第3話 溶けて崩れ落ちるまで

 今日は確か同窓会。

 フラフラと着替えると目の前の鏡には青白くやつれた顔が映った。

「よっちゃん大分痩せたんとちゃうか?」

「そうかな」

 痩せたかな。

「亡者みたいや。そんなんじゃ女にモテへんぞ。村におったら大分言われるやろ」

「一昨日ずいぶん言われたよ。子供はまだかとか」

「まあこの辺じゃ20過ぎで結婚してまうからなぁ。ええ子はおらんのか?」

 ええ子、か。あの女はどこか虚ろな印象だった。そういえばどんな顔だっただろう。何やら記憶が朧げだ。ハッキリしているのはあの2本の足……ゔぇ。

「ほんま大丈夫か? 病気ちゃうん?」

「……大丈夫。それよりお前、仕事は配送だったっけ?」

「あぁうん。最近ジジババばっかやけんスーパーとかの仕事が増えとるよ」

「8号線北に行った左に丘があって、入ったとこに古い神社あるんわかる?」


 友人が頭を捻る間にグラスにビールを注ぐ。こぽこぽと白い奇麗な泡が立つ。

「ひょっとして伊邪那美神社か?」

「イザナミ?」

「そうあれ、日本神話のイザナギとイザナミ。振り返ったら奥さんがゾンビの話。あの神社、随分前に廃墟になってな、崩れるから近寄るな言われとる。あの奥に黄泉平坂があるんやて。あほらし」

 黄泉平坂。だからあの社はあれほど昏く体温のようにじとりと生温いのか。震えが起こる。

「なぁ、ほんま大丈夫か? 家まで送ろか? まぁ縁起悪いことは忘れや。それに今は盆やきん近寄らんで。穴が開いて亡者が出るいうからな」


 そうか、亡者が、出る。


 そこから友人と何を話したのかよく覚えていない。けれどもふと顔を上げればやはり廃社の前に立っていて、すとんと腰が抜けた。右手にあった石碑に縋ると蔦がずれた。表面を撫でると確かに『伊邪那美』と読めた。そのひび割れた石の隙間からも、生温い風が澱み流れている。振り返った廃社の奥はただただ暗かった。

 ふぅ、と息を漏らしてふらふらと社務所を目指す。どうしてそちらに向かうのかはよくわからない。ただ、足下を揺蕩う温い風は、俺の足を確かに誘い、俺の足はカクンカクンとそちらに動いた。


 やはり指は震えている。開けずに逃げ帰ればいい。そう思うものの弛緩した俺の頭はうまく動かず結局その鉄の隙間を押し上げる。その途端、むわりとした熱と臭いと虫がその細長い口から溢れ出て、俺は嘔吐した。ほとんど中身が入っていない泡立つ白い汚い液が靴を濡らす。何故開けてしまったのだろう、何故。

 死んでいて、生きている。

 昨晩より更に1歩進められた右足は指を伸ばせば触れられるほど近く、グジュグジュと青く溶け、白い骨と妙な色をした肉を露出させ、その隙間に沢山の小さな蛆が潜り込もうとしていた。そしてその床は茶色に塗れ、おそらく落下したのであろう内容物と少し離れたところに1本の腕だったものが、同じようにぐじぐじしながら無造作に落ちていた。

 ここは黄泉路。


 気づいたら、社務所の前で倒れていた。

 明るい。燦々と、というよりはそのジリジリとした灼熱の太陽は、俺をまるで焼却するかのように照りつけていた。

 頭が霞む。明らかに脱水症状。体がうまく動かない。なんとか木陰まで這い寄って体を休める。発酵するように体内が熱い。水を飲まないと。さらにフラフラと車に戻りドアを開けると燃え立つ窯を開いたように熱気が押し寄せた。

 長時間暖められた車内は茹だるような暑さだったけど、それは正常な世界の営みの中の事象に思えて、逃げるように車内に入りその熱気に癒された。

 しばらくするとエアコンが効き、涼しい風が額をなでる。大丈夫だ。まだ熱いペットボトルの口を開けて飲み干す。喉をこじ開ける熱さが心地いい。ジィジィという昼の蝉の音が聞こえた。俺はまだ、生きている。常世にいる。

 ぼんやり見やった廃社は、今は緑の中で成りを潜めていた。再び戻って明るい日の中であの光景をもう一度見る気にはなれなかった。そうしようとも思わなかった。きっと非物理的に物理的に、立っている、確信が、あった。


 明日。明日だ。今晩送り火を焚いて明日は都会に帰る。あの冷たくそしてどこか優しい街の灯りに。

 エンジンをかけると車はドゥルルと動き出した。


◇◇◇


「ご先祖様、また来年なぁ」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 提灯の火を墓前の蝋燭に移し、祈って消す。火がフッと消えた。それでこの、盆は終わりのはずだ。全て。まだ残光が少しだけ残った紅い夕焼けに家族と賑やかに家に帰る。これで盆は終わりだ。終わった、はずだ。

