05:ぼやけた視界の中で


「倒れた女子をお姫様だっこで連れてくるやつなんて、あたしがこの学校に来てから君が初めてだよ」


 保健室。倒れた地道さんを抱えてやってきた俺を見て、校医のたつみ先生が呆れたような声でそう言った。四十代後半の巽先生は、一部の女子からは嫌われているが、男子人気はある校医だった。ま、年齢を感じさせない色気と、物腰なので納得ではある。


「多分、貧血だと思うんですけど。しんどいとか無理とか言っていたので」

 

 俺は巽先生に指示され、ベッドに地道さんを寝かせた。慎ましい胸が呼吸で静かに上下している。巽先生が素早くチェックしていき、頷いた。


「そうね。彼女に君、何したのよ。いきなり告白したとか? キスしたとか?」


 地道さんに毛布を掛けながら巽先生が悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「校内でそんなことするわけないでしょ」

「冗談よ。ま、すぐに起きるでしょ。ご苦労様、もう任せてくれていいわよ」


 巽先生がソッと地道さんの眼鏡を外し、脇の机の上に置いた。

 俺は退室しようとするが、何となく地道さんから目を離せなかった。


 そういえば結局、彼女とは何も話せていない。


「あの……巽先生」

「なに?」


 だから、俺は思わずこう言ってしまったのだった。


「彼女が起きるまで待ってても良いですか」


 その言葉を聞いた巽先生がキョトンとした、珍しく幼い表情を浮かべた。だけど、すぐにその顔を悪そうに歪める。


「ふーん。別に良いけど、カーテンは開けときなさい。二人っきりにすると変なことするかもしれないからね」

「しませんよ。ま、でも開けときます」

「なら良いわ」

「ありがとうございます」


 そう言って、先生は自身のデスクへと戻り、俺は地道さんのベッド脇にあるパイプ椅子に腰掛けた。


 それからどれだけ経ったかは分からない。ただ、開け放たれた窓から舞い込む風で揺れるカーテンと、地道さんの寝顔を交互に見つめるだけの時間。


 不思議と、苦ではなかった。


「俺、何してるんだろ」


 なんてことを呟いていると、スマホから通知を告げる音が鳴った。画面を見ると、それは南波からの短いメッセージだった。


『どうだった?』


 俺は少し考え、返信する。


『任務継続中。帰還はギリギリと思われる』

『がんばれよ、少年』


 南波の返信からベッドへと視線を移す。安らかに眠っている地道さんを見て、俺はため息をついた。


 彼女の歌をもう一度聞きたい。ただそれだけの為に、予想外のことが起こりすぎて随分と遠回りをしている気がする。


「ん……」


 見ていると、地道さんがこちらへと寝返りを打った。そして、その目がゆっくりと開く。


 当然、その視線の先には俺がいた。


「えっと……誰?」


 彼女は裸眼のまま目を細めて俺を見つめた。どうやらよほど目が悪いようで、俺を認識出来ないようだ。


「ん? ああ、俺、御堂だよ。いきなり倒れたから保健室に連れてきたんだ」

「ああ……御堂君か。うん、ごめんね、ありがとう」

「いや、なんか俺のせいみたいで」

「ううん、なんかちょっとびっくりしただけ」


 そう言って、寝たまま地道さんが微笑んだ。良く見れば、結構目が大きいし、睫毛も長い。眼鏡のレンズが分厚いせいで、小さく見えていたのかもしれない。


 だから、その微笑みに俺は、不覚にも少し動揺してしまった。


 それになぜだろうか、あんなにあたふたしていた地道さんがやけに落ち着いている。


「まだお昼休み中?」

「ああ。あと十分ぐらいかな?」

「良かった。午後の授業出れそうだね」


 地道さんがゆっくりと上半身を起こした。


「あのさ、さっき言ったこと、本当なんだ。俺、あの歌聞いて感動してさ、だから……」


 だから、の後の言葉を言えずに俺は鯉のように口をパクパクするだけだった。


「……ありがとう。あれね、私が作った曲なの」


 そう地道さんが嬉しそうに言う。


「歌詞も?」

「歌詞も。昔から歌うことが好きで、気付いたら自分で作ってたの」

「凄いな。シンガーソングライターになれるんじゃないか?」

「無理だよ。ただの素人だし」


 いや、俺はそうは思わない。少なくとも、あの歌には俺をここまで動かす力があるんだ。

 だから俺は、ようやく出てきた、さっきの言葉の続きを口にした。


「もう一度、聴かせて欲しいんだ。扉越しじゃなくて……ちゃんと」


 俺がそう言うと、地道さんは少しだけ頬を紅潮させ、俯いた。


「……分かった。今日の放課後……またカラオケに行くから……その時なら」

「行く」

「……うん」


 地道さんが眼鏡を探すように手を動かした。俺は脇にあった眼鏡を取ると、彼女の手に渡す。その時少しだけ、俺の手が地道さんの手に触れた。


 その少しひんやりとした、柔らかい感触を俺は無視出来なかった。


「ありがとう」


 地道さんがお礼を言いながら、眼鏡をかけた。そして俺の顔を見た瞬間にまた光速で目を逸らした。


 なんで!?


「わ、私、教室戻るね! じゃ!」


 慌ただしく地道さんがベッドから離れ、保健室から出て行く。


「あ、こら! 勝手に帰るな……って行っちゃった」


 巽先生が目を釣り上げながら、地道さんが出て行った保健室の扉を見つめた。


 んー、地道さん、見た目と性格に反して、結構動きが速いのよね。ウサギ的なすばしっこさを感じる。

 

「なんか、すみません」

「ま、あんだけ走れれば平気でしょ。昼休みそろそろ終わるから君も早く戻りなさい」

「はーい」


 俺は巽先生に礼をして、保健室を後にする。


 教室へと向かう、俺の足取りは少しだけ軽やかだった。

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