第2話 その、間

「たまには家に帰りんさいよぉ」

「忙しいんだよ母ちゃん」

「まぁすっかり都会に染まってしもてからに」

 グラスにビールが注がれ、カツンと打ちつけられる。

 田舎の晩飯はわいわいと賑やかだ。20畳ほどの開け放たれた広い座敷に15人を超える大人が入れ代わり立ち代わり集まっていた。

 本当は今日の昼に挨拶周りをする予定だったのが、実家につくと同時に眠気が限界を超えて、気がついたら外はオレンジ色になっていた。無為に1日を過ごしてしまった。そういえばと思い夜中に刺さった棘を抜こうと手元を見たが、何かが刺さった皮の破れと赤い跡はあるものの、棘は見当たらなかった。違和感はあるがきっといつのまにか抜け落ちたのだろう。


 思い出して携帯を開く。SNSに女からの連絡はなかった。まだ怒っているのか、俺と同じように寝ているのか。『連絡がほしい』とだけメッセージを飛ばして、あとはいつの間にか始まっていた田舎の宴会に巻き込まれた。

 散々飲んで、俺や幼馴染の小さかったころの話がエラーのように繰り返されて、なんだか懐かしいような、とっとと都会に帰りたいような複雑な気持ちで酒を喰らい、そしてふと、夜中に目が冷めた。


  流しで涼しく透明な水を飲む。やはり実家のほうがうまいな。都会より。

 都会。そう思って女のことを思い出して携帯を開く。メッセージは未読スルーだった。なんだよ、と思いつつ、朝は大丈夫だったがそのまま倒れてやしないよな、と不安になった。俺は開け放たれた座敷で寝ていて、その蒸し暑さは昨日の夜を思い起こさせた。

 漠然とした不安を抱えて車に乗り込む。ざりざりとした未舗装の道を進み、記憶をたどって脇道に入る。ハイビームに照らされるまだ新しい草が倒れた跡と轍を追いかけ、昨日の神社にたどり着く。廃社は昨日と同じように朽ち、何やら昨日よりおぞましい気配を湛えていた。昨日は2人で今日は1人。だから恐ろしく感じるんだ。そう自分に言い聞かせて社の後ろを通って社務所にまわる。

 

 恐る恐るノブを回すが開かなかった。大声で呼び、扉を叩いても返事はない。やはり家に帰って俺のことを無視し続けているだけだろう。杞憂だ。そう思って、念の為に郵便受けの薄い扉を指先で押し開けると、室内は真っ暗だった。

 昨日のように懐中電灯の明りはない。何の音もしなかった。やはりいないのだろう。念の為と思って持参した懐中電灯で郵便受けを照らして、尻もちをついた。全身の皮膚が泡立つ。

 白い、足。細長く室内に差し込む光はそこに立つ2本の足を映し出しす。昨日と全く同じ、足。何故? どういうことだ。


「おい。返事しろ」

 再び扉を叩くが返事がない。混乱と、意味のわからなさ、湧く恐怖。待て、冷静になれ。ずっとここにいたのか? それなら電波が繋がらないから、メッセージの未読スルーはわかる。だが。なぜここにいる。腹はすかないのか。俺に怒っている? そうだとしてもここに居続ける理由がない。何故、帰らない。まさか、帰れない?

 立っている……ということは、倒れていない。無事なことは無事、なんだよな。わからない。

 もう一度郵便受けに懐中電灯を捻じ込む。凹凸の少ない2本の、足。足首までの白い靴下とオレンジのスニーカー。確かにあの女が昨日履いていた靴。わけがわからない。ぷぅんと蝿が1匹纏わりついてきたのを追い払う。なんだか無性に、恐怖が襲う。逃げたい。だがこのまま置いていって、いいのか。返事はない。今現在進行系で何かが変化しているような、その変化を放置してはいけないような、恐ろしい予感。

