っているのも周囲に戦争を仕掛けているのもそうしないと威厳も国も持たないからだ。内と外とに絶えず脅しをかけておかないと家臣すらも結束せずバラバラになってしまうからいつも強気でいる。時間がたてば、そのうち夏の台風のように内から自然消滅するだろうから相手にせず放っておくが一番なのだ。」

織田への畏怖心を微塵にももたずに笑って話す山崎を見て、仁保は驚愕した。そして山崎の言った内からと言う言葉が気になった。織田家の内紛でも期待しているというのだろうか。

「しかし、織田の勢いはいまや留まるところを知りません、負け戦すら織田軍の前には勝ち戦に転じてしまう有り様ではないですか。」

仁保は前回の金ヶ崎の戦いについて皮肉を交じえて言った。

「左様。わたしが今日お二人と面会したのはそこの点にある。越廼殿も伴殿もようよう織田の軍略を理解しておられるが故、朝倉家は織田との戦を避けるべきだと前々から申しておるそうですな。」

仁保は正直に自分の考えを述べた。

「左様でございます。たとえ勝てる戦でも当面は防戦に徹し、無暗に相手にすべきでないと思います。」

「ふむ。よくぞ言った!実はわたしも常々そう思っている。織田との決戦に出陣する侍大将が口にする言葉でないが。」

酒の肴を摘まむと山崎は言った。

「しかし織田との戦いの火蓋は既にふりおろされてしまっている。急には戦闘を停止できまい。今回、敦賀から織田勢力を一掃できたのは何よりだ。次の戦は近江大津あたりになろう、そこで織田をどれだけ打ち負かすことが出来るかが今後の鍵だ。そうして相手をある程度打ち負かした上で有利に交渉に入るのが私の考えだ。今後は近江の浅井や比叡山が相手では織田もままならんだろう、東には武田が虎視眈々とひかえておる。織田としてもそう簡単にこれ以上西には手を出せまい。それを機に織田と交渉に入るのだ。織田の弱さの由ゆえに有効な策だ。」

「『弱さ』ゆえ?」

「単なる戦の勝ち負けではない、織田の戦略そのものの『弱さ』だ。織田はこれまで勢いよく戦に勝ってきているが、勝てば勝つほど内に矛盾を抱え込み余裕がなくなっている。織田家の家臣は呉越同舟、たがいに主君の怒りを買わぬよう必死に戦果を競い合っている。いまや生き残るための権謀術数ばかりあると聞く。信長の体制には元から弛みが見えている。いまや自らを神と宣する有様だ、内にその矛盾を抱えたまま動き続けていればそのうち織田家は崩壊する。」

仁保も越廼も何も言えなかった。

「この三百年、朝倉家は無理に版図を広げずとも国は平安、豊かになった。朝倉宗滴公の時代から今日まで流々と引き継がれているこの伝統こそが朝倉家の全てだ。織田の逆と言っていい。」

そして山崎は最後にこう述べた。

「近いうちにまた織田と一戦交える。その結果がどうであれ、おぬし達とまた今後朝倉家が取るべき道について話し合いたい。さらに守りを強固にして支城を増やす策も考えている。毛利、島津、長曾我部など西方と連携して新たな織田包囲網を広げる策も考えている。とにかくあらゆる策を講じて今後も朝倉家の繁栄を守っていこうではないか。」


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 「先生。」

 久しぶりに武生(たけふ)まで電車で行った日の事だった。その帰りに駅のコンコースを歩いていると蕎麦屋のあたりで仁保を呼びとめる者があった。

 ふり返ると女性が一人立っている。

 「先日はお世話になりました。」

 女性は屈託のない笑顔を仁保に向けた。最近診療した患者かと思い記憶を辿ってみたがどうも思い中る者はない。どちら様でしたかと仁保が聞き返そうとした瞬間、女性は言った。

「この前、金沢駅で」

 仁保は女性を思い出した、子供とぶつかり目にケガをしたあの・・。そういえばこんな顔をしてたような気もする。

 「ああ、あのときは。目大丈夫でしたか?」

 仁保は彼女があの日、右左どちらの目をケガしたかすらもう憶えていなかった。

 「ええ。」

 「それは何より。ではお大事になさって下さい。」

 仁保は帰路を急いでいた。この日妻からたくさんの用事買い出しを頼まれていたのだ。仁保は軽く会釈をすると、その場を去って行った。

 女性は立ち去っていく仁保の背中からまた大声で呼び掛ける。

 「あの、先生。お借りしたハンカチどうしましょうか」

 声を掛けられた仁保は振り向く。

 「結構ですよ。なんなら差し上げます。」

 少し離れているため仁保が大きな声でそう言うと、女性はさらに大きな声で言った。

 「わかりました。わたし駅近くに勤めてて週末この時間によくいるので、またいつか会えたときに。」

そう言うと彼女は仁保とは違う系統のバスに足早に乗り込み、振り向きもせず去って行ってしまった。


 次の日曜日。妻が友禅の同窓会に着て行く服を買いに行くというので仁保は車に乗せて行った。

その日は、朝から仁保は論文作成のため大学から借りた大量の書籍や資料に囲まれ、自室で書類と額を合わせて過ごしていた。朝から加賀友禅染の会に出掛けていた妻が午後に家に戻るとそのまま妻を載せていつもの新開地の方ではなく福井駅の方へ車で出掛けた。拓也は部活のためすでに家にいない。家には仁保たちが出掛けると誰もいなくなった。

駅前通りを車で走っている。駅前は昔の一時期に比べ人の通りも少なく、閑散として空きのテナントが目につく。仁保は普段からこちらの方に買い物に行くことはあまりなかった。駅前の市電停留所が移動したことも駅前に巨大な恐竜のオブジェやアートが出来たことも知ったのはだいぶ後だった。

「駅前はもうだめだね、再開発の余地もないよ。こう人がいないんじゃあ・・・」

仁保は隣に座る妻に言った。

「今じゃ買い物行くなら車で開発や大和田の方ですもの。こっちは大したショッピングセンターもないし不便よ」

妻が言う。

「俺なんかが高校生の頃はよく「だるま屋」に服を買いに行ったけどな」

「今日行くのはその西武よ」

仁保たちは車を駅近くの古びた駐車場に止めた。妻は福井唯一の百貨店に着くと、仁保に夕方の待ち合わせ時間だけを伝えてそのまま婦人服売り場のある上階へエスカレーターで行ってしまった。

 仁保は百貨店の本屋でしばらく時間をつぶすことにした。この本屋には売り場の片隅に椅子が常設されおり軽く読むことが出来るらしい。仁保は何冊かめぼしい本をパラパラめくって時間をつぶしていた。しばらくしてトイレに立ち戻ってくると積んだおいた本が崩れていた。拾い上げた本には昔の映画のシーンが載っていた。デビット・リーンの映画『ブリーフ・エンカウンター』の別れのシーンである。たしか昔ビデオを買った映画だ、買ったビデオはとうにどこかへいってしまった。すると銀幕の女優の顔がなんだかあの金沢であった女性に似ている気がしてきた。あの憂を帯びた瞳や頬の辺りの感じがとても似ている。なぜ今になって急に思い出したのか。仁保は腕時計を見ると本を仕舞って先週彼女と会った駅へ行ってみることにした。

歩いていて、仁保は腹の空いてることに気付いた。今日は朝から妻が用意した納豆と干物とごはん以外何も食べていなかったのだ。時計を見るともう午後の三時だった。先週あの女性と駅で会ったのは何時ごろだったろう、はっきりとその時間を憶えていなかった。

 日曜だというのに駅前は閑散としていた。同じ福井でも新保や開発方面の賑わいと比べるとえらい違いだ。何か腹に入れようと仁保は周辺を見て回ったが、どの店も値段の割にメニューも画一的で利用する気になれなかった。駅前の外れの一角に移動式屋台が出ていた。若者相手にピザなど軽食を売る業者だ。

仁保はその移動スタンド型の軽食屋でカピタのようなピザとポテトを軽く食べた。食後に仁保は先週女性と鉢合わせたコンコースをしばらくの間うろうろと歩いた。しかしあの女性と会うことはなかった。しかし冷静に考えてみればあの女性と会って話すようなことは何もない。ハンカチの件だってわざわざ会うほどの用件ではなかった。

 彼女がいないことを知り仁保は駅で二重羽巻をふたつ買った。そして無意識のうちに仁保は先週女性が去っていったバス乗り場に向かった。もしかして彼女いるのは駅のコンコースではなくて外のバスターミナルではないか。バスターミナルで所在無げに仁保を待っている彼女が目に浮かんだ、仁保は先週彼女が乗り込んだ8番停留に向かった。停留場からはちょうどバスが出るところだった。仁保はバスの中にあの女性の姿を探した。最後尾の席によく似た若い女性が乗っていたが、バスはそのまま行ってしまった。

彼が駅から帰って来る頃には妻との約束の時間はとうに過ぎていた。待ち合わせ場所のドトールに仁保が着くと、妻はすでに二杯目のコーヒを飲んでいた。

「遅いじゃない、どこにいたの?」

妻は仁保を見るなり言った。

「ああ、ごめん。ちょっと夢中になってしまって」

仁保は適当に答えたが妻は見過ごさなかった。

「夢中って、またパチンコでも始めたんじゃないでしょうね」

思いの外仁保は焦った。

「ちがう、ちがう。本屋に好きな映画の本があってさ、見てるうちに懐かしくなってちょっと探しに」

「意味わかんないわよ、パチンコのあと映画見に行ったの?」

それからしばらく二人でお茶を飲んでいたが徐に妻が言った。

「あなた、来週ここにまた品物をとりに行ってくれるかしら。今日予約しておいた物が全然違ったのよ。」

妻が予約受け取りした商品に不備があったらしい。そして別の用件もみなてんでダメだったようだ。

「来週わたし、どうしても外せない雑誌社の会合が丸一日あるのよ。」

「ああ分かったよ、いいよ」

「ありがとう。でもこっちの百貨店は全然駄目ねぇ…。金沢じゃ考えられないことよ」

 結婚前から地元好きだった妻はそう言うと溜息をついた。また「地元に帰りたい病」が再発し、妻が金沢がいいと言い始める予感がしていた。


次の週、仁保は妻の言いつけ通り百貨店に向かった。駅前のガラガラの先週と同じ駐車場に車を停める、この前と違うのは隣に妻が乗ってない事くらいだ。相変わらず周囲は閑散としていた。車を降りると遠くで地元紙福井県民新聞のテレビ広告塔の音声が聞こえ、ますます過疎具合を表すようだった。 百貨店に向かい仁保は歩きながらそんなことを考えていた。

エレベーター乗り場の案内をみると婦人服売り場は上の階にあった。妻から預かった商品引渡し書に記された店名で仁保は確認をした。「婦人服」、ミセス・ミッシーと併記されるがそんな場所で買い物をする妻もすこしずれてると仁保は思った。迅速な対応を求めるならわざわざ遠くの古い百貨店に買い物に行かなければいい話だ、いつもの開発や大和田のショッピングセンターかチェーン店で十分なのに‥。2度の使いを頼まれ仁保は疲れきった顔でエレベーターに乗った。

売り場に着くと誰もいない。通りかかった店員に商品の引き渡しについて聞くと、すぐ店員を呼んできますといって奥に消えて行った。

「あら」

聞いた声が聞こえた。それは偶然ではなかった。

「こんにちは、先生」

カウンターで受け取り票を出して品物を待っていると、後ろから声をかけられた。振り向くとあの金沢の女性が立っている。

「あれ?」

仁保から思わず声が漏れる。

「わたし、ここのテナントに勤めてるんです。今日はお買い物ですか?」

妻が服を買った店がどこかわからないが、彼女の売場も偶然近くにあるようだった。

「今日は妻に頼まれて服を取りに来たんです。」

仁保は受け取り票を見せた。

「先生には奥さんがいるんですね、わたしに会いに来たんじゃないんだ。あら?」

金沢の女性は仁保の持っている包みを見て言った。

「この商品。もしかして先週いらしたご婦人が先生の奥さまかしら」

そう言ってやや離れたところにあった売上ファイルを持ってきた。

「ええと、あ・東さん?」

「とう、と呼びますがそうです」

「ああ、あの上品な女性。やっぱり!お医者様の奥さまって感じでしたよ。いろいろと仕立てや商品にお詳しくて。なんでも服飾関係の評論も昔してたとか」

「加賀友禅のを少ししてたらしいです」

「そんなことおっしゃってました、色々と服飾の歴史に関して造詣が深くて‥」

「はあ」

「ちょうど先週お品物が在庫切れでいらして、お取り寄せさせて頂いたんですよ」

なんか妻の話と違っていたが仁保は黙って聞いていた。

「先生、お時間ありますか?わたし時短なのでお仕事終わったところなんです」

金沢の女性はそう言うとにこやかに笑った。


その女性と会ったのは今回3度目だった。その日会った彼女はよく見ると存外やせていて身綺麗にしていた。特に来ている衣服や身に着けている装飾品はあまり見かけない物で、自分の妻と方向性が違うことを知った。今日が前と違うからたまたまそう見えるだけかもしれなかったが、とにかくお洒落に気を遣う女性だった。ドトールに入った仁保は訊いた。

「じゃあ、この服で大丈夫なんですね」

さっき受け取ったデパートの包みをあらためて出した。

「先日はすみませんでした。奥様、今日のお受け取りで間に合いましたか?」

話を振られて仁保は動揺した。もうすっかり妻との会話は忘れていたのだ。

「いえ、詳しくは聞きませんでしたが多分大丈夫でしょう」

仁保は言った。

「そうですか、よかった。失礼な話ですよね。」

仁保はなんだか拍子が抜けた気がした。あの時バス停に駆け寄りバスの中に見た彼女は幻だった訳だ。あの時、自分は駅まで出掛けて行って駅で時間も過ごして遅刻して、一体何を期待していたのだろうか。

そう思うと自分のうぬぼれ加減に少し嫌気がさして、ええとだけ曖昧に答えた。女性に会いに駅まで行った自分のことはどうしても言えなかった。

仁保は彼女を見て、やはりこの人はそんな風に自分を待っている人に見えないと思った。気を取り直すと仁保は医者らしくこの前の怪我について彼女に尋ねた。

「ところで目はどうでした?金沢で村田医師は診てくれましたか?」

喫茶店の静かな空気の中で、仁保はようやく医者らしく怪我の事を聞いた。

「はい、とてもいい先生で。」

女性の眼はもう何ともないとの事だった。あの後すぐに救急で精密検査を受けたらしい。薬も処方され目の痛みは翌日にはすっかりとれたとのことだった。

「あのときはこのまま失明してしまうのではないかと思いました」

女性は仁保を見て言って。仁保はドトールの抹茶ラテを一口飲んだ。

女性は小さなカバンから名刺一枚を取り出すと言った。

「わたし、救急の方から先生の名刺をもって、ハンカチと一緒に持って帰りました。名刺を見て先生も福井だと知ったんです。先日、福井駅で偶然先生をお見かけしたのに、ちゃんとお礼を言えばよかったですね。そうそう、お借りしたハンカチをお返ししなきゃ。」

彼女は仁保にハンカチを手渡した。ハンカチは綺麗な包みに入っていて糊付けアイロンされて新品のようだった。それと一緒に百貨店の包み包まれた菓子折りを渡した。

「これは?」

「怪我の時のお礼です」

仁保は謙遜したが、最終的にはそれを彼女から受け取った。


「へえ、学芸員を目指していたんですか?」

しばらく話し込むとやがて話題は彼女がここに勤める前の話となった。

彼女は自分が専攻していた日本美術に関する専門書を持っていた。

 「はい。今のお店に勤める前、一刻ですけど。博物館も美術館もいまはどこも人員削減で人を採らなくて、それで私もあきらめました」

 女性は言った。

彼女が持ってきたその資料には、鮮やかな写真付で古今東西の名作が網羅されていた。特に彼女のお気に入りは、その資料の中の永平寺・傘松閣の天井画の頁だった。

パラパラと仁保がめくると目立つ付箋のついたページがあり、それがその頁だった。

別名、天井絵の広間。その名の通り天井いっぱいに200以上の彩色画が描かれており、数年前に仁保もはじめて永平寺で実物を見た時はその美しさに感動を覚えた。彼女もこの永平寺の天井画がお気に入りらしい。

「永平寺でこの天井画を見上げた時、直感的京都文化にどことなく似ていると感じました。やはりこの辺りには京都文化の“承継”、大規模な文化伝播があったのではないかと思ってます。」

 「それは越前の朝倉家の歴史に被さってのお話ですか?」

歴史に詳しい仁保はその話を聞いて、それは北陸の中世文化の淵源を一乗谷の朝倉氏が庇護した京都文化そのものに求める話であると理解した。

「そうです。金沢はよく頻(しき)りに北陸の京都だと言われますが、それは往年の福井一乗谷に倣った結果じゃないかと思うんです。京都から戦乱を避けて逃げてもいつかは戻るのです。さすがに加賀の金沢までは逃げきらないでしょう、それじゃ定住してしまいますよ。いい所、一時的な避難の場としては越前の嶺北地方くらいまでが関の山です。そして、その後織田信長に一乗谷が焼かれてしまって以後は、天下の趨勢も固まってきて、北の庄そして福の井へと越前の中心も移り変わり、京の戦乱はもう関係ありません。」

「へえー、お詳しいんですねえ」

服屋の店員らしからぬその話に仁保は感嘆の溜息をついた。

仁保も彼女が持ってきた専門書の写真にいつの間にか目を奪われていた。

「僕はこの永平寺の天井画を見て、四国のえーと、金刀比羅宮、そう、あの奧書院の『花丸図』を連想しますね。細密画の書き方に両方とも京都由来の艶っぽさが残っていて・・」

「伊藤若冲ですね、時代が近くなりましたね。彼の絵も素晴らしいですよね。ええとこの資料にも載ってたかしら・・。」

 そう言って彼女はパラパラと資料をめくり始めた。


彼女がこんな本を持っていた理由が分かった。

先週、買い物に来た際に百貨店の売り場で妻が彼女に色々質問した際のことだった。

「色は同じだけどこれはテンセル製ね。注文したのは麻混合のもっとしっかりした肌触りの物だったはずだけど」

対応した彼女が服を用意すると、肌触りだけで凡その素材を言い当てた妻は品質表示タグを細かく見ながら聞いた。妻は今まで来た客の中でもっとも衣料素材に造詣があるように彼女には思えたらしい。

