スカイツリーが完成したら……

さくらみお

前編



 現在、2019年4月。

 東京都隅田区



 佐野亜弥さのあやは、隅田川沿いに続く遊歩道を夫のりくと一人息子のしょうと共に歩いていた。


 今日は翔の入学式。


 ずっと赤ん坊だと思っていた息子もついに今日から小学生。実に感慨深い。


 その翔を真ん中にして三人は手を繋ぎ、時折翔を持ち上げたりする遊びを入れながら、三人は無事に式を終えて、家路へ着こうとしていた。

 すると急に翔が「あ!」と何かを思い出し、亜弥に話しかけた。


「ねえママ! 小学生になったお祝いで、ばぁばがスカイツリーに連れて行ってくれるって!」


「――え?」


 突然そんな事を言いだした翔。

 亜弥は夫の陸の顔を見上げた。

 背ばかり高く、ひょろひょろの夫は困った様に眉を下げて「……福島の母さんが、お祝いに行こうって連絡してくれてさ」と言う。


 亜弥はそのまま陸の顔の延長上にある、東京スカイツリーを見上げた。


 2012年、七年前に完成した634メートルの日本一高い電波塔。今や日本を代表する観光スポットとして有名なタワーだ。


 亜弥は返事を持つ息子に答えた。


「……ママは行けないや」


「えー!? なんでなんで??」


「……ママ、高い所が怖いんだ。だからスカイツリーの下で待っているよ。でも、ご飯はみんなで浅草で食べようね」


 そう言うと、何も疑問を抱かずに「そっか。ママって怖がりなんだ~! へ〜!」と面白がる息子。その時、目の前に鳩が降り立ち、翔は一人で捕まえようと駆け出した。



 ――鳩の捕獲に夢中になっている息子を眺めている亜弥。

 そんな亜弥を横目でずっと不思議そうに見ていた陸が口を開いた。


「……亜弥が高い所が怖いなんて、嘘だろ?俺たちが出会ったのは高層ビルの四十五階なのに。……そんなに母さんと行くのが嫌なの?」


 亜弥は、首を振った。


「違うの。ただね、スカイツリーにだけは行けないの」


 首を傾げる陸。

 我ながら意味の分からない発言だと苦笑する亜弥。


 新宿の高層ビルは夫の陸と出会った大切な場所。


 しかし、もう一人。


 亜弥にとって、とても大事な人と出会った大切な場所だったのだ。


 その人の名前は佐伯千鶴さえきちづる


 亜弥はスカイツリーを見上げ、千鶴と出会った十年前を思い出した……。




 ◆





 ――約十年前。



 2008年10月。

 東京都新宿区西新宿


 千鶴ちづるとは三角柱の形をした高層ビルで出会った。


 理由はなんて事ない。

 医療関係のデータ入力の求人募集で、たまたま同期で入社した仲だった。


 亜弥は眼鏡をかけたショートボブのこざっぱりした感じ。

 千鶴は長い髪をいつもバレッタでハーフアップにしたおっとりとした美人。


 二人とも二十代半ば。


 可愛らしいキャラクター物や綺麗な物、花や星が好きで、旅行と食べ歩きが大好き。

 性格は控えめで大人しい、所謂いわゆる地味女。


 状況も性格も趣味も似ていた二人はすぐに打ち解けて、仲良くなった。


「アンタたちって、いつから友達なの~? え? まだ三か月?? 昔っからの幼馴染かと思ったわ~」と職場の先輩から驚かれるほど、二人は仲が良く気が合っていた。


 それから二人はいつも一緒だった。


 国立市から出勤してくる亜弥は、電車の混雑を避けるため、朝食を食べずに早々に新宿へと出勤してくる。そして一階のコンビニで買ったおにぎりを、オフィスのある四十五階にあるロビーで食べるのを日課にしていた。

 千鶴の家は中野区で近かったが「亜弥ちゃんと色々と話をしたいから」と、惣菜パンを片手に現れて、一緒に食べる様になった。


 それが亜弥にはとても嬉しかった。


 朝日の差す大きな窓から朝靄の立つ摩天楼を見渡し、時折飛んでくる優雅な飛行船を眺めては、二人は「都会って凄いね」と囁き朝食を頬張るのだ。



 仕事が終われば、二人は雑貨屋でウインドウショッピングをしたり、ラーメンや饂飩を食べて帰った。

 休みの日は日帰りの小旅行もした。


 二人はお金をあまり掛けず、でも二人で楽しめる、ささやかなお出掛けを好んだ。そして、大人になってからこんなに気の合う人間と出会えた事を喜び、お互いがお互いをとても慈しんでいた。


