ケダモノナラズヒトナラズ
うらなりLHL
#1-1 再会 前
閉じられたカーテンの隙間。
そこから室内に光がわずかに差し込み、醜悪な影絵を壁に大きく映し出す。
ベッドの上、男が華奢な女を覆うようにのしかかっている。
突き出された太い腕は細い首に。
女の身体に時折震えが走る。
空気を求める喉。
女の腕は男の腕を剥がそうともがく。
しかし、男は情けをかけることもなく粛々と押さえつける。
抵抗は弱弱しいものに。
女の腕はわずかな震えを残し縋るように男の腕に触れる。
男が不意に手を離すと女の腕はずり落ちてベッドを叩いた。
男は自らの蛮行の成果を確認するとベッドにだらりと伸びた女の体に対してそれ以上こだわることもなくその場を離れた。
男が離れてもなお女の首にはくっきりと指の跡が残っており、込められた力の程を訴えている。
男が再び姿を現す。
蛮行が行われた部屋に水を満たしたコップを片手に戻ると近くにあった椅子を引いて腰を下ろす。
電源の付いていないテレビに何をするでもなく目を向けながら杯を傾ける。
半ばほど中身を体に流し終えると男はコップをテーブルに置いた。
幾ばくかすると女は体を起こし、何もなかったかのように窓を指差した。
女を害していたはずの男は指示の通りにカーテンを開ける。
外から差し込む光は一段と強まり、二人の姿を鮮明にした。
男は体格のいい体を筋肉が際立たせており、溢れる精力を感じさせた。
行為で乱れた髪から垣間見えるのは泰然とした整った顔つき。
女は肩をくすぐる程度の長さの絹のような美しい髪に触れられたことのない花のような澄んだ印象を与える端正な顔立ち。
気位の高さを秘めた瞳と悪戯を思いついた子供のような笑みが同居している。
ピンと伸びた背筋はメリハリが効いた体をよく表している。
調和した輪郭に官能的な曲線を描く体のラインは可憐さと蠱惑的な魅力を雄弁に語っている。
二人が並べば文字通り他者の目を惹くつがいだと言えた。
だが、男の背中に薄っすらと残るいくつもの腫れや女の首に今しがたついた色濃い痕に気づくことがあれば、目を惹くという意味合いは羨望から奇異の意味合いに変わるだろう。
女が男に声をかける。
「明日が休みでよかったですね。チョーカーを付けることになっていたかも」
岸守一(きしもりはじめ)は差し込んだ光を邪魔そうに目を細める。
光を厭うように引き返し元々腰掛けていた椅子に体を下ろした。
入れ違いで九条院怜音(くじょういんれいね)はベッドを離れて窓に向かう。
「持ちかけたのは怜音だろ。休日だからきつく痕が残るくらい激しく、だったか」
夜であっても眩い景色を怜音は見下ろしている。
岸守一の目には何かを見つけ出そうとしているように見えた。
目当てを見つけられたのか気まぐれだったのか何の未練もなく怜音は彼に流し目を寄越した。
「私はあの時を思い出したいと言っただけなのに」
「行間を読んだ」
「もしかすると休みが終わっても痕が残るかもしれませんね。そうしたら関係が公になってしまうのに。困った人」
怜音は岸守一を柔らかく非難したが言葉と振る舞いは食い違っている。
僅かに首を傾げて浮かべた微笑みには明らかに挑発の意図がこめられていた。
加えて、明かりに照らされた白いうなじ、映える苛んだ痕を見せつけるようにして焚き付けている。
彼女がまた景色に向き直った瞬間、岸守一は注文に応えてやろうと縮められたばね仕掛けのように椅子から身を離した。
再び窓越しの風景に視点を戻した彼女に足音を殺して近づくと吸血鬼のように首に歯を突き立てる。
「ふふ、こそばゆい」
怜音は少しも動じない。
それが猶更彼女の余裕を壊してやりたいという衝動に岸守一を駆り立てる。
ねじりを加えて首に思い切り噛みつく。
歯を徐々に瑞々しい柔肌に沈めていく。
突き立てられた刃に弱弱しく抗おうとする弾力。