「いえ、お客様のお問合せいただいた商品はこちらではないですか。お品番号がKRW-OBM0507b・・」

「ああやっぱり違うわね。わたしがほしいのはKRW-OBM0510sbよ。リネンコットン地ではない方の特製素材のだから」

「リネンヴィスコースストレッチワンピース(H51)S」

「これはそれのH50)bでしょ」

「申し訳ありません」

「いいわ、もう。どこにもないのね」

妻はそれを知ってすぐに去ろうとしたらしい、しかし彼女は引き留めて詳しく話を聞いたようだった。

「・・・・そうなのよ。金沢の大和にも聞いたんだけど在庫がなくて。先日電話したらこちらには在庫があるって言うから来てみたのよ。でもどうやら型番違いだったようね。」

「至急お取り寄せいたします。福井にはここしか取扱がありませんので、少々お時間を・・」

彼女が何とか粘って東京本店をはじめ各店舗に問い合わせたところ、有楽町店にどうやら在庫が一つあることが判明した。それで一週間後に取り寄せで取りに来てもらうことになったようだ。

目当ての商品があって満足したのか、妻は彼女に向かってそのあと色々と世間話をしたらしい。

「加賀友禅の会ですか。奥様それですばらしい目をお持ちなのですね」

「名前だけよ。今時友禅なんて一生に一度着ることや買うことがあるかどうかじゃない。実用性のない趣味の世界よ。洋服はやっぱり自分でこうして高価過ぎないものを買いにこないとね。」

「はい」

「それでも、そんな会合だから。毎回違うものを着ていかないとだめなのよ。皆さんよく見てらしてて、着物に相当気を遣わないと後で何を云われるか分かったものじゃないから。今日は無理言ってごめんなさいね」

話は加賀友禅のもとである京の梅染めや絵文化にまで及んだそうだ。それで彼女は日本美術史を専攻していたので、その話を友禅の梅染と合わせて是非妻にしたかったそうだが、時間が来てとうとう機会はなかったのだという。

「学芸員になれなくて、生半可な気持ちで仕事をしてたことをその時痛感したんです。奥様に比べてこだわりがまるでない自分に。それで通勤の合間にまた勉強しようと、あの頃の本を読むようにしたんです」

仁保は話を聞きながらプライドの高い妻のことを思い返していた。あんな友禅の会にすら同じ服を着て行けない悩みがあったとは知らなかった。妻の感じる窮屈さを自分も感じた。妻は金沢の馴染みの店にでも買い物に行きたかったのだろうか、多分そうだろうと思った。福井にはここと北之庄通り何軒くらいしか店はない。それらも若者向けで妻の嗜好に叶うところはあまり無かったからだ。


 彼女はコーヒーを一口飲みむと本をカバンに仕舞った。

 「先生、私もう32になるんですよ。結婚したい人がいるんですが最近あまり上手くいってなくて」

彼女は急に自分のことを話始めた。

 「早く結婚しても別にいい事はありませんよ。」

突然の話に仁保は月並みな言葉しか出ない。

「男の人はそうでしょうけど女には出産がありますから。若い方がアドバンテージがあるんです」

女性は俯いて抹茶ラテを啜ると言った。 

「実際どうです、先生から見て。私歳相応の女に見えますか?」

「ええと」

仁保は答えに窮す。

「それこそ初めて会った時、子供が一人くらいいる風に見えませんでしたか」

仁保は何も答えなかった。

「き、既婚者かどうかで自分は人を見ませんので。」

女性はふうんと言って少し黙った。

「でも私には先生が結婚なさっている事がすぐに分かりましたけど。」

彼女は当惑する仁保の右手を見ながら言った。

「その指輪です。男の人は結婚してないとそんな指輪しないでしょ。すぐに分かりましたよ。」

そう言って彼女も同じように左手の指を見せた。

「彼にもらったものです。でもただの指輪ですよ。」

彼女の指には高そうな金色の指輪が光っていた。

「その点、女は指輪で見極めるのが難しいですね。」

意味深な言葉の連続に仁保は会話を早く切り上げたかった。どうもさっきから居心地が悪い。

「自分が幸せかどうか分からないのはみんな同じです。あなたには多分その指輪が導いてくれるんじゃないですか」

まるでゲームの一シーンのようなセリフを仁保は言ったが、彼女は何も言わなかった。


「わたし、この辺を歩くのが好きです。」

ドトールから駅までの帰り道、北の庄通りを歩きながら彼女は言った。

駅から少し離れたこの通りはブティックやセレクトショップが並んでいる。東京などの都会の洒落た雰囲気をこの一角は醸し出していた。それこそそんな大都市の通りに比べれば規模は大したものではなかったが、この通りの数百メートルは駅周縁でも洒落て異質な雰囲気を出していた。

やがて手前に小さな神社が見えてきた。商業ビルの裏手に昔ながらの木製の神社の建物が現れる。こんなこところに神社があるのだろう、それも申し訳程度に狭い敷地である。

神社の境内には池が小さなお濠のように整備されている。

「この場所に来ると落ち着くんですよ。昼の休み時間にたまに歩いてます」

「ここは元々のお城があった場所ですね。北乃庄。徳川結城氏より前、柴田勝家とお市、さらにその前にも朝倉氏の居城があったとか。石垣があるでしょう、あれ本物ですよ。」

仁保は剥き出しになった石垣に触れた。

「歴史好きの友人に前に聞いたんです。ここは今風に言えばパワースポットですね」

福井城址は違う場所であるので、ここが城跡だと言われてピンとくる人はいないだろう。友人の話の受け売りに仁保はそのまま話した。

「あっちの福井城は、福の井という有名な井戸があってそれが城の名前のもとになったとか。市役所の裏の井戸のことですよね。お堀も立派でお城と言えばやっぱりあそこですね。」

そう言うと彼女は押し黙ってしまった。

「わたしあまりあそこは好きではありませんが。」

「お城が?」

仁保が訪ねると言った。

「いえ、井戸が・・むかし怖い経験をしたことがあって・・。」

彼女はそれっきりその話はしなかった。

神社の近くには仁保たちの話通り、柴田勝家とお市を偲ぶ由来を記した立て札が立っていた。仁保たちはそれに見入った。庭の池には植えられた水仙の群生が橘樹の陰に隠れて静かに咲いていた。

やがて、彼女は腕時計を見てそろそろ行かなくてはと言った。仁保も一緒にそこを出た。


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「刀根坂付近で景行様、道景様、ともに自刃。重臣の山崎様、斎藤様はすでに討死しております。わが軍主力本隊はこれで壊滅でござる。」

早駆けからの知らせを携えて伴(ともの)仁保は本陣の兵議に馳せ参じ、親方朝倉義景に直接戦況を申し伝えた。この本陣とて幕外の守備すらいまや新参兵が固めている有様だ、古参の兵士たちは先日の砦戦ですでに多くが討たれていた。撤退の先陣をきり敦賀の疋田城に向け出立していた義景の一行だったが、ここまで早く織田の追手が追いつき壊滅の時が来るとは思いもよらなかった。

「先日の大嶽砦以上の損害か・・。総撤退はやはり無理な策だったか。」

義景は暗にこの撤退策を批判するような言葉を発したが、もはや家臣の誰も 批判を受け入れなかった。

「親方様、あそこで徹底抗戦したところでさらに全滅の時期を早めただけに過ぎませんぞ。」

家臣の誰かが言った。撤退戦の難しさを知ってか義景もそれ以上の言明は避けた。みな青ざめた顔をしている。先ほどの報告で一門の道景様が討死されたのを知ってそれがこたえていた。あの若君が、将来ある朝倉家のご長子だというのに何ということだろうか。

伴家の武将として織田との戦闘が激化して以来、朝倉義景に従い本陣にいた仁保であったが彼の眼にも朝倉軍の劣勢はもはや明らかだった。

信長は本当に悪魔のような男だった。大嶽・丁野で壊滅し降伏したはずの朝倉の兵は捕えられずそのまま追撃された。押し寄せる敗残兵もろとも朝倉軍は攻撃され続け更なる混乱の極みにいた。兵は寝返っても戦っても織田軍に結局は討たれるのみだったのだ。

「だめじゃ、もう疋田城(敦賀)までは持たん。一度、一乗谷に戻ろう。」

実際敦賀の朝倉荘は織田側の内通者によって調落され寝返ったとの情報があったので、親方義景の発したこの一言に反対する家臣は一人もなかった。

この言葉を聞き仁保は、出立前に諏訪御殿で丹平と交わした会話が脳裏を掠めた。


「仁保どのには本陣の近衆として、どうか親方様が無事一乗谷にご帰還できるよう力を尽くしていただきたい。」

浅野軍の近江志賀での守りの崩壊以来、戦局は急激に悪化しつつあった。いまや朝倉家存亡の危機に際して城内番の仁保にも出陣の命令が下る有様で、戦況も絶望的だった。着慣れない真新しい甲冑武具一式を身に纏った仁保は出発前に諏訪の姉さまに挨拶に出向いた。その帰りに仁保は丹平と会った。

「どうやら丹平どのご采配らしいですな、朝倉家の外戚ですらないわたしが親方様の本陣近衆として出陣するなど普通ではあろうはずがありません。」

仁保は出陣前から最前線で戦って散ること覚悟していた。この戦いで命を賭して奮戦することを既に決めていたのだ。しかし思わぬことに彼は本陣付での務めを下命された。そこにどのような力が働いたのかは不明であったが、実戦経験のない仁保をそれ以外の役廻り方に配属させようと誰かが具申したことは明らかであった。丹平はそれに取り合わずこう言った。

「そう申されるな。そなたは城を出て行けぬ私の代わりに重要な任を担っておるのだ。仁保どのには、親方様を私の代わりによろしくお守りお頼み申す。本陣にて親方様をお守りし一乗谷まで無事帰還をされたい。貴殿に合戦でそう早々と死んでもらっては困るのだ。仁保どのの任は敵を討つことではなく、親方様をお守りすることじゃ。城内に留まり親方様の一族を守るのが私の使命であるなら、城外で親方様を守るのが仁保どのの使命じゃ。警固役とは不憫な役周りでな、この危急の時すら城に籠れと下命されるのだ。敵の一首すら刈くことが出来ぬ、まさに名ばかりの武士ぞ。」

思えば、城塞戦に関しても陣形戦に関しても守りという点では理論家の越廼と伴仁保はその造詣に長けていた。いつも城内評議場での合戦申し合わせの議でも、攻撃一等辺の朝倉家家臣団の中にあってどのような危機があるのかいち早く気づき対応策を具申出来る者は越廼と彼をおいて他にいなかった。この点越廼丹平の采配は当たっていた。仮に仁保がそのまま前線に赴いていれば、敢え無く最後を迎えていただろう。

「そうだ、仁保どのは実戦用の刀を持っていなかったな。これを使うとよい、一昔前の太刀だが軽くて威力がある。」

丹平は自分の懐刀を渡すと言った。

「親方様がもしもの時はそれが朝倉家の最期の時じゃ。その時、警固役のこの刀で親方様の介錯をするのがそなたの役目だ。そのことをしかと肝に銘じ、そのようなことが無きように親方様をお守りいただきたい。」


丹平と交わしたあの時の会話は出立してから片時も脳裏を離れたことは無かった、仁保は意を決して言った。

「お方がた、どうぞこのままご手勢の一部を引き続き敦賀に向かわせられたい。付いては親方様のお輿や馬など身の回りの一切を敦賀に向かう者にお委ね頂きたい。これは警護役の越廼様より賜った御下命である。」

仁保の思わぬ提案に一同どよめいた。中でも親方様の横にいた年老数名が詰め寄って来た。その中に剣豪勢源の弟、富田治部左衛門もいる。腰に勢源譲りの三尺刀を携えて仁保に向かった。

「立場をわきまえよ!親方様から輿を召し上げて馬から降りよと言うのか。無礼千万極まりなし。」

しかし仁保は動ぜず言った。

「いまは困難な撤退戦の最中。平時ではないのです。万が一のため本陣を二手に分けるべきです。輿や馬だけではありません。本陣旗印、馬印、その他凡そ本陣の証となるものはすべて敦賀へ向かう手勢に持たせるのです。」

近衆たちはこの提案に更にざわめき始めた。馬印を放擲することは家門一代の名誉を捨つるに等しい行為だからだ。

兵議場が仁保の一言で不穏な雰囲気となる中、お方様の背後に立っていた一人の男が言った。

「陽動か。名誉ある家門も何もかも捨てて。」

朝倉景義の一番の近侍・高橋景業その人だった。仁保は初めて相対した相手に臆せず言った。

「うまく行けば追撃の手を二手に分けられ、この本陣への危険を逓減できます。一乗谷に無事帰還した暁には、名誉などすぐに挽回できることでしょう。」

仁保のこの教説じみた言い回しに、とうとう何人かの取り巻きが大声で抗議した。

「身の程をわきまえよ!」「妄挙だ!」「恥を知れ!」

怒号が一斉に仁保に降りかかる。刀さえ抜きかねないその空気に仁保は命を覚悟した。

「三段崎の六郎どのはおるか!」

高橋景業が大声で幕内へ呼び掛けた。兵議場の中ほどから返事があり、しばらくして三段崎公が前にやってくると景業は告げた。三段崎は思いのほか年老いた将軍であった。

「三段崎どのはお方様と同じく朝倉高景公を祖とする朝倉家のご直系。この本陣の中にいる誰よりも朝倉家の馬印をお預けするのにふさわしい方と思われます。お方様如何でしょうか?」

その言葉に今まで黙って目を瞑っていた景義が目を開き、遠目に三段埼を見ると言った。

「三段崎公、このままわしの代わりに敦賀まで行ってはくれぬか。」

弱々しい声で三段崎氏に問いかけるその顔に、もはや往時の覇気はなかった。

三段崎公は年老いた体躯を揺らしながら大きく頷くと言った。

「親方様、どうぞおまかせください。」

そう言って頭を下げる三段崎氏の声を聴き、兵議場にいた者はみな感極まると頭垂れて大いに涙した。明らかにこれは囮策であった。もはや朝倉家は親族すらおとりに出さざるをえない状況なのか、その現実を目の当たりにした瞬間であった。

一方でこの案が通ったことで仁保はひとまず胸を撫で下ろしていた。これで本陣が一乗谷へ帰還できる可能性が少し高まったはずだ。お方様の命を受けて高橋がすぐに配下に指示を出す、敦賀までの陽動隊の具体的な人選および編成を速やかにするよう命令した。

伴仁保は深々と礼をすると、消沈しきったこの兵議場を後にした。脇差には丹平から受け取った麗美なあの太刀が下がっていて歩くたびにカチカチ金属音を鳴らす。幸いにしてこの刀を使う機会はなさそうだった。兵議場をあとにしながら、高橋に上程されるであろう今後の陽動策兼撤退策についてすでに頭の中に一乗谷までの道程の地図を描いて仁保がいろいろと予想を巡らせていると、先日織田軍に射抜かれた足の甲がひどく傷んできた。行軍には馬があるとはいえ、陣中を歩くときは痛みのあまりこうしてびっこを引いている。矢尻は抜き取り、薬草で応急手当はしたものの傷の治りは悪く悪化しているようだった。なんとか一乗谷に戻るまではこのまま悪化せぬようにと仁保は願った。彼にとって戦はむしろこれからで、この撤退戦が成功し親方様を無事一乗谷城までお守りした後こそ、彼本来の城代普請役として役目を果たそうとすでに様々な城の防備策について思いを巡らせていた。彼の見立てでは、あの古い山城の守りの強化のために取り組まねばならないことはそれこそ多数存在していたからである。

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 その日、午前の診療終了間際に急患が入った。たまにこんな日もあるが、仁保はその患者の気が抜けない状況のなか何とか最善の措置を取ると診療を終えた。とりあえず応急処置を施されると、設備の関係でここでは対処できないため患者は別の病院に転院されていった。なんとか命は繋いだもののこの患者はそう長くは持たないとだろうと仁保は予感し救急車を見送った。

昼休みに休憩時間に病院事務から連絡が入った。

 「先生にどうしても面会したいという方がいるのですが」

 来訪者の名前を仁保は知らなかった。用件を聞くと先日の件でとの事であった。仁保には先日の件にまったく思い当たるフシが無い。最近おかしなことを言って診療中に医者と面談しようとする者がいて問題になっていた。仁保は用心して連絡先を聞いて今日は帰ってもらうように病院事務に伝えた。

 診療が終了するころには仁保は昼の事をすっかり忘れていた。しかし帰り際に病院事務から又連絡が入った。昼に面会に来た者から電話番号をひかえたらしい。昼間の様子だと存外しつこそうだったのでまた来られても困ると、仁保はとりあえずこの電話に掛けることにした。

 「もしもし、福井大附属病院の東ですが。あの、謝礼でしたらお気持ちだけで結構です。当大学病院の倫理規則で診療外の金員は受け取れないルールとなっておりますから・・」 

仁保はろくに相手の話を聞かず一方的にそう言った。するとー、

「先生、わたしです」

電話からは聞き覚えある声が聞こえた。


仁保は呼び出され彼女と会うのもどうも気が引けた。これでは毎週会っているようなものだ。そもそも自分たちには会うべき用が無いのだ。

この前のドトールに入ると彼女が待っていた。

「先生すみません、またお呼び立てして」

先週とはまた違った出で立ちの彼女が仁保に挨拶をする。この前座った席の近に立っていた。

「急に病院を尋ねてきたみたいだったからびっくりしましたよ。どこか調子が悪くなったのかと」

「すみません」

「ところでお話というのは?」

この前と同じドトールで席に向かい合って座ると、彼女は滔々と話を始めた。 




しかしこれ以上、意味も無くこの女と会うのはまずい気がする。今日出掛けに妻が自分を見て言った一言が脳裏に浮かんだ。



この時初めて仁保は彼女の名前を知った。


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戦乱の京から多くの人々が移り住んできて早一世紀。仁保がそこを出発するとき、一時は一万の人口を数えたこの一乗谷城に往時の面影は何も無かった。

伴仁保は混乱する住民たちの集団に交じりながら街道を越前・敦賀方面に馬に乗って移動していた。織田軍との合戦に負けた朝倉氏は一乗谷に帰り着くと、すぐさま領民にこの一乗谷を捨てて去るように命令を出した。もとより命令の出る前に敗戦の報を聞き朝倉家を見限り一乗谷を捨てて逃げる住民も多くいた。避難民の大半が大野方面を目指す中で仁保が越前方面に向かっていたのは敦賀に避難するためではなかった。その途中、北乃庄の朝倉土佐守景行の館に寄るためである。足羽川に沿って北陸街道は敦賀へ繋がっており、大半の避難民は途中で越前方面へ南下して行ったが伴はそのまま川沿いに進路を進めた。しばらく進むと川の向こうに地平線が霞んで見えるほど一面に広がる平原が現れた、のどかなこの牧草地帯の風景に合戦で供出されたのかいつものように草を食む騎馬の姿は殆どなかった。

