禁忌

湯藤あゆ

taboo

「ごめんね……………て………、…きた…………ろ…、」

うるさかった渋谷が、あの時だけ、聞こえてほしくない音をかき消してくれたのは、運命か、誰かが見ていたのか。

アキレス腱を切って倒れ込む僕の眼が、白井さんの背中を追い、追い、遅れて涙を流す。

繊維の時が来たからだ。

謝るな。謝るな。謝るな。あなたは悪くない。


「餌になる」準備は、小学生の頃にできていた。

祠で、爪を少し切って、捧げる。翌日には無くなっている。まあ、普段なら外を立ち歩かない時間に坊さんが祠をいじっているので、そういうことなんだろうな、と何となく見当がついてはいたが、親からは時々、ごめんね、と言われて涙を流されて、オヨヨオヨヨと縋りつかれて、疲れて、眠って、今度は酒の匂いがする祭壇に縋って、気が狂っていた。父は、泣かなかったが、いつも背中がその悲愴をぶつけてきたから、すぐに、「あー」とか思うのだ。

大きくなっても、その想いは変わらないと言うか、もうそこで育った以上価値観はどうしようもなくて、やるせなさに咽び泣くこともしなかった。ネットを見るたび、辛かった。なんか、そう言うことなんだよ、他の人は、メキシコのうんたら文明よろしく狂った風習の「餌食」になんなくても、さらに80年は生きんだよ、ばか。自棄だった。母も泣くくらいなら、何かしてくれ、自分を責めて何もしないなら、せめて。父さんはもう論外だ、なんか、言えよ。そんな瞞着が、蔓延って、移ろっていき、虚に縫い込まれていく日々だった。だから、諦めっていう言葉、死ぬほど聞いていた、死んだことないのに。


学校の白井さんが、東京に出ることになった。先生は最後の最後の白井さんを蹴った。白井さんは泣いた。そして走っていった。可哀想だが、仕方ない、東京は現代の錆だ。そんなありえないことだってすんなり言った。それが啓示だと信じて疑わなかった。だから言ったし、陰口も止めなかった。それが魔力だった。御年91歳のオサの言葉を。あのマヂサちかづぅちゃいげね。そう釘を刺されていたからだ。そして、案の定僕は標本みたいだった。

蹴ったのだって、「ホントはダメだけど」くらいに思っていた。その時はまだ日本の教育は厳しくとか、そんな歴史なんか習わなかった。習ったのは、算数、数学、英語、生物、化学のみだった。それ以外は、歟銟の神についての御講話であった。居眠りは殴られた。痛くなかった。寧ろ、左の頬を差し出して、「ナンとか」言ってた。

その白井さんは、芋臭かった。そして、でっぷりして田舎の女子でも特に不細工だった。訛りも激しく、蹴られても、可哀想に思うどころか、へんとか、ケッとか思っていたのだ。しかし、白井さんは、いよいよ東京へ出る日になって、僕を呼んだ。それは、爪の祠だった。


「ごめん。話があるの」

そこにいた女性は訛っていなかった。そして、すらっと痩せていて、肌はセクシーで、なんか、美人で、知らない人から話しかけられたと思ったほどだった。いつもの彼女じゃなかった。

彼女は演技の天才だった。僕は彼女のイモのような演技に盲信を重ねていたに過ぎなかった。いつもの彼女は、今思い返せば、間違いなく美人だった。だが、彼女の毛虫の取り憑いたような演技は、僕に幻覚を見せた。

「ビックリした?これがわたし、ホントの私」

都会風の真っ白な服に身を包んでいた。湾曲していて、或いは円やかだったり、軽そうだったりして、女優みたいに清楚な美が彼女の姿にはあった。村では長袖ばかりだったから、女性の肌は見慣れていなくて、ノースリーブの彼女はひどく品がなく見える、そう思っていたが、そんなことはなかった。堂々としていて美しかった。価値観を超越したスタイリッシュさがあった。東京から来たみたいだった。

「あなたはこの部落を抜け出して、東京に出るの」

「えっ」

現代の錆。現代の。錆だ。神が!歟銟の神が許すか???いや、歟銟の神は錆びたあの街に裁きを下す。下したら、お仕舞いだ。

「あなたは、狂ってしまっている。部落の呪いにかけられているってワケ」

「…神」

次の瞬間、左頬に衝撃と痛みと電気と、凄い火傷の後のような、爛れた感性が谺した。授業でならどんなに殴られたって欣んでいた僕が、初めてゾッとした。

「…口を開けば神神神神神って……恥ずかしくないの!?狂ってる!本当に狂ってる!あなた、…あなた、死ぬのよ!!??私と神、いや、あなたのお母さんと神、どっちが大事!?神なんか死んだわ、少なくとも私の頭の中の神は、とっくに焼死体よ、馬鹿なの!?!?歟銟の神なんか殺してしまえ、殺してしまえ、殺してしまえ、命が大事に決まってるじゃない!!!」


哀れだった。錯乱しているのだ。神の命はこんなに粗末に殺すのに、命が大事って。カタチあるものは邪念だ、カタチなき神の本尊こそ、この世でもっとも純なんだ。矛盾が生じた論理を、淡々と吐き出す、そんな女だったのだ。こいつは、所詮、女狐なのかもしれない。あの蕩ける眼の奥と、肉付きの良い四肢と、人並外れた演技の天賦の才で、世界を欺き続ける。狂っている。おかしいのはこの女。


一昔前の僕なら、そう思っていたかもしれない。しかし、彼女の心の奥で眠る、命知らずなこの叛逆に、神の教え以上の輝きを見たのだ。


そして僕は棄教して、彼女の運転するバイクに掴まって村を出た。


棄教、…帰郷。


馬鹿馬鹿しい。




空がまた碧くなる時刻だ。




***




それからの都会生活は、故郷が「本当に未開の地だった」ことをどんどん証明してくれた。電車も3両以上のものは初めて見たし、そもそもこんなに人が多いのも初めてだった。雀も何故か田舎よりここの方が多かった。小爆弾が群発する様に街路樹の葉を揺らし飛んでいく様子は、逆に新鮮さを覚えた。

そして、僕は行き場がないのを理由に住んでいたはずだった白井さんの家で、カップラーメンなんか啜っている。そして、夜は二人だけが生きているのだ。

「…ね」

「ん、何?」

「……神なんかバカバカしかったでしょ」

そう言って笑う彼女の唇をもう一回奪った。

あの日々はどこまでも心地よかった。


しかし僕はその日、妙に恐ろしい夢を見たのだ。

かつて本で読んだ「歟銟の神」が僕を睨み、「必ず食い殺す」と言って爪の祠に消えていく、というものだった。

「嫌な予感がする」

彼女は呟く。今日はバイト面接の日だった。

「ああ、今日は周囲に気を遣っておくよ」

そう気張りつつ、内心は本当に怯えきっていたのだ。


何ぁあんだ。結局、何もなかった。

もはや憔悴していた。そう自分に言い聞かせても、やっぱり心の奥底で神への畏れが滞留する。最早冷静でなかった。


…あ、白井さん。

彼女は笑っていた。走って彼女の胸で怯えた心を癒そうとすると、突然床が抜けたようになって、僕は、何も知らない、うちに、ブチッと、痛みを、…


歩道を泳いでいた。歟銟の神が僕の足を波打つ地面で握りしめる。

白井さんの絶叫が薄ぼんやり聞こえる。


「ごめんね……………て………、…きた…………ろ…、」


…雨は降ってない。

なんて言っているかわかっているからこそ、返事してあげたくなかった。

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禁忌 湯藤あゆ @ayu_yufuji

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