#1-2 再会 後

 岸守一は眠りから覚めるなり寝足りないことを自覚した。

遮られた睡眠時間を少しでも取り戻そうと自動的に目が閉じるも、ひどくさび付いた不快感が脳にまとわりついて仕方がない。

揺さぶられていることが不快感をより強めているが、強いて瞼を上げる。

眩しい日差しを背にした怜音が目に入った。

朝日でもごまかせないような色濃い赤い痕が首に残っており、目につく。

少し着崩れたワイシャツ。その袖から半端に出た手がこちらに伸びていて、それが自分を揺らしているのだと岸守一は他人事のように分析した。


「おはようワン君」


「おはよう怜音」


形式ばった挨拶。

怜音のこだわり。

岸守一は揺する手をやんわりと止めた。

未だ霞んでいる目で時計を見ると予定まではまだ早い。

休日であり、普段の起床時刻なら外から聞こえる声や音もない。余暇を作るには過剰といえる。

窓を開けて晴れ渡った空のからっと気持ちのよい風を迎え入れて、体を伸ばす。

しかし、意識の底にこびりついた眠気を払うには足りない。

心地よいものを素直に受け取れない己を恨めしく思った。


「時間まで随分と余裕があるな」


「ワン君朝弱いですから。なにかあったらと思うとちょうどいいくらい」


「弱いのはお互い様だろ」


一日の始まりに朝に弱いもの同士顔を突き合わせるのもまた繰り返されてきたことだった。

寝ぼけた意識を刺すため二人は先を争うように顔を洗う。

彼女が優先ということもお決まりではあるが。

すると彼女は一足先に穢れを知らない令嬢に戻る。

岸守一は意識の底に溜まった泥を洗い流そうと何度も水を体に押し込んだ。


 結局、出かけるまでの間になにもなく、彼女の懸念は杞憂に終わった。

岸守一がこれ見よがしに大あくびをしてみせると怜音はあてつけを咎める視線を送る。


「無駄に睡眠時間削っただけだったな」


「無駄口叩いてせっかく作った時間を無駄にするのはよくありませんよ。気乗りしないのは誰が見ても分かりますが余裕を持つならそろそろ出たほうがいいです」


「話を逸らすな。それじゃあ行ってくるから」


「いつ頃戻ります?お昼は?」


「墓参りして帰ってくるだけだからそこまでかからないと思う。けど、もし用事ができたら待たせることになるからどちらにせよ昼は各自で済ませよう」


「用事ですか。折角の機会だからお母様と話してくればいいのに」


怜音の言う通りあるとすれば親との積る話という奴ぐらいのものだろう。

折角の、と怜音は言っているが岸守一としては早々に切り上げるつもりだった。


「一応隣に住んでいることになっているんだから見送らなくていいぞ。誰かに見られたらどうする。下種の勘繰りってやつは嫌いだろ」


こうして一つ屋根の下で暮らしているが形式上隣の部屋を借りていることになっている。いくら一人暮らしの手伝いに許可が降りてはいてもある程度の線引きは守っているように見せていた。


