終末のサブルーチン
厠谷化月
終末のサブルーチン
薄暗い部屋の中で、何かがこすれる音が鳴り続けていた。部屋の隅で男が膝を抱えてうずくまっていた。男は瘧に罹ったかのように震えていた。音は男が片手に持っているデンデン太鼓のようなものから鳴っていた。
数日来、太陽も月も昇っておらず、街全体が闇の中にあった。原爆のせいなのか、火山の噴火のせいなのか、はたまた太陽が無くなったのか。その理由は男には知る由もなかった。
ときどき地震が襲ってくるが、男は動かなかった。止まらない震えをどうにか抑えようと膝を抱えながら、マニ車を回し続けていた。「南無阿弥陀仏」の六字名号が収められたマニ車を回すことで、浄土に往生するという触れ込みだったが、男はたいして期待していなかった。ただ回すことで心が落ち着くような気がしていた。
東南アジアの僻地で畸形の羊が生まれたと話題になったのは半年ほど前だった。以前にも件や人面犬の写真が出回っていたが、そういうオカルトの類と訳が違った。畸形の羊の鮮明な画像がSMSに投稿され全世界で話題になった。その羊は七つの目を持っていた。
その後、立て続けに大規模な戦乱や天災が起こった。そのころから人々は恐慌に襲われ始めた。今思えばたまたま人災難が重なっただけかもしれない。しかし人々は七つ目の羊と相次ぐ災厄から終末を連想し、それがさらなる災厄を呼び起こした。
七つ目の羊が封印を解いたのではない、人々が封印を解いたのだ、と彼は思っていた。いくつかの偶発的な出来事から、終末を確信した人々が終末を引き起こしたのだ。
それまでは男も妻と二人の子供とささやかながらも幸せな家庭を築いていた。しかし、妻はスーパーで食糧強盗に銃で撃たれ、娘は何者かに乱暴され、息子は病気にかかって死んでしまった。男はいつのまにか一人ぼっちになっていた。
マニ車の音が途切れた。回っていた重りが男の手にあたったのだ。割れた窓に吹きつける潮風が、部屋に腐臭を運び込んだ。男は立ち上がって台所へ足を運んだ。駄目押しして蛇口をひねってみたが、黒くよどんだ水しか流れださなかった。数週間前から蛇口から湧き出す黒い水は苦くてとても飲めたものではなかった。貯めこんでいた飲み水も底をつき、男はおとといから何も口にしていなかった。男は飢えと渇きを我慢して元居た場所に座り込んだ。そして再びマニ車を回しだした。
終末の到来を確信した人々はみるみるうちに荒んでいった。政府は早いうちに機能しなくなり、代わりに銃や食糧などを持つ者が権力者として君臨し始めた。さらに彼らの上に立つものが、教会の聖職者たちだった。終末を目の当たりにし、黙示録を信じ切った人々は最後の審判に備えて神の国への復活のために教会で祈りを捧げた。
しかし、権力を持ったものが腐敗するという道理は聖職者にも通用する。必死に神と民衆との仲介を務める神父も存在したが、横暴を働くものもまた存在した。この街の生臭神父は復活の秘術と称して婦女に姦淫を働いたことが明るみになり、ある夜誰かに惨殺された。その死体は国道の信号機のところで逆さ吊りにされていた。
また、隣町の生臭牧師は街中の美少年を囲って淫蕩三昧だった。このことに怒りを覚えた信者の一人により、交差点に生き埋めにされたそうだ。一度その交差点へ行ってみたが、その前に戦車の行列が通ったみたいで、交差点は平らにならされ、本当に埋められていたのか判別できなかった。
皮肉なことに、結局「人はパンのみにて生きるにあらず」なのだ。
固いものがぶつかる音がして、またマニ車の音が途切れた。マニ車の重りを止める紐が千切れて、床に落ちてしまった。男は重りが取れたのに気付かずに、何度かマニ車を振っていた。
外で大きな音がして、部屋も少し揺れた。窓の外からは爆炎が見えた。大きな音がこちらに近づいてきた。エンジン音を轟かせて、戦闘機がこちらに向かって飛んできた。戦闘機はどこかへ飛び去って行った。
しばらくしてまたエンジン音が近づいてきた。今度は一機や二機ではなかった。何機もの戦闘機が同じ方向からやってきて、飛び去って行くのが見えた。そのいくつかは操作を誤ってビルに追突したり、他の戦闘機にぶつかったりしていた。よほど焦っているようだった。
男はベランダに出た。燃え上がった戦闘機の炎が街を照らしていた。戦闘機のやってくる方を見た。地平線の上に漆黒の空間があった。薄暗い夜空にポッカリと開いた穴のようだった。穴はだんだんと広がっていき、やがて街を飲み込みはじめた。
多少の時間差はあれど、消滅は平等に街全体を包み込んだ。地面に万歳をしていた神父の死体も穴に吸い込まれた。死体のつるされていたところも黒い虚無が広がっていた。最後まで貧民救済に努めてきた教会も建物も漆黒に包まれた。
やがて漆黒の空間は男の目の前にまで広がった。空間には何もなかった。ただ虚無が広がっているだけだった。命が尽きる直前にしては、男の心は穏やかだった。漆黒に包まれることは、死ぬことではなく、消えることなのだと何となく思っていた。
男は両手を大きく広げて消滅を歓迎した。
暗い部屋の中で、画面だけが煌々と光っていた。画面には「NULL」の文字しか映っていなかった。画面の前に二人が立っていた。二人とも白衣を着ていた。
「しかし、4年もかけて行ったシミュレーションも一瞬にして消えてしまうんですね。」
一人が言った。
「単細胞から始めて、文明を築くまでになったんだけどね。こいつはえらく電力を食うからね。」
もう一人がため息交じりに言った。
「しかし、あなたも悪趣味ですね。彼らが信じる終末のシナリオをなぞるなんて。」
「いや、だいぶ早くに彼らは自滅したよ。」
冷笑しながら続けた。
「彼らの信仰も跡形もなく消えた。神ってのは何なんだろうね。」
「僕たちは電算技師ですよ。神官じゃないんですから、神が何だとか考えても無駄ですよ。」
「いや、一人の人間として考えているんだよ。もしかしたら、僕たちも記憶装置に記された0と1の組み合わせに過ぎないんじゃないのかな。」
その時、赤と青のオッドアイのタカアシゾウが生まれた。彼らの聖典によれば、それは終末の始まりを意味していた。
終末のサブルーチン 厠谷化月 @Kawayatani
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