水族館で逢いましょう

 振り子ペンデュラムの反応する場所は安全区画セーフエリアから小一時間ほど歩いた場所で、正直なところあまり入りたくない建物だった。


 冒険者たちからは『水槽屋敷すいそうやしき』と呼ばれている。


 屋敷といっても、貴族が住まうものよりも遥かに大きく、そして無機質だ。


 一辺が百メートラほどもある四角い建物で、外壁は薄青色で統一されているものの取り立てて豪華な意匠もなく、まるで箱のよう。

 出入口は二箇所ほどあるがどちらも大きく開け放たれており、扉らしい扉もない。建物内では、両側を巨大な水槽で囲われた狭い廊下が、曲がりくねりながら屋敷を巡っている。


 廊下は広くなったり狭くなったり時折広場になっていたりもするが一本道で、二箇所の出入口を繋いでいる。つまり片方から中に入ると屋敷内をぐるぐると歩かされた挙句にもう片方から外に出る、という構造だ。


 そんなふうに奇怪な建物だというのに——廊下の両面にびっしりと並んだ水槽の中には、大量の魔物が泳いでいる。


 水槽の形は多種多様である。小さな箱状のものもあり、円柱状のものもあり、天井までも高く見渡すほどに長い、もはや透明な壁とでも形容すべき巨大なものまである。そのすべてに水棲型の魔物たちがひしめき合い、硝子ガラス一枚いちまい隔てた向こうで悠々と生きているのだ。


 幸いと言うべきか、彼らは襲ってくることがない。水槽を形成するガラスは強靭で、少なくとも水の中からは魔物ですら割ることができず、故にこちらから手出ししない限りは安全で、廊下に腰掛けて昼食ランチを洒落込むこともできる。


 とはいえ——青白い光に照らされた薄暗い建物内で、異形の化物どもがすぐ隣を泳ぐ中、そんな呑気なことを楽しめる神経があれば、だが。


 フローはもちろんレリックも、この『水槽屋敷』が苦手だった。左右を水で囲まれた環境はとにかく落ち着かない。レリックは『収納』で水槽の壁を破ることが容易いからなおさらだった。少し気まぐれを起こせば洪水が起こせると考えると、その気もないのに不安を感じてしまう。


「こ、この透明な壁がもしかして……『墟恒水晶きょこうすいしょう』か?」


 廊下を進みながら、ダイモス府主教ふしゅきょうが震える声で尋ねてきた。両側にそびえる水槽と中を泳ぐ魔物たちにすっかり怯え、もはや歩みすらも揺れている。


「ええ、そうです」


 レリックは背後をわずかに一瞥しつつ返答をした。


 ここの水槽を形成するガラスは、地上では『墟恒水晶きょこうすいしょう』という名称で流通している。材質としてガラスに似てはいるが現行文明のものよりも遥かに高い透明度と硬度を誇り、薄さも均一なため様々な用途がある。


 もちろん、流通しているといってもごくわずかな量だ。なにせ採取するには水槽を割らねばならない。水槽が割れれば氾濫のように押し寄せてくる水とともに大量の魔物どもが襲いかかってくる。これを耐え凌げる冒険者はほとんどおらず、故に宝石並の価格で取引されていた。


 ダイモスは目を伏せながら唇を震わせる。

「しっ、神殿の窓を、こ、このような、おぞましいところからっ」


 大方、高級品だからというだけの理由で用いていたのだろう。だがこんなことはヘヴンデリートでは当たり前の話だ。貴婦人の羽織る外套コートの毛皮が醜悪な魔物のものであったり、嵌めた指輪にあしらわれた宝石が奇怪な魔物の胃石であったり——高貴なお歴々は想像すらしていないのだ。


 それに、曲がりなりにも迷宮そのものを信仰の柱のひとつとしている巴教はきょうの神官としては、いささかよろしくない発言なのではなかろうか。


「この先のようです」


 怯える府主教を無視してレリックとフローは進む。彼を見遣る視線でさりげなく、聖女後継者——ニーナのことも確認した。

 彼女に変わった様子はない。さっき密かに渡してきた手紙のことをおくびにも出さず、のほほんとした様子でダイモスの隣を歩いている。


 そういえば、と思い返す。


 彼女はここに来る道すがら、あれはなにかとかあっちへ行ってみたいとか、しきりに我儘わがままを言っていた。ひょっとしたらどうにかして逃げる方法を探していたのではないか。


 もちろん、『助けて』というあの内容をそのまま鵜呑うのみにすることはできない。なにかを企んでいる可能性もあるだろう。だがそれでも、気を払わない訳にはいかなかった。


 小型の魔物たちが泳ぐ通路を通り過ぎ、廊下は緩やかに曲がっていく。すると一気に視界は開け、ちょっとした広場——そして広場の外周を囲うほどに巨大な、同心円型の水槽がそびえる区画となった。


 大型の海鷂魚エイふか、更には亀、魚竜、おまけに海蛇モーガウル。様々な形状の魔物たちが回遊しており、悠然と泳ぎつつも時には喰らい合い、見るだに恐ろしい光景がぐるりと周囲に広がる中。


 目的のものが、中央にぽつんと落ちていた。

 

