第5話 下層:聖女の首飾り

休みだったはずなのに

 レリックとフローの暮らす家は、ヘヴンデリート南区の片隅にある。


 冒険者ギルドへは大通りを使えば十五分、裏通りを抜ければ十分ほど。もともと南区は冒険者用の貸家や集合住宅が多い場所であるが、その中でもよく言えば閑静な、悪く言えば寂れた区画に建った古くさい一軒家だ。


 ふたりで暮らすにはやや広く、四人以上だとやや手狭——つまりは夫婦に子供ひとりを想定した家族用で、冒険者にとっては実に中途半端な物件だった。故に借り手もつかず取り壊しが検討されていたのを、レリックが土地ごと買い取ったのが三年前。以来、そこは『落穂拾い』の拠点となった。なお子供が生まれる予定はないので、広々と使っている。


 その一軒家、居間。

 時刻は午前九時。


 レリックが読書に勤しむその向かいで、フローは長椅子ソファーへうつ伏せに寝転がり、身体を弛緩させていた。


 貫頭衣ワンピースの質素な部屋着とそこから伸びて力なく垂らされた四肢はぴくりとも動かない。ばっさりと広がった黒髪はまるで水で戻した海藻のようで、もし第三者がいきなり見せられたら、これが人であると認識するのに十秒はかかるであろう。


 ページをめくりかけた手を止め、レリックはふといた。


「なあ」

「んー」

「息、苦しくないの?」

「んー」

「いやどっち」

「んー」

「そんなにんーんー言ってるとんーちゃんになっちゃうぞ」

「んー」

「もうなってたかあ」


 今日は仕事休みである。

 故にフローは朝からずっとこう——起きるには起きたが生気のないままもそもそと朝食を摂ったあと、ソファーに突っ伏してそこから動かなくなった。


「んー、んー」

「なに?」

「んんー」

「……お茶くらい自分でれなよ」

「んー」

「僕、本を読んでるんだけど」

「んー?」

「グレミアム王国犯罪史第十二巻 詐欺の歴史とその手口」

「んー! んんー! んー! ん、んーんー!」

「…………、仕方ないな……」


 さすがにお茶を飲むためには起きあがるだろう。そして起きあがったら「んー」以外で会話をするようにもなるはずだ。

 幼馴染にはせめて人間の言葉を喋ってほしい。そんな思いからレリックは立ち上がり、台所へ赴く。


 ティーポットと一緒に戻ってきても、フローの姿勢は変化していなかった。


 カップに注ぐ。エルフ茶の独特な香りが湯気とともにたちのぼる。

「ほら」と声をかけるとようやく彼女は動いた。


 ただし、顔だけ。


 首をごろりと回転させ、テーブルの上にあるマグカップを見遣る。そして視線を移ろわせたのち、呪い人形の発する悲鳴みたいな低い声で言った。


「……お茶請けは?」

「ないけど」

「はあ?」


 信じられない、といった調子であった。


「なんで? 私、クッキーって言ったのに」

「ええ……」


 果てしなく理不尽な文句である。


「いつの『んー』だよ」

「さいご!」

「『ん、んーんー』のとこだったかあ」


「わかってくれてなかったんだ。悲しい。レリックはかわいいかわいいかわいいフローちゃんのことなんてどうでもいいと思ってるんだ」

「かわいいが三つに増えたフローちゃんのことは一応大事に思ってるけどお茶請けのことはどうでもいいと思ってるよ」

「なんで? お茶請けのないエルフ茶なんてただのすっぱいお湯だよ?」

「エルフの文化をエルフが否定してきた」


 製法に手が込んでいるからけっこう高いのに。


「エルフ茶っていったって別にエルフが作ってる訳でもないし」

「一応この銘柄、ベリル氏族生産、って触れ込みなんだけど」

「栽培加工じゃなくて生産っていうのが罠。ベリル氏族の誰かが指揮をとってればそう表記しても許される。きっと実際は適当に雇った他の種族が育てて摘んで加工した。エルフは金汚かねぎたない奴らだから絶対にやってる」