 この友情は一生物だ。

 亜弥も千鶴もそう思っていた。



 ◆


 

 ――ある冬の日。

 二人は手頃な値段の日帰りバス旅行に出かけていた。北関東へとイルミネーションを見に行くプランの帰り道、首都高速道路から遥か遠くに見えたのは、スカイツリーだった。


「ねえ、千鶴ちずちゃん、見て。スカイツリーが見えるよ」


 窓側に座っていた亜弥が、自分たちの顔が反射するバスの窓の外を指差した。


「本当だ~! まだ半分くらいかなぁ?」


 その頃のスカイツリーはまだ建設途中だった。光輝く幻想的なビルやマンションの明かりの先に、ポツンと小さく灯っている鉄塔。

頭に赤いクレーンを乗っけていて、未完成の姿をしていた。


「いつか行きたいねぇ」


 千鶴がポツリと言った。


「行こうよ! 来年か、再来年には出来るんじゃないのかな?」


 亜弥がそう答える。


「でも入場料高いのかな?」

「そうだね、東京タワーも高いもんね」

「でも、行こうよ! 高くても、登ってみたい。うちの高層ビルよりも、高い所へ行ってみたいよね」


 亜弥の言葉に、千鶴は喜び、優しく微笑み頷いた。



 ――それから一年。

 二人は色んな所へ行った。

 植物園に動物園、クラシックコンサート、下町へ食べ歩きや山にハイキングも。

 楽しかった。

 どこへ行っても千鶴と一緒に行く場所は特別だった。



 ――そんな二人だけの世界で満たされていた亜弥に、異変は突然起きた。


 亜弥の勤める会社の隣のオフィスで働く男性から、交際を申し込まれたのだ。

 毎朝、四十五階のロビーでおにぎりを頬張る亜弥が気になっていたと。


「で、でも。……なんで私!?」


 自分よりも美人の千鶴では無く、何故自分なんだろうと疑問に思った亜弥。

 告白をしてきた今の夫のりくは当然とばかりに、へらっと笑い、


「僕はご飯党なんだ」


 と言われて、妙に納得してしまった亜弥。

 ……何より千鶴は結婚していたから、例え千鶴に恋をしてても陸には望みは無かったのだが……。


 こうして、亜弥には千鶴の他にも大事な人が出来た。



 ◆



 千鶴と出会って一年が過ぎた頃。

 事件は突然起きた。いや起こっていたが亜弥は知らなかった。


 陸に貰ったばかりの指輪を薬指にはめて、高層ビルで朝のおにぎりを頬張る亜弥。

 いつもなら先に来ている千鶴が少し遅れて来た。


 そして、その手にはパンでは無く、封筒を持っていた。亜弥の前へ立つと、千鶴は封筒から一枚の書類を差し出した。


「亜弥ちゃん……これ、書いてくれる?」


 おにぎりを食べ終わった亜弥は、受け取った書類の内容を見て驚いた。


「ち、千鶴ちずちゃん!? これって、離婚届じゃない!?」


「……うん……私、離婚するの。亜弥ちゃん、ここの証人の所に名前を書いて欲しいの……」


 千鶴は亜弥と目を合わせずに、そう答えた。


「だ、だって、勝也さんと上手く行ってたんじゃないの?」

「……勝也さ、九か月前に突然仕事辞めたの。こっち転勤してきてから仕事が上手くいかなくて……それから、仕事もせずにずっと家でゴロゴロして。私のお給料だけじゃ厳しいから働いて欲しいって何度も言ったんだけど、こっちが文句を言うと物を投げて凄く怒るの。それから何も言わなくなったんだけど、お金も無くなる一方だし、もう三か月間会話らしい会話も無いし……私、疲れちゃったんだよね……」


 千鶴の告白に、亜弥は返事が出来なかった。

 

 そんなに上手くいっていなかったなんて……。


「な、なんで教えてくれなかったの? そうしたら相談に乗ったのに……!」

「だって、亜弥ちゃんがちょうど佐野君とお付き合いし始めた時だったから。こんな暗い話をしたくなかったんだよね……」


 遠慮深い千鶴らしい答えだった。


「お願い、もう勝也とは暮らせないの……!書いて欲しい」


 懸命な千鶴。千鶴の意志は固い。

 亜弥はぎこちなく頷くと、離婚届の証人の欄に自分の名前を書いた。


 まさか、自分の結婚届よりも先に離婚届を書くとは思ってもみなかった亜弥だった。



 ――そして、この千鶴の大きな変化が、二人の歯車をゆっくりと歪め始めたのだった。






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