この先、北乃庄の越前朝倉家がますます発展していったなら・・・。かつて伴仁保は考えたことがあった。この三方を川に囲まれた大平原の地は大きな城を築くのに適している。この無尽蔵に広がっている平原の牧草で数千の騎馬を養成することも可能だし、近くを流れる九頭竜川を下っていけば日本海に面した港があり将来貿易港として活用することもできる。なにより背後の山々さえしっかり押さえれていればこの地からは京都にいくらでも睨みを利かせることができた。本来、一乗谷の山奥よりこちらに朝倉の本拠を置くほうが堂々としていて仁保の性格に合っていた。いまここには妻・空の生家である土佐守朝倉家の出城・北乃庄城がある。いまだ出城というよりは砦の類だったが、土佐守朝倉家が今後多くの武功を立てていけば、将来この地に近代的な石城を築くことも可能だと思っていた、それは仁保の長年の夢であった。しかしその夢ももはや叶いそうにない。

頑強な砦のような北乃庄城の屋敷の前に立つと伴は周囲を見渡した。合戦前あれだけ居た土佐守朝倉景行家の手勢もいまや数少ない、数人の少年が木柵の前で見張りに立っているだけだ。馬を降り屋敷の中に通された仁保は、奥の間で残された景行の家来や家人たちと座して話をした。家人たちに織田との合戦の情勢や景行様について伝えるとともに、ここも織田軍の手に落ちるのは時間の問題だろうからと速やかな退避を促した、みな家人は主人景行の最後を知ると頭をうなだれ涙していた。

 仁保が席を立ち館の裏に出ると、妻がいた。合戦の間、万が一に備えて実家であるこの館に避難させていたのだ。しかし朝倉軍の全面敗北となったいま、この生家の砦は織田軍の猛進の前にはあやうい風前の灯火に過ぎなかった。

 着物姿の妻は悠然と夕涼みでもしているかのように落ち着いた様子でゆっくりと歩いてきた。

「ご無事で?」

「ああ。」

夫婦はそれきり話をしなかった。ぼんやりと庭に佇んで今は亡き館の主が植えた水仙の群生を見ていた

「ただ景行様と館の方々が・・みな・・・・。」

伴が言葉を濁らすと妻は平然と言った。

「ええ、聞きました。もうこれで北乃庄、土佐守朝倉家も終わりですね。」


「ねえ、あなた。」

滅び行くこの越前の、透明な夕焼けの薄光線を全身に浴びながら、妻の空は言った。

「うちの親方様は戦(いくさ)に弱いのでしょうか?」

滅多なことを言うものではないと思いつつ、仁保はその言葉を遮りその理由を尋ねた。

「なんで空はそう思う?」

「だって勝てぬじゃありませぬか。長年戦にも出て行かず家臣や親戚が頼みの綱で・・・。そしてとうとう彼らも言うことを聞かなくなってからいざ自分が戦に出て行ってみれば、・・・・。」


いや違う。親方様にとって戦というものは、東国の蛮将のように領地を広げたり京に入ったりするものではないからだ。そんな野心があの方には毛頭ないのだ。武田や織田のように兵や軍をもっぱら自分の力の誇示や領土拡大のため使おうとはしない、領地の家臣、民を守るためにこそあのお方は戦っているのだ。しかし伴は言葉にすることは無かった。こうして親類や近衆をすべて失い生家の没落を前にしている妻にはどんな言葉もいまは届かない。

「なあ、空。これからのことなんだが、ひとまずお前は敦賀の疋田城にいる遠戚の朝倉家を頼って逃げるがよいと思う。越前への織田軍の侵攻も時間の問題だが、ここよりは安全だ。」

そう言って伴は懐から敦賀朝倉氏への書状と金子の入った布袋を取り出すと、空に渡そうとした。

「あなたはどうされるのです?」

空は落ち着いて言う。

「これより一乗谷城に戻り最後の普請に取り掛からねばならん。またしばしの別れじゃ、達者でな。」

空は押し黙ったままなにも言わなかった。

「なあ空。おぬしは私とは違い朝倉家直系の血を引くもの。より命をつながねばならぬ身じゃ。わたしと一緒だと危ういのだ。」

それでも空は押し黙ったまま何も言わなかった。

あたりの庭の人工池には今は亡き主より植えられた水仙の群生が咲いていて、傍らに立つ先代の植えた橘樹の陰で夫婦の会話を聞いているようだった。

仁保の言葉に空はしばらくは黙っていた。


妻・空とは北乃庄から戻ってきて以来、一言も口を利いてなかった。

あの日、空が仁保の言いつけを初めて聞かず、毅然と言い放った言葉が今でも仁保の心に突き刺さっていた。

『いいえ旦那様、わたくしも朝倉家の人間としてこれから一緒に一乗谷に戻らねばなりません。これは朝倉家への私の最後の務めでございます』

伴家に嫁いだとはいえわが妻は朝倉家の血の流れる女だ。もう好きに過ごせばよい。

今朝も城内の普請周りに出立する仁保より先に姫様のご出立の準備があるからと馴染みの旅籠屋に最後の挨拶に行ってしまった。なんでも長くつとめた妻のために羽織物を下さるのだと昨日花方の旦那が言っていた。朝餉は用意してあったので仁保はそれを平らげながら、ひとり囲炉裏にて今までのことを思い返していた。


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 東尋坊の入り口にある電話ボックスの横に小さな花束を置くと、父は線香の束を焚いて手を合わせた。 その日は朝から天気は良かったが、昼前に東尋坊に着く頃にはパラパラと雨が降り出した。そのうち三国港から東尋坊に向かうにつれて風は強くなり、雨も本格的に降り出しそうな気配となったことを覚えている。

 駐車場で車を降りるとき、強い風が吹き返してきてあやうく車のドアに手をはさみそうになった。

 父に連れられて東尋坊への入り口から、海鮮食堂やお土産屋のある商店街を歩いて抜けて坂を下って行くと、目の前に海が見え見晴らし台の手前まで来た。

 強い風で海は荒れていた。これ以上近付くと危ないからと父は断崖からちょっと離れた場所で止まった。そこからしばらくの間、親子2人で黙って海を眺めつづけた。

 その内、父が帰ろうと言ったので私達親子はそこを去った。

 幼な心に鮮明に憶えているのだが、帰り路にすぐそこにぼんやりと聳える高い建物をふと見たことだ。かなり高い四角い箱のような形をした建物で、それが灰色掛かった白地に印象的な薄い青と薄いピンクの淵取り線のある、東尋坊タワーだった。

 自分はなぜかそこに行けば母に会える気がした。父にその建物を小さな手で指差して「お母さんはあそこにいるのかな?会いに行きたいよ。」と話した。母を無くしたばかりの私を不憫に思ったのか、父は易々と自分をそこへ連れて行ってくれた。

 東尋坊タワーの展望まで上がると、海がはるか彼方まで見渡せた。しかし、その展望台の中に期待した母の姿は無かった。 

「やっぱりお母さんはここにはいなかったね。でも見て御覧、海が真っ蒼で綺麗だよ。」

 父はそう言って、長い間海の彼方を黙って見続けていた。


 篠原探偵社(金沢市)と下の方に名前が小さく印刷された薄緑色の封筒をテーブルの上にポンと出すと、妻は静かに言った。

「もう分かっているんです。あなたが外でこの女に会っていることは。証拠だってありますよ、中を見て御覧なさい。」

 突然のことに仁保はとまどったが、何ら言い訳をするような事はしてないため、強く言った。

「御覧なさい・・・って。こんな興信所まで使って、いったいどうしたんだ。俺が浮気でもしているとでも言いたいのか?」

「しているとでも、ですって?」

 妻は封筒を手に取ると、中にあった報告書と数枚の写真をテーブルの上にをぶちまけた。写真に写っているのは仁保本人と慈央さんと思われる女性だった。いつもいくイタリアントマトで楽しげに語らっている所だった。

「外でただ知り合いと話をしているだけじゃないか・・・。」

「へぇー、あなたのお知り合いねえ。あなたとこの人どんなお知り合いなのかしらねぇ。説明して下さる?」

「説明も何も、そもそもこれのどこが浮気になるんだよ。」

「世間ではこれを浮気と言うんです。誤魔化さないで頂戴。」

 ぴしりとそう言い切る妻に、仁保は何も言えなかった。

 妻は報告書を淡々と読み上げた。

 「『慈央 空乃(ジオウ ソラ) 福井県福井市新保1丁目504-202 34歳 独身 本籍地 福井県鯖江市糺町10 西武福井23区販売店契約社員。』

・・・あなたの彼女よね、その人。」

妻は軽蔑するような冷めた表情で、仁保に言った。

「多少私より若いからって私に対する当て付け?」

 妻の怒りは収まらない。仁保は言った。

「当て付けも何も、そうやって他人(ひと)を貶すような発言はやめなさい。失礼じゃないか。」

「あなたこそ、いい年して恥ずかしくないんですか。自分の家族を愛する義務を果たさないで、外で一体何をやってるの。」


 妻はもともと金沢の出身で、福井に住むことをはじめから由しとしなかった。結婚当初は何度も金沢にある大学病院や総合病院に転職は出来ないものかと、仁保に再三掛け合っていた。

 金沢でも由緒のある染め物問屋の出の家柄の出、そこの跡取りの長女であった妻は若い頃には東京の大学に通っていたらしい。プライドが高く勝ち気で、何でも競争と捉える傾向が強い女だった。

 仁保が医者だったから彼とすぐに結婚したというのが彼の周りの人間の感想だった。医者と言う職業の夫に、何かしらのステータスを求めていたのかもしれない。

 しかしはっきり言って医者など、うまく行っている開業医以外はそれほど儲かるものでもない。割に合わない仕事も多い。大学の附属病院に勤務する自分を見て、妻も結婚後はそれに気付いたことだろう。

 金沢にある妻の実家に結婚前行ったときに、妻の性質の源流を感じたことがあった。妻の実家はその町の名士の後裔で由緒正しき家柄であった。その父親も名家の出を気取っているような人物だった。仁保が医者であることに、なにか一定の尊敬を表してはいたが、義父はこの世の中で医者や弁護士以外の者は碌な仕事が出来ない人間だと決めつけていて、自分が商家であるにもかかわらず商人を馬鹿にしていた。

「十のものに色を付けて十五で売る。中には百で売るようなやつもいる。そんなもの儲かるのは当たり前です。世の中に、商学なんてものは無いのです、ただ商才のある者が幅をきかせて威張り、そのうち政治や経済のことまで口を出すようになるだけです。だから、世の中はますます駄目になっていきます。先生もそう思いませんか?」

 妻の父は、私のことを決まって先生と呼んだ。最初の内は何だか嫌で変えてもらおうと思ったが、もう今ではどうでも良くなってしまった。しかし、自分の患者でない者から、先生と呼ばれるときの違和感だけは何時迄たってもなかなか拭えなかった。


「東先生。それ完全にアウトですよ。」

目前に娘の有名私立小学校への入学を控え、終始上機嫌だったムロハシはその話を聞くと急に態度を変え、仁保に向かってそう言い切った。

「だってその女性は患者でも何でも無いんでしょ。なぜ外で定期的に会う必要があるの。不自然な感じですよ。」

 ムロハシは、何か嫌な話でも聞かされたかのように言った。そしてビールジョッキを空けると獅子唐か何かの串をつまんで食べた。結婚以来、奥さん一筋で健全で幸せな家庭を築いてきた彼にとって、今、仁保が話をしたことは全く分からないことだった。

「やっぱり、そうなるか。」

「そうなるも何も。それが患者さんだったとして、病院の外で会うなんてどうかしてます。」

正論を吐き続けるムロハシの言葉に、仁保は何も答えられなかった。

 「信用。東先生の行いは自分の信用を貶めるだけですよ、忠告しておきますけど。」

 そう言ってムロハシは一串だけ残っていたムネ肉の串をつまむと辛味噌を付けずに食べてしまった。空の焼き鳥皿には使わなかった辛味噌だけが残った。

「会ってもお茶を飲んでいる丈(だけ)だから、会っても話をしている丈だから、大丈夫。なんて、そんなこと絶対に無いですから。不倫は不倫ですよ。でも、その女性もちょっとおかしいですよ。ずれてますよ。既婚者と知っていて寄ってくるなんて普通じゃないですよ。」

ムロハシの言葉は容赦がなかった。




「もう会えなくなりました。これでお別れです。」

仁保は席に戻るや否や、開口一番こう告げた。

 空乃の口から声にならない声が出た。その声は2人とも聞き取れなかった。この前先生からもらった誕生日祝いのお返しに今日空乃は今から仁保に渡そうと西武福井で買った許りの菓子の包みを、ビニール袋の取っ手を手に握りしめて、膝の上に置いていた。

「それは、東先生のお意志でお決めになったことですか?」

 息を飲むようにそっと夏空(そらの)は訊いた。

「ちがいますよ。でも、もう会えないのです。」

 仁保は理由を言わなかった。

「そうですか。私と会うのが嫌になったのですか、わかりました。」

 空乃は仁保から顔をそむけると、暗い表情で鞄を持って立ち去ろうとした。

「それは違いますよ。嫌いとかの話ではなくて、今回はやむなくそういう流れになったのです。」

 仁保は空乃を席に引き止めると、早口でまくし立てた。

その後、しばらくはお互い黙ってしまい、2人が飲み物を飲む音だけが聞こえていた。


 長い沈黙の後、夏空(そらの)は決心したように言った。

 「わかりました。でも最後に聞かせて頂けませんか。あの時、先生は誰かに似ているといって病院でむ私を引き止めました。あんな真剣にそう言われたのはじめてだったもので、今でもよく覚えてます。先生、その人の特徴について最後に教えてほしいんです。」

「空乃さんに似ている人の?」

「はい。」

 思わぬ問いに仁保は躊躇したが、気が付くと仁保は自分がよく見る夢の話を空乃にしていた。空乃はグラスのストローをかき回しながら興味深そうに聞いていた。

 「実は、空乃さんに似ている人というのは夢の中で会う人の話だったんです。ここ最近はあまり見ないのですが、真夏とか真冬の時期に自分は決まって体を壊すことがあって数日間高熱が出て寝込んでしまいます。その時、体中が灼熱のように熱を帯びてうなされながらいつも同じ怖い夢を見るのです。始めにいる場所は華やかな都のような所で、そこは古い家々が連なり賑やかな人で溢れています。そして決まって自分はそこをあなたと似た人と歩いているんです。顔の輪郭、目元、雰囲気、もう本当に空乃さんとそっくりで、あなたとこうして会っているうちに夢の中でぼやけていたかの女性の顔の輪郭まで思い出せるようになりました。いつも明るく笑っているあの女性と腕に抱いた赤ん坊、町の風鈴の音と穏やかな山からの風を聞きながら自分はゆったりと歩いています・・。」

「夢の中の人だったんですか、わたしに似た人というのは。現実にいる誰かじゃなくて。それが怖い夢?」

唖然として空乃は聞いた。仁保は臆することなく話を続ける。

「だけどあの夢は本当に気が狂うほどの現実感があって。ほんとうにやり切れないほど悲しい夢なんです。やがて場面は急転します、自分はいつしか兵士になっていて自分の国が攻められてしまいます。どこかの峠での血みどろの激しい戦い、斃れる兵隊、焼かれる町、泣き叫び逃げ回る人々、本当に地獄絵図です。自分は必死になってあの女性を探します、誰もいない。最後には炎で灰燼となった屋敷にたどり着きます、するとそこで焼かれた屋敷の井戸の前で子供を抱いたまま泣いているあの女性を見つけるのです。そしてそのまま泣きながら女性は赤子と消えてしまう。そこでいつも自分は泣きながら目を覚ますのです。」


「・・・子供・・井戸。」

 そう言うと空乃はストローを動かすのをやめ、元のように目の前の椅子に座り仁保のことを見続けていた。こんな話をしているときでも彼女が彼に教えたのは、彼自身が感じている彼女の魅力の再確認だった。過去の女性の面影云々(うんぬん)の話しを置いといたとしても、彼女は彼女で魅力的だったのだ。

「でもわたし、先生の夢の中の住人だったなんて、光栄です。」

目の前の夏空(そらの)の魅力に再び気づき始めていた仁保は、 夏空(そらの)のこの言葉で更に決心が揺らいでいた。今自分周囲に、こうまで言って自分の見る他愛無い夢の話を聞いてくれる人間が果たして他にいるだろうか?今後彼女と会わないと決めた契機となったものは、妻のきつい叱咤も、親友の忠告の言葉も、その力を弱めてどこか彼方へいってしまった。いまはただ、夏空(そらの)のことを許容している自分だけが残っていた。

仁保は最後に残ったコーヒーを飲みほすと、話しを終えた。

「詰まんない話ですよね、がっかりしましたか。でもどうして最後にそんな事を聞いたんですか。」

空乃はちょっと考えてから、言った。仁保へ最後の一押しをして自分の方に踏みとどまらせるように。

「先生がわたしを呼び止めた本当の理由を知りたかったから。実際のところ、先生はまじめだから本当に似ている人がいるんだろうって思ってました。口先だけで咄嗟にそんなことを言う人には見えませんでしたから。でも先生、私いろいろ相談したいことがあるんです、先生に。」

 空乃のこの尤もらしい言葉の前にあやうく堕ちるところだった仁保は、妻や子供のことを思い浮かべると最後の力でそれを振り切り言った。

「すみません。でも、先程お話ししたように、もう会えないのです。」

 空乃はこの空振りに、思わず上気して言った。

「どうして。あの時私の事呼び止めたのは。」

 とうとう仁保は観念した。

「今正直に話しました。あの時あなたを呼び止めたのは、本当に似ていたからなんですよ。夏空(そらの)さんが夢の中のあの女の人にとてもよく似てたんです。会って話しているだけで、それだけで心が癒されます。失われた過去の思い出が甦ったような感覚がして、贖罪と言うか、本当に幸せな気分になりました。とにかくもうこれ以上空乃さんの姿を見るのがつらいんです、自分は・・。」

 空乃は真正面から言った。

「私って、先生の夢の中にまで出てくるのに。現実の世界では私の言葉に先生は一顧だにしないのですね。」

 仁保はもう二度と彼女には「会えない」とは言えなかった。

「私はその夢に出てくる女ではありません。そんな女の人この世にはいませんよ。だからちゃんと目の前に存在する現実の私の言葉にしっかり向き合ってくださいよ、先生。」


「だからわたしも、先生にだけ話しますね。」

そう言って空乃は静かに仁保の眼を見た。

「憶えていますか?前に北の庄通りの神社にいった時に話したこと、井戸の話。」

「ああ、初めて会った頃、柴田神社に行きましたね。空乃さんは福井城の井戸を嫌いなんでしたっけ?」

そう、とだけいうと彼女は子供のように頷いた。さして何か打ち明け話でもするかのように、小声で仁保に語り掛けた。

「子供の頃、親戚のおばあちゃんの家に遊びに行った時のことなんです。大野か勝山の方のどこかの田舎だったと思うんですけど、近所の子と遊んでいるうちに変な井戸を見つけたの。」

