深淵を覗くなら隣を見るな

「せっかく久々なんだから一緒にご飯でも食べたいところね。でも、ごめんなさい。お母さん、ちょっと用事があるのよねえ」


 まるで街角でばったりと、数日ぶりに顔を合わせたかのような言葉だった。そしてこの異常さは、トラーシュ=セレンディバイトという存在がであるかをこれ以上なく示していた。


 五年前、トラーシュはレリックとフローの前から去った。

 血を分けた己の娘であるフローを呪術の実験台に使い、その身体を致命的なまでに破壊し、なのに「あらら」と皿を割った時よりも軽く肩を竦め、フローを抱き締めて泣き叫ぶレリックに「後始末をよろしくね」と笑い、散歩に出かけるのと同じ空気でどこかへ消えた。


 あの絶望を境に、レリックとフローは誓った。

 トラーシュを探し出す、と。

 たとえどこに隠れていようとも、どこに潜んでいようとも、いずれ再びあいまみえ、自分がしたことの責任を取らせてやる——報いを受けさせてやる。


 そのためだけに強くなった。そのためだけに備えてきた。そのためだけに『特級』となった。そのためだけに仕事を始めた。『落穂拾い』——失せ物探しを専門にしたパーティーの、最初の依頼人は自分たちだ。最初の依頼品は、憎むべきかたきだ。


 それが今、目の前にいる。

 五年の歳月を経て、まったく予期せぬ形でひょっこりと姿を見せている。


 レリックは動いた。感情よりも感慨よりも先に、身体が動いていた。悲鳴よりも怒号よりも速く、宿業ギフトが叫んでいた。

 ふたりの距離は十メートラよりも近く、だからまずは、と。


『収納』を発動させる。『空亡そらなき』と称された——称されるほどに鍛え上げた唯一無二の十人位コモンが、トラーシュ=セレンディバイトという存在のすべてを頭の中ストレージで支配せんと全力で稼働する。


「……、ぐ!?」


 だが瞬間。

 レリックの脳が地震のように揺さぶられ、強烈な吐き気が襲う。


「が、は……っ」


 思わず口許を押さえ、前のめりに倒れそうになるのをどうにか堪える。なんだ今のは、という戸惑いに応えたのはトラーシュだった。


「あー、むりむり。たぶん、と思うわよ?」

「ぐ、じょう、だん……だろ」


 嘔吐えずきとともに咳き込みながら、レリックはトラーシュを仰ぎ見た。

 現在、脳内容量ストレージはその半分以上が埋まってはいる。制御剣や玄詛げんそ、迷宮内で使用する物品一式に加え、人間ひとり——ダイモス府主教ふしゅきょうが入っているため、いつもよりやや多めだ。


 だがそれにしても、残りの容量をすべて使ってもまだ足りないような情報量となると、少なくとも人間十人以上、先史遺物アーティファクト五つ以上——常識を超えている。


「フローも、むりむり。『尸童よりまし』でなにしようとしてるかはわからないけど、やめた方がいいかな。だって……どうせ通じないし」


 次いで娘へと向き直り、にこにこと諭すように告げる。彼女は赤く染めた双眸そうぼうを大きく見開いた。


「そんなの、やってみないとわからない」

「無理よ。そのくらいわかるわ。だって、母親ですもの」

「……お前に、私のなにがっ!」


 フローは激昂した。

 両手を前に突き出すと、彼女の周囲にほの赤く燃える鬼火が顕現けんげんする。その数は十か、二十か。


「行けえええっ!」


 普段物静かな彼女らしからぬ怒号とともにけしかけられた亡者の残留思念たちは、一斉にトラーシュへと群がっていく。その魂を直接に灼き焦がすため、幻の炎を盛らせる。


 が、


「だから、無理だって。聞き分けのない子ね」

「え……」


 まるで幼子をあやすように、我儘わがままをたしなめるように。

 トラーシュが軽く腕を振ると、鬼火たちは急速に火勢を失い、掻き消える。


「なん、で」

「ここまで操れるようになったのはたいしたものね。褒めてあげる。頑張った頑張った。でも、さっき見たでしょう? 私のことをレリックが『収納』できなかったのを。情報量の多さは魂の強度でもある。篝火かがりびで薪は燃やせても鉄は溶かせない」


 トラーシュは笑う。

 小娘のようにあどけなく、慈母のように穏やかに、


「かわいいむすめと愛しい義息子むすこよ、忘れた訳じゃないでしょう? あなたたちが前にしているのは百年を経てなお生きる、肉体と魂に呪詛を掛け合わせて確度かくどの深淵に至った存在——トラーシュ=セレンディバイトよ。あなたたちが歯向かうには、まだ早い」