「年頃の男女ですもの。珍しくもなんともないですよ」


怜音は面白い冗談を聞かされたとばかりにクスクスと笑いをこぼす。

岸守一は己のすぐ後ろをついてくる怜音に訂正しようとするもすぐに諦め、首をかいた。

そのままドアを開け、周囲を窺い、その危険はないことを確認する。


「いってらっしゃい、ワン君」


岸守一は毒気が抜けたように素直に頷いた。

怜音はいつも人を振り回しておいてこんな時だけ貞淑になる。呼び方は別として。


「いってきます」


 岸守一はまばらに空いた椅子に腰かけた。

半端に沈む硬いシートに誰に向けるでもなくわざとしかめた顔を作る。

時折揺れる電車の振動に体を預け、額縁のような窓に映る風景が流れていくのを淡々と眺める。

退屈に富んだ変化だ、と心の中で吐き捨てた。

視線を風景から電車に乗る前、適当に書店で見繕った本に落とす。

帯にあることを鵜呑みにするなら大層人気があるらしい。

だが、本の内容はどこか上滑りするもので世間の評価とは到底釣り合うものではなかった。

母親との世間話のタネにでもなればと期待したのだがこれでは話に付き合わせるのにも申し訳なくなる。

ましてや、子供の関心を買おうと時間を使わせたなら時間泥棒と謗られてもおかしくない。

本を閉じ、すぐに栞を挟むのを忘れていたことに気づく。

適当な所に差し込むと再び額縁内を流れていく退屈な変化に視線を彷徨わせた。


 霊園の前で待ち合わせた母親は記憶よりも老けていたことに驚いた。

顔を合わせていない期間は一年程と長くはないのだが予想以上だ。

頬のたるみのせいだろう。

間違いなく手のかかる息子に分類される自分が離れたことで張りつめていたものが切れたのかもしれない。

手渡された樒を受け取り、歩幅を狭め、横に並んで歩く。


「心配していたけどなんとかなってよかったよ」


母がぽつりともらす。

活気とも無縁の体からまた一つこぼれ落ちたようにも見え、視界から外すように前を見据えた。

どうして母を邪険にしてしまうのか。

ある程度距離と時間を置けば自覚できる。

振り払ってしまいたかった。

もちろんそれが倫理的に悖ることは分かっているし、これからは受けた恩より多く返すつもりでもあった。

それでもそうした考えが首をもたげるのは今を謳歌しているからだろう。

今が瑞々しいものであるにもかかわらず、陰りを見せつけられたようで水を差されたような気分になる。

それに瑞々しい今といってもまだ足りないような気がしてならない。

そんな欲深い自分を自覚させられるから尚更疎んじるようになる。



「何度も言っただろ。別に心配することなんてないって」


「そうはいっても。気が気じゃなくって」


母親は口癖のように繰り返した。

会話が続いてもこの繰り返しになりそうなので岸守一は歯痒そうな素振りを見せて打ち切った。

とはいえ言い分も理解できる。

今の自分の立場は傍から見れば怜音に気に入られて取り入ったようなものにしか見えない。

それはこの関係が怜音の気まぐれ次第で容易に裏返ることを意味しており、事実気が気ではなかったのではないか。

理解はできるが詳らかに説明するつもりもない。

余計な詮索をされないように目的の墓を見つけるなり歩くのを早めて促した。


 墓の手入れを終わってから庭園を出るなり母から声をかけられる。


「そういえばはじめ、お昼はどうするの?」


携帯で時間を確認すると十一時を少し過ぎたばかり。

怜音に言った手前、外で済ませるつもりではあったが昼時には早い。

外で済ませると言おうものなら付き合わされるのが目に見えていた。


「家で済ませるつもり。昨日の残り物を早い所食べようかと思って」


ここを出た後どこで時間を潰そうかと意識を移していると母がそれを遮るようにあっと声を張り上げた。

その視線は一の携帯に注がれている。


「はじめ、あなた忘れているかもしれないけど覚えてる?昔近くに住んでいたクインちゃん」


「覚えているよ。記憶に残る」


岸守一はあえてそっけなく言った。

榮辺クイン。

忘れるはずもない、忘れる方が難しい。

幼いからこそあの金糸の髪と青い目は焼き付く。

昔の記憶は色を失って久しいが彼女の周りのことなら今だって鮮明に思い出せる。