「井戸?」

彼女はまた小さく頷いた。

「近所の子とかくれんぼしていてね、身を隠そうと思い深い茂みに入り込んだら後ろ向きに雑林に転げて倒れてしまって。気が付くとどこかの大きなお屋敷に入ってしまっていたの。茂みから抜け出すと大きな建物があって、軒に大根だか菜っ葉だかが紐で吊るされているような古いお家だったわ、興味深げに見てると裏の方から子供の叫び声が聞こえたの、びっくりして行ってみると馬小屋があって、その横の井戸から子供たちが一斉に逃げ出したところだったの。」

「近所の子ですか?」

「それが見たことのないような子たちで、みんなちゃんと着物を着ているのよ。泣きながらどこかへ行ってしまったわ。わたしも怖くなって後を追いかけようとしたら、井戸の方から何か呼ぶ声がして。」

仁保はこの話を黙って聞いていた。

 「怖かったけど井戸に近づいたんです。井戸の中を覗いてみると、ずっと下の底に、着物を着た小さな男の子が水に漬かり泣きながらこっちを見ているんです。大丈夫?て聞くと頷くんだけど肩まで水に漬かってて青ざめた顔はひどく震えていて、どう考えても大丈夫じゃないんです。落ちちゃったの?と聞くとまた頷くんだけど体が更にひどく震えて、よく見るともう一人子供がいてその子を抱きかかえながら何とか井戸の壁面に体を押し付けて落ちないようにしてるんです、必死に震える手で汲み桶の手綱を握りしめて。」

仁保は息をのんだ、こういう話を聞くことは昔から苦手だった。

 「ずっと声をかけて励ましていたんだけど、『おねえちゃん、たすけて、おかあさんをよんできて。』と言うと男の子はとうとう井戸の底の闇に飲まれて消えてしまったんです。その子を助けようと身を乗り出したわたしも井戸に落っこちてしまい水面の闇がどんどん迫ってきて・・・・・。その後のことはあまり覚えていないんです。古い井戸跡の窪みに倒れていた私を近所の親子が発見してくれました。そこは大昔に埋めらた井戸の跡らしいんです。転んで気を失って変な夢でも見ていたのでしょうね。」

何か不気味な話で仁保には言葉が出なかった。


 



 なぜだかその晩、仁保は妻と初めて見合いをした時の夢を見た。

あの初めて会ったホテルのレストランの席に妻と2人向き合い、仲立ち人の遠戚のおばさんが席を立つと、仁保を紹介した仁保側の親族の男性と紹介を受けた方の妻側の女性が色々と話をしていたが、当の本人達は全く話が弾まず、居心地の悪い空気が流れていた。

 このホテルのレストランは出る料理出る料理全てが冷めていて美味しくなく、目の前の食事に専念してその空気をごまかすことすら出来なかった。

 当時まだ煙草を喫っていた仁保は、ちょっと断って席を立つと少し離れた所の喫煙所へ逃げ込んだ。

 そこで携帯をいじりながら2本目の煙草に火をつけようとしたとき、妻が現れた。彼女は喫煙所に入りながら口に咥えた細長い煙草に火をつけるところだった。

「あら?」

 妻は仁保を見ると驚き、一瞬口に咥えた煙草を仕舞おうとする素振りを見せたが、ペコリと頭を下げると煙草に火をつけた。

「ごめんなさい。あの、今日来た伯母(おば)には私、煙草はもう止めて吸ってないことになっているので、このこと内緒にして置いてもらっていいですか?」

そう言って妻は笑った。この時初めて仁保は妻の笑顔を見た。 

煙草を一緒に喫いながら仁保は言った。

「窮屈でどうも苦手ですねこういう席は。昔ながらのお見合いそのまんまですね。仲立ち人の方はそれで今まで何組も成功させているのが自慢らしいですけど。」

 妻はふうーっと煙草の煙を吐き出した。細い煙草は減るのが早い。

「そうですね。今回はお料理の方も・・・いまいち、ですし。」

「やっぱり、そう思います?僕も、あんなに冷えた肉料理を出すレストランは初めてですよ。」

「普通、ありえませんよねぇ・・。ここ結構有名なホテルの筈なのに。」

 なぜかそんな話題から妻と話が合い、さっきの席にいるよりも思うことを色々と率直に話すことが出来た。

「・・・・そうなんですよ、自分も断れなくて。あの伯父さん、自分が若い頃もう結婚してすぐ子供も育て始めたものだから、殊あるごとに自分に結婚しろと言ってくるのです。最近は家族にまで言う始末で。」

「あら、私も。私、お話で聞かれた通り、母を早くに亡くしたもので、あの伯母が小さい時からずっと親代わりだったんです。だからあの人が薦めてくるお話は断れなくて、いつもはホテルで美味しいご飯を食べて帰ってくるだけなんですけど・・。」

「残念でしたね。今日はその美味しいご飯すらも期待できそうにありませんね。」

仁保が笑いながらそう言うと、妻はかわいらしい顔を作って頷いた。


「ちょっとこれを。」

 見合いの席に戻る前に、妻はバックからスプレーを取り出すと、仁保へ、そして自分の体にかけた。

「タバコ用の消臭スプレーです。ともて強力ですが、人体に直接かけても無害ですので安心してください。」

 一瞬で衣服や手などに付いていた煙草の匂いが消えた。

「あとこれも、使います?」

 妻はオーラルケア用の口臭除去スプレーも取り出すと言った。

「大丈夫ですよ。買って箱から出した許りの新品ですから。私まだ使ってません。」

 仁保は、用意がいいですねと言うと、せっかくなんで自分の口の中に入れて2・3回スプレーした。口の中に爽やかなミントのような風味が広がり、口に残っていた煙草を吸った後の匂いが一瞬でとれた気がする。

「ありがとうございました。」

 仁保が妻に口臭除去スプレーを返すと、彼女は仁保が使った後のスプレーをそのまま何でもないように自分の口に入れ数回スプレーをした。

 正にこの瞬間、仁保は今まで目の前にいたのに、まるで見えなかった妻の鮮やかな口紅の赤い色を初めて理解した。頬にもうっすらピンク色のチークが描かれていて、彼女は頬の色がきわだつ美しい顔をしていた。この時から目の前にいる女性が単なる場数潰しの見合い相手ではなく、仁保にとって意識せざるを得ない特別な女性となったのである。


「あら、かわいらしい。」

 見合いの席が終わり、ホテルを出ようと長い廊下を歩いていると、ホテル内にある日本料理屋の前を通った。店の前に、宿泊客からよく見えるようにとわざわざ大きな生け簀の水槽が置かれていて、その中を狭そうにフグが沢山泳いでいた。

「これ全部食べられちゃうんでしょうね。包丁で生きたまま骨まで捌かれて…。痛そうで、とても想像したくありませんね。」

 それを聞いて妻が言った。

「東さんって、本当にお医者さんに見えませんね。毎日人の体を切ったり縫ったりするのがお医者さんのお仕事でしょう?さばかれる運命の魚に同情するお医者様なんて初めて聞きますよ。」

 最後に夢の中で、仁保はその生け簀の中、一匹のフグになっていて水槽の中から身勝手な会話をする人間たち仁保を魚の冷めた目で見ていた。


 また会いたいと申し出たのは、仁保の方だった。

 この歯に衣着せぬ、はっきりと物を言う彼女を仁保は気に入ってしまいもっと色々話をしたくなったのだ。

 この時仁保は、自分の申し出は多分2回は立て続けに断られ、もしかしたら3回目には来てくれるかもしれないと彼女のことを踏んでいたが、妻は最初に日程が合わないと断っただけで、2回目の彼の申し出に、すんなりと来てくれた。

 結婚する前に2人とも煙草はやめた。彼の知る限り、妻は結婚してから一度も煙草を喫っていないはずだった。



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「戦うな、ということですか?」

その夜、城内での評議でただ一人生き残った侍大将の有吉守が今後の方針を告げるとその場にどよめきが走った。仁保は思わず聞き返した。

「左様、明日を以って朝倉家は一乗谷城から撤退する。親方様ともども朝倉景鏡様のご先導のもと一乗谷を離れ大野荘に退去いたす。織田軍は刀根坂の戦以降侵攻を停め、我が軍と均衡が保たれております。この機に乗じ朝倉家は大野までの撤退を最優先に進め、それが完了したのちー」

伴仁保は愕然とした。

「しかし、刀根坂の戦い以降、我々がこの一乗谷に籠り城塞戦に向けて準備してきたのは、ここで織田軍を迎え撃つためではなかったのか?大野に退却するにしても、ここ一乗谷でわが軍は織田軍を出来る限り食い止めるべきではないか。」

有吉守は伴を見ると言った。

「左様、古城とはいえここで防備を完全にすれば織田軍も攻略には手古摺るだろう。事情が当初の通りなら有利に持久戦も取れたであろう」

もはや評議頭であるこの大将を含め評議に参加した誰全員が戦を望んでいなかった。現実問題として城を守れる手勢すら数百騎を数えるほどしかないことを仁保も知っている。しかし戦わずして城を明け渡すというのはどの様な了見だろう。空城の計ならいざしれず・・。

「朝倉景鏡殿のご尽力により、この度織田との和議が成立する運びとなったのだ」

「この状況で織田が停戦?・・・・ありえぬ!正気か。この城はどうなる」

「親方様の撤退後、この城を織田に明け渡す。無血開城じゃ。いくら織田信長とはいえこの越前随一の都、一乗谷を手に入れずして焼き払うほどの暗愚じゃなかろう。すぐに全面和睦は無理だとしても、一時的にこの都を織田に差し出してでも安堵させよというのが親方様のご意向でな、ここで抵抗し籠城でもするものならばそれこそ延暦寺の二の舞じゃ。」

『和睦-。』

その言葉を聞き仁保の全身の力が抜けるのを感じた。そうか、朝倉様は当初から誰かに勝とうとは思ってないのだ。織田氏が台頭するはるか前、三好三人衆による畿内混乱の時代から将軍家直々の上洛要請さえも断ってきたのを仁保はその目で見てきた。なにも戦わないのは今回がはじめてではない。今回織田軍が朝倉や浅井に攻めてきたときも、始めから和睦ありきで兵を動かしていたのではなかろうか。今更そんな疑心が湧いてきた。だから金ケ埼でも志賀でもわが軍は織田軍を十分を追い詰めて壊滅させることができたにもかかわらずそれをしなかった。朝倉家は代々戦いを好まない家系。敵国へ攻め入るなどもう数代前から行っていない。親方様はまさに朝倉家の家風を絵に描いたようなお方だ。彼は彼なりにこれまで朝倉家の流儀でこの地に繁栄をもたらしてきたのだ。しかし、しかしだ。なんと悲しいほどこの戦国の世に不向きなご性分であろうか。武将としては優しすぎる。根が甘すぎる。このように最後は他所から成り上がった田舎の狼藉者に好き放題にされてしまうのか。伴にもはや何の言葉は見つからなかった。

有吉守は最後に、少しの手勢を残し朝倉軍は明日一番でここ一乗谷から撤退すると言った。伴は普請兵部役として城に留り織田への対応準備をし、それが終わり次第大野に向かうことになった。

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 「いやあれが、娘がああなってしまったのには私にも原因があるんです。あれは母親を早くに、小学生のときに亡くしてしまいました。娘はその母親から亡くなる直前まで、男は絶対に信用するなと言い聞かせられて育ったんです。そして時間さえあれば男を意のままに操る方法に就いて母親から聞かされていました。こんな小さな子供のうちからです。それで、とうとうあんな人間になってしまったのです。」

 もう何年も前に、妻と大喧嘩した事があった。まだ拓也が生まれる前のことだ。赤ん坊の出産を金沢でしたい、また子供を幼稚園まで福井ではなく金沢で入園させたいというものだった。出産が近づくにつれ、妻の言葉は強くなっていった。自分は、それでは別居になるので到底出来ないとはっきりと伝えた。

怒った妻は家を出て大きいお腹のまま金沢の実家に戻ってしまった。

数日後、妻から送り付けられた「離婚届」を見て、蒼くなった仁保は急いで妻の実家に向かうと、自分とは一向に会おうとしはない妻をなんとかしてもらおうと、当時まだ存命中だった義父に相談したのだった。

義父は仁保の話を聞き番茶を啜ると、姿勢を正し話始めた。

「私は婿養子だったので、家の中のことには一切口出しできませんでした。あの子のことを父親としてしっかり育ててやる事が出来なかったのです。わが五十嵐家は、もとは京都の蒔絵師が祖先だったらしいですよ。なんでも寛永年間に前田利常に招かれて加賀蒔絵の基礎を築いた御方らしいです。はじめは漆芸品などに勤しんでいたらしいんですが、いつからか加賀で染め物を中心に家業を伝承していき、今日の繁栄の基礎を築いたみたいです。

丁度当時は、金沢も景気が良い頃でしてね、伝統の染め物以外にも着物や帯やらの卸販売に事業を拡げて、どんどん儲けも大きくなっていき、しまいには草履や茶道具すら出す始末でしたよ。なにしろ何を出しても伝統染めの老舗ブランドでなんでも売れちゃう時代なんですから。今思うとめちゃくちゃな時代でしたね。私は婿としてこの家の家業だけに四六時中忙殺される毎日でした。その忙しさに託けて、そのうち家に全く帰らなくなってしまったのです。それこそ当時は外に女を作ったのなんだの散々言われました。今だ、あの子には言われてますよ。」

 そこで義父はハンカチをとりだすと急に鼻の辺りを押さえ始めた。

「あれの母親は子供を残して家を出て行った挙げ句、自殺してしまいました。東尋坊で身を投げたのです。女をつくり、家に近寄らなくなった私への当て付けに。」

 義父は、商売なんてやるものじゃない、成功して儲かってしまうと、人は驕ってしまい心を失ってしまう。たとえ大成しても慢心から家を滅ぼしてしまう。という内容のことをしきりにぼやき話していた。


「実はあれの母親は亡くなる直前に電話をして来ましてね。ちょうど今日のような冬の夜のことでした。私はここへ越してきてもう何十年も経つのに、金沢のこの北陸特有の冬が嫌いでね、冬の間中続くどんよりとした曇り空、冷たく肌を刺すような霧雨、海に向かって吹き付ける風雪の嵐・・・どれもこれも一向に慣れることが出来ません。真冬に強く吹雪が吹き荒れる中、海からの雷鳴が竜の咆哮の如く轟いた日には、もう一週間は生きた心地がしませんよ。

とにかくそんな大嵐の深夜に、妻から電話があったのです。どこにいるんだ、と聞くと福井の東尋坊だと言う。すぐに帰ってこい、と言ったら嵐になってしまい帰って来れないから迎えに来てなんて言う。いい大人が、夜だろうとタクシーでも呼んで帰ってきなさい、迎えに行く事など出来ない、とやつに言ったんです。そしたら、か細い声でただ「あなた迎えに来て。あなた迎えに来て。」と電話口で繰り返す許りで、一向にらちが明かない。ここ、金沢から真夜中の東尋坊まで車で行くなんてどうかしてますよ。ましてやこんな冬の嵐の夜に、全くどうかしてますよ。いくら妻からでも、私は行けやしませんでした。」

そこで義父さんは冷めきってしまった目の前の番茶を啜るように飲むと、話しを続けた。

「実はこの時が初めてではなかったのです。あれの母親はそれまで何度も、家を出て失踪した振りをして私に電話を掛けてくる、という事を何度も繰り返していたのです。だからその時も、いつもの狂言だと思って私は取り合わなかったのです。」


仁保は何も言えなかった。妻の実家とはいえ、よその家のことの話だ。ただ人として思う所はある。

「その、『お義母さん』の最後の言葉というのは、『迎えに来て』だったんですか?」

仁保は確認するように言った。

「ええ、それが最後の言葉でした。最後に『あなた、迎えに来て頂戴よ』でした。蚊の鳴くような小さな声で。いつもの強気な妻からは想像もつきません。」

「その時奥様は、本当に旦那さんに迎えに来てほしかったんじゃないですか?」

思わず仁保の口から、言わなくてもいい一言が出てしまった。しかし『お義父さん』は何も言わず変わらない表情でただ黙っていた。義父から聞いたこの話は、誰にも言わず黙っていた。

当初から福井に住むことに難色を示していた。福井には土地もあるしどこに建てようが家も安くて選び放題だというのに、何故か嫌がっていた。しかし、妻はその理由は言わなかった。

この話を聞いて、もしかしたら妻は母が亡くなった地であるこの福井に住むことに抵抗があったのではないかと、仁保は思った。嶺北地方の中でも三国の先、北端に位置する東尋坊のたった一カ所だけを以って福井全体をそのイメージで見てしまうような事はなかっただろうが。妻が小さい頃に衝撃を受けた母の死という出来事は、その地域全体をその印象で覆い塗り替えてしまうほど、大きなものだったことは想像に難くなかった。



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 誰もいなくなった一乗谷城の邸宅で伴仁保は文書などの整理をしていた。城に籠りもう二度と戻ることはないと思って家を出たが、軍評議で織田への全面開城が決定したことで仁保の任は無くなったに等しかった。城塞の補強工事は中止となった。城内のあちこちの陥穽や防備柵も全て破却した。織田への抵抗を早々に放棄した評議に仁保は落胆したが、もはや思い残すものはなにも無かった。開城の準備もようやく済み仁保も明日の朝ここを出立することとなった。

 評議の後、織田との調停で朝倉景鏡様一門と召し抱えの外交僧が夜も明けぬうちに城を出て行ったらしい。その中には仁保の菩提寺・西山弘照寺の僧正の姿もあった。永平寺、平泉寺、はては加賀の一向宗の里に至るまで朝倉家は織田との和議を有利に進めるため降伏の使者を派遣した。中でも前々から朝倉景鏡様は独自に織田と密かにやり取りをしていたらしく和議の期待はひとえ彼の手腕に託されていた。

仁保はたかが一城の開城くらいであの織田信長が朝倉を赦すとは到底思えなかった。むしろこの方策をとることで織田の怒りが増すのではないかとの不安が心の中に沸いてくるのだった。

