春だった

夕目 紅(ゆうめ こう)

春だった

「いっちゃん、大人になったね」


 久しぶりに再会した彼女はそんなことを言って、僕は顔を顰めた。僕がそんな表情をするのが予想出来ていたのか、彼女は声を出して笑って、そっと口元を手で隠す。指の隙間から覗く赤い唇が蛍光灯の光を浴びて妙に艶めかしく輝いた。


「冗談だろ?」


 思わずついた悪態に、本気よ、とそれこそ冗談めかして彼女は返す。僕から見れば彼女の方はむしろ何も変わっていなかった。少し丈の長いキャメル色のニットに包まれた痩身も、ややピンクがかった明るい髪色も。切り揃えられた髪が触れる細い首筋も、どことなく勝気でボーイッシュな面立ちも。十年経った今でも大学生の時に出会った頃と変わらぬ美貌で、何考えているのかよくわからないところがあって、いつも“本当”を隠している。でも果たしてそんなことを言って彼女が喜ぶかどうかわからなかったから、喉元まで出かかった言葉をごくりと飲み込んだ。


「嫌いなんだ、その言葉」

「うん。知ってる」

「なら言うなよ」

「拗ねてる顔が見たかったのよ」

「ならもう満足だろ?」

「うーん、もうちょっと」

「死ね」

「あたしゃ死にませーん、ってもう古いか」


 それは十年どころではない、もっと古いドラマの有名な台詞だった。

 やっぱりよく分からない。考えていることも、同じ時間を生きているのかどうかも。そんなことを思いながら、それでも彼女にもう一度会おうと思ったのは、共通の友人が結婚したからだった。「久しぶりにちょっとした同窓会といこうぜ」そんな風に声をかけられてしまっては、何となく断り辛くなって今に至る。

 それに、少しだけ試してみたくなったのも本当だ。つまるところ、僕が彼女のことをきちんと過去に出来ているか。もう一度会ってみたところで、微塵も心揺れ動くことがないか。


「イチゴのショートケーキと、ブレンドコーヒーひとつ」


 駅前から一歩外れた裏路地に、随分とケーキの美味い喫茶店がある。段差の激しい罅割れた階段を上ると、寡黙な店長がつまらなさそうにグラスを磨いている、そんな店だ。

 彼女は手慣れた所作で注文を済ませ、メニューを僕に手渡した。僕はそれを一瞥し、色々と考えるのが面倒になって「同じの」と告げる。


「そういうところは相変わらずね」


 気が付けば、彼女の真っすぐな眼差しが僕を貫いている。BGMにはサニーデイ・サービスのベイビーブルーがかけられている(今時珍しいレコード盤だ)。天井でゆっくりと回転するサーキュレーターが静けさに満ちた空気を掻き回し、窓から見える風景は隣のビルの薄汚れた非常階段に埋め尽くされて景観なんてこれっぽっちも良くはない。でもそんな拙さや、スニーカーの底に伝わる陥没したフローリングの感触や、相変わらず固い椅子の心地が随分としっくり来てしまうことに僕は茫然とする。

 この十年、僕の時間はちゃんと前に進んでいたのだろうか?

 変わらない景色と、変わらない彼女。サイフォンの中でぷつぷつと泡を立てるコーヒーの匂い。いくつもの季節に飲み込まれたはずなのに、僕もまたちっとも何も変わってなんかいやしない。そんな錯覚すら抱く。


「……うん」


 そっとテーブルに置かれたコーヒーを一口飲んで、彼女は小さく頷いた。それから僕を見て、ゆっくりと微笑む。


「やっぱり、ちょっと大人になったと思う」


 彼女のそんな言葉だけが時間を未来へと進めて、僕は慌てて手元のコーヒーカップに手を伸ばす。砂糖は入れなくなった。苦味を美味しいと感じられるようになった。でもそれは別に、大人になったからなんかじゃないと思う。少なくとも僕の中には、そんな風に片づけたくないという気持ちがずっとある。


「もういいって、それは」


 思わず語気を強めてそう返すと、彼女は心底不思議そうに小首を傾げる。


「そんなに難しく受け止めなくてもいい言葉だと思うけど。どうしてそんなに嫌がるの?」


 改めて問われると、その理由については意外と考えたことすらなかったことに気づいた。どうしてだろう。


「……たぶん、しっくりこないんだよ。全然自分のことのように思えないんだ」

「ふうん」

「でもそんな言葉だけが何度も自分を飾るようになると、何だかそうならなくっちゃいけないような気がしてくる。たぶんそれが嫌なんじゃないかな」


 努めて優しい響きになるよう伝えて、僕はもう一度コーヒーを一口。ほーっと長い息を吐くと、彼女はぱちんと指を鳴らした。嫌な予感がした。それは彼女が閃いた時の――特に子供じみた悪戯を思いついた時によくやる――癖のひとつだった。


「じゃあ、他の言い方を考えてみよっか」

「……他の言い方?」

「そう。いっちゃんがしっくりくる、前よりもちゃんと大人になりましたって意味の言葉」

「ねえよ」

「短気ねえ。決めつけないで、少しは考えてみてよ」

「考える必要もないね」

「どうして?」

「大人になんかなってないからだよ」


 僕はそれで納得しようとしたけれど、彼女はまるで納得がいかない様子で、渋い顔つきで眉根を寄せた。


「そんなことないって。だってあたしから見てやっぱり違うと思うし」

「どこら辺が?」

「いい感じにくたびれてる」

「言い方」

「いい感じにネクタイが似合うようになった」

「もとから老けてるだけだろ、それ」


 こそばゆいような、懐かしいような、そんなキャッチボールの繰り返しを彼女は楽しそうにふふっと笑う。どうして僕達は一緒にいられなくなってしまったんだっけ。そんなことをふと考え、すぐさま脳の奥底に押し込もうとする、そんな自分に少しだけ呆れてしまう。


