07:それでも歌い続けるから

 狭い、微かに煙草の臭いがする小さな部屋の中で、地道さんがソファの奥の方に座り、そこから数席開けて俺が座った。間には彼女の鞄が置いてあり、見た目以上の距離を感じる。


 俺は部屋の中でやかましく鳴る宣伝と画面に映る映像を消した。静寂が部屋を包み込む。


「えーっと……何か飲む?」

「……あ、はい!」

「そんな、かしこまらなくても」


 俺がそう言うと、地道さんは小さな声で、ごめんなさいとだけ呟いた。


 参ったな……あの俺が女子の扱いに困っている。南波がいたらニヤニヤしながら見ていそうだよ、ほんと。


「あの……やっぱり歌わないと……ダメ?」

「もちろん。その為に来たんだから」

「そうだよね……」


 俯いたまま地道さんが答えた。その小さな身体が余計に小さく見える。


 それを見て、平気でいられるほど俺は無神経な男じゃない。よく考えれば俺はここまでずっと自分の我を通していた。地道さんの気持ちを一瞬でも考えただろうか?


 少し傲慢になっていたのかもしれない。俺は久々に自己嫌悪を感じながら口を開いた。


「……ごめん、やっぱり歌わなくてもいいよ。俺の我儘わがままだった。」

「え、あ、いや! 嫌とかじゃなくて……その……なんというか恥ずかしくて」


 そう言って、地道さんが顔を上げた。


 眼鏡越しに見えるその瞳の引力に、俺は抗えない。


「でも……大丈夫。御堂君、私の歌を褒めてくれたから……うん、歌える」


 地道さんが立ち、息を大きく吸うと、足で小さくリズムを取りながら――歌い始めた。


 そして俺は思い知った。


 どれだけ、多くの曲を記憶していようと。

 どれだけ、多くの語彙を有していようと。


 この歌を、そしてそれを聞いている俺自身の心境を――表現できる言葉が見付からない。


 それほどまでにその歌は、その歌声は、圧倒的だった。暴力的だった。


 青く透き通ったその歌は重なり、深い藍色の波濤となって俺の鼓膜を突き抜け、脳髄に風穴を開けていく。

 

 だがその恍惚にも似た心地は……一瞬で破られた。


「――え?」


 地道さんの歌が唐突に止み、そして部屋の扉が開かれた。


「んだよ、御堂いるじゃねえかよ。おい、美佳、いたぞ。女と二人っきりでイチャついてた」


 そこにいたのは――茶色に染めた短髪に、制服のブレザーの下には真っ赤なパーカーをだらしなく着た男子生徒――隣のクラスで軽音部の坂井さかいだった。


「あれ、リョーマじゃん」

「涼真、やっほー」


 その後ろには、怪訝そうな美佳とその友人の姿があった。


「つか、あいつ誰? 御堂の新しい女?」


 完全に凍り付いて動きを止めた地道さんを坂井が見て、にやついた笑みを浮かべる。


 最悪と言って良かった。

 

 坂井はそこそこのイケメンで、軽音部でバンドを組んでメインボーカルとリードギターをやっているやつだ。正直俺は坂井がそこまで歌も演奏も上手いとは思っていない。もちろんそんなことを口にしたことはないが、なぜかこいつは俺を一方的に敵視していた。


 だからこそ、俺と地道さんを交互に見つめる坂井と美佳達がいるこの状況は最悪だった。


 そして、俺はここでようやく美佳の友人に昼休みの時にカラオケに誘われていた事を思い出す。その言葉が脳内で一字一句違わず再生される。


〝あ、涼真! 今日の放課後みんなでカラオケ行かない!? 軽音部の坂井君が誘ってくれてさ。美佳も来るって〟


 俺の馬鹿野郎! なんでそんな大事な情報を見落としていたんだ!


 このカラオケボックスは学校の最寄り駅のすぐ隣にあるためうちの生徒がよく利用する。そんなことは分かっていた。だったらこの二つを結びつけて、美佳や坂井達とこうして遭遇することも予見できたはずだ。


 俺は――浮かれていたんだ。


 だからこんな単純なミスをした。坂井はデリカシーも恥も外聞もない男だ。たまたま覗き見したこの部屋に運悪く俺達がいたんだろう。


 そして、これ幸いとばかりに絡んできたのだ。


「じゃ、合流しようぜ。みんなでいる方が盛り上がるっしょ、なあ美佳」


 坂井が部屋に入ってこようとするので、俺は立ち上がってその動きを止める。


「え? ああ、うん」


 美佳がどうすればいいか分からず生返事するが、俺は坂井の侵入を阻止しようとするが、肩を掴まれてしまう。うぜえ、くっついてくんなよ。


「そっちのお前もそれでいいよな? ああ……悪い、俺って地味な女の名前覚えられねえんだわ、そもそも誰だっけお前。つかなに、二人でカラオケ? それともホテル代わりか? 御堂ってこんな地味な女が趣味なんだ。そりゃ美佳もフラれるわけだ」