 闇に絡み取られて変な汗をかきながら蒸し暑い夜の終わりが近づくまで動くこともできず、薄い日の光が差し込むとともに逃げるようにフラフラと実家に逃げ帰った。


◇◇◇


 一眠りすると昼だった。ばあちゃんが用意してくれた冷たいそうめんを啜りながら昨日の夜を思い出す。確かにあの社務所の中にはあの女の足があり、突っ立っていた。一昨日と全く同じ場所だったように、思える。何かが、おかしい。チリンと風鈴が鳴った。涼しい風が吹いている。

 縁側でスイカを手に取ると、ばあちゃんが俺に話しかけてきた。

「今晩も火を焚くけんねぇ。おらんとあかんよ」

「わかってる」

 昨日、夕方起きたらそのまま家族で菩提寺に墓参りに行った。うちの田舎の風習は少し変わっている。墓で点した蝋燭の火を提灯に移し、先祖が道に迷わないよう帰り道に提灯をかざして家まで案内する。その火は盆が終わるまで仏壇に灯し続ける。盆の間は毎晩家で仏壇からとった火を庭で焚き、その炎の上を3回跨ぐ。盆の終わりは仏壇の火を提灯に移して菩提寺まで行き、その墓に火を戻して先祖にお帰り頂く。

 詳しくは知らないが、火を跨ぐと先祖との縁が強くなるらしい。

 そんなことを思っていると、なんだか妙にあの女のことが気にかかってきた。まさか、亡者?いや、あの女は立っていた。だから、生きているはずだ。

 やはり不安にかられる。俺は一昨日の夜、本当は女を殺してしまって、盆で帰ってきた女があの社務所から出られずにいるのでは。そんな馬鹿な。馬鹿馬鹿しい。そんなはずはない。物理的に。


 けれども不安は消えない。夜だったからだ。きっとそうだ。夜に懐中電灯であんな狭い口から覗いたから、そんな妙な気分になってしまっているんだ。携帯を見ると未だ未読のままだった。昼ならば、今ならはっきりするだろう。

 気がつくと車を走らせていた。脇道はやはり鬱蒼としていたが、明るい光の下で見ると、その廃社は全体的に腐り落ちているだけの、ただの崩れた建物だった。夜と違って『この世のもの』のように思われた。昨日は気づかなかった朱色がほとんど剥げたヒビだらけの鳥居が草木に埋もれている。

 暑い日差しに滝のように汗が流れ落ちる。暗い社を正面からひょいと覗いてみたけれど中にあるものは朽ちた長持ちや棚ばかりで、動くものと言えば奥の方にちらりと見えた千切れた御札がふらふらと風に舞っているくらいだった。

 思ったより狭かった。一昨日の夜に見た社はもっと暗く奥深くまであるように見えたのに。いや、暗かったから見間違えただけだろう。ひゅうと涼しい風が吹く。


 ぐるっと回って社務所に向かう。声をかけて返事がないことを確認した後、郵便受けを押し開けると口から絞るような奇妙な声が出た。同時にぶわぁと腐ったような匂いが溢れて目に染み、黒い蝿がぞわぞわ郵便受けからまろびだし、思わず指を離す。指先は細かく震え続け、背中はびしりと濡れた。


 やはり、死んで、いる?


 ゴクリと喉を鳴らし激しい動機を抑えてもう一度入り口を押すと、薄暗い室内にはやはり足が2本立っていた。その足は酷く物理的で、例えば幽霊とかそういうものでは断じてなかった。恐る恐る下から眺めあげても膝上のスカートが見えるくらいで、それより上にある顔には至らない。これは、なんだ。

 腐臭が途切れない。が、あの女の荷物も社務所の中にあるはずだ。夜食におにぎりかサンドウィッチでも買って、それが腐った、に、違いない。そうに違いない。第一女は立っている。郵便受けを押し上げる指が汗でぬるりと滑った。


