溶けて崩れ落ちるまで
Tempp @ぷかぷか
第1話 あの熱い夏の夜
夏の夜、俺は廃屋で女を殺した。そのはずだ。
だがわからない。あれは何なんだ。
とても暑い夜だ。
◇◇◇
今年は土日のつながりが良く、たまたま会社で5日間盆休みが取れた。ちょうど高校の同窓会の葉書が届いていて、だから随分久しぶりに田舎に帰ることにした。
俺の田舎はいわゆる農村だ。ギリギリ歩ける距離に隣家があり、コンビニに行くには車が必須な場所、といえば雰囲気はわかってもらえるだろうか。娯楽は何もない。だから東京に出て5年も経つと自然と足が遠いた。今回の帰省は2年ぶりになる。
金曜に仕事を終えて軽く飯を食い、俺は車を滑らせた。助手席には女が乗っている。梅雨の前にSNSで知り合った女だ。これまで3度ほど会った。妙に印象に残らない女だった。本名は知らない。知っているのは働いているらしいということぐらい。少し暗い空気を纏うその女の気怠げな様子は、じとじととした梅雨の気配によく合っていた。お互いのことは何も話さず、ただ手持ち無沙汰に会って飯を食い、夜を過ごした。そんな薄い付き合いが俺には気楽でちょうどよかった。
この間飯を食った時、この夏は帰省するという話になった。その時不意に田舎の名前を出したら女は知っているという。どうやら女の郷里は俺の田舎の少し手前であるらしい。確かに聞いたことのある地名。
どうやって帰るのか尋ねられて車で帰ると答えれば、女は途中まで乗せてほしいと呟いた。ずいぶん長い間、実家に帰っていないらしい。
1人も2人も変わらない。だから乗せていくことにした。
夜景を後ろに1時間も高速に乗れば、すっかり山に囲まれ星灯りと高速の照明灯を除いて全てが闇に落ちた。思えばここから長い闇が始まっていた。
俺も女ももともと言葉数が多い方ではない。その頃には既に話題も尽きて、ラジオのパーソナリティのどこか遠い声を聞きながら車体の僅かな振動が体に気怠く伝わるのを感じていた。あと1時間半ほど走らせると女の郷里につく。そう思っているとふいに隣から声が聞こえた。
「あのさ、高速降りたとこに廃墟があるんだ。探検しない?」
「廃墟? 構わないけど」
「ありがと。行ってみたかったんだ」
女の示す廃墟は小高い丘を登ったところにある神社だった。街道から脇道に入り真っ暗な道をハイビームで切り裂きながら進む。やがて道は高い草に埋もれ、どこに進めば良いかわからなくなった。
仕方なく女の指示に従って道なき道を木々の合間をくぐり抜けゆるゆると進む。本当にそんな場所があるのだろうかと不安に思う頃、ようやく『ここだよ』という女の声が聞こえた。
ざざりと車を止めてドアを開け、冷房の効いた車内から出ると、突然田舎の夜が現れた。
ずんと体にまとわりつく湿度と熱気にそれまで忘れていた汗がシャツを濡らし、濃い草の香りに頭はくらくらと揺れた。耳にはブォーと唸る牛蛙の音とリィリィと掠れる虫の声。五感に訴えられるどこか原初的な暑さに思わず喉が鳴る。そういえば、こうだったな。
都会のキラキラしいけれどもどこか薄い空気との差。その違和感に、俺の生活の場所はすっかり都会に移ったんだなと感じた。
車に備え付けている懐中電灯を片手に草を踏み歩いていくと、ぼろぼろになった神社が現れた。近くに立つ石碑には神社の名前が刻まれているのだろうけど、蔦に巻かれて1番上の『伊』の字が辛うじて読めるくらいだ。とうの昔に訪れるものも無くなったのだろう、屋根の一部は崩れ、木でできた壁にはところどころ大きく穴が空き、社の内側が見えていた。その内側は既に半ば藪と化していて、古く壊れた畳を突き破って竹が生えていた。欄干も落ち、外回廊にも穴が空いている。
「ずいぶん古そうで、危なそうだな」
「そうだね、中に入ると危険かも」
それでもせっかく来たのだから、と女は賽銭箱の裏の階段を少し上り、正面の戸を開け放つ。不意にその奥から乾いた土のような匂いと獣臭い匂いが漂って思わず顔を顰めた。
女が懐中電灯で照らしても奥には何も見えず、ただただ闇が横たわっていた。
「危ないからもう行こうぜ?」
「もうちょっとだけ」
仕方なく女の後をついて社を一周する。思ったほど広くない。おかしいな。さっきはまるで地の底につながっるような深くて広い闇を感じたのに。