「エルフの性根をエルフが否定してきた」


 今まで普通に飲んでいたのに、そう言われるとなんだか不安になってくる。


「酸味と苦味の配分がちょうどよくて気に入ってるんだけどなあ」

「すっぱくてにがいお湯だよ?」

「いや香りとかあるし」

「すっぱくてにがくてにおいがついてるお湯だよ?」

「言い方」


 ちなみに人の言葉を喋るようにはなったが、ソファーから起きあがってはおらず見かけ上は未だに人とは言えない。


「だいたい朝ごはんしこたま食べたばっかりじゃないか。また食べるのか?」

「しこたまは食べてないでしょ!」

「パン三枚と目玉焼きふたつとサラダ山盛りはしこたまだと思うな、僕は」

「その中でなにが足りてないと思う?」

「えっと、肉?」

「肉はいらないの。朝から重いでしょ? 甘味だよ」

「パンにジャム塗ってたじゃないか」

「ああ言えばこう言う! なんなの!」


 論破したら怒られた。


「いいからクッキー持ってきて。棚にまだ買い置きあったはず」

「いや、ないよ」

「えっ?」

昨夜ゆうべなくなった」

「どういうこと……?」


「僕が食べた。フローが寝た後。資料整理で頭を使ったから糖分が欲しくなって」

「こ、この外道め……いったいなにを食べて育ったらそんな所業ができるようになるっ……!」

「クッキー」


 フローはついに絶望の顔を浮かべた。口をぱくぱくとさせ、譫言うわごとのように「あ……ああ……」と繰り返す。せっかく人間の言葉を喋るようになっていたのに元に戻ってしまった。


「そういうわけで、悪いけど諦めなよ」

「うう……」

「せめてお茶だけでも飲めば?」

「起こして」


 じっとりした目でレリックをめ、


「もはや私には指一本動かす気力がない。起こして」


 仕方ないので再び腰を上げ、テーブルの反対側に回る。

 首根っこを引っ張ると、


「なにそれ! 私は猫じゃない!」

 ソファーにへばりついたままもがく。


「じゃあどうするの」

「もっとていねいに! お姫さまみたいに!」

「ええ……」


 貼りついた粘性群体スライムをどうやってお姫さま扱いすればいいのか。

 これはもうくすぐって暴れさせその勢いとどさくさで座らせるべきだろうか。そんなことを考えていたレリックの耳に、玄関の方からちりんちりんと呼び鈴チャイムの音が聞こえてくる。


