#2-2 転がる石 後
「ワン君、引っ越しでもするつもり?」
岸守一が抱えている持てる限りの荷物を見た怜音の第一声がそれだった。
とりあえず自分の家に置こうとした矢先マンションの内廊下での鉢合わせ。
大体の時間は伝えていたとはいえ間が悪いという言葉に尽きる。
用件を伝え忘れていた自分をひどく恨んだ。
「カモフラージュだよ」
怜音は小首をかしげる。
ちらりと光の悪戯で見えた首の痕はもうほとんど見分けがつかない。
「そもそも遅くなったのは昔の知り合いに会うことになったからで」
岸守一は塞がった両手を掲げて怜音にドアを開けるように頼んだ。
彼女は持っている合鍵で開け、空っぽの室内を一瞥する。
「訪ねてくるかもしれないと」
「だろう?生活感を出しておかないと変な勘ぐりをされるかもしれない。それは俺にとっても避けたいことだ」
一は首を伸ばし凝りをほぐそうとしながら荷物を置いた。
生活感を出そうとある程度機能的に、ある程度雑多におおよそ頭に思い描いていたレイアウト通りに配置していく。
今すぐというわけではないから本棚や小物入れを作るのは日をおいてからでよく、それが決まってからでもいい。
「ミニマリストとでも言っておけばいいでしょう」
「普段は書斎なり物置なりにしておけばいい。元からそうしようかと思ってたし。それより随分とタイミングがよかったな」
「ワン君の気配。十年近く一緒にいますから。あとは虫の知らせ」
虫の知らせ。
あまりにも抽象的にすぎるがその言葉に岸守一は既視感を覚えた。
昨日怜音が言っていた言葉。
予感。
彼女は一に嘘をつかない。
自分と怜音の間で隠し立てをしなければいけないということが無い、というのが正しい。
その分曖昧な物言いをする重みが増す。
「どういうことだ」
「今日はワン君を早めに迎えてあげるといいような気がしたので。……ひょっとしてこれが女の勘なのかもしれませんね。その知り合いって女性、ですか?」
女性。
岸守一の思考が止まる。
思えば一度もこういった事態はなかった。
怜音は自分を傍に置くことで異性を遠ざけていたし、その逆で彼女が自分の傍にいることで自分と異性が親密になることを遠ざけていた。
事務的な接触、社会的な関係、或いは友人と呼べる程度の関係はあったがそれ以上の親密な関係における振る舞いというものの経験はなかった。
そのために適切な答えが分からない。
「ああ。いい勘してるよ」
どれだけ気を付けようともいつか綻ぶ。
隠せば隠すだけ後ろめたい思いがあると思われるだけだからこれが最善だと自分に言い聞かせた。
蒸気が駆け巡るように体の内側が熱くなる。
「浮気ですね」
答え合わせの結果は笑ってない眼。浮かべた妖しい微笑み。
手が滑り、弄んでいた折り畳んだ椅子が床をたたく。
「なんでだよ」
「前もって女の子とお昼を済ませてくると伝えてくれればよかったのに。伏せていたということはやましいことをしていると頭のどこかでは思ってたということでしょう?」
「わざわざ不興を買うようなことするわけないだろ」
怜音がゆっくりと岸守一の前まで大きく歩み寄り、目の前でぴたりと止まる。
彼女の指が彼の喉から顎へなぞっていく。
「私そこまで束縛は強くない性分だと思っていますが。もう少しきつく締めたほうがお好みですか?」
「……俺としては緩い方がいいかな」
怜音は半歩下がった。
岸守一は見据えてただ答えを待った。
「冗談ですよ。ただワン君も隅に置けないなと思ったら意地悪したくなっただけ」
比喩ではなく事実希望した通りになったことに胸をなでおろした。
「紹介してくださいな。その子」
要望を聞き届けられたのは錯覚でしかなかった。岸守一は口を尖らせる。
「妬いてるのかよ」
「それもないわけではないけれど単純な興味。思い返してみたらワン君の昔のことあまり聞いてませんね」
「聞かれなかったからな」
「今すぐに呼べということではないですよ。いきなり私のことをきり出されても面食らうでしょうからそれとなく説明した後で」
「簡単に言ってくれる」
岸守一がため息を漏らすと怜音は楽しそうに笑った。
「それじゃあそろそろ始めましょうか。家具の組み立て」
「いきなりだな」
「こういうのは思い立った時にやるのが一番ですから。いつやろうかと悩むだけ限りある気力の無駄ですから」
「特にやることも異論もないが俺一人で大丈夫だぞ」
「一人より二人ですよ。作業の合間に昔のことも少し聞かせてもらいましょうか」