柔肌を隔てた少し先に彼女の命がある。
「んっ……汗を流してからにしませんか?」
その言葉通り岸守一の五感が訴えるのは血の味ではなく汗と甘い匂いだった。
万力のように一段きつく締め付けたあとゆっくりと離す。
絞められた痕の残る首に新しく歯型が刻まれる。
「風呂入るか」
「一緒に、ねワン君」
「そのワン君って呼び方。もうそろそろ十年ほどの付き合いになるのか。未だにこう、怜音のツボってやつはピンとこない」
「一だからワン君。単純だけれど愛着が湧く。二人きりの時しか使えないのが勿体無いくらい」
うっとりと浸る怜音を見て岸守一は何という目的もなく口を滑らした。
「今更だがそれに倣った呼び方をしていれば怜音の言うことも共感できたのかね」
「もし、そうしていたら?」
「……自分で言ったことだが忘れてくれ。むず痒くて俺には無理だ」
「それは難しそう」
「さっさと風呂入るぞ」
一糸まとわぬ姿になりお互いの体を眺め合う。
繰り返されるうちに言葉が交わされることなく形成された習慣。
情事になることもなく眺めあう様は滑稽ですらあった。
白く華奢でありながら締まった無駄のない体は肉欲に訴えてくる。
流れるような輪郭、淑やかで優しく無駄のない仕草は穢れを知らぬ清廉さを感じさせた。
怜音が顔を上げ目線で促す。
岸守一は体を流し、我が身を湯船に沈めた。
彼女もそのあとを追い、体を預ける。
繰り返された行為であり、躊躇いはない。
岸守一の鼻先を髪がくすぐる。避けるようにやや俯くと白く滑らかな肌が視界を埋めた。
無防備で手折れそうな細い体。
後ろから思い切り抱きしめたら砕けてしまいそうな胴体に軽く手をまわし、次いで彼女の纏めるほどには長くない髪が浸からないように軽く持ち上げる。
湯船に浸かっている間彼女はたいてい無言であるために岸守一は手持無沙汰のために視線を彷徨わせた。
入浴中、怜音は普段の軽口をしない。
思いついたように一言二言投げてくることはあるが、今回もまた普段に違わず振り返り頷くとまた前を向いた。
時折どちらかの身じろぎに伴って湯船から湯が溢れる音だけが浴室で響く。
やがて怜音は目配せをした。
岸守一がまわしていた手を解くと彼女は湯船から出る。
彼女が出て下がった湯の嵩の分だけ体を沈めた。
彼女は奉仕させることを好むが体の手入れにおいてはその限りではない。
彼女は社会的な身分、九条院家の令嬢という立場に恥じない振る舞いを求められ、彼女もまたそれを自らに課している。
それ故か他者の手に委ねないことも存在する。
調度品を磨くように少しの漏れもなく手入れをする姿は純潔という言葉を体現するかのようである。
また、少しの瑕も許さない、なぞるような手つきは艶めかしく、水浴びをモチーフにした絵画を切り取ったようでもある。
一連の儀式を終えた彼女は水の重みで垂れた前髪を少しずらし鏡を見つめた。
「先に出ますね」
岸守一が頷くのを確認するなり怜音は体を翻し浴室から出ていった。
ドライヤーの音を慰みに浴室の壁、ひいてはこの家に思いを馳せる。
自分を伴って彼女は今実家を離れて暮らしている。
そこには由緒正しき大企業のご令嬢が暮らすにはそぐわない水準という注釈がつく。
体裁としては無理を言って始めた一人暮らし。
日ごろから助けになってもらっている人も協力してくれるからという名目でその話に組み込まれた。
異性に協力してもらっての一人暮らしなど親からすれば普通認めないだろう。
しかし、怜音は今を見越してか思いを寄せていることを何年間もアピールしていた甲斐もあってすんなりと許可が降りた。
助けるといっても実際の所は互いに互いを消費する関係。
昏い欲望をぶつけ合う関係。
決して明るみには出せない関係であり、あの時から十年ほどにも続いている。
そして、自分は彼女から貧しかった環境の中では得られなかっただろう有形無形問わず多くのものを受けとった。