 妻・空はあの日すぐに旅籠屋を辞すと朝倉家の人間、姫様や女房連中と一緒に大野方面に出立した。途中東雲寺で夜を明かし翌日には大野に着くと言っていた。空は大野に着いたら文を出すと言ったが自分も後から行くので無用だと断った。それより朝倉本家の方々への勤めをしっかり果たすのだぞと念を押して申し伝えた。もしもの時のために信貴山の小刀はご加護と魔除けに妻へ手渡した。ほどなくして今朝早く親方様も、景鏡の先導の元に大野へ出立してしまった。

伴は妻と一緒にこの一乗谷に戻ってきたというのに、この数日いつものように過ごしただけで到々最後の日までちゃんとした会話も交わさず別れてしまった。夫婦なんて最後はみなこんなものだろう、仁保は思った。戯曲や謡の世界じゃあるまいし大みえ切って別れを告げる者など果たしてこの世のどれだけいるというのだろう。

邸宅はきちんと空が整理、清掃した後で綺麗に片づけられ処分されていた。仁保は自分の居室であらためて持ちだすべく小道具や武器などを吟味していたが、ふと見ると壁に一着の襦袢が掛けてあった。空には武具以外は必要ないから処分するように伝えたはずだったがあの利口な空が言いつけを忘れるとは珍しいこともあるものだとそれを掴むとやむなくそのまま駕籠に入れて持っていくことにした。

 最後にふと神棚をみると手前に古い幼児用のおべべが供えられていた。仁保はそれもここに残しておく気にもなれずそっとしまった。

あれからもう10年はたつだろうか。



「伴どのー、新保どのー!」

早朝から親方様の鷹狩りのため若侍衆たちと槙山にお供に遠出していた折、一乗谷の城砦から急を知らせる使いがやってきた。

早馬でやってきたその使いは仁保の前に着くと告げた。

「伴殿、家内で一大事でござる。館におもどりくだされ、至急至急。」

「親方様お供の場であるぞ、早々に理由を申せ。」

「とにかく、至急お戻りいただきたい。」

この日の鷹狩りでは珍しく参加した朝倉景鏡殿が親方様と口論になる場面があった。そのため皆一様にピリピリしていた。始まりの頃合いになって騎乗にて鷹狩りの準備をしていた親方様の馬の前を、平然と下馬もせずに景鏡どのが馬に乗ったまま通り過ぎたのである。温厚な親方様は激昂し景鏡殿に向かって「何たる無礼か」と声を荒げた。景鏡殿は驚いた様子だったが冷静に「これは兄者失礼した、久しぶりの鷹狩りじゃ、決まりを忘れおった。」と言うが早いか馬から降りると深々と親方様に平伏した。仁保はこれはまた意外なことよと思った。朝倉家一門の中でも朝倉景鏡様は親方様にとって兄弟に近い間柄であった、幼少のころから仲良く一緒に鷹狩りや山駆け等を家の老衆より教わって育ったと聞いている。そんな間柄でわざわざ鷹狩りの最中、殿の前を通るたびに下馬し伏せろというのはどうかしている、親方様は今回どうも機嫌が悪いに違いないと仁保は踏んでいた。

そこで用件を聞いても一向に答えぬ使者に、意地でも鷹狩りの供を続行しようと決めた伴だったが、意外なことに理由を言わぬ使者に却って只ならぬものを感じた親方様が伴に一刻も早く戻るよう申し伝えた。「至急の折は馬が重要じゃ。」と気を使って手の者の中から一番早い馬を仁保にお貸しくださった。


こんなところまでわざわざ使者を出すとは、家内で何かよからぬことがあったに違いないと仁保はすでに認識していた。弟分の佐平次がまた町中で騒動でも起こしたか、義妹の佐護の丞がまた家を飛び出し一向宗の里に向かってしまったのか、いやもしかして火事でも起きて館が燃えてしまったのかもしれない、妻や子は家の者は無事であろうか。生来心配性の仁保は様々な不安心に苛まれながら急遽、城の方へ戻っていった。

馬の足を速め、仁保が館に戻ってみると屋敷の井の周りに家の者が全員並んでしきりにびしょ濡れのままぐったりした子を介抱していた。

「な、なにごとか。」

震える声を何とか抑えながら伴はそう言うことだけがその場では精いっぱいであった。

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お母さんが東尋坊のどの辺りから飛び込んだのかはわからなかった。亡くなってしばらくは、親族の者の誰も、東尋坊へは近付かなかったそうだ。

私がはじめて父に連れられて、母の死後そこを訪れたのは母が亡くなって、もう1年が過ぎた頃だった。

観光客が多いなか、小さな花束を持った父は、私に危ないからと岸壁の方まで連れて行かず、途中にある電話ボックスまで行くと、そこで合掌し小さな花束を置いて線香を焚いた。母はここから、死ぬ前に最期の電話を掛けてきたらしい。ここで母の残された荷物の一部や遺書のようなものが発見されたらしい。

家で酔っ払っていた父親は、母からの電話に出るもその電話の内容をまじめに取り合わなかったそうだ。母が亡くなって、もう25年になる。


そんな昔のことを考えながら加賀棒茶を煎れると、2つの湯飲みに注いでお盆に載せた。

それを仁保がいる居間まで持っていくと、丁寧な動作で静かにそれを夫の前に置いた。

妻はソファーには座らず絨毯の敷いてある居間の床の上に、それこそ正座して不動のまま、夫と向き合った。

夫婦の間にある木製のテーブルの上には真新しい「離婚届」が置かれていた。

仁保も正座し、なぜか妻が置いてくれた番茶を一口啜った。仕事から戻り帰宅すると、妻はいつも健康に良いからと加賀棒茶を煎れてくれたのだが、こんな時でもお茶を煎れる妻を見て、仁保はさすがだと思った。茶色のお茶は絶妙な温度で煎れられ、うっすらと湯気が立ち昇っていた。

仁保は自分の家にいるというのに、緊張の面持ちで姿勢を正すと言った。

「はっきり言うが、僕はやましい行いは一切していない。」

妻は自分でいれた棒茶を一口飲むと言った。

「あの女性、慈央さんとお茶を飲むのがあなたは楽しくて止められないらしいから、今日は私のもいれてみて、一緒にお茶を飲むことにしたのよ。どう?わたしと飲むお茶は?美味しい?」

仁保は反論できず、妻の言葉に黙っていた。

「そうよね、慈央さんと飲むお茶はおいしいわよね、私なんかと飲むより。どれくらいおいしいのかしらね、今度飲んでみたいわ。」

「友人とお茶を一緒に飲むくらい、何の問題もないだろ。」

妻はその意見を聞かず、静かに言い放った。

「一緒にお茶を飲むくらいですって。」

仁保はなにも言えず下を向いていた。「離婚届」は2人の間のテーブルの上に置かれた儘だった。

すると妻は、急に優しい口調になると仁保に憐憫を掛けるような優しい眼差しで言った。

妻はまだ何か言っていたが、もはや仁保の耳には何も聞こえてこなかった。


仁保はその日以後、自宅に帰れなくなった。仁保の知らぬ間に自宅の鍵が妻により替えられてしまったため中に入れなくなったのだ。仕方ないのでしばらくはビジネスホテルに泊まっていたが、それでも一向に家に入れる気配がなく、長引きそうなので結局自宅近くに別の賃貸を借りてそこに泊まることにした。

仕事に使う書類や日用品の私物などは後日郵送されてきたが、とうとう家を追い出されたことへのショックが大きくて、しばらくの間は満足に食事もとれず、日常生活にかなり不自由した。

しばらくして、あれだれ届いていた妻からの「離婚届」も来なくなると、今度は妻の代理人を名乗る弁護士から話し合いをしたいとの連絡が入ったが、仁保としては家庭裁判所による調停のほうが先だと考えていたので、それに聞く耳を持たなかった。


その内妻から、分厚い便箋の束が入った大きめの封書が届いた。妻は文学科出身で昔から筆まめな女だったので、この程度の量の手紙など書くことは稀では無かった。しかし、それを読まされる方はたまったものではない。

結婚式の時、最後の「親への感謝の手紙」が彼女の場合は原稿用紙を優に100枚を越える容量で、それを読み終わるまで一時間もかかったことがあった。

毎日の仕事と慣れない家事のおかげで疲れ果てていた仁保は、それを見ると、自分への非難や罵詈雑言を余すところなく書き記したものかまたは例の探偵社の新たな浮気報告書かを腹いせに送ってきたものだろうと思い込み、部屋の隅にそれを放り投げるとそのまま読まずにほっぽらかしにした。


一乗谷の朝倉氏遺構に着くと空乃(そらの)は白いブラウスに白い日よけ帽という、まだ早い初夏の到来を想像させるような恰好で車を降り立った。

「東先生。ねえ早く、早く。」

まるで遊園地に来た女の子のようにはしゃぐ彼女を見ていると、どんどん早足で先に進んでしまい、先のほうから仁保を呼んで早く来るように促した。

復元町並の方に車を停めたので、てっきりそっちから見学を始めるものだとばかり思っていたが、彼女は

唐門だけが残る義景館跡と館跡庭園のほうに興味があるらしく、駐車場から反対側まで道路を渡ると写真を撮り始めた。

この朝倉氏遺構の中で唯一残されているこの唐門の木造建築物は、朝倉氏滅亡以後江戸時代に弔いのため建てられた菩提寺の名残りであると伝えられているが、それでもこの遺構の館跡の中ではひと際強い存在感を出していた。なかなか普段目にすることの無い唐破風造りの屋根の建物は、入り口の門のところだけが取り残されて立っていた。

空乃(そらの)はこの唐門が相当気に入っているらしく近付いていろんな角度から写真を撮り終えると、今度は感慨深く唐門に見入っていた。

「ここに残る唯一の人工の木造建築物ですからね、いつ来ても感慨深いものがありますね。」

「そんなに気に入っているのなら、一緒の写真を撮ってあげましょうか?」

「ええ、先生と一緒に。」

近くにいてカメラで撮影していた人にお願いすると、心よく2人の写真を撮ってくれた。

写真は、唐門の入り口を真ん中に挟んで2人が少し離れて門の両側に写る構図となった。

唐破風造りの屋根の唐門から遺構の中、館跡に足を踏み入れる。中に建物は、ない。あるのは土塁や庭石の名残り石や井戸の名残りの石や穴だった。

一乗谷の朝倉氏の遺構は、正にその名の通り遺構そのもので、何ら往時の建物の姿を具体的に推察出来るような物は一切なく、土の上にむき出しの土塁や井戸跡の名残りが置かれているだけだった。

いわばそれは石の堆積物で、ここが遺構でなければその資産価値は無いに等しかった。

その中でも庭園跡というものが、小さな石階段を登った先にあった。広い何もない敷地の片隅に、往時を偲ばせるように天然の庭園に使われた大きな庭石が、長い時間の経過で黒ずんで存在していた。

さっきのように、ここでも石だけが残されたままだった。人間でいえば、その死後骨だけが残されたようなものだろうか。

仁保と空乃(そらの)は、そのぬかるんだ不安定な石階段を上まで登っていくと、庭園を含めた遺構全体が眺望できる場所に着いた。

ここから、どこにどんな建物があったか、あらためて確認することができた。昨日(きのう)までの雨のため地面は所々ぬかるみ湿っていて、足元は高台に着くとさらに不安定になった。すぐ後ろには山林が広がっている。遠く向こう側に見える山の稜線を見渡すと、雨の後の蒸気の湯気が立ち昇っていて、それが広くこの一乗谷全体を覆っているようだった。

一乗谷はその名の通り山と山に囲まれた谷に位置していて、その中を流れる川に沿って遺構の数々が点在していた。しかし仁保は、この川をはさんだ景観が綺麗すぎるので、おそらく川は後から観光のため整備したものだろうと推測した。

「この先に『奥の院』があるのですが、道がぬかるんでいるので、これ以上山の中には深く入らない方がいいみたいですね。」

空乃(そらの)はそう言うと、それ以上奥には進まずに、庭園から庭園へと館跡に複数ある庭園跡を一周して元いた所へ戻るコースを進んで行った。

仁保はこれらの黒ずんだ庭石だけが取り残された庭園跡を次々と廻って行くうちに、何とも言えないこの世の無常観を感じていた。

庭園跡の広い敷地内に、かつての庭石を座ってじっくり眺められるようにベンチがひとつ設えてあった。仁保はさっき石段を登っていてあやうく泥濘に足を取られ転びそうになり軽く足の甲をひねってしまった。暫くは大丈夫だったが、時間が経ってからそこがじわじわと傷み始めてきた。仁保は捻挫でもしてしまったかな月曜からの仕事に差しさわりがなければよいが、などとぼんやり考えてベンチに座った。そのまま目を閉じると仁保の瞼が急に重くなって周囲の景色が薄茶色に変わっていくのを感じた。


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「伴(ともの)どの、伴どの・・。」

丹平に肩を揺さぶられて仁保は気が付いた。座石に腰掛け暫らくの間うとうと寝入ってしまったらしい。

丁度庭園を見渡せる場所に気の利いた座石を運んだのは伴の采配だった。城下は殆どの町人が逃げ去り、この一乗谷の朝倉館にも今や少人数の手勢しかいない。一乗谷随一と謂われたこの諏訪方の庭園も閑散とし、座って庭園を眺める者とてもはや仁保以外にいなかった。姉さま(高徳院)が丹平に言って寝入っていた仁保を起こさせたらしく、屋敷の前でこちらを見て着物の袖で口元を隠して笑っている。横に立っているのは鳥居様であろうか、黄色文様の羽織を着た高位の近侍がいた。仁保ははっと気づくと顔を拭い頭を下げた。


今朝の朝餉は盛大な盛りだった。明日より仁保が本格的な城内詰めになると聞き空が家の食材を朝餉にすべて使ったのだ。普請番は夜から詰めるためこの日の朝餉が仁保にとっては最後の自宅でとる料理となった。空も今日から近衆の女房たちとともに姫様の館に参集することだろう。妻の思いやりを察した仁保は無理して出された大盛の朝餉を平らげた、残りの食材で空が丁寧に昼餉を包むと駕籠に入れてくれた。

「夏よ、夏。」

出立の朝、伴仁保は2度妻を呼び止めた。夏は姫様の館への参集のため支度をしている。

「今回はいよいよきびしいかも知れぬ、もしもの時は城の守護侍のもと、みなで力を合わせるのだぞ。」

空は台所の奥にいた妻に身の安全を第一考えて用心するように、それと言いつけに従わずに一乗谷に付いてきたことをもう怒ってはいないから気にするなと玄関越しに伝えた。

そして伴仁保はそのまま妻の顔も見ずにそっと家を出てきた。

仁保は食べ過ぎた腹をさすりながら昔のことのように今朝のことを思い出していた。

まだ今より平和だった頃に姉さまの庭園の改修後、京から多数の公家をお招きしてお披露目をした宴の日が遠い昔のように感じられる。親方様も姉さまも仁保の手腕と目利きに感嘆し、京から将軍様を招待するまでにお褒めいただいた。あの後織田との戦がすぐに始まってしまったため、この庭園で茶会を開き朝倉家一門が集合したのはあれが最後となってしまった。いまや美しく風流を極めたこの庭園は、一乗谷全体が合戦場となろうという時にただ滅びの時だけを待っているように思われて、なんとも不憫だった。そんな昔のことを考えてながらぼんやり庭園を眺めているうちに仁保はいつしか寝入ってしまったらしい。

姉様の警固役でもある丹平は言った。

「仁保殿も帰ってそうそう連日の城の防備普請でお疲れのことだろう。今日、急遽諏訪殿が最後の挨拶でお屋敷にお越しになるらしい。鳥居様が来て打ち合わせをしてるのはそのことじゃ。」

小少将どのがー。一瞬仁保は耳を疑った。姫君がここ奥の院に挨拶に来られるということは、此処一乗谷を捨てる覚悟を殿はとうとう決心したということか。もともとが景鏡様の発案とはいえ正式に評議の場で大野に退き大勢を見極める策を進言したのは外ならぬ伴仁保たち評議役衆であったが、いざ実際に命が下されるとなると忸怩たる思いがあった。

「姫はよく従いましたな。」

怪我を負っている片足を庇いながらびっこの仁保がそう言って近づこうとすると、丹平は気遣ってそのままでよいと合図した。

丹平は暗い顔で言った。

「しぶしぶじゃ。大野の朝倉とて当てにはならんと言う家臣もおる。しかしもう、そう言って居られぬのだ。そこしか我らに行き場はない。」

仁保は大野方面でも不穏な空気があることを掴んでいた。とくにここ数日平泉寺の僧兵たちの動向がどうもおかしい。しかしここから南下したとして越前敦賀方面にも敵の手が迫っており、北に避けるにもそこは加賀一向宗の本拠地である。袋小路とはいえ、もはや東の大野くらいしか退き場は残ってない。あれだけ権勢を誇った近江の浅井家すらいまや風前の灯火で援軍すらどこにも期待できない。丹平は続けた。

「しかし今回、お方様にここまで無事ご帰還いただけたのは仁保どののおかげじゃった。」

丹平は首を横に振ると丹平に言った。

「しかし織田は一乗谷にすぐにでも攻めて来こう、喜んでいられる状況ではない。」

「しかしこうやって小なりとも時間を稼げたのは、そなたの機転のおかげじゃ。」

丹平はまた首を横に振った。

丹平が三段崎様の一行が実質おとりとして敦賀に向かったのを知らぬわけがなかったが、あえて仁保はそれ以上のことを話さなかった。丹平は言った。

「今回、山崎様まで討たれたことで私もようやく得心した。朝倉家は無理に無理を重ねていたのじゃ。斎藤様も河合様も犠牲になり、いまや景鏡様すら織田に和睦を乞う有様だ。思えばあの姉川の戦の折、真柄一門が討たれた時が潮時だったのかもしれぬな、あれ以来朝倉は戦に勝っても家臣が減り国力が削がれる一方じゃ。いまや城で軍評議を開こうにも重臣がおらん。」

 「越前領内の武将たちにも不穏な動きがあると聞く。疋田や加賀、一向宗の里にすら織田の調略が入っているとか・・・、朝倉の周辺はどこも織田に囲まれもはや八方塞がりです。」

「豊原寺の一件で、朝倉の菩提寺すら織田側に組みし距離を置き始めた。仏も神もない世だ。」

仁保は背伸びをし、嫌味っぽくそう言った。

丹平は落ち着いて言った。

「しかしこんな無理な戦ばかりしていては敵も長くは持つまい、高橋様の言っていた通り織田家はすでに滅びるかもしれないな。」

しんみりとした丹平の横顔を見ながら仁保は呟いた。

「お互い生まれた時代を誤りましたな。戦の無い平和な時代に生きたかったものです。こうやって丹平どのと延々、城下の町割りや庭園について語り合いながら静かに余生を終えたかったものです。」

