#4-2 戯れ 後

 良く晴れた空の下で一は今過ぎたばかりの学校の入り口を何気なく振り返った。

通学の際もいつも一緒。

怜音とは同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じ時間に到着する。

けれどそれからは別行動の日もある。

別の学部だからだ。


「お昼まで別行動ですね、"岸守くん”」

「また後ほど”九条院さん”」


いつもの呼ばれ方に慣れすぎているせいか名字で呼ばれるのも岸守一にとってしっくりこなかった。

ワン君、というのもピンとこないが他ならない怜音に他人行儀な呼び方をされるたびにむず痒くなる。

別れ際に彼が軽く手を振ると怜音も小さく振り返す。

それから既に見つけていたらしい友人たちの輪に入っていった。

黄色い声と時折視線がこちらに向けられることから、いつもの話題というやつなのだろう。

それを丁重に棘なくあしらっていく怜音の振る舞いは完璧な令嬢のそれ。

自分に見せている一面があるとは全く思えない。

自分も周囲を軽く見回したものの怜音とはうってかわって友人の姿を見つけることはなく、一人で一限に向かうことになった。


 いつもよりだいぶ早く一限を終えた喜びに岸守一は足をはやめて二限へと向かった。

集合場所である二限の教室近くの喫煙所に先客が一人。


「樹(いつき)のやつはサボりですか律先輩」

「私が一限サボっただけ。お前こそ」

「たまたまですよ」


宮戸律はとりあえず着てきたといった感じの色もあっていない、サイズもあっていないシワのついた服でしかめ面でタバコを吸っている。

灰皿のスタンドに彼女が吸ったと思しき手巻きタバコがいくつも浮いている。

自堕落を絵で描いたようであり、名は体に反するとは本人の言葉。

親交を持つにあたって怜音にお伺いを立てたこともあったが彼女は遠くから宮戸を確認するなり顔を渋めていた。

曰く、私がどうこうというよりワン君にとってよろしくない。講義以外では禁止にしますと。


彼女とは入学当初の部活勧誘の際に出会った。

ただ飯目的で柳葉樹と色々な部活を渡り歩いた時に馬が合い、部の勧誘は断ったが学部が同じこと、一つ上とは思えないほどに単位を取っていないこともあってその後も時々行動を共にすることがあった。


「律先輩はまだ演劇部でしたっけ」

「ほぼ幽霊だが籍はおいてる」

「聞きたいことがあるんですけど劇団檸芳について詳しいですか?」

「ん、レポートでも出てるのか」


消極的に肯定すると宮戸は視線を彷徨わせてタバコを数度繰り返し口に運ぶ。

短くなったそれの火を消すと灰皿の中はまた一段と賑やかになった。


「伊吹蜜波って知ってるか?世界に羽ばたく名女優ってやつ。そいつが日本に戻ってきてツーカーの映画監督と組んでやったことが劇団の立ち上げ。で、それが劇団檸芳。ま、切り盛りしてるのは映画監督の方だが」