そっちが本命だろうと、岸守一が投げやりに腰を下ろすと怜音はよろしいと言わんばかりに手を叩いた。
作業の合間に岸守一は記憶を手繰った。
昔のことを言葉にする機会はなかった。
怜音にも言っていなかったのだから他の人には言ったこともないはずであり、整理がおぼつかないことをもどかしく感じた。
「どこから話すか。逆に何を言ったことがあったかな」
「お母様一人の手で育てられたということ。幼くしてお父様を亡くされたとか。そのくらい、でしたね」
一年生活を共にしていた相手にも予想以上に話していなかったようだ。
同情を乞いたいわけでもないためこちらから話すことがなかったためだろう。
そう分かっていても自分のことながら呆れずにはいられなかった。
「その程度のことしか話してなかったのか」
「聞く理由がなかったのもありますよ。流石に身内の不幸に好奇心で踏み入れていいものではないと思ったから」
「気遣いには感謝するよ」
「でももう少し、それ以外の身の回りくらいは聞いてもよかったみたいですね」
「繊細なものだと思ってるみたいだが碌に思い出せない時のことだ。余り気にするものじゃない。なるようになったし」
「それでも」
「話していくぞ。それで小学校入る前の分別つかない子供が仕事で自分のいない間家をはしゃぎまわるのは気を揉むというか片親では負担が大きい。どうしても手が回らない時ってのはあるからな」
岸守一は怜音のもとにあった説明書を渡すように示す。
彼女からそれを受け取ると目を落としながら話を続けた。
「そういう時に周りの人に預かってもらったりして助けてもらったんだよ。その中で親同士の仲が良かったから忙しくない時でも頻繁に預けられていたのがそいつの所だった」
「長い仲、と言えますね」
「といっても小学校が別々になってからは段々と疎遠になったんだけど。そこで勉強も教えてもらってた。母親がいいところに行かせてやりたいって漏らしてたらしくてな。小学校受験のために、というやつ。あとは小学校に入って怜音に気に入られるようになるまでは語るようなことは特になにもなかったよ」
「その子のこと……名前とか思い出とかもう少し聞きたいです」
怜音は作業もそっちのけで上機嫌に相槌をうつ。
隠していることではないとはいえ自分の知らない側面だからだろうか。
こうも興味を持ってくれるならもっと早く話してもよかったと岸守一はばつの悪さを覚えた。
「クインという名前だ。昔は男だと勘違いしてたから怜音が期待しているような甘酸っぱい話は何もないぞ」
「それは残念。くいん……くいん……くいんちゃん……ですか」
「思い出といっても張り合って走り回って取っ組み合って泥まみれになって学習の成果を競い合ってでうん、男とすることばかりだ」
「それはそれで初々しいというか微笑ましいですね」
岸守一は作業していた手を止めておどけた。
「ほら特に面白いことなんてないだろ。秘めてた思い出でもなんでもない。話せるようなことがなかっただけだ」
「いえ、すごい興味深かったですよ」
「……他に聞きたいことはあるか?あと手を止めるな」
怜音は図面をのぞき込むようにして岸守一にしなだれかかった。
「くいんちゃんの今は?」
「あまり話さなかったが女優の卵やってるそうだ。劇団檸芳だってよ。俺でも耳にしたくらいはある。怜音なら詳しいんじゃないか」
「……私の勘は当たる方みたいですね」
不意にかけられた重みに岸守一はよろめいた。
突き飛ばされて思わず体勢を崩れる。
視界を焼く室内灯の眩しさが途切れる。
照明を背に怜音が彼に覆いかぶさった。
彼女の表情には様々な感情がよぎっていたのが見て取れた。
「劇団檸芳って耳にしたことがある、ではすまないんですよ」
岸守一が体を動かそうとすると先んじて押さえつけられる。
力任せに振り解くわけにもいかず彼は動きを止めた。
「そこに所属している子とワン君が近しい仲となるとどうしてもよくない考えが頭に浮かんで振り払えませんね。どうするべきでしょうか」
怜音が岸守一の服に手にかける。
その手つきにはいつもお互いが服を脱がせているときのような戯れの様子はない。
力の差があっても必ず遂行しようとする荒々しさがあった。
「ワン君には改めて分かってもらわないと。私とワン君はあの時からずっと一緒でこれからも一緒ですから」
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