第3話


 辿り着く刻限



       1


 三月二日、月曜日。

 細井ほそいあいは、今日で最後となる海田かいだ高等学校の制服であるブレザーに身を包み、担任より卒業証書を受け取った。

 本日は、海田高等学校の卒業式が行われた。体育館で校長先生のとても長くてありがたい話を含む式を済ませ、前の黒板に『ご卒業おめでとうございます』とカラフルな字で書かれている教室に戻って担任より一人ずつ卒業証書を受け取った。

 細井藍は解散後すぐ教室を離れ、職員室に向かう。所属していた家庭科クラブの顧問が現在は産休期間だが、わざわざ三年生の卒業を祝うためにやって来てくれたのだ。そこで生まれたばかりの玉のようにかわいらしい赤ん坊を見せてもらい、三年間の礼を言って職員室を後にした。

 教室ではまだ大勢のクラスメートが残っていた。クラスメートは今日で高校生活が終わってしまうことを惜しむように、解散後も教室に残って写真を撮ったり高校生活の思い出に華を咲かせていた。

 藍は卒業証書の入れ物が顔を出しているいつもの黒い革鞄を持ち、笑顔でみんなに大きく手を振った。もうここに来ることはないのだが、まるでいつもと同じように教室を後にしていく。

「藍ぃ」

 廊下に出ると、E組の宮下みやしたふゆの顔があった。同じ家庭科クラブであり、去年までは同じクラスの仲良し。

「ホントにさ、ホントにホントに今日で卒業なんだねー。うわーん、寂しいよー」

「もー、冬ちゃん、そんなに泣かないの。これが最後ってわけじゃないんだから。わたしたちだったらいつでも会えるって。そうでしょ? ほら、泣かないの。あ、そうそう、赤ちゃん連れてたに先生が来てくれてるよ。うん、職員室。ごめん、わたしはもういってきた。ほら、早く会いにいきなよ。赤ちゃん、無茶苦茶かわいいよー」

「っすん……う、うん……」

「まったく、困ったもんだなー」

 顔を崩し、大粒の涙を流しながら抱きついてくる宮下に、藍は頭を撫でながらやさしく介抱してあげた。滑らすように頭を撫で、一回、二回、ぽんぽんっと軽く叩く。

「ほらほら、もう泣かないの。あ、ごめんね、冬ちゃん、わたし、そろそろ病院いかないと」

「あ……う、うん、なんか、なんか最後の最後でごめんね。っすん……ど、どう? お兄さんの容態は?」

「うん、順調だよ。もう一時期が信じられないぐらい順調そのものって感じ。今年一年間みっちりリハビリして、来年から本格始動ってところかな? わたしがね、お兄ちゃんのこと、しっかりとフォローしてあげるんだ。責任重大なんだよー。あのね、お兄ちゃんって、ちょっと目を離すとすぐさぼっちゃうから。まったく、しょうがないなー」

「そっかー、もうそんなにいいんだ。よかったねー。それだったら、今度あたしも病院に顔出してみるよ」

 そう言いながら両手で涙を拭い、宮下は今までとは違う寂しさを表情に出し、視線を外していた。

「……どうせなら、あつとも一緒に卒業したかったね」

「…………」

 かけられた言葉に、藍は一瞬言葉が詰まってしまう。だが、そうしていたのは本当に一瞬のこと。その手を胸に当てながら、大きく息を吸い込んで言い放つ。

「何言ってるの、冬ちゃん? もう駄目じゃなーい。篤くんだってわたしたちと一緒に卒業だよー。そうでしょ?」

「…………」

「ほらほら、篤くんはいつだって一緒だよ。わたしたちは一緒にこの学校を卒業するの」

「あ……う、うん。そ、そうだね……そうだよね」

「うん」

『また今度遊ぼうね。ちゃんと連絡するから。受験まだ残ってるんでしょ? ほら、いつまでも泣いてないで、しっかりね』そう言い残すと、藍は一階の下駄箱へ。今まで履いてきたスリッパをいつもの習慣で間違えて下駄箱にしまわないように注意しながら、下履きの革靴を履き、三年間通いつづけた海田高校を後にした。

 今日が最後だというのにその歩調に少しの躊躇いもなく、本当にいつもの下校と変わらない気分でいた。

 いや、それから先には、これまで以上の素敵なものが待っているかのよう、そちらに向かって、前に向かって、未来に向かって、細井藍は足取り軽やかに大きく腕を振って歩いていくのだった。


「卒業おめでとう」

「うん!」

 愛名あいな大学付属病院の病室で、細井藍はベッドの上の兄に卒業祝いの言葉とともにやさしく頭を撫でられていた。

「これでまた同じ学校だな」

「そうだよ。しかも、お兄ちゃんはこれから一年間休養だから、来年は同じ二年生なんだからね。ふふふっ。もう先輩面はしてもらいたくないものです」

「そうか、来年は同学年になっちまうのかー。ちょっと複雑な気分だけど……じゃあ、来年からは同学年ってことで、もう甘えるのなしな」

「へっ……!?」

 蒼の言葉に、藍の目が丸くなる。

「えぇ!? えーっ!? いやだ、そんなのいやだ。嘘、冗談、冗談だよ、お兄ちゃんはお兄ちゃんです。どんなことがあってもお兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんです! そんな意地悪言わないでー」

「まったく、いつまで経っても、藍は藍なんだなー」

「えへへへ」

 清潔そうな白色のシーツに包まれたベッドに腰かけている藍は、薄緑の病院服姿の兄に体を近づけながら、頬を仄かに染めて照れ笑いを浮かべていた。

 この病室、一月までいた集中治療室のようにベッドの周囲に稼動する機械は存在しない。ベッドの上の細井蒼はその意識をしっかりと保ち、今は自らの力で上半身を起こして藍の相手をしている。

「にしても、藍がもう大学生かー。早いもんだなー」

「あ、そうそう、思い出した。あのねあのね、今日ね、谷先生の赤ちゃん見たんだよ。かわいかったなー。もう食べちゃいたいぐらいかわいかったー」

「食べちゃまずいだろうけど……音楽の谷先生? へー、そりゃ見てみたかったなー。あの先生の子供だから、きっとかわいいんだろうなー」

「そりゃもう、かわいかったんだよー。思わず誘拐してずっとガラスケースに入れて鑑賞してたいぐらいだったー」

「ふーん、そんなにかー……で、その赤ちゃん、藍とどっちがかわいいんだ?」

「うん?」

 蒼の言葉に、藍の言葉が一瞬詰まる。

「……もー、お兄ちゃんの意地悪ぅ」

 唇を尖らせた後、藍はけらけらと愉快に笑っていた。

『細井藍さん、細井藍さん、お見えでしたら一階ロビーまでお越しください。繰り返します。細井藍さん、一階ロビーまでお越しください』

 突然の放送。藍は小学校から高校卒業まで、ただの一度も放送で呼び出されたことなどなかったのに、あまり縁のないこの愛名大学付属病院で呼び出しをされてしまった。

「あれ、わたしだ……? なんだろ? お父さんが迷子になってるのかな? お父さん、おっちょこちょいだからなー」

「ほら、早くいってこいよ。呼ばれてるんだから」

「えー、でもー」

 恨めしそうに兄のことを見つめる藍。頬を膨らます。

「今日は特別な日だから、わたし、お兄ちゃんの傍にずっといたいなー」

「いってきなさい。ここの方にはお世話になってるんだから、あんまりご迷惑かけるもんじゃない」

「えー」

 唇を尖らして幼子のように拗ねた表情で、藍は兄に寄りかかる。

「じゃあ、わたしが戻ってくるまで、ちゃんと待っててくれる?」

「待ってます。待ってますとも。決して寝たりしません。どこにも出かけたりしません。トイレぐらいは見逃してください」

「だったら、指切り。指切りしてくれないと、絶対いかなーい」

 にこにこと満面の笑みを浮かべ、藍は小指を絡ませてから病室を後にした。今日で最後のブレザーがふわふわっと跳ねるように廊下を通り抜けていく。


「これはどうも、お久し振りです」

 藍がエレベーターを使わずに一階ロビーまで足を運ぶと、そこには予期していない人物が待ち受けていた。

「なんでも今日は海田高校の卒業式だったとかで。このたびはご卒業おめでとうございます。まだ制服ですから、どうやらその帰りだったみたいですね」

 肩幅の広い背広姿の舟越ふなこし刑事。下げた頭が元に戻ると、そこには頬を緩めた顔がある。藍は今日まで、それ以外の表情を見たことがなかった。

「それにしても、ここは随分と人が多いですね。なんですから、外へ出ましょうか? そうそう、ここには中庭があるんですよ。って、細井さんの方がお詳しいですよね? 参りましょう」

 そしてロビーから移動した場所は、南北の病棟に挟まれるようにしてある中庭。周囲に木々が植えられており、いくつかの遊具とともにベンチが設置されている。二人はそのベンチに腰かけた。

 藍にとってそれは以前座ったことのあるベンチだった。その時は、同じ学校に通っていた男子と一緒に。

「いやー、だいぶ暖かくなってきましたね。もう春なんですね。このところ、桜が咲くのが早いですが、果して今年もそうなのでしょうか。できることなら、やっぱり桜は四月に入ってからにしてもらいたいものですね。桜が舞う中をぴかぴかのランドセルを背負った一年生が歩いていく。それこそ新学期って感じですよ。最近はなかなか見られなくて、ちょっぴり残念です」

 のんびりとした口調で話す舟越は、コートを羽織ってはいなかった。この空間を吹き抜けていく三月の風は、これまでのように体を凍えさせるほどの冷たさを含んではいなかった。

「いやー、春ですねー」

「……あの、やめてもらえますか」

「はい? これはまた随分と唐突ですね。私、ご迷惑をおかけするようなことをしましたか? でしたら、是非謝罪させていただきたいのですが」

「さっき、わたしのこと放送で呼んだんじゃないですか。ああいうの、やめてもらえませんか」

「ああ、あのことですか。悪気はなかったのですが、もし気分を害されたとしたら、申し訳ありません。決して藍さんを困らせようとしたわけではありません。ですが、いかんせん、私ではどうしても蒼君の病室を教えてもらえなかったものですから、致し方なく放送をかけてもらいました。学校へいったのですが、クラスメートのみなさんが、もうお帰りだと仰っていましたので、きっとここだろうなと思い、やって来た次第です。あの、蒼君のその後の容態はいかがでしょうか?」

「……おかげさまで、順調です」

「そうですか、それはよかったです。一時は危なかったようですから、随分心配だったのですが、それは本当によかったですね。藍さんにはまだ言ってなかったと思いますが、実は私、高校時代の蒼君のファンだったんですよ。いやー、凄かった。蒼君の投げるボールで、相手のバットがくるくるくるくるっ回ってましたから。ああいうのを手玉に取るというのでしょうね」

 舟越は、過去にあった楽しい思い出を懐かしんでいるように目尻に皺を寄せ、嬉しそうに笑っていた。

「そうそう、本日が卒業式といえば、聞いたところによりますと、藍さんも愛名大学へ進学されるそうですね。合格おめでとうございます。いやー、兄妹揃って頭がいいだなんて、羨ましい限りですね。私の娘にお二人の爪の垢でも煎じてやりたいぐらいですよ。本当にあれは口ばっかりでして」

「……それ、わざわざ調べたんですか?」

「はい? それ、といいますのは? ああ、藍さんの進学についてですか? あ、いえ、調べたというのか、なんといいますか、職業柄そういった情報は自然と入ってくるものでして」

「……自然と、ですか。そういうものですか……あんまり気持ちのいいものじゃないですね、そうやって自分のことをいろいろ調べられるのって」

「申し訳ありません。これはあくまで仕事上のことですので、どうかご勘弁ください」

「…………」

 藍は一刻も早く病室に戻りたかった。兄のこともあるし、それ以上に自分の横にある舟越の常に頬を緩めた表情を見ていると、なんだか気分が悪かった。

 けれど、舟越とのやり取りはまだ本題に入ってもいないだろうし、わざわざこうして病院まで自分を訪ねてくるぐらいだから、本題に入ったら入ったで、きっと面倒なことになるだろうなという予感がしていた。『うー、どうしたものかな』と首を傾けながら空を見上げる。頭上には、蒼穹と呼べるほどの青空が広がっていた。まるで天が今日という日を祝福でもしてくれているように。

「……刑事さん、用件はなんですか?」

「はい? 用件ですか?」

「……私を呼び出した、です。そんな世間話するために来たんですか? そんなわけないですよね?」

「ああ、そうですね。いけないいけない。すっかり忘れていました」

『なんともお恥ずかしい』と額に手をやり、舟越は横にいる藍の方ではなく、正面の南病棟に顔を向けたまま口を開く。相変わらずその表情を緩めたまま。

「お尋ねしたいことは、三神篤君のことについてです」

「……そうでしょうね。刑事さんといえば、それしかありませんもんね。今までだってずっとそうでしたから」

「何度も何度も申し訳ありません。ですが、三神君が自殺を図ったあの日について、もう一度藍さんに伺いたいのです」

「…………」

 藍は嘆息する。もう一度相手に聞こえるように大きな息を吐き出してから、ぶっきらぼうに言葉を出した。

「……またですか。まったく、何回同じことを言わせるつもりですか? あれからもう三か月ですよ。まったく……断っておきますが、何回も同じことを訊かれたところで、内容は変わりませんからね。これ以上、新しいことなんてないですよ。もうやめてもらえませんか」

「お気持ちは分かります。分かりますが、どうかご協力ください。これが仕事なものですから」

「ご協力ご協力って、いったい何回同じことを言わせる気ですか!? いい加減、こっちの身にもなってくださいよ。同じことされたら、刑事さんはいい気がしますか? こっちは、もうあんなこと忘れてしまいたいんですから」

