第三話 脱出

 早くしないと売り切れてしまうみたいに、クッキー売りの少女は「はやく、はやく」と僕を急かし連れてきたのは、街外れにぽつりと構えた、ささやかな緑に囲まれた、感じのいいパン屋だった。


「クッキー買いたい、お客さんが来たよ!!!」


 まるで狼少年みたいに乱雑にガラスのドアを開けて、クッキー売りの少女はバックヤードに向かって大声で叫んだ。


 なんか、思ってたのと少し違う…。

 まず、入った感じ、絶対オープン初日のお店ではないし、クッキーのお店じゃなくて、どう見てもパン屋だった。


「はいはい、はいはい」


 エプロンを小麦粉まみれにして、徹夜明けの大学院生みたいな顔の、丸メガネをかけた男性が、奥から登場した。


「この人が、クッキー買いたいって!」

「ほう…。クッキーですか…」


 きらりと、目が光ったように見えた。

 目元は優しそうで、微笑んでいるように見えたけど、僕のことを注意深く観察しているのがわかった。


 なんだよ…。

 裏メニューだったのか?

 だとしても、おおげさな反応だな…。

 この辺はまだ、僕がこの世界の住人のリアクションに慣れていないだけか?

 

 「どこで、クッキーのことを?」


 【はい】か【いいえ】、もしくは、何か会話の選択肢のようなものが目の前に浮かんでくれるかと待っていた僕だったけど、何も現れなかった。


 あっ、あっ…。

  

 おじさんと見つめ合って、永遠にも感じる3秒が過ぎると、横にいた少女が代わりに答えてくれた。


「私が、新商品のクッキー買いませんかって、売り子したの」

 

 それは、まるで、僕は何も喋らなくても、会話は進むようになっているみたいに。


「ああ、新商品の。なるほど」


 一瞬表情が曇ったように見えたけど、その後は特に特徴がないと言ったら失礼かもしれないけど、人当たりのいい優しいおじさんにしか見えなくなった。

 

「実は、今日からクッキーを売り始めましてね。新商品なんですよ」


 あぁ…。そうだったのか。

 

 僕は苦笑いをしてしまったのだけど、少女は、その意味がわからなかったらしく「ねえ? 言ったでしょ!」みたいな顔をしていた。


 いや、新商品っていうか、君は、この店が今日オープンみたいな事言ってたよ?

 たしか。

 まあ、いいけどさ。


「千枝ちゃん、また宣伝してくるね!」


 おままごとでもしてる気分なんだろう。

 

 千枝ちゃんは、パン食い競走してるみたいに、商品棚に置いてあった惣菜パンを風のように素早く一つ取ると、店の外へ駆けていった。


「それで、なんでしたっけ?」


 …。

 

「…」


 また時間が止まってしまったように感じた。

 これは、どうなるんだろう。

 他人事かよって言われそうだけど、でも、僕はそんな質問されたって、喋れないんだよ、本当に。

 ごめん。


「ああ、クッキーでしたね!」


 何の沈黙もなかったかのように、千枝ちゃんパパは言った。

 ほんとに、この時間がたまらなく嫌だった。

 今も心臓がバクバクしてたし、背中はびっしょりで、冷や汗が止まらなかった。

 でも前の世界のように、相手が嫌な顔をしたり、会話が途切れてしまったりすることは今のところはない。

 この世界の人々は、前の世界の人々の反応とあきらかに違った。


「実は種類がたくさんありましてね…。こちらはどうですか?」


 千枝ちゃんパパが、ガラスのショーケースから取り出したのは、定番の市松模様のアイスボックスクッキーだった。

  

 うん、普通においしそう。



【はい】   【いいえ】


 

 そしてようやく、こちらも定番の二択が浮かんだ。

 なんとなく法則がわかってきた。

 【はい】か【いいえ】で答えられそうな質問だけ、この文字が僕の視界に浮かび上がってくるんだ。



【はい】    «いいえ»