丹平は うむと頷くと言った。

「もはやそんな夢もかなわんか、あと数日でここも・・・・。しかしこの庭園、新保殿どの目利きはさすがじゃな織田に遣るのが惜しい。いっそ開城後はここで庭師にでもされたらどうか?」

仁保は笑いながら言った。

「わたしは幼少の頃、薬師(くすし)になりとうございました。」

「ほう初めて聞く。たしかに武士などよりよいかもしれぬ、戦いが終われば今後はそんな世も来よう。」





「夏どのは夫婦だというのにいつもそなたに冷たいの。」


「理由がある」


「前々から聞こうと思っとったんじゃが」


「丹平殿ともこれでいよいよ最後かも知れぬから、話してもよかろう」


「うむ」


「実はあれの、夏の前に私には妻がおってな、ここに登台する前のことじゃ。」





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一乗谷の遺構の唐門の前は広大な空き地になっており、いくつかのベンチを設(しつら)えたそこは、どこかの公園広場のような様相を呈していた。

朝から高低さの可成りある歩行経路で、歩いて回るにも広すぎる遺構館跡の敷地内を短い時間のうちにほぼ全部廻り終えた仁保は疲れてしまったので、ベンチを見つけるとすぐそこに腰を下ろした。

どうも、あの急峻な石階段を一気にかけ登ったのがいけなかったらしい、膝と足の甲が思いの他(ほか)痛んだ。空乃(そらの)はというと、全然疲れも見せず、再度唐門の撮影を楽し気にしている。なにか年配の夫婦に訊かれて唐門について説明してるみたいだ、もはやこの遺構の案内人になれそうだった。


仁保が座っているベンチのすぐ隣りに空乃(そらの)がふわっと腰をおろした。

「ちょっと疲れちゃいましたね。」

空乃(そらの)はデジタル一眼レフで撮った画像を確認しながら言った。

「普段あまり歩かないから。明らかに運動不足です。」

仁保は靴下の上から足を揉みながら答えた。

空乃(そらの)は仁保の擦り切れたジーンズと足底の擦り減ったスニーカーを見て言った。

「足、痛みますか?」

彼女は今日、朝倉氏遺構を奥の院までの山道をしっかり歩くため、トレッキングシューズに近い足底のしっかりした靴を履いてきていた。

「大丈夫です。少し揉んだら良くなりました。」

まだ足は若干痛かったが、仁保はそう言った。

「そうですか。よかった。」

仁保と並んでベンチに座る空乃(そらの)の身体(からだ)は彼女が仁保の本当にすぐ近くにぴったりと腰をおろしているため、腰のあたりがすでに密着していた。

彼女の黒いストッキングかレギンズかを履いている細い足が行儀よく斜めにならんで目の前にあった。思いのほか美しくて小さな脚だ。

仁保は存外にドキドキしていた。もしも過去に一度でも彼女と関係をもった間柄であったなら、いつも妻に感じるように近くにいるくらいでここまで心が動揺することは無いだろうと思った。彼は斯んなに近くにいるのに彼女のことを識らないのだ。それはひとつの矛盾であり、その源泉は目の前に存在する空乃(そらの)の身体からであった。状況はあいかわらず、彼女のか細い2本の脚が黒いストッキングに覆われて無防備に彼の目の前に投げ出された儘である。仁保は、彼女に会ってはじめて異性として動機を覚えた。


彼女はデジタルカメラの画像を確認するのに夢中で、そんなことに気づかずに一眼レフの操作ばかりしていた。

「慈央さん、脚(あし)細いんですね。」

思わず口から出た仁保のその言葉に、空乃(そらの)はカメラを操作してた手を一瞬とめた。そして又何事も無かったようにデジカメの操作をし始め、言った。

「そうですか。」

下を向いたままデジカメを見ながらそう答える彼女であったが、その言葉の声音にはさっき迄無かった緊張感のようなものが含まれていた。

「さあ、そろそろ行かなきゃ。」

彼女はそう言うとふわっと彼の隣から離れた。

太ももは自然に離れていった。

「レントランテでランチ予約をしてましたよね、もうその時間ですよ。」

空乃(そらの)は腕時計を指し示しそう言うと、先をどんどん歩いて行った。


「何にも無い場所に立って、嘗てあった遺構の姿を想像してその歴史を心の中で辿って行くことは、とてもロマンティックなことだと思いませんか?」

新しくオープンした許りの一乗谷レストランテでお昼をとっているとき、空乃(そらの)はそう言ってリュックから小さな写真アルバムを出した。

「今までデジカメで撮った写真は、全部現像してるんです。」

そこには秋の紅葉に彩られた朝倉遺構の唐門が写っていた。

「へえ、綺麗なものですね。観光名所の葉書みたいですね。」

「前に来た時が秋だったので、これでようやくここに今日撮った春の唐門が納まります。あとは冬の雪景色の唐門が撮れれば完成です。」

空乃(そらの)は紅葉の写真の隣にある空白のままのページを差して言った。

「もうずっと春に行くのが楽しみだったので、今日先生に連れて来てもらえて本当に良かったです。」


帰りの車の中で、隣の座席に座っている空乃(そらの)は心配そうに聞いた。

「先生、足、本当に大丈夫ですか?さっきレストランテの帰り、かなり痛そうに歩いてましたけど。」

実を言うと足の痛みはあまり良くない、あの店を出て駐車場まで足を引きずるようにして歩いていた。

ベンチに座っていたとき自分で施術したいい加減なマッサージがいけなかったのか、痛みが消えるどころか却って今度は痺れるような感覚すら出てきてしまっていた。

「大丈夫です、なんとか。」

車のアクセルやブレーキを踏む度に足の甲の筋の部分に嫌な違和感を覚えていたが、仁保は無理して運転していた。とにかく今日は最後まで彼女を無事に家まで送り届けなければならない。

空乃(そらの)は車の中で自分のリュックをさぐると、こんなものしかありませんでしたと医薬品マキロンと絆創膏を取り出してた。

「先生、この先に『V・ドラッグ』があったはずです。そこで何か買いましょう。」

ドラッグストアで湿布や鎮痛消炎用スプレーなどを買うと仁保は車の中で少し足の手当をした。空乃(そらの)は湿布の上に簡易包帯を巻きながら言った。

「先生、結構足が腫れちゃってますよ。本当にキツくないのですか?先生、我慢してませんか?」

整形外科ではなかったが、仁保の所見ではおそらく捻挫か筋肉の筋の酷使で足が腫れて痛みを起こしているものと思われた。一番いいのは安静にして冷やすことだが、それは家に帰るまで出来そうにない。

「わたしが運転しましょうか・・・ペーパードライバーで、ほとんど車を運転したことがないのですが。」

仁保は無理に作り笑いをしながら言った。

「大丈夫、このまま行けそうです。大分痛みも引いてきました。」

言葉とは裏腹に、アクセルを踏み続ける時、感覚がなくなって来てることが自分でもわかった。滑らかなアクセルで車の挙動さえ調整出来なくなった。ガタゴトと低速で走る車の中で空乃(そらの)は言った。

「先生、明らかに悪化していますね。歩けなくなっちゃいますよ、ちょっと休憩していきましょう。」

休憩と聞いて仁保は一乗谷からの帰りの道を福井駅を通り過ぎて開発方面まで走らせた、相変わらず足はアクセルやブレーキを踏む度にひどく傷んだが、この辺りの「施設」なら慈央さんの言う通り2人で十分な休憩が取れると思ったからだ。開発の細い路地に何軒かの宿泊施設を通り過ぎた。助手席の慈央さんは身を乗り出して「先生、もっと先です。」とそれらに目もくれず高木方面に車を進めさせた。

「ありましたよ。まっすぐ行けば私のよく行く『越のゆ』があります、左に入ればちょっと高いけど『リゾート リライム』です。どっちも健康ランドで温泉もサウナあるし、先生中で湿布で手当てできますよ。」

こうして仁保のなんとなくいだいていたかすかな期待は雲散霧消した。結局、慈央さんが仕事帰りによく行くという越のゆで天然温泉に入り、足に湿布をしてもらった。


帰り、空乃(そらの)の家に着く前に「海鮮アトム」に寄って2人で回転寿司を食べた。彼女のお気に入りの店だそうだ。

「私、昔東京に行ったとき、あんまりの魚の味の違いに驚いたことがあったんです。それ以来、関東に遊びに行ったときには、魚は食べないようにしてます。まあ、それ以来、そんなに行ってないですけど。」

「それは偶々でしょう。関東でも魚の美味しい所はいっぱいありますよ。静岡の伊豆とか。東京は内陸で人口も多いため、需要と供給の関係でなかなか良い魚と巡り会う機会がないのかもしれません。物価も高いから相当高い所に行かなきゃ、地方なみに新鮮な魚はまず食べることは出来ないでしょう。近海ものの魚の美味しさは東京では味わうことは難しいかも知れませんね。彼ら都民は確かにお金はあるかもしれないけど、ただ流通を押さえている丈ですから。」

仁保は福井の、日本海で獲れて特に旨いと思っている白身魚3種盛りの皿を手に取り、そのまま醤油をたらして食べた。空乃(そらの)は牡丹海老と鰤が好きみたいで、もうそれぞれ3皿以上食べていた。

東京から寿司の外食チェーンがやってきて、やたらとマグロを特に中トロや大トロを推している風潮があったが、仁保にはノドグロや白身魚の旨さは分かったが、いくら食べても大味すぎて鮪は好きにはなれなかった。


「あの、大事な話があるのですが。」

帰りに空乃(そらの)のアパート近くまで車で来ると、仁保は意を決したように言った。

「大事な話ですか?」

回転寿司で思いの他たくさん食べたせいか少し物憂げな眠そうな声で慈央が答える。

「今日空乃(そらの)さんと会って、僕は決心することが出来ました。」

「はい。」

慈央さんは少し訝しんだ。

「空乃(そらの)さん。僕はもう迷いません、医師としての地位も、妻も子も、大事だけど、それよりもあなたのことが大事なんです。今日だって。」

仁保は意を決して言った。

「だからお付き合いを。」

「おつきあい?」

くりくりとした丸い茶色の瞳で無邪気に仁保を見つめる空乃(そらの)に、運転席の仁保は距離を縮めようと動いた。その瞬間、慈央はぷっと噴き出すと声を出して笑った。

「先生、おもしろいですね。ちょっと上がっていかれませんか?」


空乃の住むアパートは部屋が小さいながらもよく整理されていて掃除も行き届いていた。玄関からすぐの台所のテーブルに仁保を通すと空乃はハーブティのようなものを煎れてくれた。少しミントが利いたそのお茶は仁保が初めて飲むものだった。

「女の人ってよくお茶に凝ったりするじゃないですか、わたしも一時ハマったんですけど気に入ったのはそのお茶だけで、あまり飲まなくなったんです。最近は煎れるのもお客さんが来た時くらい。」

2人静かに向き合っているとなぜか仁保はさっきの話の続きが出来なくなってしまった。生活感のある彼女の住居に思わず通されたことで、彼女が単なる友達のような知り合いだということがあらためて脳裏に浮かびあがり、いい大人が他愛なく戯れることを躊躇させたのだった。

暫らくいっしょにテレビを見ていたが、さっきまでの熱病が覚めると仁保は立ち上がりながら言った。

「ごちそうさまでした。だいぶ心も落ち着きましたのでそろそろ失礼します」

空乃は仁保の言葉にあっと言い、冷蔵庫から何かを出して来た。

「実は先生に食べてもらいたくて用意していた物があったんです。これ、へしこを使ったパスタなんです。絶品なんですよ。」

みると皿にラップをした料理が用意されていた。

「前に先生、へしこが好きと言ってたじゃないですか?実は私も大好きでこうやってアンチョビ代わりに使うととてもいい味がでるんです。ビザとかにもいいんですよ。」

仁保は皿を見ながら言った。

「へぇー、へしこを使った料理。へしこは酒のつまみでしか食べたことが無いからはじめて見ました。」

空乃はにこりとすると言った。

「さっきお寿司をたくさん食べましたから今日は食べれませんね。いま包みますから明日にでも家で食べてみてください。」

そういって慈央はプラスチック容器の弁当箱に丁寧にその料理を移すと布で包んで仁保に渡した。


帰り際、玄関から出る仁保を見ながら慈央は言った。

「実は私も先生に伝えたいことがあったんです。でも今日はもうこんな時間ですし、今度話しますね。」

アパートを出ると、彼女は車に乗り込む仁保を見て明るく手を振るとそのまま玄関に入ってしまった。なんとなく自分の行動に拍子抜けした仁保は、昨夜自分が今日行った遺跡の場所から福井市内の彼女の家までのルートと検索していたときに何気なくこの辺りについて調べていたことを恥じた。しかし今度会った時に彼女は自分に伝えたいことがあると言っていた、また次回会った時に物事が大きく動くのではないかと思い、その夜仁保は粛々と車を自分の住まいの方へ向け走らせていった。


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織田との交渉がうまく行っているのかどうかは知れなかったが、今のところ一乗谷に織田の軍勢が迫りくる気配はなかった。一乗谷城から姉さまや姫様などの女衆が中心の朝倉家一門と家臣団が軍勢に守られながら去っていった。もはやここには城を維持するための最低限の人間しか残っていない。城内の武器も物資も兵士たちがあらかた持って行ったため、わずかの備えしか残ってなかった。それらも織田軍が到着し次第、順次引き渡せと命ぜられている。伴仁保は朝早く明け方には出立することになっていた。誰もいなくなった一乗谷に風がひどく吹きすさんだ。風の音がびゅうびゅうと誰もいない家々の戸口に当たり木霊する。

台所の土間にはぬか漬の樽が残されていた。鯖のへしこが大好きな仁保を思って妻は家を出る前に沢山の鯖をぬかに仕込んでいったようだ。また家に戻ってきたとき仁保に真っ先に鯖のへしこを出せるようにと考えてのことだった。仁保はあまり漬いてないへしこを樽から出すと、城から貰ってきた酒とやりながら最後の夜を過ごしていた。


どこかで馬のいななきと馬蹄鉄の音が響いた。大野に出立した朝倉軍が戻ってきたのだろうか。それにしては数が多すぎる。蹄鉄も朝倉とは違う荒っぽいものだ。直観でなにかを感じた仁保は衣類を整えると急いで戸外に出た。

 外に出ると城門の方が騒がしかった。明け方前だというのに非常用の篝火が付けられている。物陰から伺うとどうも城内の者が何者かと交渉しているらしく、開いた城門から外に向かってしきりに何かを訴えている。城門の外には整然と並んだ騎馬部隊が微動せず城に向かって矢を構えている。騎馬兵の背の旗幟は五ツ木瓜、まぎれもなく織田軍のものだ。

城から丸腰の武士が2人、開城の意思を伝えるため騎馬隊の前まで歩いて行った。なにやら平服姿で文書を手に携えている。その距離がせばまった時、織田の騎馬隊の隊列から侍大将と思われる武士が馬を降りると朝倉の使者に刀を身構えた。無駄だと仁保は思った。織田が一乗谷に差し向けたのが誰であれ彼らは個人の一存では動かない。陣形の配置から兵の刀のあげさげに至るまですべて織田信長公の意向のもとに行われているのだ。

油断していた。というより評議役として散々織田軍のことを今まで見てきておきながら、自分はなんと愚かにもあんな決定を慫慂と通してしまったのだろう、仁保の脳裏に悔恨の念が染み渡った。長年研究してきた新興勢力織田の軍略、その特異性は武田や上杉にも見られない独特の物だった。仁保はなんども見聞きして空んじるほどだったあの原則を思い出した。それは遠征の際、軍大将に織田信長から必ず下命される絶対原則だった。


『敵の城砦は、城下の民家に至るまで草木一本残さず全て焼き払うこと』


『敵の一族は、家臣、子供に至るまで将兵、住民を問わず皆殺しとすること』


織田軍の敵への対処方針はこの通りであった。そして其れ以外何もなかったのだ。

一度織田側へ逆い弓をひいてしまったら滅ぼされるまで戦い続けなければならないのだ。こちらが優勢にでもならない限り和議など受け入れられるはずがなかったのだ。

歩み出た織田軍の大将の一太刀が振り下ろされるとともに後ろで構えていた騎馬隊の弓矢が一斉に放たれた。火矢である。城も背後の町も一乗谷は瞬く間に猛火に包まれた。


織田軍の猛攻で炎上する一乗谷城から山沿いの方向に伴仁保の館はあった。城の背後、槇山側から敵が攻めてきた場合に備え、守りが脆弱なこの山腹斜面の防備を指揮できるようにここに居を開いたのは仁保なりの考えがあったからだった。しかし今回織田軍は開城した城の正面から堂々と攻め込める状況だったため、わざわざ山の方から城に押し寄せる敵兵などなかった。仁保は一旦山の中に逃げ込むと、中腹の見張り台からつぶさに織田軍の動きを観察した。雪崩のように押し寄せる織田軍の前に少数の朝倉勢は城の内外で次々に討たれていった。眼下に広がる城下町でも織田軍が一軒一軒火をつけているらしく建物から火の手が上がっていて残っていた町の衆たちもその場で次々と斬られていった。                         

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越前海岸を臨む三国サンセットビーチの公園に、金沢の実家に向かう前に立ち寄った。

結局こうなってしまった。やはりこの呪縛から逃げる術はなかったのだ。せめて金沢に早いうちに越していれば、こんな事にはならずに済んだかもしれない、負の連鎖がなかったのではないか。

いや、そうではない、寧ろ逆だろう。今の福井出身の旦那と結婚をしたのも福井に移り住んだのも始めから仕組まれたようなものだった。いくら家業の北陸の地を離れたとしても、この連鎖からは逃れることは出来なかった。

つい1年前に拓也と夫と、この近くの数少ない料亭「蟹の坊」で楽しく蟹料理で家族団欒の時間を楽しんだのが遠い昔のことのように思えた。どうしてあのおとなしく模範的だった主人がこんなことになってしまったのだろうか。本当に人生なんて平穏なようで一寸先はわからない。そして今は何も考えたくなかった。

実家へ引き揚げる引っ越しはほぼ終わった。拓也も実家に送り届けてきた。最後に残した荷物を取りに福井の自宅に戻ると、興信所から報告書が入っていた。あれだけ言っても、離婚をちらつかせてもどうやら主人は相手をきれないようだ。なんて愚かで馬鹿な男だろうか。

車を公園の駐車場に停めたが、他に車は数台しか停まっていなかった。結婚前に主人とここへ来たことがあった。あの頃はお互いよく話し、主人もわたしに意見することが多くあった。しかし結婚して子供ができるとガラリとかわってしまった。今ではめったにことで自分に対して意見を言うことなどなかった。そもそも何か話を振っても上の空で、それは君が決めればいいよ無関心に話を切り上げようとしてくる。