「大変申し訳ありません。お気持ちをお察しします。ですが、これが仕事なんです。ご迷惑をおかけします」

「…………」

 藍は小さく首を横に振る。

「いやです。もう話したくありません。あんなこと、もう思い出したくないんです」

「そう仰らずに。どうかお願いします。この通りです」

「いやなものはいやです」

 藍は小さく頬を膨らませながら、いかにも『迷惑なのでやめてください』という表情を浮かべていた。勢いよく反対方向に顔を向ける。

「絶対いやですからね。これ以上わたしに関わらないでください。こっちだって被害者なんですから。いつまでもそうやって刑事さんにつき纏われるの、いい迷惑なんです」

「そうだとは思います。思いますが……けれど、あの件は藍さんにとって迷惑だったのかもしれませんが、けれど、あれがあったからこそ今の蒼君があるのではありませんか?」

「…………」

 藍は小さく息を吐き出す。

「……たまたま結果がそうだった、というだけで、わたしは迷惑しているんです。年末のことも、何度も同じことをきにくる刑事さんのことも」

 藍は『もう金輪際関わらないでください!』と言い放って立ち上がろうと腰を浮かすのだが、浮かしただけで立ち上がることができなかった。

 瞬間、舟越は立ち上がろうとする藍の動きを妨げるかのように、ぱんっと手を叩いたからである。

「では、こうしましょう」

 舟越はまだ正面の南病棟に顔を向けたまま、その口を動かす。

「これで最後にします。正真正銘、これが最後の最後です。お約束します。ですから、是非あの日のことを教えてください。どうかこの通りです、お願いします」

「……そんなの、信用できません」

「信じてくださいよ。一応は刑事の言うことなんですから」

「…………」

 懇願するような相手の言葉に、藍は小さく吐息した。その表情に妥協を含ませて。

「……本当にこれが最後なんですね? 信用してもいいですね?」

「はい。最後にします」

 ここで舟越は、ベンチに座ってはじめて藍のことを見つめる。

「絶対の絶対、これが最後です。ええ、最後ですとも。いえ、違いますね」

 その時浮かべて舟越の表情は、これまで以上に自信に満ち溢れたものだった。

「これで最後にしてみせますよ」

「…………」

 舟越の不敵であり不気味な表情に、藍は一瞬わけも分からずに気圧けおされた。うまく言葉が出てこなくなり、そればかりか何かに耐えるかのように奥歯に力が入る。数秒して、変に力が入っている自身に気づき、藍は息を大きく飲み込んでから、浮かしつつあった腰をベンチに落ち着かせた。口を開く前、意識して長く息を吐き出す。

「あの日は、篤くんから話があるって連絡があったんです。前日に電話がありました。放課後に時間を作ってほしい、って。内容はまだです」

「あの日というのは、十二月十九日のことですね」

「……わたしはお兄ちゃんのことがあるからすぐ病院にいきたかった。だから、篤くんには直接病院にきてもらいました。当時お兄ちゃんがいた部屋も教えて」

「そうして放課後、三神君は南病棟二階にある集中治療室にやって来たわけですね。なるほどなるほど」

「……それ、いちいちあるんですか?」

「それ……? ああ、いえいえ、これは相槌といいますか、確認の意味で繰り返しているだけでして」

 さきほど一度藍を見つめた視線は、再び正面にある南病棟に向けられている。

「もし、どうしても気になるというのであればやめますが」

「…………」

 藍は返答することなく、舟越に倣うように正面にある南病棟を見つめるようで、その焦点はどこでもない虚空に合わせていた。脳裏に三ヵ月前のことを思い浮かべながら口を動かしていく。

「部屋に入ってきて、軽い挨拶程度のことをして、そのまま二人とも話すことなく黙り込んで……突然言われました。『自分が渡辺わたなべを殺した』って」

「そう聞いたとき、藍さんはどう思われましたか?」

「どうとも思いませんでした。その時は渡辺って人が誰だかよく分からなかったから。というより、今でも実はあんまり……同級生ということらしいんですけど、一回も同じクラスになったことがなかったものですから、知りませんでした。女の子だったらクラスが違っててもなんとなく分かるかもしれませんけど、男の子はクラスが違うともうさっぱりですから」

「それ、なんとなく分かるような気がします。私も男性の顔ならすぐ覚えられるのですが、女性は難しくて難しくて。特に高校生とか中学生は、もう区別するのが一苦労ですよ……。えーと、あれは十月の下旬でしたが、藍さんは、その渡辺君の通夜や葬儀には出席されなかったのですか? 知らなくても学校にいれば連絡ぐらいはあったと思いますが」

「あの頃はお兄ちゃんのことでずっと学校を休んでいましたから、通夜もなにも本当に知らなかったです。その人が死んだこと、後から友達に聞いて、『へー、そんなことがあったんだー』ってちょっと驚いたぐらいでしたから」

 同じ学校の同級生の死に対する藍の薄っぺらな感情は、しかし、藍本人の表情や口調に『薄情』という色は一切含まれていなかった。渡辺の件に関し、本当に対岸の火事なのである。まるで毎日のように流れるテレビのニュースで取り扱われている交通事故でも観ているみたいに。

「あの頃、もうお兄ちゃんのことで頭がいっぱいで」

「渡辺君を殺したと三神君に言われた、ということなのですが、その時、どうして三神君は藍さんにそのことを告白したのだと思いますか?」

「それは……どうなんでしょうか? わたしには見当もつきません。うーん……今考えてみると、少なからず、わたしに関係のある話だったから、ですかね」

 それは、渡辺本人のことではなく、渡辺を殺すことになった動機を指している。それが藍にも関わってくること。

「篤くん、その……篤くんは、お兄ちゃんのことを殺そうとしてたって……それを渡辺って人に知られてしまい、だから殺したって言ってました」

「藍さんはあまり思い出したくない話かもしれませんが、その……昨年の十月十二日。三神君は細井蒼君がいた集中治療室に忍び込むと、生命維持装置から蒼君の体へと伸びるコードを引き抜いて、殺人未遂を起こしています。それをたまたまお祖母さんのお見舞いにきていた渡辺君に見られてしまったわけです」

 日にちまですらすら話す舟越であるが、相変わらず正面を見つめたままで、手帳を手にもしていなかった。もうすべての情報が頭にインプットされているようで、事件に関する情報が淡々と語られていく。

「その週の金曜日、十月十七日。どういった理由かは定かでありませんが、三神君と渡辺君はこの病院で待ち合わせをしました。察するに、蒼君の殺人未遂関連でしょう。人の目を気にしてでしょうか、二人は最寄りの亀舞駅から電車に乗り、庄上緑地公園へ向かいました」

 それが午後六時過ぎのことです、と言って舟越はつづける。

「庄上緑地公園に着いた二人にどういったやり取りがあったか、その詳細は不明ですが、そこの川で三神君は渡辺君を溺死させました。いや、窒息死の方が正しいですね。無理矢理水面に沈めて殺したのですから」

 舟越はここで少し間を空ける。

「……人殺しという言葉は、テレビや本なんかではよくある話かもしれませんが、人類が形成するこの社会では重罪に値します。三神君はそれに触れてしまいました。ちゃんとこの国の法によって裁かれるべきでしたね。三神君には犯してしまった大罪をしっかり悔い改めて、更生していってもらいたかったです」

 ベンチから少し離れたところにある鉄棒では、まだ就学もしていないだろう小さな男の子が一人でぶら下がっていた。近くに親らしき人物はいない。

「あの日、集中治療室で、渡辺君を殺害したことについて三神君は藍さんに伝えました。その後、藍さんたちはどうしましたか?」

「……篤くんは、もう逃げられないだろうから、警察に捕まるぐらいだったらって、籠にあった果物ナイフを自分の首筋に突きつけました。その目はとても怯えているようでした。きっと、それまでの日々で相当悩み苦しんできたのだと思います。篤くんはナイフを首筋に立て、そして切り裂きました」

 そうして勢いよく血しぶきが噴き出していった。

「本当に一瞬のことでした。わたし、突然のことでどうするすることもできなくて……いきなり目の前が真っ赤になってしまい、恐怖で全身はがくがくっ震えてました。でも、頭ではどこか冷静な部分があって、『こうしてただ見てるだけじゃ駄目だ、何かをしなくっちゃ』って。でも、それ以上にわたし自身が混乱してしまって、どうすればいいのか分からなくて……そうして、それからはもう覚えていません。パニックのあまり、気絶したのかもしれません」

 目の前の起きた凄絶の光景に、藍の記憶が飛んでいた。

「……あの件に関し、わたしに言えることはここまでです」

「ありがとうございます。確認ですが、三神君がナイフで首筋を切り裂いてからの記憶がないんですね? はい、これまで聞いてきた通りです」

 舟越は右手の小指を内側に曲げた。こきっと音が鳴った。

「記憶がない部分を補うつもりというわけではありませんが、私が聞いた話によりますと、藍さんは廊下に出て医者を呼んだそうですよ。覚えてませんか? それはもちろん三神君のことを助けるために、でしょうね。ですから、気絶はまだしていなかったことになります」

「……覚えてません。お医者さんがそう言われるのでしたらそうだったのかもしれませんが、あまりにもショックが大きかったのだと思います。記憶がなくなってしまうぐらいですから。けど、刑事さんの話だと、わたしはどうにかしようとしていたみたいですね」

「廊下に突然現れた血だらけの藍さんの姿に、すぐ数人の医者と担架が集中治療室に運ばれました。担架に乗せられた三神君はそのまま同じ階の手術室に運ばれていきました。けれど、懸命な手術も虚しく、三神君は……」

 この世を去った。十八歳という若さで、自らの手でその命を絶って。

「三神君が手術室に運ばれていってから、藍さんはどうしていましたか?」

「何度も言いましたけど、もう覚えていないんです。三神君がナイフを首に押し当てたところでわたしの記憶はぷっつりです」

「憶測でも構いません。その後、藍さんはどうしていたのだと思いますか? 記憶にはないが、藍さんは三神君のことを救うために廊下に助けを求めました。大勢の医者が部屋を訪れ、血まみれの三神君は手術室へと運ばれていきました。では、その後藍さんはどうしたと思われます?」

「……考えてみると、篤くんが運ばれていったことで自分のできることがなくなったわけですから、息が抜けるというか、緊張の糸が切れるというか……あまりにも異常なことを目の当たりにしたショックに、そのまま気を失ったんじゃないでしょうか?」

「気が動転ですか? そして気を失った。うーん、それはまだその段階では確認されていませんね」

 舟越は首を藍とは反対側に傾げる。

「記憶のない藍さんからすれば、これから話すことはとても信じられないことかもしれませんが……三神君が目の前から運ばれていってからも、藍さんは決して気を失ってはいなかったのです。いえ、そればかりか、これは少しショックを受けられるかもしれませんが……藍さんはそこで笑っていたらしいです」

 一人、全身を血で覆われた格好で、笑っていた。

「数人の目撃証言が得られていますので、確かな情報です。そこにいた女の子は血まみれの格好で、笑っていた。だから少し不気味に感じたそうですよ」

「…………」

「推測ですが、藍さんはきっと極度のショック状態にあったんでしょう。それはそうでしょうね、目の前で信じられないことが起き、大量の血が流れました。耐えられないほどの精神的打撃により、藍さんは少しの間おかしくなってしまったんだと思います。だから藍さん自身が馬鹿になってしまい、わけもなく笑っていたのでしょう。といっても、本人が気を失っていたと思っているぐらいですから、それ自体を覚えていなくても仕方がありませんね」

 軽くではあるが、舟越は右の拳を左手へと叩きつけた。

「信じられないかもしれませんが、これが事実です。目撃証言よると、藍さんは決して気絶をしていなかった。藍さんはそこで笑っていました。血で全身を真っ赤に染めながら、笑っていたのです」

「…………」

「さて、ここまでで、何か抜けはありませんでしたか? 補足でも構いません。この件に関し、わたしが藍さんに質問をするのはこれが最後ですからね、是非抜けはなしにしたいものなのですが」

 舟越の問い。あの日、あの凄惨な集中治療室で起こったことで、まだ世に明かされていない事実はないか?

「気づいたこと、思ったこと、どんなことでも結構ですよ」

「……いえ、もうありません。わたしには篤くんと話していたときだけで、それ以降の記憶はありませんから」

 藍の返答。血が噴き出して目の前が真っ赤になってからというもの、以後の記憶をなくしている。これまで幾度となく返してきた返答。今回も変更はない。

「これがわたしにお話しできる、すべてですよ」

「そうですか……それはご協力ありがとうございました」

 やはり正面の南病棟を見たまま、舟越は小さく頭を下げた。

「ああ、もう少しだけよろしいですか?」

「……できれば戻りたいんですけど」

「蒼君のことが心配なのは承知しております。ですが、もう少しだけ。もう少しだけお付き合いください」

 そう口にする舟越の顔には、相変わらず頬を緩めて余裕で満ちた表情が貼りつけられている。

「あまりお手間を取らせるわけにはいきませんので、単刀直入に伺います。えーとですね、藍さんは、どうして三神君が渡辺君を殺したのだと考えていますか?」

「…………」

 藍はかけられた問いに天を仰ぎ、瞬き二回分の時間を経て、舟越がいる右側へと顔を向けた。

「……何度も言ってるじゃないですか。篤くんはお兄ちゃんを殺そうとしたんです。それを、その渡辺って人に知られちゃって、それで、です」

「口封じですね、実に単純明快です。私にもそれは理解できます。では、渡辺君を殺すこととなった発端といっても過言ではありませんが、なぜ三神君は細井蒼君を殺そうとしたのでしょうか?」

「…………」

 口籠もる。誰であろうと、兄を殺そうなどととても考えられるものではない。藍はたっぷり一分以上口を閉ざしてから、小さく開けた。

「……分かりません。そんなのきっと篤くん以外には分からないことだと思います。馬鹿ですよね、なんでそんなことしようとしたんだか。わたしには理解できません」

「推測で構いませんよ。あくまでも参考までに伺っているわけですから。藍さんは三神君と仲がよかったと聞いています。海田高校の同級生であり、去年までは同じクラスの間柄。加えて、今年は、なんでも一緒に図書館で勉強していたというではないですか。そんな藍さんから見てですね、どうして三神君は蒼君を殺そうとしたのでしょうか?」

「…………」

 藍は俯き、相手に見えないように内側で下唇を噛んだ。ゆっくりと全身を伸ばすように姿勢を正し、噛むのをやめた唇から小さな息を吐き出す。

「……そんなこと、わたしにはよく分かりませんが、お兄ちゃんの、その、才能に嫉妬したんじゃないですか?」

「嫉妬ですか?」

「以前、篤くんはお兄ちゃんのことを羨ましいと言ってました。頭はいいし、エースだった野球部ではみんなを牽引してベスト四。誰からも尊敬されていましたし、学校ではまるで芸能人みたいに騒がれてもいました。だから、そんなお兄ちゃんのことを妬ましく思ったんじゃないでしょうか? 妬ましくて、羨ましくて、でも決して自分では手の届く存在ではなかった。だから、殺そうとしたんじゃないですか」

「蒼君は、確かに頭がいいですもんね。なんといっても愛名大学に進学したぐらいですから。野球部でも大活躍していましたね。なるほど、憧れるというのは理解できます。理解できますが、同学年にならともかく、二つも上の先輩を妬むですか? 一年間しか同じ学校にいなかった蒼君に嫉妬ですか? それも今頃? うーん、とてもそんな理由で殺意を抱いたとは思えませんが」

