祈りよりも速く、祈るには遅い
キッフスは以前、語ったことがある。
「ボクの
あれは確か夕食を共にした時だったか、或いは今のように同じ任務を遂行している時だったか。
「恒常性——元に戻る力。状態を常へ
あの時の楽しそうな顔を、今でも覚えている。
「きっとボクらは……現行文明下で生きる人間はみな、
※※※
そして、今。
キッフスは同じ顔で己の
ただ、レリックは彼を止めようとはしなかった。何故ならばこの
「……ゆらめくな/ざわめくな/月よ止まれ/陽よ許せ」
背後で小さく、レリックに聞こえるか聞こえないかといった程度の声量でフローがつぶやく。
その両目は未だ
「病の仔犬/牙はなく/爪は削げ/けれど狼の群れに混じる」
それは、詠唱。
「すべてが止まり/すべてが満ちて/すべてが眠りに落ちた頃」
攻撃系の魔術ではない。故に、その兆候が目に見えることはない。
もちろん相手は『大魔導』たるアンデンサス=スフィアシーカー、普通であれば魔力の流れを感知して察することができるだろう。
「仔犬は泣いて/濁った両目に炎を宿し/狼たちにかぶりつく」
だがこの時この場において、それは
何故ならば
重ねて——フローの魔力源、鬼火を中継とした
「牙を
そう、後方。背後である。
主要路から数多の脇道たちが枝分かれし、その中にはどん詰まりになったものもあれば、思わぬところに通じているものもある。
「だけど/いかに喰らって育っても/己の病は癒えはしない」
人間が通れないほど狭い——
「な……っ!?」
背後に進んで前に回り込む、などということもできるのだ。
「なんだ、これは! 貴様ら、いつの間に……!」
アンデンサスが驚愕と狼狽の中間みたいな声をあげた。
おそらく彼にとっては、いつの間にか、だろう。
その双方が白い——蜘蛛のような
彼らの四肢を縛った糸の束は、先端を
もはや老爺も少女もともに、一歩も動けない。
それどころか、
「魔力が、練れん……だと」
魔術の行使も、ままならない。
「くくっ、終わったよ……ふう、疲れた。まったくレリックは、キッくんと違って無茶なことをやらせる」
立役者であるネシアシリィが、大きな溜息を
「まあそう言わないでくれ。人はいずれ死ぬ。その結末に至るだけという意味では怠惰も過労もさして変わりはないさ」
「わ……わたしのセリフを……
彼女の
己の魔力によって
殺傷力は皆無だが拘束力と持続力にかけては『特級』でも抜きん出ているその糸を、彼女はひそかに背後へと伝わせていた。長い時間をかけて——敵に決して気取られないように、こっそりと。
そして横道と細道を駆使して前方に回り込み、ついに絡めとったのだ。
「いつからだ!」
老人の身体が叫んだ。
その
「貴様ら、いつからこれを目論んでおった!?」
レリックは答える。
「そんなもの……
言葉による打ち合わせも必要なかった。
何故ならこれは、キッフスとネシアシリィ——『
彼らは『特級』の中で例外的に、戦うことがほぼできない。ただ、代わりに生存能力、こと接敵した際の対応能力に秀でていた。
キッフスが自分たちの周囲ごとを『
この戦術を初見で見破れる者はいない。さすがに今回は敵の攻撃が激しく糸の迂回距離も長かったせいで、彼らだけで対処はできなかったが——
たとえ相手がかつての英雄であっても、負ける
「仔犬は獅子の皮の中/弱って震えて死んでいく/すべてが動き/すべてが欠けて/嵐のあとはこともなし」
そして、レリックがアンデンサスへ笑ったのと同時。
フローの詠唱が完了し、魔術が構築された。
「キッフス」
「うむ、もう施した。いつでもいいよ」
仲間への確認を経て、老爺を改めて睨み据え、問う。
「さて『大魔導』。そっちの
「なにを、するつもりだ……?」
「言い方を変えようか。お前を殺せば終わるのか? それともその娘も殺さないと終わらないのか? どっちだ、言え。僕はどっちでもいい」
レリックの視線と声音、そして気配に、老爺は目を見開いた。
すべてを悟ったのだ。
もはや自分が詰んでしまっているということに。
そして、この少年は。
なんの罪もない被害者の少女を
「やめろ! 孫には……ソフィアには、手を出すな! 儂が死ねば禁術は解ける! 消した精神もいずれ復活するはずだ、だから……ソフィアはだけは殺さんでくれ!」
それは老人が、最後の最後で吐露した情だった。
身勝手極まりない言葉ではある。
数多の冒険者たちを閉じ込め、殺め、陥れた。挙句、
だが。
教団に所属してまで得た禁忌の術も。
衰えゆく身を嘆き、更なる力を渇望したその悪行も。
きっと今は亡き友の思い——人間らしい情によって、成り立っていたのだろう。
「わかった」
レリックは頷いた。
この老人を肯定するつもりは微塵もない。
ただ、この情だけは——本物なのだと思った。
なにを犠牲にしようともなすべきことがある、それは自分だって同じなのだから。
「フロー」
背後の幼馴染に呼びかける。
彼女のためならたぶんレリックも、犠牲を厭わず穴を掘るだろう。
「りょ。……『
フローが魔術を発動する。
それは身体強化系汎用魔術、第七階位。
筋力、反射神経、視力といったあらゆる身体能力が、およそ人には許されざる領域にまで強化される。
持続時間は文字通り、
だがレリックには既に、キッフスの
『
「っ……来るなあっ!!」
アンデンサスが魔術を放ってくる。
己の敗北を悟り、孫の命乞いをしておきながらそれでも足掻くのは、長く歳
或いは『大魔導』たる英雄に残った、ひと欠片の意地によるものか。
関係ない。
屈み、構え、脚に力を込め、レリックは疾走した。
踏んだ小石が跳ねる音を置き去りに、炎の壁が身体を覆う。氷の
後方のことは気にしない。ネシアシリィの『糸』が既に盾を作っているだろう。
突進は炎に灼かれるよりも速かった。氷の礫は強化された肉体が弾き返した。雷の嵐は身体に届く前に後方へ落ちた。乱雑な情報が積み重ねられた魔力壁は、
そして老爺と少女、ふたりの脇をすり抜けるように——彼らを拘束する糸の束を幾つか千切りながら——掠め、その背後、三
おそらくアンデンサスは、突破されたことにすら気付けなかっただろう。
通り過ぎたレリックの手には、まだどくどくと動く心臓が握られていた。
「……か、はっ」
老爺が血を吐きながら前のめりに、膝から崩れ落ちる。
次いで少女が無言で、その場にどさりと倒れる。
身体から魔術が消えていくのを感じながら、ふたりに残心すること十秒。
ゆっくり少女へと近寄り、生きていることを確認した。
「……
レリックは小さくつぶやき、事切れたアンデンサスを一瞥する。
死体は膝を折った姿勢のまま倒れずに蹲っていて、それは彼が迷宮の壁に閉じ込めた犠牲者たちのようであり、けれど祈りを捧げる求道者のようでもあった。
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