後編
2010年、3月。
それでも二人の関係は変わらずに、朝は一緒に高層ビルの四十五階で朝食を食べて、休みの日はショッピングに小旅行。
変わらない日々が続いていた。
その間にもスカイツリーはどんどんと背が伸びて行き、二人の時の流れと共に成長を遂げていた。
そんな二人の関係以外で大きく変わった事と言えば、千鶴がダブルワークをする様になった。
夫の勝也と別れ、一人暮らしを始めた千鶴。神奈川県との境に引っ越しもして、新たに暮らす基盤を作っていた。
亜弥も実家の北海道へ戻らず、東京に残る決意をした千鶴を家に招き、千鶴の好物をたくさん作ったり、映画や温泉に招待したりもした。
二人を取り巻く環境はゆっくりと変わっていたが、二人の関係は変わらないまま、穏やかだった――。
――いや、違う。
関係は歪み始めていた。ただ、音も無く静かに崩れ始めていた歯車に、亜弥が気付けなかったのだ。
◆
――夏になり、亜弥はプロポーズをされて陸と同棲をする事となった。
そして陸のアパートがある隅田区へ引っ越す事を決める。
引っ越しの後、さっそく陸の不在時に千鶴を墨田に招き、新しい土地を二人で散策する。
その間――ずっと千鶴は浮かない感じだった。
流石の亜弥もなんとなく気がついていたが、商店街の中にパン屋を見つけ、パンが好きな千鶴に「パンを買って公園で食べよう」と提案して誤魔化した。
その公園からはスカイツリーが目前に、大きく見えていた。
形もほぼ完成に近づき、二人はカレーパンを頬張りながら、まだてっぺんにクレーンを積んだスカイツリーを眺めていた。
「もうすぐスカイツリーに行けそうだね!」
亜弥は一年半前の約束を、千鶴に持ち掛けた。すると、千鶴はカレーパンを飲み込むと俯き、
「でも、入場料高いしなぁ……」
と気乗りしない感じで言う。
「…………あ! それなら、
亜弥は良いことを思いついたとばかりに提案するが、千鶴は「そうだね……」と呟き、カレーパンを黙々と頬張る。
……気まずい雰囲気が流れる。
亜弥は公園の芝生の剥げた地面を見つめ、会話を探す。しかし、焦れば焦るほど、適当な会話が見つからない。
千鶴と出会ってから二年。
こんなに気まずい雰囲気は一度も無かった。亜弥はそのまま、会話を見つける事が出来ず、カレーパンを食べ終わるまで静かに地面を見つめていた。
せっかくのスカイツリーを見上げる事も出来ずに……。
◆
――それから、なんとなく千鶴と会う時間が減った。
千鶴の副業の時間が増えたのも理由の一つだが、以前と比べて千鶴の態度が暗く、一緒に居ても楽しくなさそうだった。亜弥もそんな千鶴に気を遣い、言葉を探し、迷い、会う事が億劫になってきた。
そして、比例して陸と出掛ける事が増えて行き、千鶴と過ごす時間は無くなっていた。
◆
2011年、1月。
一方、
会社を退職する事を職場に告げた。
理由は、もう少し稼げる職種に就きたいと。薄給で働く同僚達は、千鶴の退職理由に反対出来る人間は誰一人も居なかった。
そして千鶴は惜しまれながらも、あっという間に退職をしてしまった――。
――残された亜弥は千鶴が居なくなった翌日もおにぎりを持って、四十五階のロビーへ赴く。
千鶴が居ないロビーは暖房が効いているのに、ひんやりとしていた。
初めて一人で食べるおにぎり。
原因は分かっていた。
味がしないのは、泣いているから……。
亜弥に寄り添って、朝日を綺麗だと言っていたあの人は、もう居ない。
美しく輝く摩天楼を眺めながら、亜弥は静かに千鶴を想い、涙を流したのだった……。
◆
2011年、7月。
亜弥は妊娠が発覚し、来月末に退職する事を決めた。
数か月前の大地震もあり、通勤に不安があったため、大事をとって早期退職を願い出た。
しかし、それは正解だった。
数日後、突然出血し切迫流産になりかけているとの医師の判断で、亜弥はほぼ寝たきりの夏を過ごす事となる。
酷い悪阻もあり、千鶴の事を思い出す事も出来ないほど、新しい命を宿した己の体の変化に必死と闘っていた――。
◆
2012年、1月。
年も明けて安定期に入った。
不正出血も無くなり、悪阻も軽くなり、お腹の子も順調にスクスクと育っていた。
そんな時、久しぶりに千鶴からメールが来たのだ。
千鶴は今、工場の夜勤で働いていた。