この場所だってそうだ、彼はその後、自分が結婚を申し込んだ思い出の場所に近付こうとはしなかった。自分たちの結婚を失敗であったと思うフシがあるからここにはこれなくなったのだろう。なんだかすべてがそんな感じに思えてきた。

彼は元来おとなしい男で話す言葉も少ない方なので、いつも自分が一言余計なことを言ってこそ夫婦の物事もバランスがとれると思い込んでいたフシは確かにあったが。

それでも夫が、結婚後もいままでと変わらずにいてくれるよう、努力してきたつもりだったのに、それなのに。もはや不倫なんてされたものでは堪った物ではなかった。


子供の頃に見た、母の姿がそのまま現れ、彼女と向き合って対峙していた。そしてそのイメージは広がり、母の手には小学生くらいの女の子が手を引かれて並んで立っている。その女の子の反対側には父がまだ若い頃の五十嵐屋の法被姿で横にいた。小学生くらいの女の子は、多分私だ。母と私と父と、穏やかに並んで立っている。丸で何事もないかのように。

そうだ。私の家族は家族らしい事を何もしなかったけど、過去に1回だけ家族旅行に出掛けたことがあった。お店の仕事が忙しいのでそんなに長い期間を空ける訳にもいかず、一泊二日で能登半島をぐるっと回り、最後は福井県まで足を伸ばす行程だった。旅の最後は景勝地の東尋坊で、そこで家族仲良写真を撮った。あの時写真を撮るとき、東尋坊の岸壁を背に三人で笑っていた。

過去の思い出を振り返っているうちにふと思ったのだ。母は本当は自殺ではなかったのではないだろうか。家を出て疲れ切った母は、ただぼんやりと家との思いでの場所を辿って行く内に知らず知らずに家族で旅行に行った唯一の思い出の場所、この東尋坊にたどり着いてしまったのではないだろうか。

そんなことを考えながら、冬の荒れ狂う東尋坊の海面をぼんやり見ていると無性に涙があふれた。もう母も、母が守るように教えた大切な物も自分にはなかった。

『なにしてんだい、こっちに着ちゃいけないよ』

頭の中に直接語り掛けるようにして母の声がした。幼い頃に聞いたあの記憶の中の母の声そのものだ。

「母さん。そこにいるの?会いたかった」

虚空の中で何かを掴もうとするが、そこには誰もいなかった。無意識に肉親のぬくもりを探していたのか冷え切った体にあって腕だけが何かを掴もうと無意識に動く。

『恵理、こんなところ来るんじゃないよ。早く帰って線香でもあげておくれそのほうがよっぽどだよ』

寒空に日がそろそろ落ちようとしていた。周りは暗がりが広がり人もいない。

「母さん、なんで死んでしまったの?」

まるで幼子のように次から次へと言葉が出てきた。今の絶望の中に折り重なる様に昔味わった絶望が蘇った気がした。

『それは話せないよ、話すとお前が・・・。でも、母さんはずっとお前たちを見ていつも語り掛けてるんだよ、生きているお前たちには何も伝わらないのさ・・さぁ早く立ち去りなさい、ここは危険だから・・・』

崖から物凄い風が吹いた。それに押し返されるようにして岸を離れる、もう周りは真っ暗だ。それっきり母の声は聞こえなくなった。幻聴だろうが自分がここまで疲れていることに愕然としてとぼとぼと車に向かおうとした。少し歩いたところでさっきまでの懐かしい母の声に涙した、幻聴だろうがもう少し話がしたかった、もう二度と聞けないだろうかと後ろを振り返って念じた。

「母さん、ひとつだけ教えて。あの時ここへ死ににきたの?」

土産屋が連なる狭いコンクリートの道の入り口を前に、そこが振り向いてギリギリ海が見渡せる最後の場所だったが、誰もその問いかけに答える者はなかった。そうか・・・もうだめか・・そう思い踵を返し再度車に戻ろうとした時であった。さっきの声が直接頭の中に流れてきた。心なしか声の力はさっきより強い。

『・・・違うよ。父さんを心配させようとわざと細工するためこんな所に来たのさ。エリ、あすこに島が見えるだろ。雄島と言って普段は誰も訪れない禁忌の島なのさ、あすこを逆時計回りに回って隧道の仏像に祈念すると夫婦和合の願いが叶うと聞いたんだよ』

背筋がゾワッとするのを覚えた。いや違う、子供のころからの噂話でその話は知っていた。小学生の頃遠足で三国海岸に来た時、学年中で話題になったきまりがあった。東尋坊に行ってもあの赤い橋を渡って雄島にだけは絶対に渡ってはいけないというものだ。それはなぜなら島を反時計回りに歩くと死ぬからという単純なものだった。そしてもしもそのように歩けば帰りは高波で橋を渡れなくなる。唯一ある隧道で島からもどることが出来るが、そこを通るときに悪い仏像いてそれと目を合わせると家族も死ぬ・・・・。それは他愛のない怖い話だった。多分遠足の工程の関係で島に寄れなかったことが、だれかが尾ひれを付けてそんな怖い噂にしてしまったのだろう。しかし小学生だった私たちはそんな他愛もない話でも十分すぎるほど恐かったし、当日誰も島に近づこうとはしなかった。

「それは違う。私の聞いた話と全然逆よ、本当に母さんなの・・?」

『ああ、エリはもう母さんの言う事を信じてくれないんだね、悲しいよ・・』


10

「まだ縁が切れてなかったのか・・・・。本当に馬鹿だな、もう相談は終わりだ。救いようがない。」

そう言うとムロハシは帰ろうとした、あきれている。

「まってくれ、ほれてしまった俺の方で、彼女は無邪気なだけで大丈夫だと思うんだ。」

「なにが大丈夫なんだ、離婚届まで突きつけられて。いい年して恥ずかしくないのかね、まあお前が自分で招いたことだからね、俺はもう知らないよ。せいぜい開かない玄関扉の前で毎日土下座でもして奧さんの許しを乞うんだな。」


仁保は目の前の空乃(そらの)の美しさに、どうしても理性では抗(あがな)うことが出来なかった。もしも彼女がここまで美しくなく自分の好みでなかったら、このような特別に感じる部分も無く、自分の心の迷いも葛藤も、ここまで育つことはなかったかと考えた。

いまとなっては、やはり、あの時から必要以上に近づいてはいけなかったのだ。いや、自分は医者として当然の召命感から人を助けただけだ、あの時彼女を見たのは助けたあとだ。彼女だったから助けたというわけではない。そもそも名刺を渡したのが悪かった。それを辿って彼女が自分のところへ来られるような道筋を無意識のうちに自分は作ってしまった。お礼をしたかった、という彼女の心に偽りは無かっただろう。しかし、そこで会ってしまえば、彼女の気持ちを考慮するにしても、自分の感情や男としての衝動に駆られて彼女を呼び止めてしまうのは簡単にわかった筈だ。

いま目の前にある白いブラウスに包まれた彼女のほっそりとした肢体は、仁保には華奢過ぎるように目に映り、見ているうちにつらくなってしまった。その存在を守りたい愛情の思いと破壊したい衝動が確実に仁保には起こり、そのことが彼の心を一層苦しめていた。空乃と会う前にムロハシと相談したのは心の中にはまだ家族を裏切りたくないという良心が少し残っていて、そのため誰かに叱責を受けることで自分を思いとどまらせたいと思っていたこともあったからだった。仁保はもはや自分の意思だけであの女性の前では踏み止まることができなかったのだ。先日、中途半端な形であったが空乃に対して思いは伝えたはずだった。そしてそれに答えるかのように彼女も仁保に伝えたいことがあると言ってきた。彼女のいつもの明るい笑顔と仁保にじゃれるような甘い態度などからみて、彼女が仁保に気があることは明白であると自信をもって確信していたから、ここから急展開な出来事が起きても不思議ではないと彼は考えていた。今日はあれからはじめて空乃と会う日だったのだ。しかし仁保はムロハシの忠告など無かったかのように、この日はいつも以上に入念にシャワーを浴び身綺麗にするとおろしたてのシャツと下着に履き替えた。ジャケットも秋用を空乃と会うこの日のために新調したばかりだ。おしゃれな彼女にこんなもので少しでも近づければいいと、デパートで買った彼女への手土産をカバンに入れながら仁保は思いつつ家を出た。



「実はお腹に子供がいるんです、私。」

いつもと何も変わらない平然とした彼女の顔と、いつもより混んでいる平凡なイタリアントマトの店内で空乃(そらの)から聞いたその一言は、何かつまらない芸能ニュースでも聞いているかのようで変に現実感が伴っていなかった。

「勿論、私一人で育てるつもりです。東先生、いまの彼と出会った時から、私その覚悟でいましたから大丈夫です。」

仁保は心の中ではひどく動揺をしていたので、それが表面に表れることをひどく恐れた。しかし、手の指の震えだけは止められず隠しようが無かった。仁保はテーブルの上に置いていた手を視界から見えないようにテーブルのしたに下げると、何でもないように平静を装った。

「へぇー空乃(そらの)さん、そ、そうだったんですか。あ、あなたはいつも突拍子無い事が多くて、いや、もう多過ぎちゃって・・。自分だって今日ちゃんと準備して色々考えていたことはあったんだけど、だけどいつも突拍子無くて。そんなことだとは、空乃(そらの)さんといたとき一度だって思いもしなかったけど。」

自然冷たい口調になる仁保に気付き、空乃(そらの)の顔は少し蒼ざめている。

「思いもしなかったって・・・まるで私がわざと彼との子供が出来るように仕向けたみたいじゃないですか。もしかして私が彼に結婚か何かを迫るため妊娠したとでも思ってらっしゃるのですか?」

仁保はためらいがちに顔をそらして言った。

「普通、迫るでしょ結婚を・・。そんな話をいまさら僕にするなんて、どうかしてませんか。」

まるで学校の先生のような仁保の言いぶりに空乃(そらの)は増々蒼ざめて言い返した。

「どうかしてるなんてひどい言いようだわ。私、どうかしてません!」

ぴしゃりとそう言い切ると、まだ中身の殆ど残った儘の抹茶ラテを残したまま、空乃(そらの)は立ち上がって席を立つと、そのまま怒って去って行ってしまった。

後に残されたのは、すっかり冷めきって飲み残された抹茶ラテと、惚れた女の妊娠という思わぬ事態に怯える哀れな男のみだった。

しかし彼はある程度年を取った人間だったので、その場に一緒に置かれてただ溶けるのを待つだけの無機質な抹茶ラテとは違っていた。彼は徐に席を立ち、そのまま空乃(そらの)が去って行った方に向かい、彼女を走って追いかけた。

怒って出て行ってしまった慈央さんをなんとか建物の前で引き止めると、歩きながらなだめて近くのシアトルベストコーヒー福井アップル店に入った。

「そんなにおかしな事ですか?女一人で子供を産み、育てることが。」

「女手一つでは、将来の不安は計り若れません。自分は慈央さんの親しい男として、この件に関してはあなたを心配する道義的な責任があります。」

 なんとか冷静に一般的な視点で彼女の懐妊という事態についての議論が出来るほどに、瞬時に仁保の心的ショックは回復していた。無理やりにではあったが。

空乃(そらの)は淡々とした表情で、黙っていたがこう聞いた。

「ひとつ聞かせてもらってよろしいですか?その道義的な責任とは、わたしへの愛情から出たものですか?」

「・・ほぼ、愛情からです。」

空乃(そらの)はひとりうんうん頷くと言った。

「そう、ですか。初めて東さんに会った時、先生がご結婚されているのを知ってましたから、先生に自分の女の部分らを出したりして、その問題で先生を苦しめるような相談をしたり迷惑をかけないしてはいけないんだと心に決めていたんです。たとえ今の彼とのことで悩んでいたとしても、自分の事は自分の身一つで何とかしようと、そう心に決めているんです。先生のいる病院を初めて訪れたときには、私のお腹の中にすでにこの子はもういました。誰か相談できる相手が欲しくて、私。身ごもった女はもう好奇心からでも男の人には近づいてはいけないんでしょうか、先生。」

空乃(そらの)はそう言って優しく自分のお腹を摩った。外見上すらっとした慈央さんは相変わらずやせて見える。腹も見たところ大きくなっていない。これから大きくなっていくのだろうか。最後になぜか2人は握手をして別れた。彼女は言った。

「かわりました。今日はありがとうございました先生。今度、私転居する予定なんです、転居先が決まったら先生にも連絡しますね。」

そうしてお腹の中に赤ちゃんがいる彼女とは、そのシアトルベストコーヒーの前で別れたが、その後彼女とはしばらく会うことは無かった。


妻や子と、もう1ヵ月以上会っていない。最近はあんなに頻繁にあった離婚手続きに関する書類の郵送もぴったり収まってしまいかえって不気味なくらいだ。仁保は、ようやく自分と話し合いをする気になったのかもしれないと思っていた。

しかし子の拓也は、あんな母親だから、子供べったりの妻の意見は何でも聞いてしまう優しい子になってしまった。それだけが気掛かりだ。

屹度母親が一緒に金沢に引っ越そうと言えば黙って彼女に従い付いて行くだろう。転入のこともあるので、妻の実家に2人で帰ってしまったのだろうか。結局、息子を金沢の地に取られてしまったなと仁保は冷徹に考え込んでいた。今後もし、あの母親から死ぬようなことを告げられたら、拓也はそのまま母親の意を解して一緒に死んでしまうかもしれない、やつには反抗という物が無い、あの歳にしては従順すぎる子供だったからだ。なにしろ妻に言わせれば、そこまで母親思いの『優しい子』だった。

妻のおばから連絡があったのはついさっきの事だった。妻と連絡が取れないというのだ。

仁保がいままで数カ月間の経緯と事情を説明すると、あの子またそんなバカなことを・・、と逆に謝られた。妻が実家にまだこの件を話していなかった事は、仁保にとり意外だった。

人生の選択肢は思うほど多くない。車を運転しながら仁保は思った。

この先を右に曲がれば妻の住む家がある方に向かう道だ。今日行っても妻が赦してくれるとは思えなかったが、今後の事もあるので誠意を尽くして話していけば、まだ離婚だけは回避できるかもしれない。電話で実家のおばが心配していた為、様子を見に行くという訪問の口実も出来た。久し振りの我が家だ、妻と拓也は元気にしているだろうか。一応、仁保は手土産を買っていた。妻が好きなマール・ブランシュの四角い洋酒のケーキと拓也の好物のケンタッキーのチキンだった。まだ妻とやり直せる途(みち)が開かれていると仁保はこの時信じていた。

この先を左に曲がれば慈央さんが住んでいるアパートに向かう道だ。彼女は彼とは結婚はしなくていいから子供は産みたいと言ってるのを聞いて別れた。まだ新しい転居先の連絡が来てなかったからまだあのアパートにいると思われた。あれ以来連絡は取っていなかったがやはり一度会って、今後の話をした方がよさそうだ。しかし、シングルマザーになる覚悟を決めた彼女の方に会いに行くのことは、妻との正式な離婚を覚悟することを意味していた。仁保には実はまだ、その決心がついてなかったのだ。

右の道に行くか左の道に行くか。仕事帰りの仁保はまだこの期に及んで、自分の人生の岐路の選択を決めかねていた。そんなことにお構いなしに車はいまや分かれ道に向かい猛スピードで直進していた。



「………わたしよ…あなた…。」

突然の妻からの電話に仁保はまず驚いた。そして何を話していいのかわからなかった。あれだけ音信の絶えた後の妻からの直電だというのに、不思議と安心したりほっとしたりする気持ちは起きなかったのだ。

「久し振りだね、元気か?きみも拓也もあれから変わったことないか? なあ今からでも話をしてー」

仁保の謝りたい悔恨の情はこうした言葉を吐くだけで精一杯だった。

しかし受話器からはしばらくの沈黙のうち不気味な笑い声がした。

「くすくすくす………。ねえあなた、わたし今どこにいると思う?」

「え?どこにいるんだ?家じゃないのか」

「東尋坊」

その言葉に仁保は心臓が凍りつきそうになった。十数年前、妻が家出した折に迎えに行った実家で義父から聞いた話が不気味に思い起こされた。

「…東尋坊? なんでまた…」

「忘れたの?あなたとの思いでの公園の近くじゃない!あの日日が暮れちゃってまた今度二人でいこうと言ったのに結局あなたとは行けず仕舞いになっちゃったから、こうして今一人できたの」

「ああ」

仁保には正直あの辺りに妻と出掛けた思いではなかった。付き合っていた頃に中古の国産車であちこちドライブにいったことは覚えているが、いちいち何処に行ったまでは覚えてなかった。

「思い出した?」

「ああ…なぁ…」

何か言おうとしても言葉はなかった。衝撃のあまり過去をごまかし言葉で取り繕うことさえできなかった。

「ねえ、迎えに来てよ」

義父から聞いたあの不気味な話の再来だ、あの時聞いた言葉とまったく同じ言葉を妻も発している。恐怖に背筋が冷たくなった。しかし仁保は声で悟られないように極めて冷静に答えた。

「東尋坊のあの海岸の崖にいるんだな、わかったいまー」

「正確に言うと違うわ、東尋坊から橋を渡った先、雄島にいるの」

雄島?地元の嫌な噂を知っている仁保はその名前を聞いてさらに顔が引きつるのを覚えた。

「…最後になるけどいっとおくわ、わたしは島を逆時計回りに歩いたの、赤橋を渡るのを何度もためらい引きかえしたの、帰りの隧道であの仏像さんを拝んだの。わたしの身の回りにはこれからいったい何かが起こるの?教えてよ、ふふふ」

そういうと妻はケラケラ笑いだした。どう考えても尋常ではない。あの近くに交番はあったろうか・・。

「ば、馬鹿なこと言ってるんじゃない。とりあえず迎えに行くから待ってろ」

外套を手にした仁保がそう言い部屋を出ようとしてした時、電話から妻の最後の言葉が聞こえてきた。

「でもねえ・・・悪い事が起こるのは何も私だけじゃないのよ。夫婦だからあなたにも奈落の底まで呪われる運気が押し寄せるんだって。・・ふふ、慈央さんのこと残念だったわね、あなた・・・」




5月27日、福井県あわら市のJR北陸本線の牛ノ谷駅で特急列車が通過する際、 ホームにいた男が衝突して死亡した事故で、死亡したのは学生証から石川県内の高校に通う男子生徒だったことがわかりました。 警察によりますと男子生徒が自分で飛び込んだ可能性が高いとみてさらに身元を調べています。  ⦅福井日日新聞⦆