「……そんなのわたしだって分かりませんよ。どうしても知りたいなら、死んだ篤くんに聞いてください」

 藍はそっぽを向く。

「もういいですか? もう結構時間が経ちましたよ。わたし、早くお兄ちゃんのとこに戻らないと」

「最初にお伝えしましたが、今日で最後ですから、もう少しだけお願いします」

 舟越は『今日が最後』という箇所を強調しながら丁寧に頭を下げ、いつものように頬を緩めている。

「では、一連の事件を通しての私なりの見解を聞いていただけるでしょうか。こう見えても私は刑事でしてね、事件に対していろいろと推測したり、推理するのが仕事なものですから」

 舟越はちらっと目だけを動かして自分の左側にいる藍のことを見てから、再び正面にある南病棟に顔を向ける。

「渡辺君を殺した理由は、私も藍さんと同意見です。蒼君のことを殺そうとしたことが知られてしまった。だから口封じのために殺した。私と藍さん、二人ともそういう結論に至ったのですから、きっとこれは間違いないのでしょう。では、その発端となる蒼君のことを殺そうとしたのはなぜか?」

 姿勢よく背筋を伸ばしていた舟越が、背中を丸めて前屈みとなった。膝の上辺りに両肘を乗せ、さらに組んだ手の上に顎を乗せる。その顔は変わらず正面に向けられたまま。

「それはきっと、蒼君のことが邪魔だったからだと思います。邪魔というのは、もちろん三神君から見てですよ」

 邪魔者を排除しようとした。その手段として、殺害を選んだ。

「とてもシンプルな発想です。邪魔だったから排除しようとした。それだけのことに過ぎません。だから蒼君のことを殺そうとしました。では、なぜ三神君にとって蒼君は邪魔だったのか? それはもちろん、三神君はあなたのことが好きだったからです」

「…………」

「あなたから、どうやったところで勝つことのできない絶対的な存在である蒼君を引き離したかったのでしょう。学校を休んでまでずっと病院に、蒼君につきっ切りのあなたを見兼ねて、あなたのことを心配し、さらにはそこに自分の正直な気持ちをぶつけるために、邪魔者である蒼君殺害を思い立ったのだと思います」

「……嘘です。そんなの嘘に決まってます。お兄ちゃんが邪魔だなんて、そんなことあるわけありません」

「嘘ではありませんよ。なぜならこれは私の推測であって、あくまで私個人の推理でしかありません。これは自分が三神君だったら、として働かせた思想で辿り着いた、私の考えです。そんなところに嘘をつく必要はありませんからね。これが事実かどうか、は別問題なのですよ」

「…………」

 藍は肩を上下させて嘆息する。

「……あまりにも馬鹿馬鹿しいです。そんな理由でお兄ちゃんを殺そうとするなんて、そんなの本当の馬鹿ですよ。篤くんはそこまで馬鹿じゃない」

「あなたの言う『馬鹿』がどういうものなのか、私にはさっぱり分かりませんが、気にしないでおきますね」

 変わらぬ笑み。

「ある日、三神君は思いつきました。あなたは常に、他人の入る余地すらなく蒼君のことを見つめている。三神君はそんなあなたのことを好きになってしまいました。できることなら、その気持ちを成就させたい。なら、どうすれば二人の隙間に入ることができるのか? 簡単です、一方をもう一方から離してしまえばいいだけのこと。それもただ離すのでなく、二度と近づくことができないほど遠くに。つまり、蒼君をあなたから永遠に遠ざけてしまおうと考えたわけですね」

 その術が殺人でした、と舟越はそこで言葉を切っていた。

「といったところが動機だったと思いますよ。私の推理、いかがですか?」

「……そんな理由でお兄ちゃんを殺されちゃ、たまりませんよ」

「はい、誰だってたまったものではないですね。それに、自分で言うのもなんなのですが、今お話ししたのには、少し無理があるように感じます。強引過ぎるといいますか、ばらばらだったパズルのパーツをろくに合ってもいないのに無理矢理押し込んでつなげているような。ははっ、藍さんの仰る通り、『そんな理由で殺人に至らない』と思うんです。自分でもそう思うから仕方ありません」

 舟越は声を上げて笑い、それから一呼吸間を空く。

「けれども、けれどなんですよ。けれど、そこにある一つの条件を加えると、あら不思議? まるで魔法でもかかったかのように形を成さなかったパーツが次々とつながっていき、一枚の絵を完成させました」

「…………」

「条件とは、三神篤という人間の苦悩と葛藤です」

 舟越は組んでいた手の小指を顔の前で立てた。

「いいですか? 三神君は藍さんのことが好きでした。それは間違いないと思います。藍さんがそれを察していたかは分かりませんが、一年生の頃からずっとあなたのことが好きだったみたいです。それも見る人が見ればばればれなんだとか。ああ、これは同級生の宮下冬さんの話です」

「……あのお喋り」

「けれど、三神君がいくらあなたのことを好いていたとしても、あなたにはお兄さんがいました。とても太刀打ちできそうにない立派なお兄さんが。そしてあなたは、とても兄妹とは思えないほどそのお兄さんにべったりでした」

「…………」

「蒼君は成績優秀、スポーツ万能で野球部のエース、誰からも慕われている理想的な人間であり、まるで人気絶頂のアイドルのような人でした。さらには、藍さんと蒼君には、他人ではどうあっても入る込む余地のない血のつながりがあります。そんなあなたとお兄さんの関係に、三神君では割り込むどころか隙間すら見つけることができなかったのでしょう。どれだけ強くあなたのことを好きでいたとしても」

 すでに冬の冷たさを失った風が吹いてきた。その風が舟越の口から出た言葉を運んでいく。正面の南病棟にも、すぐ隣にいる細井藍の耳にも、心にも。

「そんなある日、蒼君は不幸にも命に関わる病により入院してしまいます。聞けば、重度の心臓病だとか。症状は日々悪化していくばかりで、ついには意識不明の重体となってしまいました。完治は絶望的です……その間、三神君の愛しの人は学校を休みつづけ、ただ蒼君のために、お兄さんの元にしがみついていました。まるで失われつつある恋人を憂い、すべてを投げ出してその人のことのため、これからの人生を棒に振ってしまうかのごとく」

 舟越が見つめる先の南病棟の出入口から、車椅子の老婆が白衣に後ろを押されながらこの中庭へやって来た。老婆はいつもの時間、いつもの習慣をこなすかのようにして、一度だけ左右に顔を向け、日当たりのいい場所に落ち着いて、後ろからの声に何度も小さく頷いていた。

「蒼君の体を蝕む心臓の病はいよいよ深刻となっていき、とうとう閉じた瞼を上げることができなくなります。そのため、あなたは学校にいけるような心理状態になく、ずっと蒼君の傍にいつづけることを選択します。それは三神君からすれば、とても苦々しいものに思えたに違いありません。蒼君がいるばかりに、あなたが学校に来れなくなってしまった。このままでは、夢であった同じ大学への進学どころか、出席日数が足りずに留年してしまう危険性だってある。自分の大好きな藍さんがそんなことになってしまうなんて、到底このまま黙って見ているわけにはいかなくなった」

 今までずっと一人で鉄棒で遊んでいた男の子が南病棟の方へと駆けていく。そこには母親らしき人物がいて、少し言葉を交わしたあと、手をつないで建物の中へと入っていった。

「これは担任の安井やすい先生に確認したのですが、三神君は夏休みの間に相当勉強を頑張っていたみたいでして、休みが明けると飛躍的に成績が上がっていたそうです。夏休みに行われた模試の結果も良好で、あの愛名大学への評価がB判定だったそうですよ。三神君、それまではとても愛名大学なんて縁がなかったらしいですので、その努力は目を見張るものがありますね。それはきっと卒業後、あなたと同じ大学へいきたい一心で努力されたのでしょう。もちろん、大好きなあなたと一緒に勉強できたことも大きいのだと思います」

 中庭の雑踏のなかに、突然ききききぃーっと大きなブレーキ音が響いてきた。きっと病院の前の通りで乗用車が急ブレーキを踏んだのだろう。しかし、その後あまり慌ただしくならないので、事故にはならなかったようである。

「けれど、いくら篤の成績が上がったところで、蒼君の症状悪化によりあなたが学校を休みつづければ、もう進路どころの騒ぎではなくなってしまう。あろうことか一緒に卒業することすらできなくなる恐れすらあった。三神君からすれば、そんなこととても許されるものではありませんでした。そこで三神君は考えたのでしょう。どうすればどうにもやる瀬ない将来しか待っていないだろう現状を打破することができるのか? と」

 自分が幸せを掴むにはどうすればいいか?

 藍と同じ進路に進むためにはどうしていくべきか?

 一緒に卒業するためにすべきこととは?

 蒼の容態悪化によって、ずっと休んでいる藍を学校に戻すにはどうすればいいか?

 いったいどうなれば、すべてを円満に解決することできるのだろうか?

「悩んで悩んで悩んで悩んで、精一杯思考を巡らせてから、三神君は考え至ったんだと思います。この世界からある登場人物一人を取り除くことによって、複雑に絡み合った世界がうまく動きだしていくことを」

 すべてのネックとなっている細井蒼を排除することによって、明るい未来が開かれていくことを。

「蒼君が昏睡状態に陥ったのが十月六日。あなたは、蒼君が入院した当初のように学校を休むようになりました。三神君はそれからずっとあなたのことを考え、悩み、苦しみ、そして……そして蒼君が昏睡状態となった六日後の日曜日、十月十二日、三神君は自分が考えに考えて考え抜いた結果、ついに辿り着いた打開策を実行するべく、南病棟二階にある集中治療室へと向かいました」

 そこのベッドで横になっている人物の、命をつなぐために稼動する生命維持装置のコードを引き抜くために。

「結局、機械のエラー音を聞きつけてやって来た医師のおかげで、最悪の事態は免れましたが……三神君が蒼君を殺そうとし、それを実行してしまったわけです。それはどうあろうとも消えることはありません」

 殺人未遂。

「三神君が蒼君を殺そうとしたその日、たまたま同じ病棟に入院しているお祖母さんのお見舞いで渡辺わたなべ竜矢たつや君がいました。どういった形では分かりませんが、三神君はその日のことを渡辺君に知られてしまいます。焦ったでしょうね、結果的に未遂になったとはいえ、通報されればもちろん捕まるわけですから。三神君は、口封じのために渡辺君を人気ひとけのない庄上緑地公園へと連れ出し、殺害します」

 闇の中、苦しみもがく渡辺の顔面を水面に押しつけて。

「それから月日は流れて、いよいよ問題の十二月十九日、金曜日です。三神君はあなたの元を訪れ、これまでのことを告白していくわけです」

 三神篤という一つの命が失われた、あの運命の日。

「三神君は、渡辺君を殺した日、いえ、その前の蒼君を殺そうとした日からずっと激しい罪悪感に苛まれていたことでしょう。殺意を抱いてしまったこと、そればかりかそれを実行してしまったこと、さらには実際に人を殺してしまったこと……心境を想像するに、きっと日々を生きていくだけで、相当精神的な疲労を感じていたと思われます。しかも、それがどこにも発散されることなく徐々に自身へと蓄積されていく一方で、常に増えつづける重みを背負いつづけていって……とうとうあの日、自分を狂わす激しい罪意識に耐えることができず、自身から吐き出すようにあなたにすべてを告白し、自ら命を絶ったのです」

 ナイフで首を断ち切り、出血多量により死亡した。

「せめてもの、といいますか、救いを求めるとするならば、好きな人の前で死ねたこと、ではないでしょうか。抱えていた不安をすべてあなたにぶちまけて、一瞬のこととはいえ、少しでも重たかった肩の荷を下ろすことができたのかもしれません。あなたという存在のおかげで」

 舟越の顔は今も正面に向けられている。相変わらず頬を緩ませた状態で。

「考えてみたんです。あの悲劇といいますか……三神君を自殺に追いやっった、その一端は私にもあるのではないか、と」

 舟越の言葉が途切れた。次の言葉を発することに躊躇しているのかもしれないが、ちゃんと言葉は紡がれた。

「……事件を担当した私は何度か三神君に話を伺いにいきました。事件調査のために、それは仕方がなかったことです。けれど、私のその行為、三神君からすれば、ただそれだけのことで窮地に追いやられていたのかもしれませんね。大きな罪意識に苛まれる状況において、自分を逮捕する存在である刑事が何度も自分の前に現れるわけですから……。あれほどまでに若い命だというのに、申し訳ないことをしてしまいました……」

 まるでこれまで自分が行ってきたことすべてを悔いるように、取り返しのつかないことを懺悔するかのように、舟越の声は小さく震えていた。

「私の配慮が足りなかったのです。けれど、それ以上に悔やまれるのは、もっと早く私が事件の真相に辿り着いてさえいれば、あんなことは起きなかったというのに……私さえ、もっとちゃんとしていれば……」

 それから暫く静まり返った時間のみがこの地を支配することとなる。中庭に設置された鉄棒や砂場で遊ぶ子供の声、通りを走る乗用車の音、近くの木々を揺らす風、それらはこの静寂を通り過ぎていきながらも、黙り込んだ二人の間に言霊を交わす雰囲気を作り出しはしなかった。

 しかし、だからといって未来永劫このままであることはない。どんな状況でも、どんな場合でも、どういった現象においても、その場所には時間が流れていく。永遠に言葉をなくしたと思われる空間にだって、やはりある程度の時間が経過すれば言葉は蘇る。

 それは、命が失われない限り、言語を生み出した人間によってどれだけでも紡がれていくものなのだから。

「……藍さん、今にして思えば、で構いません、蒼君のことについてでも、何でも、三神君に何か変化といいますか、気づいたことはありませんでしたか? 殺意を抱いていたことに関する苛立ち。犯したものへの恐怖。追い込められていく焦り。どういったことでも構いませんので」

「……いえ、わたしに気づいたことなどありません。さっきも言いましたが、わたしはそんな篤くんのことを気にかけている余裕などありませんでしたから」

 藍はその時期、病に臥せる兄のことが心配で、それだけが常に頭の中を支配してした。そのため、他人のことなど見ている余裕がないどころか、眼中にすらなかった。

「……あの、刑事さんは、いつから分かっていたんですか? その渡辺って人を殺したのが、篤くんだってこと?」

「犯人ということですね? いえ、実は私にも藍さんからそれを聞くまでは分かっていませんでした。当時は事件に関する手がかりがあまりにも少なかったものですから……ですが、犯人かどうかはともかく、三神君には最初から引っかかっていたことは事実です。捜査の際、渡辺君のことを知りたくて海田高校に足を運びました。クラスメートに渡辺君のことを聞くためです。その中に三神君もいました。全員その日の朝に渡辺君の死を担任の先生から告げられていて、みんなはクラスメートの死という現実離れした事実に戸惑いが隠せない様子でした。しかし、三神君だけは違いました。そのことをまるで事前に知っていたような、少なくとも他の子にはない感性といいますか、変にそわそわしていたといいますか、不思議と落ち着いているようで、しかし、妙なところで落ち着きのなさがあったのです」