探検の終着点には社務所があった。古いには古くモルタルがポロポロと剥がれ落ちていたが、建物の形として残っている。女は何の気なしにノブを回すとカチリという音とともにギギィと扉はその奥に開かれた。カビ臭い。雑に振り回される懐中電灯にパイプ椅子と事務机、応接セットが照らされる。ローテーブルに懐中電灯を置く。
「ねぇ」
「悪趣味だぞ」
そうは言いつつも女と闇の中で軽く唇を合わせる。そうすると夏特有の茹だるような蒸し暑さとともにその湿った腔内からは少しばかりの腐りかけた果物のような香りがした。少し怯んだ俺を女はソファに押し倒す。思っていた張りや弾力ではなく湿った土の中に押し込められるようなずぶずぶとした気持ち悪い感触があり、それに慄き飛びあがろうとして見上げた女の顔は、テーブルに置かれた懐中電灯にちょうど照らされて、やけに美しく且つ恐ろしく映った。
「ねぇ、一緒に死んで?」
その声とともにソファの内側がぞわぞわと蠢き出す。ここは放置された廃屋。ソファが蟲の巣になっているかもという恐怖。思わず女を突き飛ばし、荒い息で逃げ起きた。
「冗談やめろよ」
けれども女は答えなかった。空気の止まった室内に煩いほどの牛蛙と蟲の声だけが響き渡る。
「おい?」
床に倒れた女に触れると妙に湿った感触がして、その後鉄錆のような匂いが漂った。急いで懐中電灯で照らすと女の頭部の黒い床がてらりと濡れている。
ひぃぁ
喉から変な音が出て、思わず社務所から飛び出した。あれは、血? 俺が突き飛ばした。どこかに頭を打ちつけた? 手が震えた。俺が殺したのか? でも1番恐ろしかったのは、濡れた床の上で照らされた青白い唇が動いてにやりと笑ったからだ。その顔の歪みが何より恐ろしかった。
けれどそこで少し冷静になる。顔が動いたということは生きているということだ。ほっとした。そうすると、急に不安が湧き起こる。助けないと。介抱しないと。そう思って社務所を振り返ると、カチリという音がした。ノブを回してももう開かなかった。
女が中から鍵をかけたのだろう。無事か。ホッと暖かい息を吐くとともに少しの罪悪感とそれと裏腹に怒りが湧いた。そもそもこんなことになったのは女が俺をここに連れてきたからだ。あんなソファに押し倒したからだ。思い出された嫌な感触に体がぷるりと震えた。
とっとと女を連れて引き上げよう、とガチャガチャとノブを回したが一向に回らない。
「おい、開けろ。もう行くぞ」
どんどんと乱暴に扉を叩くが開かない。しばらく呼びかけても返答はない。木の扉のささくれが棘のように小指の脇に刺さる。痛い。後で抜かなくては。もう早く帰ろう。扉を叩くたびに肩甲骨や腕に汗で張り付いたシャツが引き攣れて気持ちが悪い。
ない返事に苛立ち、ひょっとしたらまた倒れたりしたのではと不安になった。ふと扉に細長い郵便受けがくっついていることに気がついた。しゃがみ込み、蓋を開けて覗きこむ。
扉から1メートルほどのところに白い2本の足が立っているのが室内を照らす懐中電灯の灯りに浮かんでいた。なんだちゃんと立っている。右足を少しだけ前に出して。大丈夫じゃないか。そう思うと、返事がないことにまた怒りが湧き上がる。
「いい加減にしろ、置いていくぞ」
けれども返事はない。きっと突き飛ばしたことを怒っているのだろう。仕方がないな。1人にするわけにもいかない。ささくれた気分で扉の脇に座り込み、女が出てくるのを待った。
やがて空が少しだけ白み、遠くの山の稜線が闇から薄く切り取られていく。自然とあくびがでる。眠い。体はぐったりと疲れている。埒があかないな。こんな面倒な女だったかな。ふぅと溜息をつく。
実家には昨夜着くと言っていたのに帰らなければ心配するだろう。生憎、山で電波はつながらなかった。
ここの廃社は街道から一本入ったところで歩いても30分くらいだろう。女はこの近くの生まれで昨日の闇の中でもここにたどり着けたほどこの辺りには詳しい。ひょっとしたら俺がここにいると気まずくて出てこられないのかもしれない。
「本当に置いていくからな。後で連絡しろ」
最後に郵便受けから覗き込み、先ほどと同じように2本の足がまだ立っていることを確認して、少し気まずい思いを抱えながら車を回した。
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