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まだ今の福井県県域を越前の国と称していた戦国の頃、この辺りの地を支配していた朝倉家の拠点は今の福井県の中心地・北乃庄よりだいぶ東側の山間部に位置していた。一乗谷(いちじょうたに)と呼ばれたその山城は周辺の四方の山に支城を形成し難攻不落と噂されていた、さらに60もの寺社を従えたその城下町は繁栄を極め、商人や茶人で賑わうそこは往年の京都をしのぐほどの繁栄ぶりを見せていた。

ようやくこの新興の都にも慣れ始めた頃、仁保は城下の古寺から大藪小路に差しかかったところで、この辺りでは珍しい友禅の本染めを着た少女を見た。京での戦災を避け遠縁の越前・伴(ともの)家に奉公に来て以来、仁保(じんぼ)はこの大藪小路を幾度となく往来して物を運んでいたが、あんな上等なものを着た者はついぞ見たことが無かった。

あまりに着物の色が美しく見えたので、仁保はその場に織物を載せた軽車(ベガ車)を止めたままその着物の少女が進む方を見続けていた。

その時だった、竹竿売りの小使いが少女の前を割り込んで横切ろうとした。その瞬間、その急な割込みに気づかなかった少女は顔面を竹竿売が掲げた長細い竹竿の先に深く直撃させてしまった。

少女は顔の当たった場所を手で押さえよろめくと、その場に座り込んでしまった。

 竹竿売は、後ろで何かに当たったことは分かっていたが、後ろをちらっと見ると「御免」と言って立ち去ろうとした。

 「待たれ!」

 一部始終を目撃していた少年はこれを呼び止めようとしたが、その声を聞くと竹竿売りは「ごめん」と言いながら一目散に走って逃げてしまった。

 「ちょいと、待たれ!」追いかけようとすると、しゃがみ込んでた少女が言った。

 「あの、いいのです。ちゃんと前を見なかった私がいけな・・痛たたた・・」

 少女はさらに蹲(うずくま)る。

 「これで目を押さえなさい。」

 未使用の手拭を籠から取り出すと、それで目を押さえるよう少女に指示した。

 目を押さえてしゃがみ込む女性に寄り添った。

 少女は痛みがひどいため返事もままならない。

しばらくして少女はゆっくりと立ち上がると、受け答えも出来るようになった。医者でないのであまり詳しいことはわからなかったが、少女の目は軽く充血していたが腫れも出血もなかったが念のため薬師を訪ねることを勧めた。

  「此処から二間先に惣一という薬師が居る。一乗谷一の名医と評判で場所もここから近い。すぐ近くだから送って差し上げよう。」

 軽車(ベガ車)の上の織物を上手に一か所にどかすと一番古い織物を車の荷台に広げ座っても汚れないようにした。少女は眼を抑えながら軽車の即席の荷台に座る。

 カタカタ、と友禅のあでやかな色の少女を荷台に乗せた仁保のベガ車はゆっくりと大藪から辻の方へと進んでいった。この辺りは京から逃げてきた商人が多く居を構える町筋で木綿問屋や機織り屋が軒を連ねるところだ。

 「あまり見かけない顔だが、おぬしどこから参った?」

車を押す仁保は荷台の上の少女に聞いた。

「北乃庄の朝倉郷から。つい先日参りました。」

「ほう、北乃庄。いいところじゃ。馬も草原も綺麗で穏やかなとこじゃ。だがここは北乃庄と違い馬より人が多い都じゃ、今後は十分気を付けたまえよ。」

 「お武家さん、北乃庄を知ってらっしゃるのですか。」

 「わしも北乃庄の出でな。幼い頃はよく馬を見ていたものだ。」

 少女はそうですかというと仁保を見ながら笑った。

 「わしは武家ではない、もとは武家だったが戦で父が亡くなり商家に奉公に出されてる身だ。これは死んだ父の形見、信貴山の戦の時の名残りじゃ。」

 そう言って仁保は懐に差したままの小刀をちらっと見せた。

 「この小刀を見ていいあてるとは、そなた武家の者か。だが朝倉家の人間でも城下では十分用心するがよい、ここも前より人が多くなって色々な者が出入りするようになったからな。さて、薬師で養生したら家の者を呼んで遣わそう。ここ一乗谷ではみな家族のようなものじゃ、誰かがそなたの家に使いを出すであろう。」

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〈終わり〉

エピローグ

漆黒の闇に溶け込むように真っ暗な山を目指して仁保の車は坂道を疾走していた。この日昼過ぎに仁保は慈央空乃と会っていた。いや慈央空乃であった女性といった方が正確だった、なぜならいまや彼女は三木空乃に名前が変わっていたからだ。信じられないことだがあの不倫相手の大学講師と結婚をしたらしい、それを彼女も彼も望んでいなかった筈なのにいったいどうしたということだろう、相手の妻や家族は了承したというのか。仁保にはにわかには信じられなかった。むしろ今日の朝まで妻と別れたら自分が彼女の赤ん坊ともども面倒を見ようと思っていたくらいだったからだ。今日はそれを伝えに仕事を休んでまで勝山の彼女のアパートまでやって来たのだが、とんだ事実を告げられて心は動揺するばかりだった。たしかに仁保の心にどこか傲慢な僭越さが無かったとは言えなかったが、もはや妻よりは彼女を愛していた彼にとってその事実は衝撃をもって心に突き刺さったのだった。アパートのドアを閉めると空乃は二度と仁保を部屋の中に入れようとはしなかった、そしてドアの前で彼女を呼び続ける彼に彼女はもう二度と何も答えなかった。


その後のことはよく覚えていない。アパートの近くにあった幸福駅とかいう名前の古びた洋食屋で遅い昼飯を食べると、仁保は茫然としたままその後も何回か空乃の携帯に電話を掛けてみた。そしてしまいには番号を拒否登録されたのか電話自体掛からなくなってしまった。仁保はしばらく当てもなく勝山の街を車でグルグル回り続けた。本当に何をすべきかわからなくなってしまったので一度自宅まで戻ろうと永平寺口迄戻ったが、結局また勝山の街迄戻ってきてしまった。そんな風に行ったり来たりしていたので仁保が再び勝山に戻ったころには日も暮れかけていた。

実は今日昼に空乃のアパートを訪れる前に、仁保は一度白山平泉寺を訪ねていた。空乃に会うのが怖かったので心を落ち着かせるために神仏の前に自分の心をさらけ出して、決心の具合を自分でしっかりと確かめようと思ったのだ。昼間は平日だったので平泉寺の周辺は閑散としていた。土産屋の近くの駐車場に車を停めると仁保は苔むした山道の中間にある社を目指し大きな杉林の中を一歩一歩歩いていき、古刹の前で手を合わせながら心の中でこれまでの家族を手放すことになったが供養を一生し続ける事と、これからは空乃の親子を自分の家族のように庇護して人生を生きていこうと、そう心に決めた。


「結婚っていったいだれと?」

「三木さんです。前言ってたカレです。」

久しぶりに会った空乃は顔かたちこそ変わってなかったが、あのいつも見せていた人懐っこそうな表情や優しい態度はすっかり消えていてまったく他人のようであった。

「どうして。あんなに嫌がっていたじゃないですか。」

「言う必要ありますか?あなたには関係のない話じゃないですか。」

この数カ月のうちに何が変わったというのだろう。空乃は前会った時とすっかり別人のようになってしまっていた。突然の彼女の豹変は、まるで別世界の人間のような冷淡さだった。妻のあの事件以後、仁保の周りから次々と人がいなくなりまたは離れていった。まるで別世界(パラレルワールド)にでも入り込んでしまったかのように不可思議極まりないことであった。


深夜にこんなところに来るものなどいない。人気のない真っ暗な石階段で何度も転びながら仁保は昼間来た社に向かった。彼の心では深夜の不慣れな山中に分け入っていくことの不気味さや怖さより昼の出来事からの焦燥と絶望感の方が勝っていたため、まるで麻酔で麻痺した患者のように何も感じられずまた考えられず仁保は夜闇に苔むす雑木と雑草の中、平泉寺の参道を一人夢中で疾走していた。途中きらきら青白く光の反射する場所に出た。泥まみれの彼が参道の外れをふと見ると、林の中に小さな池があった、月や星の明かりを僅かに反射して青い水面の光を周囲に反射させている。神秘的な光景だった。

ようやく、昼間の3倍は時間をかけて全身転び傷と泥まみれで上層にある社に到着した時には、仁保は息も絶え絶えであった。じっと暗闇の中に身を置き、一心不乱に祈ってみたが心の中には昼のように何も浮かんでこなかった。ただ、依然絶望の暗闇だけが心の中に渦巻きていただけだった。仁保は疲れと絶望から、半狂乱になり参道を横切り雑林の茂みに突進してそのまま転げるように斜面を落ちていった。

もはやさっき迄のような怪我で済まないことは明白だった。

 あの忘れようとしていた雄島での出来事が脳裏を掠める。あの日仁保は妻からの電話の後、急いで車を出すと東尋坊に向かった。夜分過ぎに駐車場に着くとすでにそこに人影はない。真っ暗闇の東尋坊の岸壁はおろかあの島に渡る橋に人影などあるはずがなかったがあんな風に妻の電話を受けてしまった仁保には、こんな闇の中でも妻を必死で探すしかなかった。仁保はそのまま島の入口に向かった。

越前海岸特有の高浪は夜になって更に酷くなっていて、島へ渡る赤い橋は高波に呑まれ今にも海に呑まれてしまうような状況だった。とても真っ暗闇の中を一人で渡れるような代物ではない。妻が言っていた隧道(トンネル)を仁保はふと思い出した。あの島へ渡るためにもう一つ、隧道があるらしい。しばらく辺りを歩き回って、橋から公園に戻る途中でそれらしき入り口をみつけた。非常に目立たない場所にあって、人々をそこから遠ざけるかのようにひっそりと雑木に囲まれた一角に存在していた。

仁保は子供の頃に聞いた噂話を思い出した。

『…島へ一度渡り始めたら、赤い橋から引き返してはいけない。まちがって隧道から渡り始めたなら石仏を見てはならない、すぐに引き返さねばならない…』

この隧道は島から戻る時に利用されるものとされてきた。島に渡る時に利用することは逆回りにあたり禁忌なのだ。また隧道を渡る場合、隧道の一角に石仏があり、そこを通る時は決して石仏を見てはならないという決まりがあったのだ。

入ってみると、隧道内は電球が所々点いてまったくの暗闇ではなくなんとか通れそうだった。



暗闇の向こうから何か微かな響きで小さな声が聞こえた。それを聞いて仁保は、妻が中にいて自分を待っていると思い隧道の奥の方へとかけていった。

しばらく進んでいくと隧道の壁にビニールの囲いのある横穴に突き当たった。どうも妻が言う石仏が安置されている場所らしかった。この石仏は見てはいけないと子供のころから聞かされていたので、仁保はその場所に立つと身震いしたが、どうもさっきの小さな声はここから聞こえた気がしてならない。この隧道を辿ればすぐに島の地上に到着しそうだったが、その隧道の出口からはゴーッという波風の強い音が隧道内に響いていた。さっきのかぼそい声がこの猛烈な波風の音に消されずに届いたとは思えない。やはり石像の窪みに誰かいると考えるのが順当であった。仁保の心の中で、恐怖心より勝ったのは妻を心配する気持ちだった。意を決して仁保は妻の名を呼びながら、そのビニールの囲いを潜ると仏像へと向かった。暗闇の中・・・・仁保が見たのは白い石仏と、隣に立つ女の人影であった。石仏の目は噂通り赤く光っていた。仁保はその場で気を失いながら、女の人影が「あら、意外ね」と呟いたのを聞いた。

 今になってあの島の隧道での出来事に恐怖を覚える。何より不気味だったのは仁保は隧道で気を失ったはずだったのに、気が付くと自宅の居間で倒れていてすべてが出発前の状態であったことだった。いや確かにあの時、あの場所にいったはずなのに、仁保はあの場所から時間ごと戻されてしまったかと思うと気がおかしくなりそうだった。


山林の茂みに突進しては転び、斜面に何度も身体を打ちつけ転げ回りながら、仁保はなんとかなだらかな地面にたどり着いた。

自分の身が土の上で止まったことを確認すると身を起こした。体中にまとわりついた木々の小枝と雑草のにおいがすごい。あたりを見渡すと真っ暗で月明り以外何も見えなかった。夜風が急に冷え込んできていることに気付いた。山の天候は変わりやすいとは言うがここまで急激な気温の低下は珍しい、仁保はシャツ1枚では肌寒く感じて身震いした。

遠くにぼうっと人家のような薄明かりが浮かんでいる。近くに集落はあったがこの辺りは平泉寺の遺構、発掘場に近く雑記林のため誰も住んでいないはずだ。夜間に発掘作業でもしているのかと思い、仁保はその明かりに釣られるようにフラフラと近づいていった。

歩いていくうちに泥と土の道は年季の入ったデコボコの石畳に変わっていた。道の横には石を積んだ土塁と復元された泥壁・木材で出来た古民家のような建物が数多く連なっている。古い建物の復原工事がここまで進んでいることに仁保は驚いた。一軒一軒にまるで人が住んでいるようだった。軒先につるされた木製の古びた生活道具があって家屋のすべてが本物のように精巧に作られていた。その中の明かりが灯る一軒の扉を仁保は叩いていた。中から誰かが戸を開ける気配がした。


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夜半遅くに迷い込んだとはいえ、全身傷だらけの仁保は身を潜めつつも堂々とした足取りで宿坊の一軒一軒の戸を叩いて回った。殆どの坊は明かりも消え中から人の返事はなかったが、奥の一角に燐然と明かりを灯した宿坊が一軒見えた。仁保はそこを目指し歩いて行った。戸を叩くと即座に一人の僧が戸から現れた。

「こんな夜更けに平泉寺に何用か?」

「名は伴(ともの)仁保と申す。朝倉家一乗谷城の侍だが、訳あってここで水と暫しの休息を頂きたい。」

僧は僧長に聞かねば分からんとだけいうと奥から汲んできた冷水を仁保に与えた。

伴仁保は一息つき礼を言う。僧は自分の僧坊には仁保を許可なく入れられないため、僧長に話をしたほうがよかろうとちょっと離れた僧長の所まで伴仁保を案内した。

夜闇に手明りを持ち僧が言うには仁保が迷い込んだこの僧坊群は南谷3600坊と呼ばれる場所らしい。これから案内するのは北谷2400坊と呼ばれる清坊の居処する場所で伽藍を挟んだ反対側にあった。まあ実際は2000も3000も居処があるわけではござらんが、と僧は笑って言った。僧坊の反対側に僧長の居処はあった。僧が門を叩くと小柄な僧が戸を開けた、まだ稚児のような外見だ。僧長に来人の旨伝えよと僧が言うと稚児は居処の中に引っ込んだ。


「ほう。すると織田軍得意の夜襲か。不意打ちは不幸なことでしたな。朝倉軍は抗戦の準備すらできなかったのではないか。」

目の前の赤ら顔の太った僧が顎に手を遣りながら言った。なんでもさっきまで酒入り暴れていて大変だったらしい、周囲の僧が抑え込むとなんとかこの酒乱を寝かしつけたという。吐く息も僧侶だというのに酒臭かった。伴仁保がたどり着いたときにこの僧は目が覚めて水を飲んでいるところだった。酔いはすっかり冷めたらしく穏やかな口調で仁保を僧坊に迎え入れた。

「いや織田軍の来襲方法や時期などは把握していた通りだった。織田軍の行動の結束は石のように固い、むしろ固すぎるくらいだ。だから動きが読みやすい。」

「ならば、来るのがわかっていながら敢えて開城して負けたわけですか。あの朝倉様が戦わずして負けるなど信じられませんな。」

そう言って大柄な僧は向かい合った仁保に徳利ごと酒を勧めたが伴仁保は断った。

「織田との和議を模索していた矢先のことだったのだ、しかしどうも交渉がうまく行かなかったようだ。一方的な空城の計などこれまで連勝で来た敵には何の効果もなかったようだ。いまや一乗谷には人っこ一人いない。織田軍が来る前に朝倉軍の大半は大野まで撤収し、町人たちもそれに従った。そのうえ今回の夜襲で町は大混乱、もぬけの殻だ。わたしの妻も行方知らずとなってしまった。」

「しかしこれから攻勢に出るのだろう?織田など朝倉・浅井の前には存分に蹴散らされるであろう。」

「いや攻められますまい。浅井も朝倉ももう勢いがござらん。今の勢いは織田じゃ、尾張衆じゃ。わしは殿(しんがり)だったが、戦わずしても織田軍は恐ろしいものだった。問答無用にすべてを殺しつくす。最後は火をつけて何も残さない。鬼神のようじゃ。わたしは一乗谷城近くにひっそりと残置して最後まで織田軍の行動をすべて見ていたが、無差別に殺戮の限りを尽くすあの戦いぶりを見ては、もはや殿には織田との全面和睦を進言するつもりだ。さすれば織田もじき引き上げよう。」

「また一条谷に戻るのか。」

「昨晩火をつけられて一乗谷はいまや灰燼じゃ。かつての京都のようになってしまった。もう元には戻るまい。」

少し休憩をした後、伴仁保は身支度を整え出立の準備をした。

「出られるのか、朝まで逗留したらいかがか。」

仁保は礼を言うと太った僧に言った。

「これから親方様のいる本隊を探さねばならん。まだ一乗谷の焼き討ちと大野への撤退は誰も知ってはおらぬゆえ、移動するなら今のうちじゃ。ここに朝まで逗留して寝首を刈られてしまっては、それこそ末代までの名誉に関わりますからな、あははは。」

立ち上がると仁保は笑いながら言った。

太った僧は冗談が過ぎますなと一言かわすと、仁保はこれはこれは命の恩人に失礼したと言いながら一礼し、後ろも振り返らずに去っていってしまった。


「惜しかったですね。」

伴仁保が去っていくと、僧坊の裏の間から刀を手にしたさっきの僧が現れて言った。

「いや、奴は知ってて敢えてここに来たんだ。」

仏頂面で太った僧はそう呟くと、奥にいた他の者たちにも武器をしまい引き上げるよう告げた。

「われわれが織田と通じているのを知っていて、やつはここに逃げてきたんですか。」

太った僧はふふふと笑うと目の前の徳利を仕舞いながら言った。

「初めから追われてなどいない、全部芝居さ。まあ一乗谷が攻められて一夜で焼け落ちたことは本当らしいが。男の服の傷も汚れも自分で付けたものだろう。おそらくこの寺がかなり前から織田と通じているのを知っていて、朝倉にこれ以上の交戦の意思がないことを織田に伝えるため来たんだろう。」

武士が消えていった夜の闇を見ながら僧は反芻するように言った。

「朝倉家を守るため、殺されるとしてもそれを覚悟の上でな。まさに乱世の忠臣かな。」

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愛着 早坂慧悟 @ked153

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