 宝石と珠を連ね細い鎖に通した、豪奢でありながらどこか慎ましやかな印象のあるそれ——首飾り。


「お……おお」

 さっきまでの怯懦きょうだから一転、ダイモス府主教は喜びに顎の肉を揺らした。


「あれこそは! まさしく聖女の証、継承の首飾り!」


 叫び、駆け寄ろうとする。騎士たちが静かに道を開ける。

 だがその眼前に立ち塞がる者がいた。


 レリックである。


「少しお待ちいただけますか?」

「なんだ? 無事に探し当てたことは褒めて遣わすが、邪魔だ。どけ!」

「依頼主の安全のためです」

「は? とぼけたことを言うな。ここまで来てなんの危険なことがある?」


 あくまで静かな口調のレリックに対し、ダイモスは興奮していた。


「お忘れですか? ここは迷宮、それも下層なのです。現に周囲には……壁一枚隔てられた先とはいえ、恐ろしい魔物たちが山ほど。ですから単独での行動はおやめください」

「どうせ襲ってこないのだろう? 問題はなかろう!」


「府主教さまは先ほどまでたいへん慎重でいらっしゃった。それが目的のものを目にした途端、冷静さを失っておられるご様子です」

「無礼な、私は……」

「……それとも」


 その興奮を遮り、問う。


「一刻も早く駆け寄らなければならない理由でもあるのですか?」


 問われた瞬間。

 ダイモスの気配が、途端——剣呑なものへと変貌する。


「……なんだと?」

「疑問があります」


 レリックは構わずに続ける。

 両足から密かに力を抜き、自然体で身構えながら。


「あの首飾り、おそらくは本物で間違いないでしょう。ですが、肝心の持ち主……聖女さまがいらっしゃらない。そしてあなたはそのことに対して、なにひとつ疑問の言葉を発しない。まるで……かのように」


「なにを言うかと思えば。……先代聖女さまは既に身罷みまかられておられる。あの状況を見ればわかるだろう」

「遺体も見当たらないのに、ですか? それに『先代』? 首飾りの継承が終わるまで、たとえ亡くなっていても聖女ではないのですか?」


 ふたりの間の空気が張り詰めていく。

 火花ひとつで今にも決壊しそうなほどに、冷たく。


「そもそも貴様は部外者だろう。くだらぬくちばしが許されると思っているのか?」

「部外者かどうかはこちらが決めることです。僕らには責任がある。依頼主の元へ無事に失せ物を返すという責任が。……首飾りだけではない、聖女さまの身柄もまたそのひとつだ。あなた方は昨日、確かに言いました。『迷宮に消えた聖女とその証の首飾りを探せ』と」


「詭弁だ。言葉尻を捕まえての拡大解釈とは、なにが目的なのだ?」

「なぜ、聖女さまはこんな下層にまで赴いたのでしょう?」


 レリックの言葉に、ダイモスが目を細めた。


「どうやって下層まで来ることができたのか。護衛を雇ったのか、単独で迷宮に潜れるほどの力があったのか——ただ、知りたいのはそこではない。僕の言っている『なぜ』とは、ではなくだ」


 背後の騎士たちも鋭い気配を発し始める。

 だがそれは、府主教に対しての非礼を咎める怒りからではない。


 まるで。始末せねばならない相手を、前にしたような。


「言い方を変えましょうか。聖女はなぜ、あなた方の前から姿を消した? いや……なぜ聖女は、?」


「冒険者さまっ!」


 甲高い声で叫んだのは、ニーナだった。

 彼女は今朝までの甘ったるく媚びるような口調とは一転、切迫した表情で声を張り上げる。


「お願い、助けて! 私は……っ!」

「その小娘を黙らせろ!!」


 ダイモスが負けじと叫んだ。

 聖女さま聖女さまとおだてていた相手を、小娘呼ばわりして。


 騎士のひとりが動く。あの女騎士だった。

 彼女は背後からニーナを羽交い締めにし、口を押さえつけて塞ぎ——、


「……圏内だ」


 レリックがつぶやくと同時。

 女騎士の拘束していた身体が、衣服を残して消失する。


「な……!」


 回していた両手が空を切り、女騎士がよろめく。唖然とした表情で目を見開く彼女を他所に、レリックは『収納』したを背後へと放り出した。


「ふゎ!? え?」


 ぺたんと床に座り込んだニーナは、我が身になにが起きたのか理解できず、きょとんとする。だが数秒後、自分が一糸いっし纏わぬ姿であることに気付き、悲鳴をあげた。


「……きゃああああっ!」


 うるさいので大きめの布を取り出して上にかぶせる。


「悪いけど、それでも巻いててくれ」

「レリックいやらしい。私以外の女を裸にひん剥くなんて……」

「ネネの入れ知恵かそれ? あいつ、帰ったらクッキー追加注文させてやる」

「やったね」

「フロー? 今なんて?」

「なんでもない。裸にした理由は?」

「万一にでも頭の中ストレージ内で服と混ざったら困るってのはあるけど、それよりも……この娘の着ていた祭服、たぶん仕掛けがしてある」


 おそらくは催眠か、精神操作の術式だ。

 発動させることで相手の行動を縛るような、そんな類の。


「なんにしても、だ」


 眼前に府主教と、神殿騎士たち。

 そして背中に先代聖女と、更には首飾り。


 初手の位置取りとしては上々で、まずは先制といったところ。


 八名の神殿騎士、うち六名が既に抜剣し、身構えている。

 ダイモス府主教はじりじりと後退しながら、それでも忌々しげな目で舌打ちした。


 レリックはそんな彼らを睥睨し、肩を竦めながら言う。


「もう一度さっきの質問だ。できればあなたたちの口から教えてもらえると助かる。……なぜ、先代聖女は姿を消した? 聖女とはなんだ? あの首飾りは、いったいなんだ?」


 後方に落ちている首飾りを肩越しに見遣る。

 射程圏外で直接は『収納』できそうにない。だがここからの距離であっても、少なくとも先史遺物アーティファクト三つ四つ分の情報量を持っていることが感じられた。

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