「誰だろう」


 この家に客など滅多に来ない。友人知人であれば少なくとも事前に約束があるだろうし、だとしたら押し売りの類だろうか。


 だがこちらが返事をする前に、がちゃがちゃと鍵を開ける気配がする。住人であるレリックとフローの他にこの家の鍵を持っているのはただひとりである。


「はーい、お邪魔しまっすよーっと。おはおはー。ふたりとも起きてるー?」


 普段より声を張り上げながら中に入ってきた女性は、冒険者ギルド受付嬢の制服を着崩した、浅黒い肌と灰色の髪。


「おっレリックはともかくフローも起きてるじゃーん。えらいえらい」


 ネネである。


「ん? あれ? ひょっとして襲ってる最中だった?」


 フローの襟を掴んだ姿勢のままこっちを見ているレリックに、ネネはにやにやと笑いながら身をくねらせた。


「まあ、ある意味では」

「それは悪いことをしちゃいちゃいましちゃったかな?」

「語尾が砕けすぎて長い。いやそれはともかく、いったいどうしたんだ、いきなり」

「……待って、レリック」


 用件を問おうとしたのを制止したのはフローである。

 彼女はネネが手に提げた包みに視線を定めていた。


「ネネちょん、それはなに?」

「ん? お土産。クッキー」

「神か!」


 がば、とフローは起きあがり、ついに粘性群体スライムから人間となった。


「さすがクッキーさま、よく来てくれました! レリックなにしてるの! お早くこのお方にもお茶をお出しして!」

「おが多い」

「うちの名前も変わっちゃった。まあいいや」


 ネネは包みを解くと中身をテーブルに置く。色彩豊かに塗装された缶、蓋の中央に鏡兎カーバンクルを模した意匠が鎮座するそれは、


「ふおお……『ブラッドベリー・スイート』!」

 王家御用達でもある、ヘヴンデリートで最も有名な菓子店のものであった。


「いいのネネやん? これ食べてもいいの?」

「いいぜいいぜー。奮発しちゃった!」


 この世の春とばかりにきゃっきゃと笑い合い、立ち上がってネネと手を繋ぎくるくる踊り始めるフロー。この元気があるならなぜ今までソファーにへばりついていた。嘆息とともに追加のマグカップを持ってきてお茶を注ぐレリック。


「ちょっと待った」

 だがそこで、気付く。


「……ネネ。あんた、うちに手土産なんか持ってきたことあったか? しかも『ブラッドベリー・スイート』? それひと缶で五千レデッツくらいするんじゃないか? いったいなんでまたそんな高級品を買ってきたんだ」


「あららん。レリックにはー、わかっちゃいますかー」


 踊りに合わせて舞台歌劇ミュージカルめいた旋律をつけながら、ネネは言う。


「じーつはぁー。らららー。きゅうなぁ、おーしごとのぉ、いらーい、なーのーでーすー」

「……は?」


 ぴたり、と。

 フローの足踏みステップが止まった。


「ネネっち、いまなんと?」

「いやあごめんね、お休みの日に。『落穂拾い』に、どうしても断れない依頼がうち経由で来ちゃってさあ。悪いんだけどこの後、ギルドまで……」


「かえれ!」

「帰ってくれ」


 レリックとフローは同時に同じ科白せりふを発した。


「断るの早くない?」

「怪しいと思ったんだ、普段手ぶらで来てお菓子はしっかり食べていくような奴が、こんな高級品を……僕らを見くびるなよ」

「いやそこをなんとか」


「今日は休みだぞ。休みの日には働かない、これは先代文明どころか神代かみよから決まっているこの世のことわりだ。僕らにはとても破れない」

「そうだよ。クッキーを置いて帰るか、私たちと一緒にクッキーとお茶を楽しみそしてすべてを忘れて帰るかの二択だよネネりょん」

「せめて話だけでも」


「聞かない。一切聞かない。これ以上居座る気なら衛兵を呼ぶ」

「ぐうう……聞いてくれないとクッキーは渡さないぞ!」


 ばっとテーブルに手を伸ばしてクッキー缶を再び抱え込むネネ。


「ど……どうしようレリック……敵はあまりにもおぞましい卑怯な手を……」

「仕方ない、クッキーは諦めよう」

「なんでそんな血も涙もない決断ができるの!」


「いやほんとごめんね、レリック、フロー。悪いとは思ってる。思ってるんよ? でもさあ、きみらもうちが非番の日に引っ張りだしたりすることもある訳じゃん? だからお互いさまっていうか」


「ぐ……」

 それを言われると少しだけ罪悪感はある。


「実際ね、今日のやつはうちだって断れるもんなら断りたかったよ。ただ、ギルドのこと考えたらどうしてもねえ。マスターからも特別報酬出ると思うから、ね? ね? お願いします!! この通りで! ございます!!」


 腰が直角になるほど頭を下げ、献上するようにクッキー缶を差し出してくるネネ。


「……はあ」

 缶を名残惜しそうに見詰めているフローの隣で、レリックは盛大に溜息を吐いた。


「とりあえずお茶を飲みながら話そう。でも、余程じゃないと断るからな?」

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