昼夜逆転している上にシフトを多く入れているため、なかなか亜弥と会う事が難しかったと。
そして最後に「会いたい」と書かれていた。亜弥は喜んだ。
千鶴との関係はこのまま自然と疎遠になってしまうのかと思っていたから……。
二人はすぐに会う約束をする。
亜弥の状況を知った千鶴が、墨田の方へ来てくれる事になった。
両国駅で待ち合わせをして出会った瞬間、笑顔だった千鶴の顔がみるみると強張った。
その目線は亜弥のお腹にあった。
亜弥はその強い視線に、背筋が凍る。
メールで妊娠していた事は知っていた筈だ。なのに、亜弥の変化を目の当たりにして衝撃を受けている様だった。
亜弥はなんとなく居たたまれない気持ちになり、着ていた紺のダッフルコートを手繰り寄せて、目立ってきたお腹を隠すようにした。
「じゃ、じゃあ、どこ散策しようか?」
二人は今日両国駅付近を散策をする予定だった。
しかし、千鶴は一瞬黙り込み「……そのお腹じゃあ大変でしょ? お茶しようか?」と一人歩き出した。亜弥はその姿を見失わない様に必死に後を追った。
――千鶴は駅を出て、最初に見つけたファミレスに入った。
二人はドリンクバーだけを注文し、亜弥が近況報告をしようとした時、千鶴が先に切り出した。
「……亜弥ちゃん、あのね、私……青森へ帰る事に決めたんだ」
「えっ!……い、いつ?」
「来月」
「来月!?」
あまりの急な話に亜弥は言葉を失う。
「…………そっか……そうなんだ。……私、寂しくなっちゃうな……」
やっと口から出た亜弥の言葉に、千鶴は声を荒げて言い返した。
「寂しいのは私の方だよ! 亜弥ちゃんは……佐野さんも、赤ちゃんも居るじゃない!! 私は誰も居ないんだよ? 東京で独りぼっちなんだよ?!」
「……!!」
千鶴は一気に喋り、涙を零した。
独りぼっちだという千鶴。
「もう一人で東京で頑張るの、疲れちゃったんだよ……」
一人だという千鶴。
亜弥の心は
千鶴は大切だった。
けれど勝也と別れて一人になった千鶴を、彼女を取り巻く孤独を、苦労を、亜弥は支えてあげる事は出来なかった。
亜弥は自分の事で精一杯だった。
今さら、言い訳を連ねても遅い。
亜弥は親友だと思っていた千鶴の『孤独』を補う存在になれなかったのだ。
それがとても悲しくて悔しかった……。
――二人は黙ったままファミレスで涙を流し、涙が落ち着くと、再び両国駅に戻っていた。
「……メールするね」
改札口での別れ際、千鶴が言った。
「うん」
そう頷いたけれど、きっともう二度と千鶴から連絡は来る事は無いとは分かっていた。
千鶴はふと、駅に飾られたスカイツリーの完成予想図の絵を見つけた。そして、その絵を眩しそうに見上げて呟いた。
「……スカイツリー、一緒に行けなかったね」
実物のスカイツリーは外観工事はとっくに終了し、完成は目前だった。
スカイツリーに行けなかった事を惜しんでいる台詞を呟きながら、どこか他人事の様な目線で完成予想図を見上げる千鶴に「私は……」と話を繋げた。
「……私はずっと待っているよ。スカイツリーは
千鶴は驚いたように目を見開いた。
利用客の雑踏で賑わう両国駅に、二人の空間だけが音もなく、シンと静まり返っていた。
そして、亜弥の愚かな決意に千鶴は目を潤ませて「うん、そうだね」と頷いた。
「いつか一緒に、四十五階よりも高い所に行こうね」
「うん、約束」
二人は両国駅の改札口でお互いの両手を握り、それからゆっくりと離した。
そして亜弥の親友だった千鶴は、雑踏の中に振り向く事も無く、消えていった――。
◆
あれから、七年。
千鶴はどうしているだろうか。
遥か北の国で元気で暮らしているだろうか……。
亜弥の持っている千鶴のメールアドレスは、既にただの文字と数字で、その先には亜弥が望む千鶴は居ないのだ……。
桜舞うスカイツリーを見上げて、亜弥は思う。
私は永遠にスカイツリーには上れない。
私の心は新宿の四十五階の高層ビルで一人。
……遠くて、遠すぎて、辿り着けないこの電波塔を眺めているのだから……。
ー完ー
スカイツリーが完成したら…… さくらみお @Yukimidaihuku
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