#3 懸念

 怜音は気押された岸守一の唇を荒々しく塞ぐ。

少しも抗うことを許さないように頭に手を回されて繰り返し繰り返し貪った。

そのたび二人の口の間に糸がかかり、途切れ、かかる。


「落ち着け怜音」


岸守一が制止するために突き出した手を怜音は先ほどの荒々しさとは打って変わってそっと握り込み、自らの胸元にあてた。

熱くてひどく忙しない鼓動が服越しにも彼に届く。


「落ち着けませんよワン君。今までこんなことなかったのに。ワン君が私から離れるかもしれないと思ったのが振り払えなくなっただけでおかしくなる」


岸守一にまたがった怜音はそのまま腰を振り出す。

お互いの布越しでも伝わる快楽に彼は呻きを漏らした。


「待て」


岸守一は動きを強めようとする怜音の肩を強く掴んで止めると彼女はしばしの間目を見開いた。

彼女はすんと冷めた顔つきになると己の肩に置かれた彼の手を手首を持って口元に引き寄せる。

体温を確かめるように手の甲を頰に当てると突如、手首にかける力を強め岸守一の親指の付け根にあたる部分の皮膚を食いちぎった。

彼は予期せぬ苦痛に咄嗟に手を引き、食いちぎられた部分を見る。

皮膚は裂け、露出した肉からは思い出しように血が滲み、溢れ始めた。


「指はばれるだろ」


そもそも虐げ虐げられる関係性を明るみに出したくないのは彼女の方。

それをふいにするような行いをしたことに気づかない彼女ではない。

岸守一は相手が既に冷静でないことを見てとった。

たしなめようと言葉に出したが効果はない。

怜音は今しがた噛みちぎった続きをしようと彼に飛びついた。

手を目掛けたのが何度か打ち払われると彼女の視線は胴体に向く。

彼の襟元を何度も乱暴に揺さぶってはだけさせると肩と首の間に噛み付いた。

歯を震わせながら何度も突き立てる。

怜音は眉をひそめると岸守一の両肩を鷲掴みにし、鎖骨上部の皮膚を引きちぎった。

彼女はそれを宙を仰ぎ喉奥に押し込むとごくりと喉を鳴らす。


「ふうっ、うううううぅぅぅぅ」


怜音は獣じみた唸り声をあげながら己がつけた痕にむしゃぶりつく。

歓喜に震えるがままにぴちゃりと舌を這わせている様は血に酔っているといっても過言ではない。

岸守一は怜音を噛みつかせたままに抱き寄せる。

体を横たえると彼女が落ち着くまでなすがままに任せた。




雑然とものが散らばる室内、怜音は膝枕をしながら岸守一の頭を撫でる。

彼は放心したようにそれを受け入れた。


「ごめんねワン君」

「いやまあ驚いた。あんなに取り乱したのは見たことなかったからな」


頰を撫でていた怜音の手が岸守一の額を軽く叩く。


「ワン君。今回のお仕置きはこれで終わらせてあげます」

「ありがとうございます、でいいのかこれ?」


岸守一が言葉を返すと怜音は再び彼の唇を塞ぐ。

今度のは優しく慈しむようにそっと触れ、そして離れた。


「一休みしたら作業の続き手伝ってくれないか?」


「いいですよ。お仕置きの後ですもの一つくらい言うこと聞いてあげます」


「それなら自信持つほうにしてくれ。また取り乱されると困る」


怜音は自らの顎に手を当て、もう片方の手で手繰るように岸守一の頬を繰り返しさする。


「自信……とは違いますね。今までワン君の傍に女の子が来たところでかき乱されることはなかったけれど今回は少し」


怜音はぼうっと窓の外に目を移すと言葉を探した。


「虫の知らせと言ったけれどそれも間違いでもない気がします」

「そうか。……俺には何も感じ取れない。けど不安なら普段会うのは控えるよ」


怜音は視線を岸守一に合わせると静かに顔を振った。


「そこまでワン君を縛りつけるつもりはないですよ。嫌われたくありませんから。ただ、ワン君の言う通りもう少ししっかりしないと。面倒な女は嫌いでしょう?」

「今までの人生の半分近く一緒だったろ。寧ろ嫌った後を考えるのは難しいかな」

「だからですよ。もし、万が一にもワン君が離れてしまったら想像できないのは私も同じ。それに私の全てを知ってなお肯定してくれる人がいなくなってしまうもの。私は私を他の人にさらけ出せない。ワン君だけですよこんな私を見せるの、分かってくれますか?」