「でも、そうねえ」


 店長が大きなイチゴの乗ったショートケーキを二つ持ってきて、彼女がフォークを上手に使って切り分ける。どこか遠くでクラクションの音が聞こえる。BGMがベイビーブルーからそして風が吹くに切り替わる。甘い、と彼女が頬を綻ばせる。甘ったるい、と僕は少しだけ唇を尖らせる。でもその方が、コーヒーとの相性はいい。

 それからゆっくりと彼女は口を開く。テーブルの上に頬杖をついて、まるで独り言のように。


「あの頃は上手くいかないことが、いつだって怖かったような気がする」


 彼女の言葉はいつも秘密に閉ざされている。きゅっと結ばれたその紐を、僕はゆっくりと紐解こうと努力する。あの頃も、そして今も。


「……俺のこと?」

「いっちゃんも、あたしも。だからちょっとしたことですぐ嫌になったり、ケンカしたり。本当はそんな簡単に何もかもうまくいくことなんてそうそうないのに、あの頃は上手に出来ないことがいつも心に引っかかっていたような気がする」


 初めて彼女とデートしたのはこの店だった。そして彼女と別れたのもこの店だ。春だった。今日と同じ季節。

 でも鮮やかなものはそれだけだ。他のことは深い霧の中に閉ざされてしまったかのように、ただ柔らかな痛みの布にそっと包まれている。もう二度と思い出すことはない。そしてそれはきっと良いことなのだ。過去がいつまでも輝かしいばかりだったなら、僕らはきっと生きていくのがただただ辛くなる。


「色んなことを失敗したんだと思う。でも失敗したから、きっと色んなことを許せるようになったんだと思う。もう少し続けてみようって、辛抱強く生きられるようになったんだと思う」

「君のこと?」

「……うん、そうだね。それはあたしの話。いっちゃんがどうかはあたしにはわからないけど、でも久しぶりに会った時、何か同じなんじゃないかって気がしたから」


 だから大人になったんだと思う、と彼女は静かに言った。外した視線の先で何を見ているのかは僕にはわからない。少し寂しげでもあったけれど、どことなく誇らしげでもあるような気がした。でもそれを大人になったと呼んでいいのかどうか、結局僕にはわからなかった。少なくとも世の中に氾濫するそんなありふれた言葉で切り取られたくないような、そんな反発心を抱いてしまう時点で、僕の心のどこかはずっと子供のままだ。


「……どうかな。やっぱりしっくりこない」


 僕が正直にそう伝えると、彼女はいつものようにそっと覗かせた“本当”を隠して、にっこりと微笑む。


「そっか」

「うん」

「まあそれでもいいや」

「……食べなよ」

「うん」


 あとは何も喋らなかった。最後まで甘ったるいケーキを食べて、苦いコーヒーでそれを打ち消し、ごちそうさまと伝えて店を出た。


「ねえ、いっちゃん」


 来た時と同様、人一人分しか通れないような細長い階段を下りながら、不意に彼女が僕を呼んだ。表情は見えず、先行する彼女の旋毛が階段を踏みしめる度に小さく揺れ動いた。天井から鈍い振動音のようなものが聞こえる。


「最後にさ、あたしが言ったこと覚えてる?」

「最後?」

「そう。本当の、本当に、最後」


 忘れたことはなかった。でも擦り切れたそれは、もうあの頃と同じ響きでも感情でもないように思えた。ただの言葉になったとまでは言わない。でもいつか、そうなる運命だと思う。

 だから僕は、なんてことのない事実を伝えるように、平静を装って言葉を返した。


「ごめん。忘れた」


 数秒の沈黙が流れた。そっか、と彼女は言った。


「それならよかった」


 それだって、本当かどうかは僕には分からない。あの頃も、そして今も。

 でも少なくとも、ひとつだけ、あの頃とは違うことがわかる。もう今の僕は彼女に対して変に心を動かすことはないし、拙さを拙いままに持ち運ぶ術を得たように思う。もう二度と戻ることのないあの季節は、ただ鮮やかであったという記憶だけを残して、花びらのように静かに心の奥底に沈んでゆく。


「いっちゃん、やっぱりちょっと、大人になったよ」


 僕が大人になったのか。彼女が大人になったのか。それはやっぱり分からない。

 でも、あの頃の僕らは確かに彼女が言う通り、いつも何かに怯えたり、傷つけたり傷つけられたりしていて、だから――。


「……そうだといいな」


 外へ出ると、青すぎる空から降り注ぐ光があまりに眩しく、僕は思わず目を細めた。駅前まで続く遊歩道には桜並木が続いている。もう花びらはほとんど失われてしまって、新緑の葉の隙間にぽつぽつと鮮やかなピンク色が覗くばかりだ。穏やかで温かく、小さな風に流される空気からは微かに陽射しの匂いがした。


「ああ、そっか」


 彼女の喉を掠れた声が震わす。

 思いもしなかった風景が眼前に広がっていたかのように。

 まるで随分と長い間忘れていたことを思い出したかのように。


「きっと、春だったんだね」


 そう言って微笑む彼女に、僕も笑い返した。


「いいな、それ。今日一番しっくりきたよ」

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