 舟越はその印象を頭に残しつつも捜査を進めていき……渡辺の最後の足取りを追っていたとき、病院のロビーで渡辺と一緒にいたのが篤であることを突き止めた。その瞬間、対面したときの違和感が蘇り、舟越は篤について追いかけてみることにしたが、その時はまだ犯人だというこれといった決め手はなかった。

「あの頃、捜査本部では、渡辺君の死について自殺か事故という線で落ち着きつつありました。匿名とはいえ、橋から飛び降りたという通報もありましたし、他殺であるという状況証拠すらありませんでしたので。今にして思えば、通報はきっと三神君がしたことなのでしょうね。自らが目撃者を装って渡辺君の死を自殺に思わせるためにしたことなのでしょう。ちょうど死体発見現場近くに下川しもかわ橋という大きな橋がありましたから、三神君はそれを見て思いついたのだと思います」

 そうやって、渡辺が橋から飛び降りて自殺したように思わせるために。事件を攪乱させる目的で。

「けれど、刑事の勘、というほどのものではありませんが、私は犯人とまではいきませんが、渡辺君の死についてなんらかの事情を三神君が知っていると踏みました。というよりも、事件解決の手がかりがほとんどありませんでしたし、縋るような思いで三神君について探ろうとしたわけです。だから私は、何度も彼の前に現れました。どんなことでもいいから少しでも事件に関係しそうなことを聞き出そうとして……」

 言葉が途切れる。

「……悔やまれるのは、当時の私のそれこそが少しずつ三神君を精神的に追い詰めていき、あろうことか最悪としか呼ぶことのできない死へと追いやってしまったわけです。ただ事件の真相を突き止めようとした私の熱意が、まさかあのような結果を生んでしまうとは……。いやはや、なんともやり切れない気持ちでいっぱいです。三神君の死の一端は、私の不用意な行動にあったわけですから……」

 舟越の見解として、三神篤は激しい罪意識と、刑事に追われる強迫観念に精神を激しく乱され、その影響によりろくに自我を保つことすらできなくなり、苦しみから逃れるために自ら命を絶ったというもの。

「思い出したくはないでしょうが、その、三神君の最後はいかがだったでしょうか? 何か最後に言ってませんでしたか?」

「……いえ、あっという間のことで」

「止める間もなく、あっという間に自らの首を切り、死んでしまった、ですか。精神状態を考えると、ただ日常という時間を過ごすだけでも巨大な不安で押し潰されそうだった、という切羽詰まった心境だったのでしょうね、きっと……」

 舟越は大きく息を吐き出した。

 さきほど建物から出てきた車椅子の老婆が、再び白衣に押されて南病棟へと戻っていった。藍と舟越がいるこの中庭には常にそういった人々の変化、響いてくる音、空気の流れ、という移り変わりがある。それは、この世界がいつまで経ってもまったく変化のない空間ではないから。

 そして、その変化しつづける中庭にいる二人にも、やはり変化は訪れる。

 それを誰も望まなかったとして、変わっていってしまうもの。

 それは、より確信へと迫るべく。

 真実を描くように。

 世界は変わっていく。

 変わってしまう。

 この場所ですら。

「……と、そのように思っていたこともありました」

 そう口に出した表情はやはり緩んでいた。舟越の頬はいつでも緩んだものであり、常に余裕があるかのような表情をその顔に張りつけている。

 それはいつだって変わることはない。

「そう思っていたんですよ。そう、思って、いた、です。以前はね。それは当然、いた、でしかありません」

 それは、今はそうではないことを意味している。

 今はそうではないと思っている。

 三神篤が、自分が好きな細井藍のためと、さらにはその兄に対する嫉妬の強さに殺そうとし、その自責の重さに押し潰されて自殺した、そう思っていたが、そう思っていたに過ぎない。

 けれど、今は違う。

 そうではない考えがそこにはある。

「私はこれから、一連の事件の真実を突き止めるべく、ある魔法を唱えます。もちろん魔法といっても呪文を唱えるわけではなく、まるで魔法をかけることでこの状況を一変させてみせる、という意味です。それは、今まで話してきた事件の全容に、新たに得られたある情報を加えることによって事足ります」

 そしてその魔法とは、かかっていたすべての霧が一斉に晴れてしまうぐらい劇的な効果を有すもの。

「そうなんです、ただ一つの情報を加えるだけでいいんです。それだけで今回の事件の真相に辿り着くことができます。しかも、おもしろいことに、それは藍さんもすでにご存知なことなんですよ。何かお察しになりませんか?」

「…………」

「お分かりになりませんか? 本当に分からないのですか? うーん、それはおかしいですね。というより、どうしてここまで三神君の話をしてきて、あなたの口からあのキーワードが出てこなかったのか? 理解に苦しむところです」

 相変わらず舟越は正面に固定されたまま表情に笑みを携えている。けれど、見る人間が見れば、そこには精神が凍りつくほど不気味な冷淡さで満ちていた。

「では、問います。現状、どうして蒼君はあのように劇的な回復傾向にあるのですか?」

 重度の心臓病に床に臥せ、入院してからも日に日に衰弱していくばかりで、果ては意識不明となって生命維持装置によりその命を保つことしかできなかった細井蒼が、なぜ今はしっかりと意識を保ち、歩行できるまでに回復したのか?

「奇跡ですね。これはもう奇跡としか呼ぶしかできない回復振りです。はい、まさにその通り、蒼君には奇跡が起きたんですよ。では、いったいどういった奇跡が起きたのでしょうか?」

 それは数値にして、何億分の一という奇跡。

「どれだけ不可能に思える数字だったところで、起きてしまえばそれが真実です。そして、その起きた奇跡によって、絶望的だった蒼君はこの世に命をつなぎ止めることができました。では、どういった奇跡だったでしょうか?」

「…………」

 藍は喋らない。言葉を口にするどころか、口を開くことすらない。真一文字に閉ざしている。

「…………」

「すでに察していらっしゃいますよね? だから口に出せないでいる。出してしまえば、状況が変わるかもしれないから。はい、まさにそれです。それなんですよ。それこそが、一連の事件を解く鍵だったのです」

 そして舟越は言葉を吐き出す、これまでになかった情報を。

「ドナーです」

 新たに加えられる情報、それこそが不透明だった事象をはっきりと浮き上がらせていく。

「そう、三神君がフルマッチドナーだったのです」

 フルマッチドナー。

 蒼の病気は心臓を移植することでしか生き残ることができない。しかも、肝心のドナーを探すのが容易ではなく、加えて、運よく心臓を移植できたとしても、どうしても移植した心臓の拒絶反応を抑制するために薬の投与が必要となり、その副作用と一生つき纏うことになる。蒼が苛まれていたのはそれほどまでに絶望的な病気だった。

 だがしかし、それでも奇跡と呼ぶしかない何億分の一という確率で、移植してもまったく拒絶反応を起こすことのない、相性抜群の心臓がある。

 フルマッチハート。

「驚嘆の事実でしかありません。三神君こそがその何億分の一のフルマッチドナーだったわけですから。どういった経緯かは分かりませんが、三神君は誰にも内緒で検査していたらしいのです。蒼君の心臓との相性を」

 検査の結果は驚くべきもの。なかなか見つからなかった移植可能な心臓どころか、一切拒絶反応を起こすことのないフルマッチハートだったのである。

「では、その情報を加えてもう一度さきほどまでの話をしましょう。まず、三神君は藍さんのことが好きです。しかし、藍さんは蒼君に首ったけです。ある日、蒼君は重度の心臓病で入院しました。手術では助かる見込みはなく、心臓を移植することでしか蒼君が生き延びる術はありません。けれど、なかなかドナーは見つかりませんでした。蒼君は日々衰弱していき、とうとう意識を保つことすらできずに昏睡状態に陥ってしまいます。蒼君のことを心配な藍さんは、学校を休み、病院でただ偏に蒼君のために尽くします」

「…………」

「学校を休みつづける藍さんのこと、三神君は心配で仕方がありません。このままでは受験どころか卒業も危ぶまれ、その結果藍さんが不幸のどん底に陥るのではないか? 藍さんを好いている三神君は、とても黙って見ていられませんでした。では、いったいどうすれば現状を打破できるのでしょうか? どうなることが一番藍さんの幸せにつながるのでしょうか? そんなの決まりきっています」

 短く息継ぎ。

「藍さんの幸せは、蒼君が助かること。一日も早くドナーが見つかり、その細い命がつながることが藍さんにとって一番の幸せです。そして、運命の悪戯か、三神君にはその願いを叶えることができました。しかも、それができるのは全世界でただ一人、三神篤というフルマッチドナーだけです。言い換えるならば、藍さんの一番の幸せを叶えるためには、三神君はその心臓を差し出さなければならなかったわけです」

 それは苦悩でしかない、好きな人を助ける唯一の方向が、自分の死などと。

「愛しい藍さんを幸せにする方法は見つかりました。見つかりましたが、そのためには自分が死ななくてはいけません。いかがでしょうか? 藍さんなら好きな人のために、自ら死を選びますか? 心臓を差し出すことができますか? それも三神君の場合は特異なもので、恋敵である蒼君を助けるというやり切れない結果を、自らの死で演出しなければならなかったのですよ?」

 私はそんなこととてもできません、と舟越は首を振る。

「藍さんを幸せにできるのは、三神君のみ。蒼君を助けられるのは、三神君の心臓のみ。三神君の死こそが状況を打破する唯一の方法だったわけです」

 死。三神篤の死。

「角度を変えますと、藍さんの一番の幸せは、蒼君が生きている限り、三神君は生きていては得られない、ということです。つまり、死ねということですね」

 それが細井藍に対して三神篤にできる一番目のこと。

「まさに悲劇としか言いようがありません。好きな人のためにできる最大限のことが、死ぬことだなんて……。でも、さすがにそんなわけにはいかないですよね? いかないけれど、蒼君が生きている限りは、その重圧が常に自分にしかかることになります。それはもちろん、藍さんのことが好きだからこそですよ」

 唯一のフルマッチドナーであるからこそ、伸しかかってくる重圧。では、いったいどうすれば、その重圧から逃れられることができるのか? どうやれば、その苦しみから解放されるのか?

「真の動機はまさにこれです。これなんですよ、三神君が蒼君を殺そうとした動機は」

 自身に伸しかかる重圧から解放されるためには、その根源である細井蒼を排除するしかない。

「実に単純なことですね。心臓の病を持つ蒼君が死にさえすれば、フルマッチドナーとはいえ三神君は心臓を提供する必要がなくなる。自動的に自分を苦しめる枷が外れるわけです。そこに加えて、一番の恋敵がいなくなる。まさに一石二鳥ですね」

 舟越は、これまでの言葉の流れを一度止めるべく、胸の前でぱんっと手を叩いて音を出した。

「さて、そういった殺害動機により、三神君は蒼君が眠る集中治療室に忍び込み、殺そうとしました。ご存知の通り、発見が早く、結果的に未遂に終わります。しかしですね、これまた運悪くといいますか、それを、蒼君を殺そうとしたことを、たまたま病院に居合わせたクラスメートの渡辺君に知られてしまいました。渡辺君はとても生真面目な性格だったそうで、きっと三神君を見逃すようなことはしなかったのでしょう。二人きりで会い、そこで自首を勧めたのだと思います」

 だが、渡辺はそのことにより殺されてしまう。篤の手で、暗い川の中。

「三神君は、蒼君殺人未遂に加えて、今度は本当に人を殺してしまいました。それからはもう日々苦しみ悩んでいったのだと思います。自分の枷である蒼君はまだ生きているし、いつの間にか殺人犯になっていて、しかもそのことで警察にマークされていた。その苦悩は時間の経過とともに三神君の心を徐々に蝕んでいったことでしょう。きっと当時は、ただ日常という時間に身を置いているだけ、もう心の底から絶叫したくなるほどの大きな不安でいっぱいだったに違いありません」

 スピーカーから放送が流れてきた。内容は、病室からいなくなった患者を呼び出すもの。それは断じて、この中庭にいる二人を変動させるものではなかった。

「三神君は日々不安を募らせていきます。募らせて募らせて、それでもう三神君という器から溢れていってしまいました。もう耐えることができず、そうしてとうとう終焉となるあの日を迎えてしまいます」

 十二月十九日。三神篤という一人の人間から生命が失われた日。

「普通に生活しているだけでびしびしと襲われる恐怖と、ぎゅっと存在そのものが潰されそうなほど強い自責を胸に、自身ではそれらを抱えきれなくなり、三神君はこの病院を訪れることを決意します。すべてをあなたに告白するために」

「……そうです」

 藍はここで口を開いた。それはとても小さいながら、はっきりとした口調。

「あの日、篤くんはすべてをわたしに打ち明けてくれました。途中何度か言葉にするのを辛そうにしながらも、隠すことなくすべてを打ち明けてくれました。そして、最後にはお兄ちゃんのために命を絶ったんです」

 藍はとても明確にはきはきと篤の死を語った。

「それが、あの日わたしの前で起きたことでした」

「確認ですが、三神君は自分で喉を切ったわけですね?」

「はい。一瞬のことで、わたしはどうすることもできませんでした。けれど、頭がパニックになりながらも、篤くんの元に駆け寄っていったのだと思います。どうにかしないといけないと思って……あまり記憶はありませんが」

「廊下で助けを求めていたとき血まみれだったのは、三神君に駆け寄ったとき、あなたの衣服に血がべっとり付着したからですね」

「……今にして思うと、篤くん、罪の意識に生きていくことに絶望していたんじゃないでしょうか? 苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんで、それでもまだ苦しみ抜いて、でも最後の最後には、お兄ちゃんのために自ら死を選んだのだと思います。わたしは、その点だけは感謝しています。それまでの経緯はどうあれ、結果的にお兄ちゃんを助けてくれたのですから」

「そうですね、そのおかげで蒼君は延命できているのですから、感謝すべきでしょうね。そうそう、三神君に万が一のことがあった場合、その心臓は蒼君に提供される手筈になっていたみたいですよ。ドナーカードも所持していましたし。しかも、一刻も早くそれを提供できるようにわざわざこの病院で命を絶った。サービス精神旺盛といいますか、三神君は随分親切な死に方をされましたね、ドナーとして」