「長い付き合いだ」


岸守一には分かっている。

彼女がなんだかんだで自分の欲求よりまわりを優先してしまうことも含めて。

だからこそ自分がそばについているとそう言葉にしようとして恥ずかしさにはばかられた。

それでも彼女にはニュアンスが伝わったようで小さく笑った。


「分かってるなら尚更。離れようとすることがどれだけ罪深くて私には許せないことか改めて分かってほしくて」


怜音は岸守一の頬を軽くつねった。

期待していた反応が返ってこないからかつねる力を強めていく。

捩じりあげると形容するところまでいくと彼は彼女の手を優しく包んだ。

怜音は捩じりあげていた頰を解放する。


「罪深いって大げさすぎるぞ」

「本当にこの手を振り払ってほしくないですから。ワン君だけ。こう思わせてくれるのは」

「俺から言えることは怜音はもう昔みたいなクソ野郎じゃないから安心しろってことぐらいだ。愛想つかして出ていくってことはないさ」

「酷い言い草」

「酷いのは怜音の昔さ。俺の言い方よりもずっと酷い」

「でもありがとう」


沈黙が部屋を満たす。

軽口のない、いつもと違う流れがこそばゆく岸守一は視線をずらした。


「作業始めるか」

「その前に手当てしないと」

「それもそうだ」


痛みに慣れてしまうのも考えものだなと岸守一は他人事のように考えた。

手の傷口を見れば血は止まっていたがその周りは固まった血の黒でべったりと塗りたくられている。

鎖骨の方は浅いようでわずかに痛むがなんともない。


「持ってくるから少し待ってください」

「悪い」


 怜音が去った後、岸守一は少しでも作業を進めておこうと試みたものの、怪我した手を広げようとして走った痛みに顔を歪める。

重いものを持ち上げようとすると今度は鎖骨辺りを刺される。

そのために手持無沙汰になってしまった。

なにしろ何もない部屋なので出来ることは限られてくる。


「あとで救急箱も買い足しておくか」


出来ることといえば、これからについて考えるくらいだろう。


 怜音から手当てを受けてからは後れを取り戻すべく半ば無言で作業に専念した。

一人より二人とは言ったもので後れを含めても想定よりもやや早く終えることができた。

あとは適当に本などを見繕っておけば一人暮らしの空気を最低限は出すことができるだろう。

普段暮らしている部屋に帰ってくるなり怜音は岸守一に声をかけた。


「遅くなってしまいましたね」

「どうしてだろうな」

「難しい問題ですね。ワン君に分からなくて私にも検討もつかないとなると手詰まりかと」


怜音は意地でもとぼけることを通すつもりらしいことを悟り、つつくだけ時間の無駄だと諦めた。


「……それは構わないが実際時間は押してるからな少し急ぐぞ」

「ですがワン君お風呂入れますか?痛みませんか?」

「問題ない」

「痛むなら服脱がしてさしあげましょうか」

「むしろ脱がしてみせようか」


遅れの張本人でありながらのからかうような重ね重ねの問いかけが少し癪に障った。

岸守一は怜音を後ろから抱きしめるような形で手を伸ばした。

そのままに服の内部を掘り進んでいく。

今己の指がなぞっているのは彼女が怠ることなく手入れを続けてきた積み重ねたる白磁のような白く滑らかな肌。


「ワン君の手つき、いやらしいですよ」

「気を使っているのをそう言われるのは心外だ」


誰もが見惚れるような女が自分に全てを許している。

時が経つにつれて消えていった罪悪感とは違い、今になっても首をもたげるもの。

何度となく味わった全能感。

目をつむっている怜音の顎を持ち上げ唇を奪う。

無造作に舌を押し込み口内を、侵入者を受け入れた舌を蹂躙する。

体を逸らした怜音に快楽を流し込む。

顔を離すと彼女は妖しく笑んだ。


「時間がないとあれほどぼやいていたのはどなた?」


彼女が普段の調子に戻ったことを確認すると岸守一は滑らせていた指で彼女の腹をつねった。



今まで通り怜音より先に岸守一は湯船に浸かる。

続いて怜音が椅子にするようにもたれかかった。

彼は彼女の体をすこし持ち上げる。


「また明日から大半はワン君と離れることになってしまいますね」

「学部が違うだけだろ。バイトとかサークルもあるけど」


怜音は束縛は強くない方と自認しているだけあって基本的には強制しようとはしない。

長い時間からか彼女の意思に沿うことが岸守一にとっての自然体になっているのも大きな一因ではあった。

そのため志望が違えど強制されることはなかった。


「妙に焦燥感が掻き立てられて。何か起きそうな予感はしていたけれど、くいんちゃんのことを知ってから予感はこのことかな、なんて」

「考えすぎ」

「ワン君から目を離していたら掠め取られてしまいそうでたまらない。いつもならどうということもないのだけれど今は少し抑えが利かない」

「饒舌だな。ここだと静かなのに」

「からかわないでください。会うな、とは言わないけれど相手をその気にさせたりしたらややこしいことになるだけ。度をすぎないようにしてくださいね」


そういうと怜音はいつものように口を閉ざした。

彼女を抱えながら岸守一は考える。


考えすぎ、と怜音に言ったことに偽りはない。

クインは言うなれば自分とは違う場所にいて視座が違う。

仮にその気になるとしたら間違いなく自分なのだろう。


自分を射すくめた深くて鮮やかな青。

光が引き立て役にしかならないほどに輝く金。

幼少期の経験からか自分にとって完全なもののイメージには彼女の色が結びつく。

そんな完全と言えるものに焦がれないことは果たしてできることなのだろうか。

預けられた重みを感じながら揺れる水面を岸守一は怜音が浴槽を出るまでじっと見つめていた。

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