第11話 裏表ない女
吹雪の中、男は見事に階下へ逃げ
十分に距離をとった。後ろを振り返る。かの氷使いが追ってこないと見るや、徐々に脚の回転を緩めて、歩くのと同じ速度まで落とした。
「…………」
黒い髪に散ったみぞれを淡々と払い、太い眉を斜めらせ、眉間に酷く皺を寄せる。思い知ったのは、なりふり構わず逃げねばならない程の、圧倒的実力差。
一歩間違えば死んでいた。
それを理解しているから、たとえこうして出し抜いたとしても苛立ちが湧き出てくる。
足りない。力が……
体術でも、頭脳でも、戦闘力でもない。
異能の圧倒的破壊力が、足りない。
各々に与えられた異能は、いわば人智を超えた人外の力。それに人間の培った力で対抗しようとするのは、無謀にも程がある。……素手では戦車に勝てぬのと同じだ。
ふと、氷の溶けて濡れた運動靴の底が、床を擦る時にきゅ、きゅうと耳障りな音を立てたのに気付く。これでは敵に居場所を知らせる事になると考え、彼は一先ず通りがかりの講義室で身体を乾かすことを決めた──矢先に、
傍の階段から声が掛けられる。
「あっ……センパイ?」
総毛立ち、冷静さを欠いて振り返る。声に覚えがあることに気付いたのは、顔を見た後。
「
「…………
「ああ、やっぱ先輩だ!良かったァ!」
───────────────────
【
所持異能力「ワイファイ・ポイゾナス」
───────────────────
今年に入学してきた、後輩の男。
“
「もう、わっけわかんなくて……!!
これからどうしたらいいっスか!?」
「……声がでけえよ。」
男はケイにしがみつかれながら、人の気配は無いかと周囲を警戒した。今は静まり返っている。
「スマセ……」
「別にいい。出くわしたら殺すだけだ」
低い声に、ケイの顔が曇った。
「オレ、人殺すなんてできないっス……
だからずっと、隠れてて……」
隠れていたという言葉。男はそれを聞き、己よりひと回り背の低いケイを、じっとりとした目つきで見つめる。
ケイが己を騙せるほど狡猾で、柔軟な男でないことを知っている故だった。
「あっ、うわ」
沈黙の末、男のタンクトップに滲んだ錆色に触れたケイは、驚いたように手を引いた。その様子に目を落としたまま、男は鼻を鳴らす。
「……ンだら、この
そう、それは血の痕。
衣服に飛び散った、確かな加害の痕跡。
「せ、先輩……まさか……」
「……アア、やった。まだ生きてるなら、そうした奴がほとんどなんじゃねえの」
親しき仲でも油断するなとばかり。男は口角を吊り上げて、なるたけ意地汚く、人の不幸を好みそうに見えるよう、つとめて笑った。ケイは驚愕に任せて黙り込んでいるようす。大きな丸い目を、何度も瞬かせて……
「──すっげえ、
「……はァ?」
「やっぱ先輩はすげぇっス!
オレなんか、ずっと逃げてたのに……」
男が示したかったのは己の強かさではなく、ケイの不用心さだ。思惑と違う返事に面食らい、今度は彼が黙り込んだ。
「か、
異能の影響で嬉々として言えど、人殺しへの疑念は拭えないのだろう。彼の声はしりすぼみに小さくなっていった。しかし、
「待て。
明らかに不快感を示して声調を低くした男に、ケイは不思議そうに首を傾げるだけだった。
*
その女の名は
性差別撲滅に……間違った方向から勤しんでいる。彼女には天武の才能、並々ならぬ努力、明らかな実力、軽快なフットワーク、凄まじいメンタル……それに加えて他を魅了する美貌の全てが伴っており、これが束になると凡人に対して
そんなカタナバに唯一同程度の実力で対抗できた(する気のあった)男子が、女性差別者との噂がある
「おい。バカ女。」
「…………」
「カタナバ。テメェに言ってんだよ、カス」
蛇口を締め、レンを見る。凡人ならこの時点で悩殺されかねない艶やかな瞳。
「あら、小林くん。どうしましたの?」
「イカれてんのか?ここは男子便所だぞ」
「お手洗いということに変わりはありませんわ。動物が雌雄で排泄場所を分けますか?」
「テメェは動物なんか?人間社会ではそう決まってんだからルールにくらい従えよ。」
カタナバはハンケチを取り出すと、その女性的な白い手指を拭いて、一呼吸置く。
「決まり事ばかり守って柔軟な対応をしないのは、ヒトとしても停滞ではありませんか?」
「決まり事を変えようとすんなよ。」
カタナバは首を傾げた。なんだか困ったような、憐れむような顔をしている。
レンは努めて冷静に続けた。
「……テメェは生物学上女だろうが。じゃあ女なんだよ。中身が男だろうが犬だろうが猫だろうが、なんだろうと肉体的には女なんだから社会では女として振る舞えって話だよ。」
カタナバはやれやれ、と肩をすくめた。
「女とも男とも形容されたくない人間がいること、わかってくださると嬉しいのですが……」
レンの拳が便所の壁を強かに打ち付ける。
「──キチガイが!!テメェみてェなクソダボとマトモに話しとると脳ミソ腐るわ!!」
「あら!小林くん!?女の子にそんな言葉を使ってよろしいんですの〜!?」
「発言に中身のねえゴミカス共!人間社会が気に食わねえなら森にでも住んでろ!!」
お互いにそれまで相手の話を遮らず、淡々と続いた議論が一発で破綻した。レンの声は、ほとんど怒声と形容できる声色だった。
身を翻すと、ドスドスと音を立てて男子便所から出ていくレン。まあ、要約すれば、男のレンの方が便所から追い出される形となる。
これは過去の話であるが──この ああ言えばこう言う、信念のない話の通じなさ。これがカタナバの驚異的な武器であった。
逢魔が刺した 蘇我 峰子 @soramine1202
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