第2話 薫と将棋

「そ、それでね!その列車ってやつに乗って別の場所に行くと、ほんのひと時だけ、会いたくても会えなかった人に会えるんだって!何だかロマンチックじゃない?」

「ロマンチック?そうかなあ……」

「あなたには、そういう人いないの?」

「うーん……。会いたくても会えなかった人、かあ」


 

 薫はもともと同級生として面識はあったのだが、自分が初めて薫を一人の個人として認識したのは、あの家でのことだった。元々河川敷で遊ぶのが好きだった自分は、毎回道沿いにその家を眺めては通り過ぎる生活を送っていた。しかし、あるときその日常に1つの違いがあることに気づいた。

 それは、一人の少女が砂利の敷き詰められている敷地内の庭に、ブルーシートを敷きながら将棋盤を境に架空の人物と将棋をしている光景だった。周りに人気はなく、河川敷を通り過ぎる人々はちらと横目に見ながらも特に興味なさげに、ランニングやウォーキングを続けていた。

 その少女が薫であることに気付いた自分はそのあんまりな光景を見かねて、今日の時間を彼女に費やすことにした。しかし、ただ同級生というだけでそれ以上の関係ではなかったので、内気な自分は声をかけづらかった。そこで少しの時間遠巻きから眺めていたのだが、一向に彼女の姿勢は変化せず、ただ盤面と持ち駒が変化していくのみであった。

 しばらくして一局が終わったのであろうか、彼女はふうと息を吐き、あたりを見回して遠くに人の影を認めた。薫はその姿が自分の知っている人物だと気付くそぶりは見せたものの、どうすることも出来ず二人はまごつくばかりであった。しばらくの逡巡しゅんじゅんの時間を挟み、何かを決心したのか、薫は私のもとに近づいてきた。

 突然のことに動揺する自分の手を掴み、一言も話さずに彼女は敷地内に連れて行って自分を架空の対戦相手が座っていた位置に座らせて、こう言葉を発した。

「やろ?」

 その言葉に驚きを隠せなかったが、時間を彼女に費やすと決めていたし、幸いにして自分は将棋のルールを把握していたので、その要請にすんなりと応じることが出来た。しかし、対局を始めてみたものの、自分が将棋よりも気になっていたのは、将棋をする薫の姿振る舞いが、普段教室で目の片隅に移っていた薫の姿とは違って見えたことだ。

 普段の薫は困り眉が特徴的で、少しおどおどしている姿がよく見られた。それが今の薫はどうだろう。困り眉はすっかり自信ありげな姿に形を変え、そのたたずまいは将棋にかける気迫を感じさせるようだった。その姿に気づけば見とれ始めていた自分は、全く将棋に集中できず、彼女の姿をしげしげと眺めるばかりであった。

「王手!」

 久方ぶりに発された彼女の言葉で、自分は我に返った。しっかりと盤面を見てみると我が方の玉将はすでに追い込まれ、勝負の大勢が決していた。

「……投了」

 どうすることも出来ずに負けを認めると、薫は初めて笑顔を見せた。その姿にドキッとさせられた自分が目をそらすと、彼女は笑顔を見られたのが恥ずかしかったのか、はたまた負けた相手の気持ちをおもんぱかったのか、すぐに笑顔を潜めていつものように眉尻を下げた姿に戻ってしまった。

 ただ、この少しアンバランスな時間がいつの間にか気に入っていた自分は、次の提案をすることにためらうことはなかった。

「また明日、やる?」

 その時薫は、初めて日が沈み始めているほどの時間が経っていることに気付いた様子だった。少しだけ驚いた素振りを浮かべたあと、周りをきょろきょろと見渡し、まるで二人だけの秘密を共有するように、肯定の意思を示した。

「うん!」

 その姿は、光の変化に合わせて先ほどまでとは違った雰囲気を見せていたが、幼かった自分にはそれがどのような表情か深いところまで判断することが出来なかった。ただ印象に残っていたのは、目の前の自宅まで重そうに将棋盤を運ぶ姿と、長い時間でこぼこした地面に座っていた証であろうすねに残った赤いあざのような痕だった。


 それから薫と自分は、暇さえあればかの場所で将棋に興じるようになった。あの日から少しだけ変わったことは、負けたほうが将棋盤を薫の家まで持って帰るようになったことと、自分がタオルを持っていくようになったことだった。タオルに足を守られながら対局を行っていた薫は、基本的に負けることはなかった。

 思い返せば、自分でもよく別に勝てるわけではない勝負の相手になり続けていたと思う。そのころ恋のイデアを別の人物に求めていた自分は、1人の恋愛対象として薫を意識していたわけではなかったが、薫といる時間は変わらない日常としての安心感があり、その中でだんだんと自分に感情を見せるようになった薫と一緒にいることはまるで姉や妹と一緒にいるような気分にさせてくれた(ただし、自分に姉や妹がいたことはないので、現実感がある感覚ではなく理想的な感覚に近いのだろう)。

 そんな日常が続いてから半年以上が経って、いつしか冬も終わりが近づこうとしていた。2人の格好はいつしか着ぶくれし、駒を持つ手はカラフルな手袋が彩っていた。

 その日の薫はいつもよりも状態が悪そうであった。自分はそのことに気づきながらも、しばらく負けっぱなしの勝負に少しだけ変化を求める心を抑えられなかった。その結果、自分は初めて薫との対局に勝利することが出来た。その時薫は初めて、怒ったような悔しそうな顔を見せた。その顔に気付かなかった自分は、無邪気に喜びの感情を発露した。

 そのことに機嫌を悪くした薫はしばしの間将棋盤をむっとした顔で見つめた後、こう言った。

「今日はもうおしまい!」

 その言葉に焦った自分は、わたわたしてしまった。どうしても、この安心できる日常を壊したくなかった。そんな様子に気づいたのか、薫はこう続けた。

「明日は絶対に勝つから!」

 それを聞いた自分は、ほっとして、いつものように将棋盤を薫の家に運ぼうとすると、その動きを制止された。

「今日は、私が運ぶ番だから」

 体調が悪そうな薫に将棋盤を運ばせるのは流石に男としてどうかと思ったが、薫は頑として聞かず、将棋盤をもってよたよたと運ぼうとした。

 しかし、よたついてるすきに将棋盤の上に乗せていた駒入れが滑り落ち、中に入っていた駒がぱらぱら散らばった。

 それを見た自分は何とか手伝おうと駆け寄ったが、薫は涙目になりながら自分を見つめ返してきた。その雰囲気に気圧された自分は会話することも出来ず、すごすごと家に戻るしかなかった。

 家に帰った後、唐突に自己嫌悪に襲われた。なぜあの時手伝わなかったのだろう。せめて言葉を交わせなかったのだろう。たとえ嫌がられたとしても、手伝う気概を見せることが、男として、友達としてやるべきことではなかったのだろうか。もし、もし次に向かう時にはそのことを謝ろう。大丈夫。明日もまた、勝負できるから。そう少しだけ楽観視し、眠りについた。

 しかし、次の日を境に薫と勝負する機会が来ることはなかった。

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