 不敵な笑み。これまでにないほどその色を濃くして、

「というシナリオができてしまいます。あなたの証言を鵜呑みにしていると」

 舟越ははっきりそう言い切った。

「お見事です。藍さんは、将来脚本家を目指されているのでしょうか? でなければ、是非目指していただきたい」

「……どういうことですか?」

「藍さんの証言を疑うことなく頭からすべて鵜呑みにすると、そういうことになってしまうということです。三神君は蒼君に心臓を捧げるためにこの病院を訪れ、自ら命を絶った、といった具体にね」

 胸の前で手を叩いたとき以外、これまでほとんど組んだ手の上に顎を乗せる前傾姿勢だった舟越が、ここで上体を起こし、背もたれに深々ともたれかかっていく。固まっていた全身をほぐすように肩をくるくるっ小さく回した。

「もしそれが本当に真実だとすれば、そういったシナリオができ上がるということです。私が申し上げていることは、それだけのことですよ」

「……それはつまり、わたしが嘘をついているということでしょうか?」

「はい」

 にっこり。

「あなたは、いつ三神君がドナーだと知りましたか?」

「……それは、お兄ちゃんの手術後です。誰というのではありませんが、先生が話しているのを偶然聞きました」

「ドナーの個人情報は保護されていますので、通常は知らされないケースが多いのですが、今回はあまりにも特殊でしたからね。心臓を提供するために自害する、といった異例中の異例でした。だから、病院内で噂になったとしてもおかしくないですね。しかも、今回はマスコミにも嗅ぎつけられたぐらいですから。病院側としては問題山積みといった感じですね」

 舟越は組んだ手を天に向かって大きく伸ばし、脱力して腕を下ろす。

「嘘ですね?」

「……嘘?」

「はい」

「いえ、わたし、嘘なんて」

「嘘ですよ」

 笑顔。最初からずっと張りつけられている表情。

「あなたはとても重大な嘘をついています。嘘をついたのは、自分にとって不都合となることをもみ消すために、です。まあ、だいたい嘘というものはそういったものなのでしょうけど」

 笑みはその色を増す。

「まず、さきほどあなたは手術後に三神君がドナーであると偶然聞いたと仰っていましたが、嘘です。あなたはその前から知っていましたね?」

「…………」

「きっとあなたはあの日、三神君が病院を訪れた十二月十九日、本人の口から直接聞いているはずです。考えてみてください、強迫観念のように襲いかかる重圧から楽になるべく、すべてを告白しにいった三神君が、そんな大事なことをあなたに話さないわけがないじゃないですか」

 篤が蒼のフルマッチドナーであること。

「そして、これが一番罪深いあなたの嘘なのですが、三神君は、断じて自殺したわけではありません」

 三神篤はあの集中治療室で、

「自殺したのでなく」

 自殺したわけではなく、

「殺されたのです」

 殺された。

「そして、その犯人は、当然その場にいた人物ということになります」

 舟越はここでようやく顔を横に向けた。そこにいる人物の顔をその目でしかと見つめるために。

「あなたが殺しましたね?」


       2


 十二月十九日、金曜日、愛名大学付属病院、南病棟二階、集中治療室。

 三神篤は、棚の上に置かれた籠から果物ナイフを取り出し、自らの首筋に当てた。

「おれは、先輩のフルマッチドナーなんだ」

 とても静かな空間、篤の告白だけが空間を震わせていく。

「夏休みに、おれ、お前から先輩のこと聞いてさ、実際にその姿を目の当たりにして、おれ、細井には黙ってたけど、検査してもらったんだよ」

『そういうものがあるなら、ちょっと受けてみてもいいか』という軽い気持ちだったのだが、本人としてはそういった好奇心以上のものがあった。結果はどうあれ、そうすることによってちょっとでも藍の関心を得られるのではないか、という打算的な考え。

「検査しててさ、徐々に医者の表情が変わっていくのがおかしかったな。最初はどうせ無理だろうけど一応やってみるかみたいな顔だったのに、検査が進むにつれ、画面を覗き込む回数がやたらと増えていったんだ。最初検査は一回だけすれば充分だって言われてたのに、結局おれは三回やったんだ。で、出たんだよ」

 フルマッチドナーという何億分の一という数字が。

「最初は嬉しかったなー。おれって、本当に選ばれた人間なんだって思ったもん。これでおれは、細井の力になれるんじゃないかって。おれは細井にとって特別な存在だったんだって。そりゃもう手放しで喜んだもんだよ。けど……けどさ、すぐ気がついたんだ。ドナーってことはさ、先輩のために心臓を差し出すことを意味してるんだって……」

 自分の死こそが、蒼を救う唯一の手段だということ。

「だから、それからはもう恐ろしくてしょうがなかった。だって、先輩が生きてる限り、その先輩を救うためにはおれは心臓を差し出さなくちゃならないんだ。なら、もしかしたら、おれはもう生きてちゃいけないんじゃないかって。おれは死ぬことが望まれてるんじゃないかって。そう考えたら、怖くて怖くて」

 人間としてより優秀な細井蒼を生存させるために、自分は死ぬことを求められているのではないか。

 犠牲、になる側。

「複雑だよな。おれが死ぬことが、先輩を延命させることであり、それこそが細井の幸せになる。おれが生きている限り、先輩は救われることなく、細井は幸せになれない。その図式ができ上がったとき、もう駄目だった。怖かった。生きていくのが怖かった。周りのみんなが全員、おれのことをそういう風に見てるんじゃないかって思えてきてさ、おれ……もう堪らなかったよ」

 その恐怖を取り除くために、蒼殺害を決意した。そうしなければ、生きていることを責められているような後ろめたさと、体内に渦巻く絶大なる恐怖に、当時はろくに自我を保つこともままならなかった。

「馬鹿だよな、おれ。今にして思うと不思議だよ。なんであんなことしちまったんだろ……あんなことしなきゃ、渡辺だって死ぬことはなかったのに」

 しなければ、こんなに自分が追い詰められることなんてなかったのに。

「もう無理なんだ、おれ……無理だよ、こんなの、もう」

 首を振る。振りつづける。今はそうすることでしか自身を保てないかのごとく振りつづける。

「もういい。もういいんだ。もう……あのさ、細井。おれが死んだら、おれの心臓は先輩に移植されることになってるんだ」

 何が書かれているのかろくに理解することもできなかったが、そういう運びとなると医師に説明された書類にサインした。黙って家から印鑑を持ち出してまで保護者欄を埋めて。

「おれ、随分お前を悲しませることばっかりしちまったかもしれないけど……その償いっていう意味もあるけど、その、最後の最後でさ、少しでもお前のためにって……お前の力になるよ」

 フルマッチドナーとして、与えられた役目を意識する。

「これが、こんなことがさ、おれが唯一、お前の力になれることだから。だからさ、おれは」

 ナイフ。その手に果物ナイフが握られている。それを自らの首筋へと突き立てる。

「こうすることっていうのか、今おれがこうしていなければならないこと、ちょっと悔しい思いもあるけどさ……細井、先輩と仲良くな」

 大きな唾を飲み込む。止めようにも止めることのできないぶるぶるっ震える右手を抑えるようにナイフの柄にさらに力を込めた。

 これで終わる。苦悩するすべてから逃げ出せて、すべての終焉を迎えることができて、そして、こうすることで愛すべき人の力になることができる。

 これで。

 こんなことで。

 こんなことでしか。

 死。

「…………」

 閑寂。生命維持装置や時計の針の音というものは存在しているが、篤の脳はそれらを捉えることはなく、少しでも音を立ててしまうと世界が崩落するのではないかと思えるぐらい、超絶たる静けさにその身を浸しているようだった。

「…………」

 けれど、自身が包まれているのは絶頂なる閑寂でありながら、体も心も、その存在そのものは破天荒なほど乱れきっている。荒々しくもあり、爆発寸前の極度な緊張感を帯びていた。

「…………」

 喉元にある果物ナイフ。その先が肌に触れている。

「…………」

 震える手。震えるナイフ。それはまだ喉元付近にあり、物理的に震えを消滅させる安定感を持ってはいなかった。

 それは、数秒経っても変わることはない。

「……そん、な」

 震える声。震える膝。震える右手。震えるナイフ。

「……こんなことって……」

 急激に鼻の頭辺りが凄まじい熱を持っていた。突如としてぼやける視界。込み上げてくる激情そのままに溢れる涙。一滴、二滴、雫となって床を濡らしていく。

「……なんで……」

 震える手、握る震えるナイフは喉元に当てられているのみで、そこに当てられているだけに過ぎない。

「……なんでだよ!? なんでおれ、死ねないんだよ……なんで……なんで……」

 消え去りそうなほど小さく、弱々しくなっていく小刻みな声。その体は、ぴんっと張っていた糸が切れてしまったように膝から崩れていく。

「……なんで……」

 篤は、口を閉じることすら忘れた落胆の表情を浮かべたまま、右手に握る刃物を見つめる。少しの変色も認めることのできない果物ナイフ。

「……なんで、おれ……死ぬこともできないんだ……」

 覚悟を決めたはずなのに。

 もうこれしか自分には選択肢が残されていないのに。

「……おれ、は……」

 死なない。

 死ねない。

 死ぬことができていない。

「なんで……」

 部屋に金属音が響きわたる。力の抜けた手からナイフが床に落ちた。

「なんで、おれ……」

 顔を上げる。ぼやける視界に一人の人物が映る。大好きな細井藍。どういった表情をしているか、滲む視界と、額にかかっている前髪のせいでまともに見ることはできない。

「……ごめん……ごめんよ、細井……おれ、死ねない……死ねないよ……」

 呻くように吐き出した声。それを決死の思いで相手に伝えようとする。全身から絞り出すようにして。

「ごめん……ごめんな」

「…………」

 細井藍は俯いている。さきほどから一言も発することなく下を向いたまま。

「…………」

「ごめん……こんなおれで、ごめん……ごめんなさい」

 涙が溢れる。次から次へと溢れてくる。全身は思わず発狂してしまいそうなほど燃え上がる激しい熱を持ち、汗腺という汗腺から一斉に汗が噴き出しはじめていた。

 熱い!

 熱過ぎる!

「……ごめん……ごめん……ごめん……ごめん……」

「ごめんじゃないじゃん」

「えっ……!?」

 顔を上げた。久し振りに聞いた自分以外の声に、篤は両目を見開きながら顔を上げた。

「細井?」

 すぐ目の前にいた。すぐ前に藍の顔があった。ベッドまで二メートル以上離れていたのに、相手がこちらに近づいてくるような気配はまったく感じなかったのに、藍は篤のすぐ前にやって来ていた。

 目の前で、その手に篤が床に落としたナイフを握りしめて。

「駄目だよ、そんなの」

「っ?」

 篤には状況を整理する時間すら与えられることはなかった。本当に一瞬という僅かでしかない時間により、その喉元は超絶なほど強烈な熱を持っていた。

 果物ナイフ。引き裂く。首筋。真っ赤な液体。

「えっ……?」

「それじゃ篤くん、意味ないもん」

 赤。赤。赤。赤。篤の視界が鮮血に染まる。シャワーから水が飛び出すように、大量の血液は空間に渡ってこの部屋をその色に染めていく。

「意味はさ、ちゃんと成さなきゃいけないんだよ」

「────」

 篤、急激に視界がなくなってきた。当たり前であった目の前という光景がテレビのスイッチを切ったようになくなり、同時に五感という人間としての当然の感覚もなくなり、さらには自分という存在すらまともに感知することすらできなくなってしまった。

「お兄ちゃんのために」

「──  」

 消えた。

 命が消えた。

 一瞬にして、その命はこの世界から消えていった。

 その胸に、波打つように激しく脈打つ心の臓を残して。

「ねっ、篤くん」

「    」

 消えていた。


       3


 三月二日、月曜日、愛名大学付属病院、中庭、ベンチ。

「あなたが殺したんですね?」

 舟越から藍に突きつけた言葉。一切の淀みなく、真っ直ぐに、そこに揺るぐことのない確信を込めて。

「実はですね、三神君が自殺したとなると、しっくりこないことがあるんですよ。三神君はすべてを告白し、蒼君のために死ぬつもりだった。そのためにこの病院、あの集中治療室を訪れました」

 その顔は藍の方に向けられたまま。

「ということになると、当然自殺するためにここを訪れたのですから、それなりの準備をしてくると思うんです」

 死ぬための準備。

「三神君を死に至らしめたものは何でしたか? そうですね、籠に置かれていた果物ナイフです。三神君が持参したものではありませんでした。三神君の首元を掻き切ったナイフは、たまたまそこにあった果物ナイフです」

 果物の見舞品が入っていた籠に置かれていた果物ナイフ。

「考えてみると、随分おかしな話とは思いませんか? 死ぬ覚悟をしたなら、それぐらいの準備はしていくはずですよ。でないと、死ねないですからね。これから死のうとしている人間だというのに」

 舟越は藍のことを見つめている。

「では、おかしいと思う箇所には、必ずおかしな部分があるはずです。だからおかしくなっているわけでして。ですから、考えてみました。一所懸命考え、私は一つの結論に行き着きました。自殺したとされている三神君は、本当は死ぬためにあの集中治療室を訪れたわけではない、とね」

「……そんなの嘘よ。篤くんは死ににきたの。わたしはすべてを見ていたんだから、間違いないわ」

「その場に居合わせたあなたのお話を聞く限りはそうなります。三神君は籠にあった果物ナイフによって自らの首を切り裂いた、と。ですが、それはあなたからしか得られていない情報です。仮に、藍さんの仰っていることが真実だったとして、では、これから死のうとする三神君は、なぜそのための道具を、ナイフを持参してこなかったのでしょうか?」

「それは……」

 藍は言葉に詰まり……数秒思案して口を開く。

「べ、別にナイフじゃなくたって死ぬことはできるわ。自殺なんて、いくらでも方法はあるでしょ? 刑事さんならそれぐらい分かるでしょ? たまたまナイフがあったからそれを利用しただけよ」

