#4-1 戯れ 前
「ワン君。うつ伏せになってくれませんか」
入浴を終えてあとは寝るだけといった段になって怜音は切り出した。
彼女が指さす方向にはベッド。
岸守一は言われるがままにベッドに伏せた。
「万歳してください。万歳。もうちょっと体をこちらにずらしてくれませんか」
また言われるがままに手を大きく広げる。
ベッドの支柱に手が届くといった具合でがちゃり、と小気味いい音が部屋に響く。
目を向けると音がした方向の先、ベッドの支柱と自分の手首が手錠によってつながれている。
今日の趣向を察したのを讃えるようにもう一度いい音が鳴る。
「頭を上げて」
言うや否や怜音は岸守一の視界を布で塞ぐ。
何となく彼は床屋を思い出した。
しかし、次の瞬間、触れられたのは髪や顎ではなく腕の付け根。
ひやりとした感覚。
目隠しされているせいでいつも以上に張り詰め鋭敏になっているのだろうか、感覚は怜音の指が這っているのを伝えている。
彼女の指は気づかれたのを嫌うようにすっと離れる。
「軽くと言ったが延々と嬲ろうとしてないか」
呼びかけてみたが何の反応も返ってこない。
自分の声が虚しく部屋に溶けていく。
少し体を捻って何か意図がある動きをしているように見せてもやはり反応はない。
「放置プレイ……なのか?」
そもそも気配が感じ取れない。
足音を殺してここを離れたのか。
彼女の考えはどうあれ拘束されている身としてできることはただ待つだけだった。
数分待てども一向に変化はない。
待っている間に訪れた眠気に体を委ねてしまいそうになる。
時折意識を持ってかれては引き戻される。
船を漕いでは頭を跳ね上げる。
「っひっ」
神経に障る冷たさが突然腿にはりつき、岸守一から眠気を強引に引き剥がした。
肌を伝う感触、そして肌に何かが留まるような感覚。
想起したのは傘を持たずに雨天に躍り出た時の記憶。
氷だろうか。
「怜音」
語気が強くなってしまったのを自覚した。
変な声を上げてしまった情けなさが虚勢を張ろうとそうさせる。
くすくすと含み笑いがやけに響く。
ベッドが軋む。
背中にあたる柔らかく温かい感触。
鼓動が一つ伝わる。
自分の背中に重みが増していく。
服の擦れる音が近づいてくる。
両肩に抑え込むように置かれる手。
耳朶の裏に吹きかけられる冷たい息。
間近で鳴るかみ砕かれた氷の断末魔。
外耳孔を擽る囁き。
「ワン君、ここで質問。今私の右手と左手にあるもののどちらがいいですか?」
「ヒントはないのか」
耳に冷たい何かが這って、離れた。
反射的に浮き上がった体に手が回される。
「クイズではないので。正解も不正解もありません」
「どちらが俺にとっていいかはあるだろ。……右だ」
背中が解放される。
数度周囲でベッドが沈むのを目隠しをされていてもわずかな振動が伝える。
見えない不安を抑えるために深呼吸をした。
見えない分を補うように深く、深く繰り返した。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐こうとした瞬間思考が裂かれた。
息を吸おうとした矢先の痛打。
せき込むような呻きは空気を裂く鋭い音にかき消された。
臀部の一点を起点としてじわりと熱のような痛みが広がっていく。
それが二度、三度。
一拍置いて膝裏にもう一度。
その度に思考が真っ白になる。
考えるより先に痛みから逃れようと身を捩る。
手錠が耳を煩わせる。
やがて叩かれる場所は腿へ脇腹へ肩へと無造作に飛んでいく。
何度も何度も繰り返されていく中、一箇所において叩かれる回数も気まぐれなものになっていく。
己の口から漏れた呻きと怜音の息遣いが重なる。
背中へ一際大きい風切り音ともに一撃。
背中に強く広がる痛みに思わず身をのけぞらせた。
「ワン君。お疲れ様」
打たれた場所を怜音に優しくさすられながら目隠しを外される。
どうやら右手にあったのは怜音のそばに置かれている馬鞭だったようだ。
「左手を選んでいたら?」
瓶に入った錠剤が目の前に置かれ、中の錠剤同士がぶつかり音がなる。
目を凝らすとそれは咳止めの薬。
「……これはよくないな」
「これをキメてヌケるまで交じり合いましょうというお話」
怜音はいつもとは違う意地悪い笑い方をした。
「はしたないぞ。とりあえず今回選ばれなかったんだからしばらくは無しだ」
「ごめんあそばせ。でもそこまで?これだってやったことあるのに」
「だからこそだ。口が渇くから好かん。それに明日俺は一限から語学なんだぞ」
怜音は頰に手を当てて、たしかに、と呟いた。
瓶を手に取ると軽く振りながら成分を確認する。
「ごめんなさい」
「まあ謝るようなことでもない」
「……それならこれは本来の用途のためにとっておきましょうか。軽くシャワー浴びてきます」
「待った」
怜音は振り返り首を傾げた。
「どうしました?」
「手錠外してくれないか」
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