最後の闘い

第5話

 僕の眼前に、なかなかちょっとした惨劇が展開されていた。


「やあ、陣内。なかなか、難儀しているようだね? ……と、言っても聞こえないだろうがね」


 今までは手文字でコミュニケーションをしていたのだから、話しかけたって分からなくて当然だ。


 さて、陣内はいま、僕の城のすぐ脇にある崖を這い上がろうとしているところだ。その崖の下に、血潮にまみれた亡骸が一つ転がっている。僕の部下の死骸だ。つまり、の。


「覚えのある……匂いだ……ハンスか?」


 これは驚いた。この距離で、しかも匂いだけで、僕が僕であると分かるのか。


 だが、説明するのは危険だし、そうする意味もないし、またそんな義理もない。


 僕は無言で、崖の斜面にいる陣内にクロスボウを向けて。


「死んでくれ、陣内。君の姉、余の妻の願いのために」


 撃った。


 まだ事情が呑み込めていない方もいるだろうから、説明しておこう。


 僕の……いや、余の本当の名前は、シャルフェンベルク伯爵カロン。ハンス・プットマンというのは確かに余の部下の名だが、陣内と共に船旅をしたのはハンスではなく、カロンであるところのこの余だ。


 本物のハンス・プットマンというのは、実はゼーランディアからここまで陣内を連れてきた、案内人だった男のことである。あらかじめ細工しておいた馬を暴れさせて陣内を崖下に振り落とすように仕向け、そして可能ならその手で始末するように命じてあったのだが、まあそこで死んでいるところを見ると失敗して斬られたのだろう。そんなことは事前に織り込み済みである。


 さて。で、説明はいいとして、余は崖の上の弩で陣内を狙い撃ちにしたわけだが。


 信じられないことに、陣内は崖の上に不安定な姿勢で立ち上がって剣を抜き、ボルトを切り払っていた。


「……何故だ。何故、何故、そんな真似ができる。本当は見えるのか? 本当は聞こえるのか?」


 聞こえていないはずなのだが、まるで返事をするように、陣内が語り出した。


「見えも聞こえもせずとも……にんげんの殺気は、匂いで分かる。ひとを殺そうと決意したとき独特の汗の香りや体臭が、それを教えてくれる。剣を抜くべき機を」


 バカな。仮にそれが本当だとしても、完全に人間のわざではない。


フントめ……!」

いぬの陣内。日ノ本では、そう呼ばれていた。推参おしてまいる


 余は絶叫した。


「者ども! 撃て! 一斉射撃!」


 陣内は長刀を振るった。目の前で見るのがこれで幾度目かになるが、しかしやはり信じられない速度だった。とはいえ流石に、一矢ならばともかく同時に放たれた矢の全てを空中で墜とし切ることはできないようだった。遂に、一本のクロスボウボルトが陣内の脇腹に突き刺さった。


「やったぞ!」


 何人かの部下が快哉を叫ぶ。


「馬鹿者、まだ早い! 油断するな!」

「歓喜も……匂いを発する」


 ようやく崖を登り切った陣内が、一瞬身を伏せたかと思うと、爆発的な勢いでこちらに突進してきた。


「撃ち方やめ! 剣構え!」


 だが、遅すぎた。陣内が疾風のように走り抜けると、その後ろで部下たちが血飛沫しぶきを上げて倒れた。部下たちと言ったところでそんな何百人といるわけではない、たちまちのうちに半壊状態に陥り、恐慌をきたすに至った。


 陣内は逃げる兵までは追わなかった。追えないのか、追わないのか、それは分からない。ただいずれにせよ、陣内は見えないはずの目で、ただ余の方だけをじっと凝らして見るようにしていた。


「やはり、ハンスだな。間違いない。何度も……嗅いだことのある殺気だ。そうだ、とっくに知っていた。正体が何者かは知らんが、お前がおれを幾度となく殺そうとして、殺す隙を伺い続けていたことだけはな」


 少なくともどちらかが、今からこの場で死ぬ。余が死ねば、遠くない未来に余の妻も死に、そしてこの愚かな犬めも死ぬのだろう。ならば、犠牲は最小に留めねばならぬ。余は改めて、その覚悟を決めた。

 

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