第3話 あの日と列車

 薫と最後に将棋を指した日のことを思い出して、ふと我に返った。そこで気づいたことがある。自分はきっとこの場所を好ましく感じていたのだ。だからこそ、ここに近づくことが出来なくなったあの日から電車に乗って遠くに行ってしまおうか、という考えが生まれていったのだろう。

 それにしても、いつ入れるようになっていたのだろうか。あの日を境に、この場所には立ち寄ることが出来なくなってしまっていたのに。


 その日は何かのイベントがあるということで、二時を回った後に体育館に集まっていた。そこで確か川の水質調査から見る生態系の関連、みたいな発表をしていた記憶がある。

 生徒を二組に分けて、片方が発表、もう片方がその発表を自由に回って評価する、という形式をとっていた。三十分ほど発表した後、薫が見に来ていたことに気づいた。顔はいつもの困り眉ではあったものの、自分を見て感情的になることもなく、穏やかに発表を聞いてくれていた。しかし、すぐにではなく、かなりの時間が経過してから見に来ていたことから、幾分か逡巡しゅんじゅんをしていたのだろう、とも思った。発表が終わり、一息つくと薫は大きく拍手をしていた。そんな姿を見ていると何だか恥ずかしくて身体が熱くなってきていて、上着を脱いだ。そんな時だった。

 世界が大きく揺れた。それは今までに体感したことのない揺れだった。頭の中は真っ白になったが、あまりの恐怖に身体のほうが勝手に避難行動を始めていた。大人たちが口々に何かを叫んでいる声や、子どもの悲鳴が上がるのがとても遠く聞こえて、まるで同じ空間の中にいるとは思えなかった。

 そんな状態だったから、周りの状況を確認するのに時間がかかった。横を見ると一緒に避難していた薫ががたがたと震えていることに気づいた。どうやら隣にいる自分の姿にも全く気に掛ける事が出来ないようだった。自分も同じく恐怖に震えていたが、そこまでの怯えを見せるということは何らかの理由があるはずだと感じていた。しかし、その理由はすぐにわかった。

「津波が来る可能性がある!ここは高台で安全だから動くな!」

 そこでようやく気付いた。いつも薫と一緒にいた場所のところにはいまだ堤防が延長されていなかった。もし本当に津波が来たとしたら、あっという間に流されてしまう。そのことに気づいた自分は、おそるおそる薫の方を振り返った。

 薫は唇を真っ青にさせて、耳を塞いでいた。その様子を自分はただ見ていることしかできなかった。何か言おうとしたとして、この大自然の恐怖の前に1人の人間の慰めの声が、いったい何になるというのだろうか。ただでさえ自分も恐怖に震えていたので、口から言葉を発する事が出来なかった。

 しばらくして、危険が少ないと判断されたのか、自分も含む高台に住む人間は親の同伴のもと家に戻ることとなった。ただし薫はそうではなかった。そこで自分と薫は離れ離れになってしまった。

 幸い津波が近隣を襲うことはなかったのだが、そのあとの日常は流れるように過ぎていった。あの場所はまた余震が来た時に津波が起こったら危ないからと子どもが遊ぶことは禁じられた。結果として関係を失った自分と薫はその後話す機会はなくなり、小学校を卒業するとともにどこかに引っ越したのか目にすることもなくなった。


 今、その思い出の場所に立っている。あの日から自分を遮っていた立て看板はいつの間にかなくなっていた。ただ、懐かしい思い出を確かめていた。もう戻ってくることのない日常を、ただただ嚙みしめるように思い出していた。

 そんなことをしているうちに、あたりが薄暗くなっていることに気づく。いつの間にかかなりの時間を郷愁きょうしゅうに費やしていたようだ。少なくとも、あてもなくぶらぶらと彷徨ほうこうを続ける予定であったのがこのような発見が出来たことは喜ばしくはあった。しかし、喫緊きっきんの課題である「一人アレルギー」の克服はなんら解決しておらず結局このまま頭痛と付き合っていくようにしかないように思えた。

 最後にこの場所をちらりと一瞥いちべつしてから家に戻ることにした。そこにはかつて存在していた日常が思い出となって形作られていたが、どうやってもそれと今の自分を結びつけることが出来なかった。

 いつのまにか延長されていた堤防を上り、河川敷へと着く。何か、変化が欲しい心持ちであった。ただ、停滞だけが自分を包み込んでいた。思い出と今の自分がどうしても結びつかないのは、自分が成長したからということではないのだろう。それは時代の変化に突き飛ばされただけで、そこに自分が介在する余地はなかったのだ。そのまま自分は成長できず、いつの間にか周りに置いて行かれてしまっていたからこそ、ただただ1人に苦しんでいるのだろう。そのようにナーバスになる感情が心を占めていた。

 少し歩いて、もう一度車庫を横目に見た。数刻前は痛いほど目についた車両の色は、薄暗い影に紛れてその身を隠していた。車庫の中を深くまで覗き込むことは出来ず、暗闇が支配していた。そのまま目を背けて歩き出そうとした、その時だった。

 

 突然、汽笛の音が鳴り響いた。驚いて辺りを見渡すと、視界から外していたはずの車庫の中から、闇をかき分けるようにして二筋の光が照射されていた。その光はどんどん自分の方向へ近づいていき、やがては視界を覆いつくすほどの眩しさになり、思わず目をつぶってしまった。

 次に目を開けたとき、そこに見えていたのは古めかしい汽車だった。蒸気が排出される音や汽笛の鳴り響く音、車輪がきしみながらも動作する音が合わさり、かの車両の横を通って姿形の差を大きく見せつける光景は、事態がどれだけ異常であるかを自分に感じさせていた。

 その汽車はゆっくりと動作を確かめるように駆動していたが、すぐには速度を上げて走りだす様子ではなかった。そのまま低速で移動すると、やがて立ちすくんでいた自分の前に、扉を合わせてぴたりと停車した。

 そこから一人の、でっぷりと太ってはいたが、きちっとした紳士服とシルクハットという出で立ちの人物が降車した。その人物はいつもは鍵がかかっているはずの線路のフェンスのドアをいともたやすく開けて、自分に向かって大きく礼をしてこう告げた。

「『薄暗列車』がお出迎えにあがりました。なんなりと、貴方のお望みの地点をお申し付けください……」

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