「歴史は浅いけど新進気鋭で注目の的って感じですか」

「まさしく。少し前の話だから今ならもっと評価されてるだろうよ。……もしかして私が先週サボってた時に出た課題か?」

「あの講義は後期に出せばいいやつなんで安心してください」

「ならいいが。レポートだろ。歴史が浅いからネットだと参考文献として弱いよな。蜜波には著作もあったし、雑誌のインタビューから拾ってくるのもいいかも」


思ったより真っ当な助言をもらってしまったことを岸守一は申し訳なく感じた。

宮戸は多くの部に兼部しているらしいが顔を出すことはほとんどないので当てにしていなかったのが正直なところだった。


「なんというか詳しいですね」

「腐っても演劇部だから」

「腐るのもいいですがほどほどにしてくださいよ。あいつ最近怠け癖生えてきてますし」

「人は易きに流れる、だな」

「朱に交われば赤くなるって知ってます?」

「噂の人物も来たぞ。諫言は本人にいってやれ」


宮戸の視線の先には早歩きで手で小さく謝りながら向かってくる柳葉樹。

岸守一が彼を確認しその前で宮戸に苦言を呈そうと振り向くと、


「男共さっさと行くぞ。いい席取られる」


彼女は既に逃げ出していた。


 講義に用いられる広い教室の後ろは既に占拠されていた。

その中に見かけた知り合い達に軽く挨拶しながら岸守たちは中ほどの席に身を滑り込ませた。


「すまんはじめ。昨日バイトで遅くなったから多分寝るわ。あとでコピー取らせてくれ」


言うなり返事も聞かずに柳葉はうつ伏せになり、宮戸も柳葉に追随した。


「私も……まあ寝る」

「そのうちなんか奢ってくださいよ」

「私たちの中なら適材適所だろ。私は暗号扱いされるのがオチだ」

「先輩は字、綺麗でしょうが」

「あーレジュメ配られてきてるぞ」


岸守一が軽く小突くと宮戸は受け取っていたらしいレジュメをひらひらとこれ見よがしに見せつけてくる。

講義中ですので行儀よく、といいたいらしい。

先ほどより強く宮戸を小突くと横から聞こえた呻き声をよそに授業に意識を切り替えた。


 授業の半ばほどになるとある種の退屈と眠気が訪れる。

視線を移した先の二人はもう完全に意識を落としていた。

押し付けて完全に気を抜いている二人を恨みながらも岸守一は眠気を紛らわすために関心のあることを落書きとともにレジュメの端に書き込んでいく。

劇団檸芳。

律先輩の言っていたこと。

怜音が言っていたこと。

劇団檸芳に所属している意味の重さ。

クインが世界的に有名な人物のお眼鏡に叶うほどだということ。

知識としては知っているもののその重みが実感できていない。

調べ物への期待を支えに眠気に抗った。


 二限が終わると柳葉は友人と食堂へ行き、宮戸は足早に喫煙所へ向かっていった。

その場で留まっていた岸守一は二人が教室を出てから数分後、自分を探す怜音を見つけ手招きした。


「岸守くん、次の時間は空いていますか?」

「ああ。そっちはあっただろ。いきなり休講にでもなったか」

「ええ、ですからよろしければこの後いかがですか?」

「どこに行くんだ」


怜音は困ったように笑う。


「それが……急なものでしたから考えてなくて。岸守君は何か希望はありますか?」

「だったら図書館に行こう。少し調べ物がしたい」

「図書館デート、ですね」

「そんな大層なものじゃない」

「それで何について調べたいんですか?」


怜音はいつもの蠱惑的な笑みではなく誰もが警戒を解くような柔和な笑みを浮かべている。

作っている、といった雰囲気は感じられない。

これも育まれてきた自然体。

ただ自分にしか向けない側面があるというだけの話。


「劇団檸芳についてな」

「まあ。岸守くんは探究心旺盛なのですね。彼女としても話題が増えて嬉しい限りです」


怜音は口に手をあてて喜ぶ様を見せているが長年付き添ってきた身から見れば呆れているのが分かる。

翻訳機に通せば昨日の今日で、といったところか。


「まあ勘弁してくれ」


怜音は一瞬大きく身を乗り出し囁いた。

傍目にはキスをしているように見えてもおかしくない。


「まったくワン君は」

「悪いとは思っているよ」

「岸守くんが何かにやる気を出しているのはよいことですけれど。あの子のことですか?」

「それもある。劇団檸芳については知っているらしい”九条院さん”から聞かされていなかったからな。自分で調べてみようと思った次第だ」


怜音には色々と教えてもらっている。