「でも、所持品からは何も見つかりませんでしたよ」

 刃物や毒物、ロープといったものは一切出てこなかった。

「藍さんの、たまたまあったナイフ以外に死ぬ方法というは、具体的にどういうものがありますか?」

「そ、それは……い、いざってときは、窓を開けて飛び降りればいいじゃない!? そうよ、そうだわ、そうすればいいのよ。これなら簡単に死ぬことができるもの」

「うーん、それはどうでしょうね」

 舟越は首を振る。首を横に振る。常にその目に、さきほどまでと比べて随分と口調が荒くなってきた藍のことを映しながら、首を横に振りつづける。

「それは考えられませんね。三神君が飛び降り自殺なんてするはずがないんです」

「なんでよ!? なんであんたにそんなこと分かるのよ!? 死のうとしている人間が、飛び降り自殺が怖いっていうわけ!?」

「そりゃ、怖いでしょうね」

「なんでよ!?」

 藍は顔を引きつらせる。

「自殺志願者が、高い所が怖いっていうの!?」

「うーん、三神君に高所恐怖症という事実は確認されておりません。おりませんが、それでも飛び降りるのは怖いでしょう」

「なんで怖いのよ!? ただ飛び降りるだけじゃない!?」

「うーん、それは早とちりというやつですね。どうやら藍さんは勘違いされているみたいです。三神君が飛び降り自殺を怖がったというのは、足元が覚束ないような高い所から飛び降りる恐怖があるから、というわけではありません」

 舟越は左手を握り、その上に人差し指を立てた右手を乗せた。左手が病院、右手を篤に見立て、右手を前に落とすことによって病院から飛び降りることを示していく。

「仮に、三神君が病院から飛び降りたとしても、あの部屋は二階です。その高さでは死ねません」

 舟越は、前に落とした右手を元気に起き上がらせていた。

「せめてもうちょっと高い場所からじゃないと」

「そ、そんなの……そりゃ、いざってときは屋上にいって飛び降りるに決まってるじゃない」

「決まっているかどうかはさておき、それならそれで、あなたを屋上に呼び出したはずですよ、すべてを告白するために。あの集中治療室でなくて」

「それは……わたしにすべてを打ち明けてから、エレベーターで屋上にいけばいいじゃない。別に打ち明けた直後、すぐ死ななきゃいけないなんてことないんだから。そうやって屋上から飛び降りればいいんだわ」

「これはまたなんとも、段々物語ができ上がっていくようですね。おもしろいです。ですが、そうなると三神君はあなたのいない場所から飛び降りるということになりますね? 誰かに早く発見してもらいと思っているのに。うーん、やはり考えられませんね」

「人が死んでりゃ、すぐ見つかるわよ!」

 苛立ちを露にする藍。前歯で下唇を噛みしめている。

 舟越はそんな藍の姿を悠然と眺め、相も変わらず余裕の表情のままゆっくりと口を開いた。

「では、はっきり申し上げましょう。絶対に三神君は、飛び降り自殺をすることはありません。断言できます」

「はあぁ!? どうしてあんたにそんなことが言い切れるのよ!?」

「もちろん根拠があるからですよ」

 当然の顔をして、舟越は変わらぬ余裕の笑みで藍のことを見つめる。

「藍さん、もしかして前提条件をお忘れではないですか? 怖いじゃないですか、飛び降り自殺なんてしてしまったら」

 舟越は再び握った左手の上に人差し指を立てた右手を乗せる。

「どうしてそうも興奮されているのかは理解しかねますが……もし、もしもですよ、三神君が飛び降り自殺をするとしますよね」

 左手の上から右手がジャンプする。右手が落ちた先でパーとなった。

「屋上から飛び降りれば、下はアスファルトの駐車場です。どうやっても助からないでしょう」

「ほら、なら、いいんじゃない」

「命を失うという意味ではいいかもしれません。ですが、それでは意味がなくなります。ではないですか? なぜ篤くんは自殺しようとしているのでしたか? 飛び降り自殺なんてしてしまったら、肝心の心臓が無事では済まなくなるではないですか」

 罪への懺悔としての自殺ならともかく、ドナーとして死を得ようとしている人間が、そんな死を迎えるはずがない。

「ほら、怖いでしょ? 三神君が飛び降り自殺することによって、自殺をする目的を失ってしまう。とても選択できる死に方ではありませんね」

 両手をパーにして合わせた。

「自殺するために訪れたとされた三神君は、事前に死に方を用意していませんでした。それはつまり、三神君は自殺するためにあなたの元を訪れたわけじゃないからそういった状態になったのでしょう。あの日、三神君は、自殺するためにあなたの元を訪れたわけではなく、これまでの苦しみを告白したくて、懺悔したくてあなたの元を訪れたのです」

「違う。そんなの違うよ。篤くんは死ににきたのよ。だ、だって、篤くんは自分からナイフを手にしたのよ!?」

「そういったフェイクだったのかもしれませんよ」

 舟越のその表情から笑みは一度たりとも消えない。

「うーん、そうですね……例えば、三神君はあなたに縋りたかったのかもしれません。これまでの行いを正直に告白することによって、少しでもあなたから許しを得ようと考えた。大好きなあなたから。ですが、どれだけ正直に告白しようとも、あなたから許しが出なかった、としたら」

 人差し指を立てた右手を、鼻に当たるすれすれまで顔に近づける。

「もしくは、それ以前にあなたの関心をまったく得られなかった、としたら。あなたの心は常にベッドで眠る蒼君のことでいっぱいで、それ以外は眼中になかった」

 だとしたら、どうにかして自分に注目させる必要がある。そのためにどんな手段を駆使しても。

「その目にたまたま果物ナイフが映りました。そうだ、ナイフを首に当てて死んでやる、と訴えれば、あなたの許しを得られるかもしれない。もしくはあなたが自分のことを注目して真剣に向き合ってくれると思ったかもしれない。けれど、あなたの心には届きませんでした。ですから、ここでついに最終手段です。三神君はあなたを振り向かせるために、さきほど私が申し上げた言葉を口にします」

 フルマッチドナー。

「多分ですが、そのことを知ったあなたは、もう居ても立ってもいられなかったのではないしょうか? 目の前のベッドには今にも消え去りそうなほど弱々しい命がある。そんな状況において、その顔をふと横に向ければ、絶望的な現状を打破することのできる奇跡の心臓がある」

 そういった条件下で、細井藍が取った行動とは?

「考えるまでもありませんね。ナイフがどういった経緯であなたの手に移ったか、もしくは最初からあなたの手にあったかは定かでありませんが、あなたは大切なお兄さんの命を救うべく、三神君の喉元を掻き切って殺したのです。その体から心臓を取り出すために」

 同級生の三神篤を殺した。すべては兄の命を救うため。大好きな兄といつまでも一緒にいられるために。

「一切迷いがなかったのでしょうね、見事一発で死に至らしめることができていましたから。これはもうお見事としか言い様がありません」

「…………」

「そうして思惑通り奇跡の心臓を手に入れ、その後の手術も無事成功。あなたはお兄さんといつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

 満面の笑み。

「一連の出来事は、といったところではないでしょうか?」

「……いくら刑事さんだからって、言っていいことと悪いことがあるんじゃないですか!?」

「はい? それはいったいどういったことだったでしょうか? 私にはさっぱり見当もつきません。是非お聞かせいただけるでしょうか?」

 あくまで余裕の顔。余裕の笑み。舟越の浮かべる表情。常に張りつけられた顔。

「悪いことといいますと、どういったことでしょうか?」

「……どうしてわたしが篤くんを殺さなきゃいけないんですか?」

 藍は声を荒らげる。

「そんなわけないじゃないですか!? 前にも言いましたよね、わたしだって被害者ですよ!? いきなり目の前で死なれて、もうあの瞬間は無茶苦茶怖かったんだから! 今でも思い出すだけで体が震えるぐらいなんですよ! それなのに、わたしの心を掻き乱すように! もうやめてください! そんな変な言いがかり!」

「素晴らしいですね、藍さん。それを、まだ貫き通すおつもりですか? できればこれまでのやり取りで自供していただきたかったのですが……うーん、そうくるのでしたら、仕方がありません」

 舟越は背広の内ポケットから手帳を取り出す。

「三神君を死に至らせた果物ナイフの柄にですね、あなたの指紋が付着していました。以前、指紋採取のご協力はいただきましたよね。それと一致したわけですよ。とはいえ、もちろん、それで見舞品の果物を切っていたわけですから、あなたの指紋がついていても別段おかしくはないのですが、しかし残念ながらそれは、血の上からついていたのです」

 指紋は、喉を切り裂いてべったりと付着した三神篤の血液の上から。

「いかがでしょう?」

「確かそれも以前言いましたよ。どうしたらいいか分からず、その途中でナイフに触れてしまったんです」

「はい、あまり記憶がないという割に、そこははっきりと証言いただきましたね。三神君の動脈を切ったナイフは、状況から考えると喉元に刺さっていたわけじゃないんです。首に流れる動脈を切り裂いてから床に落下したみたいなんです。藍さんがどうしても自殺ということを主張するのであれば、三神君が自殺したままナイフを握りしめているはず。そうですよね? わざわざあなたが何らかの事情で柄に指紋をつけるためにその手を解いてまで奪おうなんて思いませんよね? ですから、ナイフは三神君の首元の動脈を切った後、すぐ床に落ちていったはずなんです。では、藍さんはどうしてそれを拾い上げたのですか?」

 動作として、なぜわざわざそんなものを拾い上げる必要があったのか?

「納得いく説明いただけますか?」

「それは……」

 下唇を噛み、藍は十秒近く沈黙する。少しだけ背もたれに体重をかけた。

「……覚えてません。あの時は気が動転していたものですから。もうなにがなんだか。意味もなく拾ってしまったとしても、おかしくはないと思います」

「そうですか、気が動転ですか。そして記憶がありません、ですか。とても都合のいい言葉ですね。握ったことははっきり覚えているというのに」

「……仕方ないじゃないですか。本当のことなんだから。気が動転して、わけも分からずにナイフを拾ってしまったんです。そのことだけはちゃんと覚えています」

「錯乱状態にあったとしたら、何をしてもおかしくありません。パニック状態にあるわけですから、不用意に床に落ちているナイフを拾い上げたところで説明の仕様がありませんね。なんせ気が動転していたわけですから。いやはや、それはとても便利な心理状態ですね」

 笑みが増す。

「ですが、ここは肝心なところです。しっかり考えてお答えください。今日一番のポイントですから」

「…………」

「指紋がついていたということは、その日、その時、藍さんがナイフを触ったのは確かなんですね? そこはお認めになるということなのですね? 三神君の喉元を切ったナイフに触れた、と」

「……そうです。触りました」

「はい、ありがとうございます。それはとても貴重な証言となります」

 舟越は手帳に書き込んでいく。

「そうなってくるとですね、ああ、やはりそうなってしまいますね。そうですよ、なってしまうのですよ」

 舟越はぱんっと音を出して手帳を閉じた。背広ん内ポケットにしまいながら、実に軽い口調で言い放つ。

「すみません、藍さん。さきほどのは、嘘なんです」

 笑みは笑み。緩む頬。上がる口元。目尻の皺。

「私はさきほど、わざわざ手帳を見る振りをしてまで、いかにも今日まで調査してきた事実を申し上げているように、あなたにこう申し上げました」

 ナイフに付着した三神篤の血の上に藍の指紋がついていた。

「それ、嘘なんですよ。すみません、警察官なのに嘘ついてしまいました。これでは泥棒のはじまりですね。いけないいけない。藍さんの指紋はですね、三神君の血の上からはついていませんでした。ついていたのは、付着されていた血の下でした」

 見る。見つめる。舟越は、そこにいる人物のことをよく観察するように、さらにはその存在を射抜かんばかりの強い眼差しで見つめる。

「加えて、あなたのその指紋は、三神君の指紋の上からつけられていました」

 篤の指紋の上にあり、血の下にある指紋。細井藍の指紋。

「分かりやすく付着した順序を申し上げますと、最初は三神君が握る。三神君の指紋がつく。その後あなたが握る。あなたの指紋がつく。そしてそこに血が付着する。それはナイフが動脈を切断したときのもの。こういうことになってしまいますね」

 柄に血が付着する原因は、直前に手にしていた人物が篤の動脈を切断したからついたもの。

「細井藍さん、あなたが三神君を殺したのですね?」

「…………」

 沈黙。

「…………」

 藍は押し黙るように一文字に閉口し、

「……きゃは」

 それから、大口で開口した。

「きゃはははっ」

 笑い。笑い声。藍は幼子のように無邪気な満面の笑みを浮かべて笑う。

「きゃははははははははははははははははははははははははははははははっ」

「おかしいですか?」

「きゃはははっ。け、刑事さん、まさかそんなのが証拠になると思ってるんですか? そんな、ナイフについた指紋が、たまたまそういった状態になっていたところで。きゃはははっ」

 笑い声は止まらない。

「きゃはははっ。あー、おかしー」

「たまたま、ですか?」

「そう、そんなのたまたまですよ。たまたまに決まってるじゃないですか。きゃはははっ。可能性だけなら、篤くんが首を切るとき、握っていたせいでそこに血がついていなかった。床に転がったのをわたしが偶然拾ってそこに指紋がついた。その後、わたしが床に落としたとき、そこに血溜まりがあって、わたしの指紋の上から血がついたのかもしれないじゃないですか」

 笑う笑う。笑いつづける。

「ほら、これで指紋の説明になりましたよ」

「うーん、そうですね、それ、ありますね。ありですありです。ですが、ありなんですが、あなたがナイフに持ったとき、あなたの手に血が付着していなかったことには納得しかねますね」

 こちらは変わらない笑顔。

「あなたは自殺した三神君の元へ駆け寄った。でないとナイフなんて触れられないですからね。だからあなたは血を噴き出している三神君のすぐ傍にいました。だったら、目の前で血を流す三神君のことを心配して、当然体にも触りませんか? 心配したからこそ駆け寄ったわけですから、まず相手に触れるはずですよ。なら、その時あなたの手には血が付着するはずです。もし床に落ちているナイフを拾うとしたら、その後になると思うんですが」

「心配は心配だったけど、血でいっぱいの篤くんなんて気持ち悪くて、とても触ることができなかったのではないでしょうか? 気持ち悪いものを片手の指先だけで触って、ナイフを拾ったときは血で汚れていない方の手で持ったのかもしれませんね。他にももっといっぱい考えられますよ。刑事さんが言う以外のことを」

「そうですね、そう言われてしまいますと、といいますか、可能性だけを突き詰めていきますと、あなたが主張することを否定などすることはできません」

「きゃはははっ。これは愉快ですね」

「そうですね」

 現状としてはかなり不利な状況に陥っているというのに、舟越の表情は一切変わることはない。絶えず漏れている笑み。滲み出るその頑たる余裕は、まるで取って置きの切り札を隠し持っているかのよう。