 そして悪魔のようにおぞましく、


「それにしても困ったわ。お母さん、あなたたちと争いたい訳じゃないの。参ったなあ、つい顔を見せてしまったのが悪かったかしら? ごめんね?」


 一転して——悪戯っ子のように稚気ちきめいて。


 直後。

 トラーシュの姿が大きくぶれ、その場から消える。


 刹那を経て再び現れたのはレリックたちの更に後方——目で追えないどころか気配すらその場へ置き去りにするほどの高速移動。


「私の目的は、これなの」


 そして屈み、床から拾い上げたのは首飾り。

 聖女の証——装着者の心を縛り人造の宿業ギフトを植え付ける神域の魔道具だ。


 もはや作成者は問うまでもないだろう。


「……いつだ? それを作ったのは」

「ん? ええと、三十年くらい前かな。このひとつ前にこしらえた『指輪』もそろそろ回収どきだったんだけど、なんか反応なくなって。壊れちゃったみたいなのよねえ。まあ、こっちは無事にから、そろそろかなって」

「……壊したのは、僕とフローだ」

「あらまあ! 仕方ない子たち!」


 小さく苦笑したのみで怒る気配すらない。

 その程度のことなのだ、彼女にとって。


 デクスマイナス子爵家を崩壊させたあの指輪も、数多の『聖女』たちを犠牲にしてきたこの首飾りも。

 そして、レリックとフローが必死に歩んできた苦難の五年間も——。


 自分の興味と関心のもと、たわむれで恐ろしいものを産みだして。

 周囲に呪詛を振りまきながら、本人は楽しそうに笑っていて。


 どんな災厄を起こそうとも、家族を血塗れにしようとも、一切関係なくただ興味のままに我を通す。面白いと思ったことに寄っていき、つまらないと思ったことから背を向ける。精魂込めて作り育てたものを期待もせずに放置して、結果が出れば拾いにくるし壊れてしまえばさっぱり諦める。

 きっと彼女にとって指輪も首飾りも、レリックたちも同じなのだ。


 では、現時点でのトラーシュにとって、レリックとフローはなのだろう?

 壊れたからと諦められた指輪の方なのか。

 もしくは、わざわざ回収しに来た首飾りの方なのか。


 それは——、


「あなたたちはもう少し。まだ、ちょっとだけ足りないわね」

「……っ!」


 まるで心を読んでいたかのように、トラーシュはそう言って笑った。


「ふざけるなよ、僕らは……」

「『深淵を覗くなら隣を見るな』……私が言い聞かせてきたことだけど、覚えてる? 忘れてる訳がないわよね? でも、反抗期なのかしら? あなたたちは隣を気にしながら深淵を追いかけている。人の身で、人の心のまま、私に辿り着こうとしている。それは愚かな行為だけど、貫き通せるのであれば一定の価値があるわ。私も考えを変えなきゃいけないって思う」


 なにが言いたい、と問うよりも前に。


「……だけど少なくとも、今はまだ、あなたたちは私に追いつけない。隣の誰かを捨てないまま深淵に飛び降りる、それができるようにならなきゃね」


 くるん——と。

 彼女は指先を立て、その場で宙に円を描き、

 ——ばりん、と。

 部屋の周囲を囲っていた水槽に、横一線の亀裂が入った。


「な、っ……」


 亀裂は見る間にびしびしと深くなり、あちこちから水が漏れ始める。魔物たちがぎろりとこちらを睨み据え、舌舐めずりをする。


「待て、トラーシュ!」

「追ってきても構わないわよ。だけど、今のあなたたちではどちらかしか選べない。追ってくるなら見捨てなければならないし、助けるなら追ってこられない」


 トラーシュが視線で指し示したのは、腰を抜かして茫然としているニーナ。

 そして気を失ったまま倒れている七人の神殿騎士たち。


 助けてと懇願され、わかったと頷いた。

 その約束を反故にして見捨てることができるのか。彼らの命から背を向けて、仇を優先することができるのか——彼女はそう問うているのだ。


「心配しなくても、私はどこにも行かないわ。どこかにいる。天蓋都市の、外套への奈落ニアアビスのどこかに。ただ……今のあなたたちにとっては夜空の星より遠いかもしれないけど」


 水槽が決壊する。満たされていた水が波濤はとうとなって一気に迫ってくる。大量の魔物どもが我が意を得たりとばかりに牙を剥いて咆哮する。

 前後左右、全周から襲いかかってくるそれらを横目に、トラーシュは背を向けた。


「待て、待って、トラーシュ! 義母かあさ……」

「じゃあ、またね。今度こそ一緒にご飯食べましょう?」


 レリックの叫びは洪水の轟音に紛れ、彼女の歩みを止めるには能わない。

 前方の視界を一瞬だけ塞いだ魔物を蹴散らした時、既に彼女の姿はなかった。

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