「おい、彼女は関係ないだろ」


 坂井がにやつきながら地道さんにまで絡んでくる。


「あ……あ……」


 目を泳がせテンパる地道さんを見て、俺は少しだけ理性に赤いモヤが掛かる感覚に襲われた。

 

「ああん? ちゃんと喋れよ」


 低い声を出し脅す坂井に、俺は苛立ちを隠さず言葉を返す。


「おい、いい加減にしろよ。カラオケならお前らだけで勝手にやれよ」

「おー、怖っ、流石スクールカーストトップ様は違うねえ。そんな底辺みてえな女も手を出すなんて趣味が悪いこった」

「は? そんなんじゃねえよ」

「じゃあ、合流しても良いじゃん。さっきなんかそいつ歌ってたし、俺らにも聞かせろよ」

「ちょ、ちょっと坂井、止めなって」


 まずい気配を察知して美佳が止めに入る。


「なんで? カラオケで歌ってただけだろ? やましい事がないなら俺らが聞いても何の問題もない。そうだよな、御堂」


 坂井が力尽くで俺の横を通り過ぎ、ドカリとソファに座った。


「ほら、お前らも入ってこいよ。御堂のカノジョの歌を聴こうぜ」

「お邪魔しまーす」


 美佳の友人がそう言って入ってくる。もうこうなったら、こいつらを追いだすのは難しいだろう。喧嘩沙汰になったら流石にマズイしな。


 くそ、俺らしくない。


「あ、ちょっと……もう」


 美佳がどうしようか迷い、俺を見つめるも俺は力無く首を横に振るしかなかった。


 こうなったら地道さん連れて出るしかない。そう判断して地道さんに声を掛けようとするも、彼女は未だ立ちっぱなしで身動き一つしない。


「地道さん、こいつらは放っといて出よう」


 俺がそう言うも、彼女は視線を泳がずだけだった。


「ほら、早く歌えよ」


 坂井が俺を無視して地道さんに催促する。


「あっ……いや……はい」

「いえーい! 何歌うの? って機械の電源入ってないじゃん!」


 美佳の友人が脳天気な声を上げる。その声に俺は余計に苛立つ。


「へ? なに、お前アカペラで歌ってたの? すげーじゃん、ほらさっさと歌えよ時間もったいねえだろ。どうせ下手くそだろうが」


 坂井がバカにしたようにケタケタと笑う。その言葉を聞いて、一瞬地道さんが表情を険しくした。


 俺は我慢出来ずに地道さんを連れて出ようと動くが、それよりも前に、彼女が口を開き――そして歌い始めた。


「〝い、息を吸う、ように……隣に君がい……」


 それは先ほどとは打って変わって、音程もリズムもめちゃくちゃで、掠れた呟きのような歌だった。地道さんの顔は真っ赤になっており、手が震えているのが見えた。


 その顔は今にも泣きそうで、見ているだけで心が痛かった。


「もういい! もう歌わなくてもいい!」


 俺はなりふり構わずそう叫ぶも、地道さんは歌うのを止めなかった。


「……もういいよ、やっぱりじゃん、聞いてるこっちが恥ずかしくなってきたわ」


 そう言って、坂井が満足したとばかりに立ち上がった。


「じゃあな、御堂。邪魔したわ。あの女の何が良いか分からねえけど、まあお前にお似合いだよ」


 すれ違い様にそう言って、出て行く坂井に、俺は言葉を返せなかった。


 なぜなら――地道さんは、それでもなお歌うのを一秒たりとも止めなかったからだ。


 確かに、坂井の言う通りその歌は下手くそだった。だけど、彼女は歌い続けた。それを止めることも、坂井を殴ってでも謝らせることも、俺はしなかった。


 ただただ、その歌を棒立ちになって聴いていた。


 坂井達が去ったあとも、最後まで歌い切った地道さんがそのままその場にしゃがみ、泣きはじめた。


 そんな彼女に、俺は――声を掛けることも、抱きしめることも出来なかった。


「なんで……」


 俺はそう言うしかなかった。それは世界で一番な無力な人間に相応しい、空虚な言葉だ。


 だけど、それに地道さんは泣きながらも答えてくれた。


「えぐっ……歌だけは……ひぐっ……否定されたくなかったっ!」

 

 歌う前から、下手くそだと決めつけた坂井。

 それが、地道さんは許せなかったんだ。


 だから、歌った。俺一人の前で歌うことでさえ、緊張して、恥ずかしくがっていたくせに。


 坂井に脅され、ボロボロになりながらも彼女は歌った。下手くそな歌だったけども、彼女は歌い切った。


「悔しい……悔しいっ!!」


 今の彼女の涙は、悔し涙だ。


 であれば……途中で退席した坂井と、最後まで歌った彼女。


 どっちが勝ったかなんて、言うまでもない。


「地道さん」


 俺は、しゃがみ込む地道さんの側によって、彼女の細い肩に手を置いた。一瞬、震えを感じたが、拒否感はないように見えた。


「地道さん。ごめん。俺のせいで」


 しかし、今度は何も答えが返ってこない。


 その後、彼女は一時間泣き続けたのだった。

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