小学校に上がるまでは親同士の付き合いのよしみで一緒に遊んでいた。

それからは別々になり、徐々に疎遠になって気づいたらぷっつりと途絶えていた。

彼女が引っ越したことを知ったのはしばらく後のこと。


「そのクインがどうしたんだ」


「またクインちゃんがこっちの近くに戻ってきたみたいなの。それでこちらに挨拶に来たのよ」


「初耳だ」


思いがけぬ報せに心が踊ったのを隠しきれず岸守一は素早く母親に向き直った。


「クインちゃんには私からはじめの連絡先教えたけど連絡するのは私がはじめにこのことを伝えてからにするって」


「回りくどいな。それこそ母さんが俺にメールでも送ってくれればいいのに」


「はじめが引っ越してから連絡一つも寄越さないから。はじめのことなんてすっかり忘れてた」


「なんだそれ」


呆れが声に乗る。

クインとの話の中で話題に上がったのなら忘れているわけがない。

一方で母親の振る舞いには嘘のようには感じられなかった。

本当半分、当てつけ半分といったところか。おそらく当てつけで優先順位を後回しにしていたら本当に忘れてしまったのだろう。


「それでこれがクインちゃんの連絡先」


いい加減な行いに対して少しばかり目つきを鋭くさせていると無造作に連絡先が記された画面を突き出される。

岸守一は記されていた情報を元に他愛もない挨拶を手早く送った。

返信をすぐには期待していなかったが意外にもすぐ携帯が鳴り、手から滑りかける。


『久しぶりはじめちゃん』


短いメッセージに記されていたのは久しぶりの呼び名、安堵が湧く。

記憶と違わぬ何よりの証明。

他者にそう呼ばせなかった中での例外。

例外というよりは一つしかないその席がもう埋まっているが故の拒否。


『さっさと連絡してくれてよかったのに』


『久しぶりの知り合いからのメッセージなんて勧誘の類だと警戒されるよ』


自分の頰が緩んでいるのに気づく。

久しぶりだというのに堅苦しさや遠慮が全くないことが時間の経過に伴う不安を消し飛ばしたからか。


『確かに。戻ってきたのは最近か?』


『戻ってきたのはそれなりに前なんだけど』


ぶつ切りの文章が送られる。

意図を推測する間もなくまた携帯が鳴った。


『積る話になりそうだからこれからあわない?昼もまだなんだ。先約がもうあったりする?』


会わない理由がないだろうと岸守一は誰に見せるでもなく笑みを浮かべた。

再会への好奇心も大きく、またこの場を切り上げる理由にもなる。


『今用事が済んだとこ。今日は空いているからいつでも問題ない。どこで会う?』


現在の位置を伝えると、提示された場所は都心の方にある喫茶店の前ということになった。

岸守一はおおよその到着時間を伝えると、母親に向き直った。


「クインとこれから会うことになったから急で悪いけどこれで」


「クインちゃんにもよろしくね」


振り返る手間も惜しいと思うほどに気が逸り、母親の声を背に自然と早歩きになる。


 昼近くになって人の往来も増えたからか、休日であっても電車の席は埋まっていた。

手近なドアの傍に寄りかかる。

時折揺れる電車の振動で体をドアに打ち付けながらドア越しの風景を考え事の添え物にした。


 電車とは異なり、休日のため街は人波でごった返していた。

岸守一は早歩きでかき分けながら目的地に近づいていく。

普通なら人を探すには苦労する。

だが、どこにいるかを見つけるのは容易だった。

周囲とは切り離されたように確かな存在感がそこにある。

海の中でもはっきりと見分けがつく一滴。

サングラスをしていたが、光を引き立て役にする輝く金糸の持ち主は間違いなく記憶の中のクイン。

人ごみの流れから外れて真っすぐ向かう旧知の仲に気づいたクインは軽く手を振りながらサングラスを外した。

現れたのはなにもかも飲み込んでしまいそうな青。

昔より鮮明に透き通った強い意志を放つ目が岸守一を射抜いた。

囚われた。

息を呑んだ。

思わず立ち止まった。

釘付けになった己を強いてまた歩を進めた。

軽く手を上げクインのもとへ。

彼女は少しおどけたように変わらぬ挨拶をするのだった。


「久しぶりはじめちゃん」

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