 家に帰って家族で夕食を取る。懐かしい料理。カレイの煮付け、胡麻汚し、豆腐の味噌汁、茄子の天ぷら。

「もう帰ってしまうんか? もっとゆっくりしたらええのに」

「仕事があるから」

「しゃあないなあ」

 妙に温かかった。人の温かさがした。あのよくわからない場所から人間の生活に戻ってきた気がする。人間の生活。あの女は結局家族の元に帰れなかったのか。もう顔も思い出せない女。


 盆を過ぎたから、きっと死者は正しく死んだのだろう。やはり俺はあの女を盆の初めに殺したんだ。そう思うとホッとしたと同時に今まで奥底に隠していた罪悪感が湧き上がる。明るい晩餐に流れそうな涙を耐えた。そしておそらく、電波の繋がらないあの場所を探す者はいないのだろうなと思う。検索したら夏の死体は1週間で骨になるらしい。俺はあの女を街道で降ろした。そこから先は知らない。きっとそれで大丈夫。

 なんてことを。俺は、あの女殺してしまって、恐れて、そして結局保身しか考えないのか。何て下劣な。深い後悔と罪悪感。気持ちが悪い。けれども盆を越えて心に刺さった棘が取れたように感じた俺の体はよく飯を食べ、眠りについた。


 ふと、目が覚めた。2時過ぎ。

 苦笑した。おそらく体がこの時間に起きることに慣れてしまったのだろう。明日から仕事は大丈夫だろうか。そう思うと同時に、あの女にはもう明日は来ないのだと思って陰鬱な気分になった。俺は明日の昼にはここを発つ。あの女には線香の1本でも供えたほうがいいのではないか、そう思った。俺が殺したのだから。

 だが明日昼に行けば誰かに見られるかもしれない。そうすれば死体が見つかった時に疑われる。だから、姑息な俺は今車を回すことにした。全てを隠すこの夜に。気持ちを無視することは心苦しかった。ただの自己満足で、本当に姑息。


 盆を過ぎたからか、開け放った車窓に涼しい風が少しだけ吹いてきた。相変わらず牛蛙の声はうるさかったが、梟の鳴くようなホゥホゥという声も聞こえ、早起きのコオロギのチリリという音も少し聞こえる。これから田舎は急激に涼しくなって、いろいろな音が増えていくのだろう。俺が明日戻る都会との違い。そう思うと少し名残惜しく感じるから不思議だ。

 だがそんな風に思えたのは街道から脇道に入るまでだった。

 途端、空気の重さが変わった。ぞわりと何かが俺を包み、背中を優しく撫でた。まさか。まさか。まだ、終わって、いない?

 車を止める頃には俺は息を薄く吐くことしかできなくなっていた。嘘だ、全て終わったはずだ。何が? 頭がまた混濁し始める。薄暗く生臭い風がたゆたゆと足下にまとわりつき始める。駄目だ、行くな、行ってはいけない。そう思うのに、足は辿々しく前に進み、黄泉へ繋がる昏い穴を通り過ぎ、社務所の前へと誘った。駄目だ、体が動かない、俺が命じる通りには。指は郵便受けに伸び、その先を押した。嫌だ、やめて。自分の中に悲鳴が膨れ上がる。


 けれどもそのフタは開かなかった。開かない? 昨日と違う。盆が終わったから怪異が終わったに違いない。よかった、世界は閉じられた。だから、怪異の扉であるこのフタは開かない。ここは現世だ。黄泉ではない。ふっと口から溢れる息が温かい。涙腺が緩む。俺は生きている。そのことにひどく喜びが込み上げた。俺は踏みとどまった。踏みとどまれた。

 この扉は異界の扉だ。この奥は黄泉路に繋がっている。たった1枚の薄っぺらい合板で貼られたこの粗末な木の扉が俺を現世に押し留めてくれた。

 そう思った途端、俺の体は俺を裏切った。指が、指がさらに郵便受けのフタを押した。そうすると、何かにツプリと埋まる感触がした。そしてこれまで嗅いだことのないような強烈な腐臭がたち、じゅくりと、まるで水で濡らした脱脂綿を絞るような音と感触がした。

 その瞬間俺は凍りつく。勘違いに気がついた。開かなかったのは盆が終わったからではなく、あの女が扉に近づき過ぎたからだ。近づき過ぎて、そのおそらくもう肉の乏しい膝がフタを塞いでいた、だけ。指から震えが全身に広がり、体が凍りのように凍え落ちる。ここは、黄泉路。


 伊邪那美は伊邪那岐を追いかける。その理由は、黄泉平坂で振り返ったからだ。

 いつだ、これはいつ始まった。俺はいつ黄泉に囚われた。女が死んで、その唇が動くのを見たときか、それとも最初に郵便受けを開けて細い懐中電灯の光で照らしたときか、それとも、盆が終わったのにのこのことやってきてしまった今なのか。

 ゴクリと喉が鳴ると同時にカチャリと鍵が回る音がして、声が聞こえた気がした。

「ねぇ、一緒に死んで?」

 あるいはこの女のSNSに初めてメッセージを送ったとき、か。


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