 そして、【いいえ】に集中すると、クリック音がして、選択できる。


カチッ


「ほう…。そうですか…」


 ほらね。


 千枝パパは残念そうに、クッキーをショーケースに戻した。


 あ、でも、やべ。

 なんで【いいえ】を選んじゃったんだろう

 今別にクッキーいらないなって思っちゃったから、無意識に選択してしまった。


「それじゃあ、こちらはどうですか?」


 次に取り出したのは、うずまきのアイスボックスクッキーだった。


「こちらはですね、ほんのり紅茶の風味がするんですよ」


 

 【はい】    «いいえ»



 僕はまた【いいえ】を選んでみた。

  

「紅茶は苦手でしたかね…」


 ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんですけど、他のも見たくて…。

 たぶん、僕が【はい】を選んじゃったら、もうこのクッキーしか買えないし、会話も終わっちゃうから。

 僕は久しぶりの人とのまともな会話が出来てる気がして、自分がいくらかまともな普通の人間に成れたんじゃないかって思えて、嬉しかった。

 たとえ会話の相手が、同性の冴えないおじさんでも。


「これは、抹茶クッキーと言いまして、非常に奥ゆかしい味わいが…」


【はい】  «いいえ»


食い気味に【いいえ】を選ぶ。

どうやら、会話の最中でも選択肢が出てきたら、選べるらしい。


「そうですか…。となると…」


 千枝パパもこうなると意地になってるみたいだった。

 ちょっと、困らせちゃってるかな。

 最初のベーシックなやつ選んでおいたほうがよかったかな。

 でも、僕抹茶あんまり好きじゃないんだよね…。

 …。

 あれ。

 ていうか、今思ったけど、俺、お金もってなくね?


「うーむ…」


 腕を組んで悩みこんでしまっている千枝パパの姿に申し訳なさも感じつつ、僕はこの先の選択肢もすべて【いいえ】を選ぶことに決めた。

 【はい】を選んでもお金がなければ流石に買うことはできないだろう。

 僕が持っているのは、さっきプロレスラーにもらった革の袋だけだ。

 中に何が入ってるのかもわからん。

 そもそも、僕のじゃないのにプロレスラーに脅されて不可抗力的で【はい】を選んで受け取ってしまったわけだし、怖くて開けられないでいた。

 まあ、もしかしたらゲームの最初に貰える初期アイテム的なやつかもしれないけど、そうじゃなかったら、あの酒場にいた海賊みたいな輩の私物を盗んだことになってるだろうし、手をつけたら殺されるよ。

 まあ、もしかしたらもう殺そうとしてるかもしれないけど…。


「あなた、クッキーを買いにきたんですよね?」


 とつぜん、低い声が耳元で聞こえた気がした。

 

 千枝パパ?


 今のは気のせいだろうか。

 店内には僕と千枝パパ以外誰もいなかったし、確認できる限りだと千枝パパ独り言のように、そうつぶやいたみたいだったけど、今聞こえた声は、まるで別人の声だった。


【はい】   «»いいえ«»


 選択肢が浮かび上がるや否や、僕は【いいえ】を選んでいた。

 クッキーは買いに来てないし、何か嫌な予感がして、不穏な空気が漂い始めたこの店からすぐに出たくなった。


「…」


 僕が単にコミュ障だからではない、緊張した空気が辺りに張り詰めた。


 なんだ、この変な感じは…。


「パンを買いに来たんですか」


 男はもはや、僕の顔なんて見てなかったし、手に持っていたクッキーの箱の存在も忘れていたみたいだった。


 逃げなくちゃ。


 【はい】  «いいえ»


 ぐしゃ


 【いいえ】を選んだクリック音ではなく、箱が潰れる嫌にリアルな音がして、男は自らの手でぐしゃぐしゃにしたクッキーの箱を床に放り投げた。


 なんだよ、この人…。

 いや、たしかに、ただの冷やかしみたいになっちゃったかもしれないけど、そんなに怒ることないっていうか、こんなに人が変わったみたいになるなんて、大丈夫か、この人…。


「おい。小僧」


 全身の毛を逆撫でるような、野生の声にぞっとして、僕は反射的に飛び退いて、そして、時の流れが緩慢になった。





   →『九鬼を買いますか』



 【はい】       【いいえ】



 視界に現れた選択肢の画面。

 世界がモノクロになって、すべての動きが止まる。

 音も色も、何もかも。



 