対して自分が提供できることは彼女との関係を続けることのみ。
到底釣り合っているとは言い難く、今でさえ不安に駆られることだってある。
しかし、ドアのガラス越しに映る手入れに勤しむ彼女のシルエットは上機嫌に見える。
そもそも決定権は彼女にあるようなものであり、現状は怜音の意思に沿うものであることは間違いない。
ため息が漏れた拍子に汗が鼻筋をなぞったのでつまらない思索を打ち切った。
岸守一は寝間着に手早く袖を通し、リビングに向かう。
怜音はワイシャツを羽織った状態でワイングラスを取り出しているところだった。
二人分ではなく、一人分の。
「俺のがないぞ」
言葉の後に岸守一は呆気にとられた。
問いただしたのは自分のはずだが怜音からは非難の視線。
先ほどとの違いは挑発といった意図のない純然たる非難ということ。
「明日は貴方、お爺様の墓参りに行くと言っていたでしょう。粗相に繋がりかねないことは少しでも避けるべき」
「あの人は酒好きで酒気を恋しがると思ったんだ。それが早めたわけだが」
掌を怜音に差出し促す。
怜音は意図を隠しもしない方便に呆れを隠さず額に手をあてた。
「私としては同意しかねますが……」
言葉に反してため息と共に岸守一の手にワイングラスが収まる。
続いて中身が景気良く満たされた。
「そんな軽い調子なら今日責めるのを控える必要はなかったかもしれませんね」
「怜音の言う通りだから一、二杯に留めるよ。だから大目に見てくれないか」
重ねてため息が怜音の口から洩れる。
「被虐の痕にまみれて墓参りするのを御所望?私としては今から下準備に付き合っても何も問題はないですよ」
「明日は早いから折角の申し出だが遠慮させてもらう」
グラスを一度傾けると冷たくフレッシュな味わいが岸守一の乾いた口内に心地よい刺激として染み込み馴染んでいく。
再び傾けると潤った口の中で慣れ親しんだ味わいが舌を嬲る。
怜音のほうをふと見ると普段彼女が飲むペースよりずっと遅かった。
探るような視線に気づいた彼女は苦笑した。
「飲むな、といった人の目の前で飲み続けるのも少し気が咎めて」
「そんなものかね。律儀なのは結構だが損するぞ。酔い潰れていい日くらいはしても罰は当たらん」
「そうでなくても明日に響かない程度に済ますのが一番。何となくでよければ他にも理由をつけますよ」
「一応聞いておこうか」
怜音はもったいぶったのち謎めいて微笑む。
「予感。何かが起きる気がして」
岸守一は真意を聞こうとしたものの酔いが回ったのかが言いかけた言葉を飲み込んでしまう。
すると機を逸したように感じられて再び問う気になることはなかった。
ふと同じタイミングで杯を空けたのを見て彼女は微笑む。それがお開きの合図になった。
ベッドに先んじて横たわる彼女が手招きする。
岸守一は怜音に従ってその横に体を横たえた。
小さいタオルケット一枚に二人が収まるように体を手繰り寄せあって絡まる。
彼は怜音の背中に手を回し、彼女の頭を胸元に抱え込む。
甘い匂いが鼻腔を満たす。腿の滑らかな肌と擦れ合い、柔らかな髪が肌をくすぐる。
伏せられた長いまつ毛に目が移ると一つ屋根の下で暮らし始めた時には彼女の全てを独占していることに罪悪感さえ感じていたことを思い出した。
自分の首を掻いた手を戻した拍子にその手が怜音の腿に触れる。
彼女は窘めるように手をはたく。
「明日は早いですから」
「違うぞ」
岸守一は手を怜音の背中に戻す。
互いの息が互いの体をくすぐる。時折最適な場所を求めて身を捩る。
そのうち、一足先に探り当てたようで彼女は眠りに落ちていた。
落ち着いた寝息をたてているのを見届けると彼も続くように意識を下した。
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