第4話 列車
その人物はお出迎えにあがりました、と言ったあと、びっくりして動けないでいる自分をしばらく眺めていた。そして、同じ言葉を繰り返して言った。
「『薄暗列車』がお出迎えにあがりました。なんなりと、貴方のお望みの地点をお申し付けください……」
いきなりそんなことを言われても、という気持ちであったが、今の自分に取れる選択肢は二つしかない。乗るか、逃げるかだ。もし逃げたとして、この
そう思って言われるがまま、足を踏み出した。以前は怖がって逃げ出したフェンスの境を、易々と越える。そうして車内へと入っていった。
車内に入ると、思っていた以上に温かい雰囲気に包まれた。それはまるで、子どものころに見た古い絵本や小説を読んで想像した寝台列車を思わせるようで、優しい明かりが出迎えてくれた。「薄暗列車」と言うのは名ばかりかと思ったが、存外にも距離が長く、次の車両はうすぼんやりとしか確認できなかった。
しばしの間空気を確かめていると、扉が閉まり、列車の駆動音が響きだした。自分が乗ったことでこの列車は動き始めたのだろうか。やけに仰々しく音を鳴らして、周りに聞こえないかと不安になったが、幸い人影は見当たらないようであった。そうこうしてるうちに、車輪の動く音を感じた。夕闇に紛れて、ひっそりと目的地へと向かうのだろうか。線路沿いを進みだそうとしていた。
そのうち、重力を感じて、ふと窓をのぞき込むと町が遠く感じて見える。それどころか、目線を下の方に向けないと光を感じ取れなかった。どうやらこの列車の向かう先は線路の先にはないようであった。遠くの町並みはぽつぽつと白い明かりがともり始めて、夕方もそろそろ終わりを迎えていた。列車のオレンジ色の光に照らされている自分は、どこか浮世と遠くのところにいるように思えた。
「ここから見る眺めはどうですか?」
気が付けばシルクハットの男がすぐそばに立っていることに気づき、突然のことに驚いている自分がしどろもどろになっていると、男は続けてこう言った。
「この位置から町を眺めていると、人が小さく見えるんです。それでいて、決して全く見えないというわけではない。どんな人も例え少しばかりであろうと輝きを放っている」
少し息を整えて、その男は続けた。
「あなたは、どんな人に会いたいですか」
会いたい人、と聞かれて思い浮かぶ顔はたくさんあるだろう。しかし、今この場においては別だ。思い浮かぶ顔は、まだ幼い顔であった。
「この列車は、お客様の『目的地』へと連れていくことが出来ます。ただし、それは人生の目標や夢を叶えるといったものではございません。あなたが今この時、刹那の中で想った情動をもとに、ルートを進んでいきます」
「情動、ですか」
「ええ、ただわたくしめにはそれを推し量る事は出来ません。全てはあなたの御心を、列車が判断するのみです」
その言葉を聞いて、自分は狐につままれたような気持ちになったが、乗ることを選んだ以上後に引くことは出来なかった。
「時間はどのくらいかかるのですか」
「この列車と『目的地』は時間にも空間にも縛られません。ここでいくら時間が経とうとも、外の世界には一切影響がないのです。どうか、ごゆっくり」
上手いこと丸め込まれているような感じがしたが、とりあえずはこの男の言葉を信じるほかないだろう。時間の心配をなくした途端に、急に手持無沙汰になったような気がした。もう一度外の景色を見てみようかと思ったが、窓の外はわずかに下の方に目を向けると明かりが見える以外は、まるでトンネルの中にでも入ったかのように暗く、何も見ることは出来なかった。
「別の車両に移ってもいいですか」
「ええ、どうぞ」
許可を得て、自分は移動することにした。ここから見る限りでは他に乗っている者の姿は見えないが、実際はどうなのだろうか。
車両を進んでいくと、少し雰囲気が変わった空間があることに気づいた。そこは車内を照らす灯の光からまるで逃げるように、陰となっていた場所にあり、その暗がりに、一人の人間がうずくまっていた。暗がりのため表情はうまく見ることが出来なかったが、椅子にも座らず一向に微動だにしない姿は、自分を少したじろがせるには十分だった。
さらに先へ進むと、まばらながらも椅子に人が座ってるのに気づいた。さっきの男が示していた通り、この列車の「客」は自分一人だけではないらしい。一列の椅子のスペースを1人ぽつんと座っていたサラリーマン風の男が、自分の姿を認めて、声をかけてきた。
「君もこの列車に乗った一人なのか、行きたい場所にはもう着けたのかい」
「いえ、まだ乗ったばかりで……」
自分が返した言葉を聞くなり、彼はふう、とため息をついてこう返した。
「それなら気を付けるべきは帰りだ」
「帰り?どういうことですか?」
「私もな、この列車に乗って『目的地』にたどり着いたんだ。しかし、そう私の思うようにはいかなくてね……。ここに、もう一度乗ってしまった」
「もう一度……」
「破れかぶれだったんだ。自分でも何がしたいのかわからないまま、足は勝手に動き始め……気が付いたらここに座っていた。そして……」
彼の神妙な表情を目にしつつ、自分は次の言葉を待った。少しばかりの静寂がありながら、また口を開いた。
「そして、長いこと下車することが出来ていない」
その言葉には有無を言わせない重みがあった。苦渋と後悔をにじませながら、彼は続けて言った。
「あのシルクハットの言葉を借りるなら、『目的地』は当人の本当に行きたい場所がある場合にしかたどり着くことはないらしい。それを見失ってしまった私は、また見つけられるまでこの列車を降りることは出来ない」
「……」
「だから、こんな男の言うことを聞くこともないかもしれないが……せめて届けられる言葉があったら届けておきたいんだ」
無言で、彼の言葉を待った。
「決して後悔することのないように」
「……分かりました」
彼と自分の間の静寂に、列車の駆動音が響く。それまで一定の間隔で聞こえていたその音が、変化を示し始めていた。軋む声がゆっくりと刻まれるようになり、さらには下に重力を感じるようになった。それは列車が次の停車位置まで着くということであって、それ自体は慣れ親しんだものであったが、自分はどうしようもないほどに緊張を感じ始めていた。
自分がお礼を伝えようとすると彼はそれを遮るように別れの言葉を告げた。
「君の幸運を祈る」
その言葉が言い終わるか言い終わらないかのうちに、車内がドスンと振動し、そのまま列車が動きを止めたことが感じ取れた。そうして少し待っていると、目の前の扉が開き、いつの間にかそばに来ていたシルクハットの男が自分にこう告げる。
「さあ、あなたの『目的地』に着きました。くれぐれもお気を付けて……」
そうして自分は足を一歩踏み出した。その途端、目と耳を光の閃光と喧騒が貫いた。
薄暗列車 虹ケバブ @kebabrainbow
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