「でも、可能性でいうのでしたら、藍さんが犯人というのが一番高い気がしますよ」

「犯人という言葉を使ってはいけませんよ。だって、篤くんが自殺したんですから。現場にいたわたしがそう証言しているわけです」

「自殺、ですか……」

 舟越は背広の内ポケットにしまった手帳をまた取り出し、ページをぱらぱらっ捲る。すぐ目的のページを見つけたようで、目を細め、少し首を傾げながら口を開く。

「とても残念です。できることなら、藍さんには自供していただきたかったのですが。それが一番の解決でした。そうできなかったのは、私の力量不足です」

「きゃはははっ。おかしいな、刑事さん、まだそんなこと言ってるんですか? 篤くんは自殺したんですよ。自殺です。なのに、なんでわたしが自首する必要があるんですか? そんなのおかしいじゃないですか? きゃはははっ。だいたい刑事さん、ろくに証拠もないあてずっぽうでわたしのことを犯人に仕立て上げようとしてるんですよね? いくら警察だからって、そんなことしていいと思ってるんですか? いいこととそうじゃないことぐらいあるんでしょう?」

「これはまた随分手厳しくなってきましたね。うう、思わず負けてしまいそうです。けれど、藍さんの仰る通りなんですよ。そんなろくに証拠もない状況で犯人を特定してしまうほど、ましてや本人に自首を勧めるなどということは、絶対ありません。日本の警察はそこまで無能ではない」

「きゃはははっ。とか言って、してるじゃないですか」

「そしてですね、そんな日本の警察に所属するこの私もそんなに馬鹿ではない、ということです」

 舟越は持っている手帳から目を外し、相手を見つめる。その目は見つめる以上にきつく睨みつけるようにして。

「私がなぜここいるかお分かりになりますか? 今朝、私は三神君殺しの犯人があなたであることを断定しました。断定です。だからこそ、私はこうしてあなたと直接対峙しているのですよ」

 そしてやはりここでもにっこりと微笑む。絶対的な自信を張りつけたまま。

「三神君を殺した犯人は、細井藍さん、あなたです」

 それはこれまでのような問いかけではなかった。

「あなたが三神君を殺したんです」

「…………」

 言葉をなくしたまま、藍は目を見開いている。大きく見開き、それに負けないぐらい口を開けた。

「きゃははははははははははははははははははははははははははははははっ」

 笑み。笑み。笑み。笑み。笑み。笑み。笑み。笑み。

「きゃはははっ。刑事さん、そんな馬鹿なこと言わないでくださいよぉ!」

 藍は語尾を強める。それは、相手の言葉を否定するレベルではなく、そのすべてを一切受けつけないように。

「これ以上いい加減なことを言うと、こっちにだって考えがありますからね!」

「おやおや、いったいどういった考えなのか多少の興味があるところではありますが……そんなことはどうでもいいです。どうでもいいことですからね。私はさきほど申し上げました。犯人を断定した、と。これはもう推測の域ではありませんので、悪しからず。そしてですね、これは断じていい加減な話ではありません。私は今朝、あなたが犯人である確証を得たのです」

 急に声を荒らげはじめた藍の変化に決して動じることなく、舟越はあくまで自分のペースで話を進める。

「もうやめにしませんか、そういうのは。やっても意味はありません。あなたは自分の罪から逃れられないということです」

「何なのよ!? いったい何だっていうのよ!? 確信って何よ!? はあぁ!? よりにもよって、わたしが篤くんを殺したですって!? そんなわけないじゃない!? 今日の朝、いったい何があったっていうの!? ほら、言ってみなさいよ!」

「構いませんよ」

 舟越は涼しい顔で咳払い。

「今朝ですね、私の元に一本の電話がありました。それは、あなたが三神君殺しの犯人であると主張する人物からです」

「はあぁ!?」

 発せられた素っ頓狂な声。それを出した藍の表情は醜く歪みきっている。大好きな兄の前にいるときからはとても想像ができないほど。

「誰よ!? 誰なのよ!? いったいどこの誰がそんな馬鹿げたことを言うっていうのよ!? わたしが犯人ってどういうこと!? ちゃんと説明してください!」

「これは凄いですよ、びっくりたまげてしまうでしょうね。きっと、藍さんの人生で一番の驚きになることでしょう」

 これまでの笑みにさらに含み笑いを加える。舟越は手帳に目を落としてから、再び藍のことを見つめた。

「藍さんはきっと自信があったのでしょう、自分の犯行は誰にも悟られていないという。そればかりか、三神君は自殺として処理されるはずだと決めつけていた。ですが、残念ながらそうなりません。といいますのも、実はですね、あなたの犯行の一部始終を見ていた人物がいたんですよ。これは驚きですね。目撃者ですからね、もう言い逃れはできませんよ」

「目撃者ですって!?」

「そうです。その方は今朝、あなたが犯人であると通報してきてくださいました。ですので、そろそろ諦めて自供していただけませんか? そして自首してください。少しでも罪を軽くしましょうよ。それが私の望みでもあり、通報をいただいた方の望みでもありますので」

「はあぁ!?」

 再び素っ頓狂な声。藍の表情が一気に崩れていく。

「きゃははははははははははははははははははははははははははははははっ」

 笑い。笑い。笑い。笑い。笑い。笑い。笑い。笑い。

「きゃはははっ。何よ!? 何よそれ!? あろうことか、目撃者ですって!? わたしに自首しろですって!? そんなの意味分かんないですよ!? きゃはははっ。もー、刑事さん、おかし過ぎー」

「あれあれ? 目撃者なんているはずがない、と言いたげですね。それも相当な自信があるようで」

「きゃはははっ。いるわけないじゃないですか、そんなの」

「いるわけないじゃないですか、ですか。それがですね、そうでもないんですよ。藍さんはお気づきではなかったかもしれませんが、あの日、あの時、まさに藍さんが三神君を殺害しようとしているその瞬間を見ていた人物がいるんです」

「あー、馬鹿馬鹿しい」

 鼻で笑う。

「誰だっていうんですか!? もし本当にいるっていうんでしたら、ここに連れてきてくださいよ。ほら、早く早く」

 大口を開けて笑いながら、藍はそっぽを向く。

「きゃはははっ。苦し紛れに何を言うかと思えば、何んですか、それは!? もう刑事さんには付き合っていられないです。あーあ、馬鹿馬鹿しい。無駄な時間過ごしちゃった。それも気分の悪い」

「気分を害したのは申し訳ありませんが、どうかそう仰らずにもう少しだけお付き合いください。あと少しで済みますので。ああ、そうそう、このベンチに座って、私、最初に言いましたよね、藍さんからお話を聞くこと、今日で最後にすると。ええ、これで最後にしてみせますよ」

 舟越の声には、さきほどのような鎌をかけるといった感じはなかった。正真正銘、自信があるからこそ、そうも真っ直ぐ言葉を口にできているのだろう。

「目撃者の方は存在します。うーん、仮にその方をAさんとしましょうか。Aさんは藍さんの犯行の一部始終を見ていました。三神君がフルマッチドナーだと告白するところから、ずっと。もちろん三神君が自殺を試みるも、結局死ぬことができずにナイフを落としたところもです。それを藍さんが拾い、三神君の首元を掻き切ったところもね」

「あー、ホントに馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。もう付き合ってられません。そんなわけないじゃないですか。事実無根の適当なことをでっち上げて、そんなに楽しいんですか!? 刑事さんはいつもそうやって無実の人間を無理矢理犯人に仕立て上げているんですか? だったら、そういうのやめにしません? 間違いだったら間違いでいいじゃないですか? 刑事さんだって間違えることぐらいあるんでしょ? 最初はわたしが篤くんを殺したかもしれないと思っていた、けれど、それは間違いでした、ごめんなさい、許してください、どうかこの通りです、って言うだけじゃないですか。なんでそんなこともできないんですか? そんなの小さな子供だってできますよ」

「まだ若い藍さんには分からないことかもしれませんが、年を取ってしまいますと、なかなかそう素直に頭を下げることができなくなるものなんですよ」

『けれど』と、これから話すことが逆接の関係にあることを示して、舟越は言葉をつなげる。

「今の私にそれをする意味はありませんね。はい、ありません。なぜなら、これは真実だからです。間違いなどどこにも存在していません」

「きゃはははっ。そんなわけないじゃないですか」

 藍は真っ直ぐ刑事の顔を見つめた。相手が浮かべるものに負けないぐらい、その顔に自信たっぷりの笑みを浮かべて。

「目撃者なんているわけがないんですよ。絶対いません。それは刑事さんのでっち上げだからです」

「そう言い切れますか?」

「言い切れますね。だって、あの時、あの部屋にはわたしと篤くんしかいなかったんですよ? わたしたち二人しかいなかったのに、誰が見てるっていうんですか!? 人が隠れそうな場所もなかったし、扉だってずっと閉まってました。目撃者なんて、いるわけないじゃないですか?」

「窓はいかがでしたか?」

「窓……?」

 藍の口が動きを止めた。遠くなったあの日のことを思い出すようにどこでもない空間を睨みつけるように凝視して……十秒もしないうちに口元を緩めていた。

「きゃはははっ。刑事さん、残念でしたー。あの部屋はずっとブラインドが下がってたんですよー。あれ、刑事さんって、もしかしてそんなことも知らなかったんですかぁ? 目撃者って、向かいの建物から覗いてたとでも言うんですかぁ? きゃはははっ。がせですよ、それ。刑事さん、そんないい加減な情報に振り回されているんですねー。きゃはははっ。あー、おかしー」

「……いいえ」

 愉快そうに痛快そうに大口を開けて笑う藍の表情を一瞬たりとも見逃すことなく、舟越は目に映しつづけている。

「いいえ、違います。私はいい加減な情報などに振り回されていません。だからもちろん、目撃者からの通報は断じてがせと呼ばれるものではありません」

「またまた、だって窓からは絶対見えないんですよ。きゃはははっ。もういいですよ、刑事さん。今日のことはなかったことにしてあげますから、これで終わりにしましょうよ? ねっ? それが刑事さんのためでもありますってー」

「残念ながら、それでは私のためになりません。そして藍さん、これですべて終わらせる気なのは、こちらの方です。でもって、藍さんは勘違いされているようですね。私は別に、目撃者が窓の外から見ていた、なーんて一言も言ってませんよ。言いましたか? 言ってませんね」

「さっき、窓はどうだったかって言ってたじゃないですか!?」

「はい、言いました」

「ほら、言ったんじゃないですか!?」

「確かにそう言いました。それは、ただ、そう言ってみただけです」

 笑顔。

「それはそうと、随分と目撃者という言葉に、さっきからなぜ藍さんがそうも向きになっているのかが実に関心が湧くところではありますね。三神君が自殺したのであれば、犯行の目撃者だなんて、そんなことに向きになる必要はないというのに。というより、自殺したのではあれば、いた方がいいのではありませんか?」

「……別に向きになんてなっていません」

「そうですかぁ? 私には、懸命にあのときの状況を思い出そうとされていたように見えましたが。ああ、それは私の勘違いだったのですね」

 笑顔。笑顔。笑顔。

「目撃者がいるというのは本当の話です。今朝私の元にそのAさんから通報がありましたから。そして私はその方と直接面会もしました」

「きゃはははっ。誰ですか、それ? 是非ここに連れてきてください。きゃはははっ。刑事さん、そんな嘘ついて、なにが楽しいんですか? もうこんなふざけたことやめてください」

「いいんですか、そんなことを言ってしまって? 連れてこいだなんて、後悔しても知りませんよ」

 笑顔の笑顔の笑顔が弾ける。

「何度も、何度でも、私は藍さんが犯行を認めるまで何度だって通達いたします。昨年の十二月十九日、南病棟二階にある集中治療室において、あなたが三神君の首を切り裂いて殺しました。そしてあなたが三神君を殺していた、まさにその一部始終を目撃していた人物は存在します」

「きゃはははっ。しつこいなー。そんなわけありませんよ。もう、いやだなー。口から出任せをー」

「楽しそうですね。どうしてそう思われるんですか?」

「どうして? どうしてそう思うですかって? そんなの決まってるじゃないですかー。だってだって、あの時、部屋にはわたしと篤くんしかいませんでした。他に誰もいなかったんですよー。なら、目撃者なんているはずないじゃないですか。これは当たり前の話であって、当たり前でしかありませんよ。きゃはははっ」

 窓はブラインドが閉まっていた。扉もずっと閉まっていた。あの部屋には誰かが隠れられそうな場所などない。

「きゃはははっ。逆にこちらから質問させてくださいよ。目撃者だなんて、いったいどこにいたっていうんですか? 時代劇の忍者みたいに天井裏にでも隠れてたっていうんですかぁ!? きゃはははっ。あー、馬鹿馬鹿しい」

「いましたよ。というより、いたじゃないですか? 藍さんだって、この人のこと見ていたはずです」

「でたらめはやめてください。もう意味分かんなーい。刑事さん、いい加減にしてもらわないと怒りますよ」

「藍さんが怒ったところで事実は変わりませんし、できれば怒る前に、よーく思い出してみてください。あの日、あの時、あの事件のあった集中治療室には、いったい誰がいましたか?」

「そんなの、さっきから何度も言ってるじゃないですかー。しつこいなー。そんなんじゃ奥さんに嫌われちゃいますよー」

「それはもう手遅れですね」

「でしょうね」

「お恥ずかしい」

 喜色満面。

「もう一度お願いします」

「だから、わたしと篤くんの二人です。あの日、あの部屋には私たち二人しかいませんでした」

「そんなはずはありません。もう一人いたはずです」

「もう一人? きゃはははっ。そんなわけないじゃないですか。あそこにはわたしたち二人しか──」

『か』の口で言葉が途切れたその一瞬、藍の目が泳ぐ。

「……そんなはずない」

「ようやくですか。ようやく思い当たったみたいですね。よかったよかった。そうですよ、そうなんですよ、あの日、あの時、あの集中治療室には藍さんと三神君の二人だけではありませんでした」

 二人だけではなく、あの場所にはもう一人いた。

「ご理解いただけましたか?」

「そ、そんな……そんなはずない。そんなはずないよ!」

「これはまた、さきほどまでの自信はどこへいってしまったのでしょうか? とても信じられない、といった表情ですね? でも、これが事実です」

 笑い声が出ていないのがおかしいほど、舟越の表情は崩れていた。

「いかがでしょうか?」

「だ、だって、あの時はまだ、意識が戻ってなかった」

「藍さんはそう思っていたかもしれませんが、それはあくまで藍さんがそう思っていただけであって、果して事実はどうだったのでしょうね?」

 笑顔。笑顔。笑顔。笑顔。

「あの日、あの時、本当に細井蒼君は意識を失っていたのでしょうか?」

 事件の目撃者は細井蒼。あの日、あの時、あの集中治療室にあるベッドに横になっていた人物。

「蒼君は秋から、正確には十月六日、突如として昏睡状態に陥り、それから一度も意識が戻っていないとされてきました。しかし、実はそうではなかったのですよ。蒼君はあの日までに数回ですが、意識を戻していたことがあったんです」