 ⬆



 そして当たり前のように、僕の身体は消失し、ただの記号に成り果てていた。

 

 また、この画面か…。


 あきれたように、思考して、あることに気がついて背筋が凍る。


 パン屋の千枝ちゃんパパがいない。

 あれ? そんなはずは…。


 振り向いて、思わず叫んだ。

 けど、声は出てなかった。


 ぎゃああああああ!


 僕の身体があったすぐ後ろに、得体のしれない化け物がいた。

 上背は二メートルはあるだろうか。

 長身ですらっとして、獲物に襲いかかるような不気味な格好で、静止していたソイツは、全身が針のような灰色の毛に覆われていて、僕の親指ほどの歯をむき出しにしていて、目は血を浴びたみたいに真っ赤だった。


 お、狼?


 人型の狼。

 人狼がそこに居た。

 毛の鎧の上からでもわかる、人間離れした、洗練され発達した筋肉。

 爪は鋭利なナイフのよう、と言うより、あまりに大きく分厚くて、敵を引き裂くためというより、穴をあけるように出来てるみたいだった。


 なんで、いきなり、こんな化け物が、パン屋に!?

 


    →『九鬼を買いますか』



  【はい】       【いいえ】



 それに、なんだ、この質問は。

 九鬼?

 きゅう、おに?

 きゅうき?

 くき?

 …。


         ➡

        ⬆ ⬇

         ⬅         

        

 

 わけがわからなかった。

 状況を把握しようと、店内を見渡したけど、何もわからなかった。

 僕とこの人狼だけがこの空間にいた。

 そして、人狼の格好に見覚えがあったのを、僕はこの瞬間までわからないふりをしていた。

 でも、気づかなければいけなかった。

 人狼は、その姿こそ違えど、身につけていた小麦粉まみれのエプロンは、さっきまでいた千枝パパと全く同じ物だった。


 この目の前の化け物は、さっきの千枝ちゃんパパ…。


 そうとしか考えられなかった。

 そして、僕は襲われたのだ。

 突然、そして、一瞬にして背後を取られて。

 間一髪、二択と矢印の世界に助けられたけど、そうじゃなかったら、今頃絶叫して、肉を引き裂かれてる。

 あの、恐ろしい牙で爪で。


 

   →『九鬼を買いますか』



   【はい】  【いいえ】      


        ➡

       ⬆ ⬇

        ⬅    



 今にも襲いかかってこようと静止している人狼を背景に、僕は質問と選択肢の前で、ぐるぐると思考の時間を稼いだ。


 僕は助かるのか?

 この、選択肢のどちらかを選べば僕はちゃんと助かるのか?

 だいたい、質問の意味がわからない。

 今ボクは死にかけているのに、どうして問われる内容が、何かを買うかどうかなんていうあまりにも悠長なことなんだろう。

 さっきのプロレスラーの時もそうだけど、質問が来たとしても、なんで、『逃げますか』とか『戦いますか』じゃないんだ?『仲間にしますか』ならまだいいよ、「九鬼」とかいう知らない単語が急に出てきて、買うかどうか尋ねられても、答えようがないだろう。


 どうしたらいいんだ!?




 【はい】     【いいえ】


    ⬆

     


       


 でも、僕はこっちの選択肢を選ぶしかない気がする。

 というのも、僕はさっきまで、千枝ちゃんパパ(人狼)の質問に【いいえ】を連発した結果、千枝ちゃんパパは狼になって、僕に襲いかかってきたんだ。

 何も買わない客に怒ったから襲いかかってきたのか、元々何も知らずに買い物をしに来た客を襲う算段だったのかはわからない。

 もしかしたら、千枝ちゃんも狼で、グルなのかもしれない…。

 悲しいのか、悔しいのか、目に涙が浮かんでくる。


 なんなんだよいったい、くそが!