それは単純に学力もあるが、いわゆる文化資本の差を埋め合わせるためだ。

怜音と一緒になる以上九条院家と関わることになる。

ただでさえ家柄は離れている中でその差を埋め合わせようと努めない、卑しい人間なら向こうに反感を持たれることは考えられるし最悪引き離されるかもしれない。

現に怜音の上の兄には自分の存在は疎ましく思われていると聞く。

だがそうした話ではなかった。


「私……というより九条院と蜜波さんは親交がありますから」

「将来の旦那様はその中に入れてもらえないと」

「困った人。こんな形でワン君と蜜波さんに縁ができるとは思っていませんでした」

「それじゃあこれから教えてもらうとしますか。行こう図書館」

「……本当に困った人」


 方針としてせっかくいただいた助言を採用した。

調べるにあたって著作の方はともかく雑誌については借りられているということもないだろうという推測をもとに図書館の中を泳ぐ。

雑誌がおいてあるような場所は普段利用者の少ない図書館の中でもさらに人が少ない。

時間としては講義中なのも相まって怜音と貸し切りだった。


「岸守君、学部棟の資料からあたってみた方がいいと思います」

「そうするか。それよりここなら堅苦しい呼び方しなくていいんじゃないか」

「……ワン君、それほど嫌ですか?」

「怜音だっていつもの方がいいだろう」

「私はどちらも好きですよ」


岸守一は本棚に収められた本を流すように目を通した。

当初立てていた予定では一目でそれだと分かるようなものからしらみつぶしにするつもりだった。


「まあ気楽にいこう。俺以外といる時は堅苦しい振る舞いなんだからせめて俺だけといるときはな。……演劇ってタイトルについてるこれは?」

「気楽に、ですね。……それは歌舞伎についての雑誌。蜜波さんが出ているようなのは……あちらにあるのはどうでしょう」


指差す先にあるのは演劇のジャンルに陳列されていない雑誌だった。

加えて知らなかったのなら素通りしたような雑誌名。

手に取ってみるとオペラについての特集をしていた。


「本当に助かる」


著作については検索をかけるだけで済む分、雑誌についてはてんで分からないからこそ空きコマを使おうと考えていた。

それを省いてくれた怜音に今度サービスでもしようなどと岸守一が考えながら彼女が見つけた雑誌の他の号をたどっていくとお目当ては意外にも早く見つかった。

そこにはインタビューが掲載されていた。

演劇の公演の手ごたえであったり今後の展望について書かれている。

要約すると劇団を持つことはだいぶ前から考えていたこととその目的の一つとして後継者を見出して育てたいとは考えているがまだそれは果たされていないといった内容だった。


「後継者か」


岸守一はクインの去り際の姿を思い出した。

クインが、と思うとしっくりくるような気が通り過ぎる。

だがそんな甘い話はないような気もする、ともどこかで思った。

なにしろ数多の才能のある人間がしのぎを削って削った果ての話だからだ。

とはいえ蜜波自身のスカウトという話でもある。


「載っている雑誌はそれなりに前の時期のものだから今はもう叶っているといいのだけれど」

「クインがそうだったりしてな」

「蜜波さんの求める高い水準を超えている点で既にすごいとは思いますが後継者ともなるとさらに上を求められますから……」

「そう簡単な話じゃないか。ああ、言い忘れてた。手伝ってくれてありがとう」

「どういたしまして」


少ない情報に首を捻っていると時計が目につく。

何かをするにもしないにも半端な時間。

何をしようか思いつかず岸守一は棚の本を意味なく出しては閉まった。

本それ自体と棚に置いた際の重みが彼の手を心地よく弾ませる。


「著作の方は借りて読むとしてまだ少しだけだが時間があるな。どうする」


怜音は柔らかく笑んだ。


「それこそ図書館デートをしましょう」

「オーケー。手伝ってもらったし怜音の希望聞くぞ」

「時間的にこれはどうですか」


雑誌がまとめられた棚の隣は絵本が陳列されており、怜音はそこから一冊の絵本を手に取った。

彼女に手招きされるままに席につく。

図書館内は本が日焼けしないように配慮されている。

それでも暖かい、午後の日差しを僅かに感じた。

幼い時に一度読んだことのある本だったが今見返してみると新しい発見もあることに驚かされた。

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