 そうだ、と思い社務所を壁沿いに移動する。室内が明かるいということは窓があるということだ。脇に回ると磨りガラスの窓があった。そこからは確かに玄関の前が見え、磨りガラス越しにぼんやりと人が立っている影が見えた。普通に、立っている。死体が立つはずがない。一瞬首吊かとも考えたが、郵便受けから覗いた足の裏はちゃんと地面についていた。

 それを確かめに再び郵便受けを震える指で押し上げる。泳ぐ目をなんとか動かすと、オレンジ色のスニーカーは確かに地面についている。けれども違和感があった。全体的に少し、古びた、ような。白い靴下に茶色い染みができていた。それは膝の上から垂れていた。そしてその汚れの周りにぶんぶんと蝿がたかっていた。ぐ、うぅ。とたんにせり上がる嘔吐感。なんだ、これは、どういう、事態だ。わけが、わからない。頭が考えるのを拒否する。思わず後ずさり気がついたらハンドルを握っていた。倒れ込むように実家に転げ込み、俺は意識を失った。


 夕涼み。そういう言葉があるがこのあたりの田舎の夜はさほど温度が下がらない。きっとあまり風が吹かないからだろう。だからたまに鳴る風鈴の音がとても涼しく感じられる。それから日暮しのカナカナという淋しげな声。

 目を開けた時、頭の上に冷たいタオルが乗っていた。気づいた母がソーダを持ってやってくる。

「熱中症かねぇ?」

 喉がカラカラで、ソーダを一気に煽ってむせた。ぷぅんと蝿が1匹縁側から忍び込んでコップに乗ろうとしたから思わず取り落とす。

「ほんまに大丈夫なん?」

 母はソーダを拭いて心配そうに俺を見た。その日は食欲がふるわず冷奴と冷麦をすすった。送り火だけはちゃんとせなあかんよ、というばあちゃんの声に火を跨ぐと、視界がぐらりと揺れて、名伏し難い何かとより深く繋がったような気がして嘔吐した。


 2時3分。はちりと目が開いた。胃はまだぐるぐると妙な音を立て酸い匂いが口中を漂っている。背中の汗が止まらない。暑いのに、とても寒い。この震えがどこからくるのか俺は理解していた。あの廃社が呼んでいる。よくわからない妄念に頭が割れそうだ。

 生きているのか、死んでいるのか。生者か死者か。それがハッキリすればこの混乱は収まるだろうか。せめて。


 気がついた時、廃社の前にふらりと立っていて、その場に崩れ落ちそうになった。沼の底を思わせるネトリとした湿度に慄く。昼に見た社とは異なりその内は暗く闇に浸り、恐ろしいものに繋がっている、そう確信した。

 そんなはずはない。かぶりを振る。だが来てしまった。来てしまったからには確かめねばならない。ザリザリと耳に不快な音が満ち、歩みは水中のように重い。けれどと幾ばくかの時間の経過によって俺はその扉の前にたどり着いてしまった。

 ぷぅん、と聞こえたその高い音は臭いの残滓か或いは蝿の羽音か。郵便受けを視界に収めた時、嘔吐し酸い匂いが広がった。気づくと指先にツィと固い感触があり、キィという音ともにフタは内側に開かれる。


 あぁ。


 嘆息した。生きていて、死んでいる。

 懐中電灯のか細い光に照らされたその2本の足はきちんと立っていて、しかもその爪先は左足が前に出ていた。1歩分、扉に近づいている。

 その足は茶色く変色して膨れ、靴下は汁で黒く澱んでいた。そしてそのふやけたような表面には甲虫が這い回っている。

 懐中電灯を落として、気がついたらベッドに横たわっていた。


 夢、だったのだろうか。いや。この背中にタールのような臭い汗がぬるぬる張り付いたシャツは、昨晩出かける前に寝巻きから着替えたものだ。いや、それも含めて全て夢? 汗が、酸い。

 夢であればいい。茫洋とした頭でそう願う。

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