 昏睡状態の蒼ではあったが、時々意識を取り戻していた。ただ、あまりの衰弱状態で体を動かすことはおろか、声も出すことができず、目覚めていた時間もほんの僅かに過ぎなかった。だから、本人以外に気づく者はいなかった。

 けれど、そんなもの通常の人間からすれば本当に僅かな意識だったとはいえ、あった。

 蒼はあの瞬間、その僅かな意識でそこで起きたすべてを見ていた。小さく開けられた瞼の下にある双眸によって。

 決して本人は見たくはなかったであろう、残虐たる光景を。

 それも、世界でたった一人しかない大切な妹の手による殺人。

「その日までに、どれほどのサイクルで蒼君が意識を取り戻していたかは定かでありませんが、しかし、あの瞬間、幸か不幸か、それが蒼君に訪れました。蒼君のその状態は、本人としては夢現だったかもしれません。けれど、そんな状態でもその耳はちゃんと聞いていました。あなたと三神君のやり取りを。告げられた、三神君がフルマッチドナーであるという事実を」

 その心臓は今、病室にいる細井蒼の胸で力強く脈打っている。

「そして、蒼君はその目で目撃してしまいます。蒼君のために、あなたが三神君を殺害する一部始終を」

 右手に握る果物ナイフで篤の首を掻き切る、そのすべてを。

「蒼君はどうすることもできませんでした。意識があるとはいえ、駆け寄ることもできなければ、声を出すこともできなかった。自分のために妹が犯してしまった過ちをその網膜に焼きつけるしか術はなく、言い様のない憤りをどうにも処理できないまま、再び気を失っていったのです」

 どうすることもできなかった自身を疎ましく思いながら。

「これがすべてです」

 舟越は姿勢を正す。一度肩の力を抜いてから、お腹の中心にぐっと力を入れ、息を吐き出すその口を開いた。

「藍さん。細井藍さん。もう一度伺います。伺わせていただきます。今後こそ正直に答えてください」

 舟越が提示する最後の問い。

「細井藍さん、あなたが三神篤君を殺したのですね?」

「…………」

 藍に言葉はない。さきほどのように声を荒らげることも、突きつけられた事実に反論することも、ない。今はただ下を向き、全身を小刻みに震わせている。

「…………」

「蒼君、ずっと悩みつづけていたみたいですよ。手術が無事終了して意識を取り戻してから今日まで、苦悩の日々でしかありませんでした。生きている自分は、妹の過ちによって命をつなぎ止められているに過ぎない、と。そして、自分が妹にあの過ちを犯させてしまったんだ、と」

 蒼はずっと苦悩しつづけてきた。網膜に焼きついたあの記憶をどう処理すればいいのか? 今もその胸では殺された三神篤の心臓が元気に脈打っている。そうして蒼の命を未来につなげるために力強く脈打っている。そのおかげで蒼は今日も生きることができている。

 それは、妹がドナーを殺したからこそ延命することのできた命。

 だからこそ、心臓が脈打つごとに、三神篤という犠牲が全身に伸しかかる。

 自分が心臓を患わなければ、篤は生きていられたというのに。

 自分が心臓を患ったばかりに、妹はあのような罪を犯してしまった。

 自分さえいなければ、この世にそのような不幸を招かなくてもよかったのに。

 自分がいたばかりに、世界にあのような悲劇が演じられてしまった。

「あなたにはどう見えていたかは分かりませんが、蒼君はあまりにも重過ぎる自責に心を痛め、その苦しみのあまり幾度となく自ら命を絶ってしまおうと考えたそうです」

「…………」

「けれど、だからといって、今日を生きている蒼君が死んだところで、犠牲になった三神君への償いにならないことに気づきました。だから、蒼君は生きる選択をしました。生き抜くことを誓ったのです。この先ずっと、その胸で脈打つ三神君の心臓とともに生きていくことを」

「……っ」

 藍は指を口に入れる。『三神君の心臓とともに生きていく』そう舟越が口にした瞬間、顔を醜く歪め、右手の人差し指を前歯で噛みだした。

「…………」

「蒼君はあなたがちゃんと罪を認めることを望んでいます。しっかり反省し、これから人生、三神君のために償いをしていってほしいそうです」

「…………」

「今日という日は、せめてもの甘さと仰っていました。せめて高校卒業までは待っていたかったみたいです。だから今朝だったのでしょうね」

 今日は三月二日、海田高等学校卒業式。その記念日の今朝、蒼は事件について警察に通報した。

「蒼君はこれからずっと、あなたが改心して戻ってくるのを待っているそうですよ。いつまでもいつまでも」

「…………」

 断じて声は出ていない。けれど、藍は指を噛みながらその口を動かしはじめる。ぶつぶつぶつぶつっと、まるで長い呪文でも唱えるかのように。

「…………」

「細井藍さん、署までご同行していただけますね?」

「…………」

 藍は斜め前の地面を見つめ、ただただ口を動かしつづける。

「…………」

「藍さん?」

「……なんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ。お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだ」

 呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、呟き、そして次の瞬間、その口元が大きく跳ね上がった。

「お兄ちゃんはわたしだけのお兄ちゃんなんだからぁ!」

 藍は勢いよく立ち上がると同時に駆けだした。それはまるで限界まで伸ばしたゴムを離したように。

「お兄ちゃんはぁ!」

 ある場所へ向かってまっしぐらに。

「お兄ちゃんはあぁ!」


       4


「じゃあな」

 黒いランドセルを背負った小学生の男の子は、ここまで一緒に下校してきた友達といつもの道で別れ、曲がった先を真っ直ぐ歩いていく。今日は図工の絵を完成させるために少し学校に残っていた。そのせいで見上げる太陽は西の空へと傾きつつあり、吹いてくる風はとても冷たいもので、男の子は急いでポケットに手を突っ込んでいく。歩くときにポケットに手を入れることは学校で禁止されていたが、周囲に誰もいないので、つい、いけないことだと知りつつも。セーターの上に羽織っている灰色のコートは、男の子には少し大きなものだった。

「……っ」

 家まであと百メートルほどにある公園の横を通ると、なんだか妙に騒がしく、見てみると、低学年と思われる男の子たちが大声で騒いでいた。

「っ?」

 その公園はいつも男の子が学校へ集団登校するときに同じ班の子供と集まる場所で、公園で騒いでいる連中には知っている顔があった。

「っ!?」

 集まっていた数人の低学年は、輪になって一人の女の子を取り囲んでいる。今、一人の男の子が中心にいる女の子のことを突き飛ばしていた。

「藍!?」

 瞬間、公園の様子を見ていた男の子の頭にかぁーっと血が昇り、目の前にある公園の柵を勢いよく跳び越えたかと思うと、女の子を取り囲んでいた輪に体ごと突っ込んでいった。

「お前ら、妹になにしてやがるんだぁ!」

「やべぇ! 細井の兄ちゃんだ!」

「逃げろ逃げろ!」

 男の子の登場により、女の子を囲んでいた低学年の五人は、蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。

「大丈夫か、藍?」

「っすん……っすん」

 女の子は立ち上がれない。尻餅をついたまま泣きじゃくっている。

「っすん……っすん……お兄ちゃん……」

「ほら、立ちなって。まったく、どうしたんだよ、藍? 喧嘩なんかして」

 男の子は女の子の脇を抱えて立ち上がらせると、中腰になって土で汚れたピンクのコートを払っていく。

「喧嘩なんてあんまり褒められたもんじゃないぞ、藍」

「っすん……っすん……だってー」

「ほら、動かない」

 男の子は女の子の真っ直ぐに揃えられた髪の毛を手で払う。そこにも少し土がついていた。

「これでよし。家に帰ったらすぐお風呂に入ろう。汚れた服も母さんに洗濯してもらおうな」

「っすん……っすん……うん」

 女の子は、涙で顔をぐちゃぐちゃになりながら、力いっぱい男の子の胸へと飛び込んでいった。

「お兄ちゃあああぁん!」

「ど、どうしたんだよ? これじゃ帰れないじゃないかよ」

「っすん……お父さん、人殺しじゃないよね?」

「っ!?」

 聞こえた瞬間、男の子の心は、まるで強烈な電流が流れたように痺れて麻痺状態に陥っていた。けれど、それを決して泣きじゃくる女の子に悟られないように強く唇を噛みしめて堪えていく。

「……どうしたんだ、藍。そんなことあるわけないじゃないか。そんな馬鹿なこと……」

「っすん……っすん……だって、みんなが……みんながお父さんのこと……っすん……人殺しだって言うんだもん」

「それで喧嘩になっちゃったのか?」

「だって……っすん……お父さん、人殺しなんかじゃないもん。わたし、人殺しの子なんかじゃないもん」

「…………」

「違うもん。そんなんじゃないもん」

「……そうだよ」

 男の子は地面に膝をつき、女の子のことを抱きしめる。

「藍の言う通りだ。父さんは人殺しなんかじゃない。あれは父さんが悪いわけじゃないんだ。悪いのは、父さんが働いてた会社の人たちなんだ」

「っすん……お父さん、人殺しじゃないよね?」

「馬鹿だなー、人殺しのわけないじゃないか。それとも、藍は父さんが人殺しだと思ってるか?」

「ううん!」

 女の子は力いっぱい首を横に振る。

「違う!」

「うん、父さんは人殺しなんかじゃない。だって、父さんは父さんなんだから」

「うん!」

「よし」

 男の子は女の子と手をつなぎ、それを大きく振りながら家へと帰っていく。

「藍はさ、父さんのこと、好きだろ?」

「うん。お兄ちゃんは?」

「大好きだよ」

「ひどいんだよ、みんな、お父さんのこと人殺しって馬鹿にしてさ。そんなことないもん、お父さん人殺しじゃないもんって言ったら、みんなに嘘つきだって言われちゃって……」

「みんなの方が馬鹿なんだよ。だって、藍は嘘なんてついてないんだから。うん、藍が正しい」

「わたし、今度言ってきたら、蹴っ飛ばしてやるんだから」

「そんなことしたら、まだいじめられちゃうぞ」

「そうだけど……そうしないと、お父さんのこと、また馬鹿にされちゃうよ」

「よし。じゃあ、今度は俺も一緒に戦ってやるよ。藍のこと、俺が守ってやるよ。藍のこと、俺がこれからずっと、ずーとずーと守ってやる」

「本当ぉ?」

「ああ」

「うん!」

 女の子は眩しいばかりの笑顔を浮かべると、元気に大きく頷いた。

「わたし、これからずっとお兄ちゃんと一緒にいるね。お兄ちゃんと、ずーとずーと一緒にいる。ずーと、ずーとだからね、お兄ちゃん」

「おう」

 茜色の空は、間もなくその色を失い、暗闇が世界を覆い尽くすこととなる。

「よーし、家まで競争だ。よーい、どん!」

「あっ、お兄ちゃん、ずるーい。待ってー、お兄ちゃん」

 茜色をなくして暗闇に覆い尽くされた世界、しかし、そこにはいつでも無数の星々がきらめている。

「お兄ちゃーん」

 そしてその暗闇は、いずれ眩い光に満ちた朝によって失われていく。

 それらは決して止まることはなく、常に移ろいでいくもの。

 どんな時も。

 いつだって。


       5


 賑やかだった病室がすっかり静かなものになってから、かれこれ一時間半という時間が経過しようとしていた。

「……っ」

 今、停止していた空間が激しく変動していく。

「お兄ちゃん!」

 とても穏やかだった病室に細井藍が駆け込んできた。館内の呼び出し放送によって出ていったときとは比べものにならないほど血相を変え、ここまで走ってきたのだろう、呼吸は乱れて肩で大きく息をしている。すぐには整いそうになかった。

「お兄ちゃん!」

「…………」

 部屋に妹が戻ってきた。けれど、ベッドの上のにいる蒼は、そちらに顔を向けることはない。

 藍はばしんっ! と乱暴に音を立てて扉を閉めた。

「お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだよ!」

 藍は扉に鍵をした。直後にその扉を外から叩く音がする。廊下から男性の鬼気迫るような慌てた口調の声が響いてくる。それは、入室した藍のことを呼ぶ叫び声。けれど、藍は扉を開けることはなかった。

 視線を落としていた蒼は、少し顔を上げ、窓の外に目を移す。そこには雲一つない真っ青な空が広がっていた。

「藍……」

「お兄ちゃんはわたしだけのお兄ちゃんなんだからね!」

 藍は窓側にある棚に近づいていく。棚は藍の胸の高さ。そこに置かれている果物ナイフを手に取る。その動作に、微塵の躊躇もなかった。

 蒼はゆっくりと瞼を閉じた。

「…………」

「そんなのいらないよね!」

 藍はナイフを手に、蒼のいるベッドへと近づいていく。

 蒼は静かに瞼を閉じたまま。

「…………」

「いらないよね!」

 ベッドが大きく沈む。藍がベッドに伸しかかり、蒼の上に馬乗りとなったから。

 蒼は妹の存在をその身で感じ、閉じていた瞼をゆっくりと上げていく。そこにはこれまで見たことのない歪みきった妹の顔があるのだった。

「…………」

「そんなのじゃなくてさ、今度はわたしのをあげるよ!」

 藍は両手でナイフを握っている。その腕を大きく振り上げた。

 蒼は一切抵抗しない。身動きすらすることはない。ただ妹の顔を見つめ、じっとその場に横たわるのみ。

「…………」

「だから、そんなのいらないよね!」

 藍が蒼の心臓目がけて腕を振り下ろした。

 蒼の意思に関係なく、その口は小さな呻き声を上げる。

「…………」

「今度はわたしと一緒になるの!」

 藍は二度、三度、四度、五度、六度とそのナイフを振り下ろす。その腕に、スコップを無数の石の交じる地面に突き立てるような感触が残っていく。

 蒼の体は反動で上下していた。

「────」

「お兄ちゃんと一緒になるのはわたしなんだから!」

 藍は鮮血で染まった果物ナイフを、実に楽しそうで幸せそうな至極の笑みを浮かべながら、自分の首筋へ向けた。

 すでに、蒼の視界から光が失われていた。

「    」

「お兄ちゃあああぁん!」

 鮮血。


 二つの体が横たわる病室のベッド。そのベッドには、主の体から溢れ出てて染みついた赤色の液体にさらなる赤色が加わり、赤と赤が混じり合ってこれまでにない赤色を作りだしているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心のゆきつき @miumiumiumiu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