15‐幽霊とお別れの時

 歌ってる途中から声が震えてるのはわかってた。

 なんて情けなくて恰好悪い俺、だけどたぶん、そんなでもごうちゃんは笑ったりしない。


 どうしても決められなかった最後のフレーズだけは、即興になった。


 幼稚な感情だだ漏れの悲惨なリフレイン。そのうえ、この後に及んでも肝心の二文字さえ伏せたのは、少しでも足手まといになるまいという俺のささやかな意地。

 俺がどんなにごうちゃんを好きになってるかなんて、去りゆく彼女は知らなくていい。


 最後のコードから手を離す。

 俺の代わりに泣いていたギターは、まだ名残惜しそうに弦を震わせていた。


 ごうちゃんが手を伸ばしてきて俺の頬に触れる。よほど注意しないとわからないほどかすかな感触と、ほんの少しの冷たさがそこにある。

 恐らくは色んな感情の上に、それでも俺のために笑顔を浮かべたごうちゃんは、囁くように言った。


「ありがと、イオ……歌、すっごく、すっごくよかった……。

 上手く言えないけど、私はとっても幸せ。きっと世界でいちばん幸せな幽霊だよ。

 じゃあ……もう行かなきゃ」

「うん……」


 まだここにいてくれなんて、そんな我儘言えっこない。


「ほんとに、色々ありがとう……」


 ああ、それは俺の科白だよ。

 それに感謝だけじゃない、伝えたいことなんてまだ山ほど残ってる。これからも増えるはずだった。

 だけど今この口を開いたら余計なことを言っちまいそうで、黙って彼女を見つめるしかできなかった。


 ごうちゃんの身体が闇に溶けて見えなくなっていく。

 最後まで笑顔を崩さなかったごうちゃんは、俺なんかよりよっぽど強い。


 そして、完全にその輪郭が捉えられなくなったころ、俺の耳元で。


『またね』


 そう言い残してごうちゃんは去った。

 彼女はあくまで俺の夢を壊さないでいてくれた。



 もう一度逢えるといいね。

 きっと、またいつか、天国かどっかでさ。




 ・・・・・*




 遠慮のない玄関チャイムの音に叩き起こされ、俺はのろのろと布団から這い出た。

 こんなときに誰だよ。横目でスマホをちらりと見ても、画面は真っ暗だしランプも沈黙、なんかの通知がきている気配はない。


 そうしてしんどい身体で応対したらよりによって来客はアホだったので、俺は猛烈に玄関ドアをそっ閉じしたい衝動に駆られた。

 むしろこの体調でなけりゃ実行してた。


「よっ。……うーわ、ひっでぇ面」

「……何しに来たんだよ……ゴホッ」

「いやガンちゃんから連絡きて、手ぇ離せねーから代わりに見てこいって言われてなー……まさかおまえ風邪ひいてる?」

「見りゃわかんだろ……」


 俺の返答を聞き終わらないうちに、ユウロは目にも止まらぬ速さでブルゾンのポケットからマスクを出して装着した。

 無駄に……いや、さすがに用意がいいな。喉に関しては。


「そらみろ、俺の言ったとーり。このワーホリ野郎め」

「いや過労原因じゃな……ゲホッ」

「布団戻って寝ろ!!! しゃーない、どうせ看病してくれる女もいねんだろ。スポドリくらい買ってきてやらー。

 薬は飲んだんかよ」

「一応は」


 せっかくなのでユウロをこき使うか。

 とりあえず買いものとゴミ出しだけ頼み、俺は撃沈した。……けっこうギリギリだった。


 それから一時間か二時間かして俺がふたたび目を覚ますと、ユウロがローテーブルのとこで何かしているのが見えた。

 手元ではノートが二冊広げられている。歌詞用と楽譜用で使い分けてるんだけど、その両方だ。

 ユウロは爪でカツカツ音を立てて行儀悪くテーブルを叩きながら、リズムと歌詞の流れを確認してるらしい。鼻唄も聞こえる。


 俺が起きたのに気がついたユウロが、手を止めてこっちを見た。

 ……そこにいるのが金茶髪の野郎じゃなくて、黒髪の女の子だったらどんなによかったか。はあ。


「ほらよスポドリ。あと体温計いる?」

「ありがと……寝たら下がった気がするし一応測るわ」

「顔色も多少マシんなったな」

「……ところで今日おまえ暇なの?」

「たまたまなー。だからお声がかかったのよ」


 ガンちゃん、人選もうちょい考えて。なんでこいつ。


「ほんでこの新曲さ」

「あーうん……って違う、歌詞それじゃない、次のページのがそう。こっち」

「へ?」


 起き上がって初めて気づいたが、ユウロが見ていたのはごうちゃん用の歌詞だった。