 どんなに頑張っても、身体は元に戻ることはないし、店内から出ることもできない。

 選択肢のどちらかを選ぶしか、止まった時間は進まないのだ。


 覚悟をきめるしかなかった。

 たとえ、選択の結果、世界がどう進むのかがわからなくても。

 

  


   →『九鬼を買いますか?』


  

   «はい»        【いいえ】

    

    ⬆

 

 僕は【はい】を選んだ。

 その、意味わからん「九鬼」とかいう物騒な名前の何かを買いますから、お願いですから、襲わないでください。



 カチッ


 

 時計の針を進めるクリック音がして、僕は身体を動かせないまま目をつぶった…。

 そして。


「なに? 九鬼を買いに来ただと」


 生暖かい獣の匂いがする息が顔にかかり、人狼の後ずさる音が聞こえた。

 それは僕にとっては、死が遠ざかっていく音に聞こえた。

 身体から力が抜ける。


「紛らわしい。最初から、“くっき” が欲しいとそう言え」


 気だるげな人狼の声が聞こえる。

 僕は恐る恐る目を開けた。

 巨人のように見えた人狼は、普通の人間の姿、千枝ちゃんパパに戻っていて、メガネをかけると、ひとつだけあったテーブル席に座ってタバコに火をつけた。


「それで、通常取引か? 金は?」


 人間の姿だったけど、もう人間には見えなかった。

 さっきまでの敵対が嘘みたいに、落ち着いた平日の昼間に客の相手でもしてる雰囲気だった。

 僕はまだ、さっきの修羅場とのギャップについていけずに硬直していたけど、目の前に現れた選択肢がそれを許してくれなかった。



 【はい】    【いいえ】

 

          

 ああ、たすかった…。のか?

 人狼は僕に何て言った?

 取引がどうとか、金があるかのか尋ねたのか?

 でも、お金は持ってないぞ。


 

 【はい】     «いいえ»


 【いいえ】を選ぶと、人狼は少し驚いたような表情をして、片方の眉をぴくっと上に動かした。


「報酬取引か…。そうだな…。ちょうど今は殺したい奴もいないし、九鬼ならベリイチゴひと籠と根っこバター200gで取引しよう」


 «はい»      【いいえ】


 まったく意味がわからなかったけど、とりあえず【はい】を選ぶことにした。

 僕はいったい、この人狼から、何を買うために何と取引しようとしてるんだろう。



「じゃあ、ほら、この籠と瓶」


 

 僕の選択の後、人狼は扉の横に無造作に置いてあったざるみたいな木の籠と、ショーケースの裏に置いてあった空の瓶を掴んで僕に投げてよこした。

 それと。


「おまえ、この辺のじゃないだろ。これも持ってけ」


 そう言って人狼が渡したのは、本棚に置いてあった、手帳のような小さな本だった。


「ベリイチゴと根っこバターの取り方が載ってる」


 僕は言われたまま、籠と瓶と本を革袋に詰め込んだ。


 とりあえず逃げよう。

 よくわかんないけど、逃げれそうなんだ。


 パンパンになった袋の紐を結んで、僕は立ち上がる。

 人狼の方を見ると、こっちの事なんてそっちのけで紫煙をくゆらせながら新聞を読んでいた。

 その何気ない日常を過ごしているかのような姿は、僕を襲った時の人狼の姿よりも、はるかに僕をゾッとさせた。


 さっきまで僕を殺そうとしていたくせに。


 なのに、そんな、何事もなかったかのようにしている人狼の姿を見て、僕は大きなショックを受けた。

 こんなやつが普通に街のパン屋にいる世界に、僕は転生してしまったのか。

 

「ったく、近頃の魔法使いってのは…」


 ぶつぶつ呟く人の姿をした人狼を尻目に、僕は血だらけにならずにすんだ、甘いタバコの匂いがしみつくパン屋から脱出した。

 

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