 そもそも他人に見せる気もなかったそれを、よりによってユウロに見られた挙句、鼻唄とはいえ歌われたかと思うと猛烈に恥ずかしい。

 くっそ。風邪さえ引かなければ。


 ちなみにあの夜桜花見デートが原因で風邪をひいたわけじゃない。ただ単に、急な寒の戻りに俺の身体が対応しきれなかっただけだ。

 そんなに貧弱だったつもりはないけど、やっぱみんなが言うように働きすぎと睡眠不足で免疫力落ちてたのかもしれないので、ちょっとだけ反省してる。


 正しい歌詞をひととおり読んだユウロは、しかし無言で勝手に前のページに戻った。


「おいそっちじゃないって」

「いや、……こっちのがいいわ。これスロバラだろ? あっちは言葉選びはいいかもしれんけどサラッと流しすぎててつまんねー」

「つま……、でもさすがに野暮ったすぎだろこれじゃ」

「そこが味だろ。だってこれ別れてんだろ? 未練タラッタラでクソ情けねー感じでさ。このやったら具体的にエピソード羅列してる感じストーカーみたくてキメェ」

「褒めてるような声で高らかにディスんな。でも意味はわかるし、だからやめようって」


 冷静になって読み返すと俺これよくごうちゃんの前で歌えたよなって……いや、共有する思い出があるからごうちゃんとの間では成立してるんだよ。それは間違ってない。

 でも他人が見たらこんなんドン引きだろ。


 ストーカーってのもわかる。まさしくそうだと自分でも思う。

 もうあれから何日も経つのにまだ俺の中では何にも整理がついてなくて、道を歩けば黒髪ロング白ワンピの幻想を勝手に眼が探しちまうんだ。

 まだどこかであの子が彷徨ってるんじゃないか、なんて……俺は、最愛の彼女の幸せすら願えない最低な男だ。


 だからこんな、俺の生き恥みたいな歌詞をうちの大事なボーカルに歌われたくないんだよ。


「要はそれだけそいつが大事だったってことじゃん。だから別れんのがすげー辛いんだってわかる。そういうのが客には刺さんのよ」

「は……」


 なんでこいつ、こういうこと平気で言えんの?

 で、……なんで俺は、そんな薄っぺらい言葉くらいで、ちょっと感極まって泣きそうになってんだよ。体調悪いせいかな。きっとそうだ。


「ほんで伊織くん? どこの誰か知らんけど、なーんで俺に相談もせんと別れちゃったのよ」

「いやなんでおまえに話さなきゃなんねえの……」

「だって俺ら親友じゃん?」

「初耳ですけど……」


 つかなんで実体験ってわかったんだよ、と言いたくなったが、まあ歌詞の具体性と雰囲気を見れば明らかだったので黙った。普段の俺が書くのはもうちょい抽象的で荒れてるから。

 それよりこいつに慰められている事実が癪すぎる。

 あと親友はない。せめて悪友。


 このあとユウロは勝手に歌詞をスマホに移し、カリとガンちゃんにも意見を聞くとかいって転送した。俺はやめてって再三頼んだというのに。

 まあちょっと慰めの言葉が心の柔らかいとこに刺さっちゃってたから、そこまで強くは止められなかったんだけど。

 あの二人はけっこう男気系だから、女々しいのは嫌いそうだけどな。


 と思ったのに、しばらくしてふたりから来た返事はどっちも「第一案がいい」ときた。

 ひどい。みんなして俺を晒し者にする。それか第二案ことバンド用のプレーンな歌詞はよっぽど出来が悪かったってことか。


 結局、状況は覆らなかった。

 三対一で勝ち目はない。ごうちゃんと俺のふたりだけの思い出は、無事に新曲の公式歌詞として採用されてしまったのだった。


 ……。



 時間はどんどん過ぎていく。あっという間に春の残り時間は短くなっていく。

 桜なんかとっくに散って、乾いた空気だけが季節の名残だ。


 世間がゴールデンウィークに沸いても俺はいつもどおり働きづめで、たまの空き時間はリペアの終わったエレキの調整とライブに向けての準備に追われる日々。

 だけど忙しいほうがいい。余計なことを考える暇なんかないほうが、俺には楽だから。


 何の気なしに空を見上げて、そこに彼女がいるんだろうかと懐かしい気持ちに浸る――そんな心境になんて、到底なれそうにない。


 そんな状態でライブ当日を迎えた。

 まだ季節は雨が降り出す前、けれど空は分厚い灰色の雲に覆われて、じっとり湿っているように思えた。



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