阿頼耶識

 レリックたちが最初に試したのは搦め手——つまりはだった。


 フローが『尸童よりまし』の力を発動する。双眸そうぼうほの赤く光り、常世かくりよに眠っていた魂たちが、彼女の瞳と同じ色をした鬼火を纏い現世に顕現する。


 それらが誰なのかはわからない。或いは『遥かなる夕暮れ』の面々、ケイズの元仲間たちだったのかもしれない。なんにせよ間違いないのは、これらは迷宮でアンデンサスが殺めた人々の残留思念だということ。


 正直なところレリックは、これで十中八九じっちゅうはっくは決まると考えていた。襲い来る高階位魔術たちも立ちはだかる魔力防護壁も、魂にとっては関係ない。自然魔力マナを媒介にした魂たちは、体内魔力オドで作られた魔術を素通りする。そして生者の魂に、残留思念の流入を防ぐ術はない。


 だが、予想は裏切られた。


 死者の魂がアンデンサスにまとわりつき、老爺の顔が苦痛に歪む。

 彼らの死、絶望、煩悶はんもん憤怒ふんぬ、迷宮に生き埋めにされたことによる閉塞感と飢餓感——そういったあらゆる負の感情を直接流し込まれた彼は、ややあって、


「……くく、はは! くはは、はははははっ!」


 苦痛から一転、呵々かか大笑した。


「なるほどこれが『尸童よりまし』か、なるほどこれが魂への直接攻撃か! わしも初めて見る、初めて体験する——長生きはするものよのう!」


「うそ……」


 フローが茫然としてつぶやいた。


「魂をかれて、正気を保ってる? ありえない」


「ふん、年寄りを舐めるでないわ」


 アンデンサスはどこか自慢げに吐き捨てた。


「絶望も苦悶も嫌というほど経験してきたわい。深層で迷い、餓死寸前まで追い詰められたこともある。罠にかかり何日も閉じ込められたこともある。儂の名はアンデンサス。ヘヴンデリート最新の伝説たる『第七天アラボト』の一員ぞ? 貴様ら若造どもとは歩んできた旅程、その重みが違うのだ……たかが木っ端冒険者のくだらぬ死に様など、なにするものぞ」


 確かに理屈としては、あり得ない話ではない。


 死者の残留思念とは即ち、臨死における強い感情だ。そして『尸童よりまし』の能力は、その強い感情を生者の無防備な魂に叩き込む。故に抵抗できず、魂は死の記憶と負の怨念に灼かれ、弱り、やがて腐りゆく。


 ただ、もしも。

 死ぬほどの絶望や苦痛を、今まで何度も味わったことがあるのなら。

 臨死の体験を、幾度も積み重ねてきた者であるのなら。

 そしてそれらをものともしないほどに、強靭な精神を持っているとしたら——。


「魂など、とうに腐って燃えておる。儂の心を殺したいのならば九頭九尾の古龍よりもなお恐ろしい絶望を、今ここに持ってこい」


「……っ」

 返答の代わりに漏れたのは舌打ちだった。

 しかしその舌打ちひとつきりで、レリックは気持ちを切り替える。


尸童よりまし』による魂灼きが通用しないのであれば次の策に移ればいい。どれを選ぶか。頭の中で試行する。


 まず思い浮かんだのは、このまま耐え続けて相手の魔力切れを待つというもの。否、これは期待できないだろう。そもそも向こうの魔力量は彼自身が最も把握しているのだから、もし枯渇しそうになったら期を見て撤退すればいいだけの話である。


 フローの魔術は? 無駄だろう。向こうの手数は圧倒的だ。こちらが長い詠唱を経てようやく一発を放つ間に、向こうは十も二十も撃ってくるのだ。いかな第八階位であっても二十の第七階位に勝てるとは思えない。


 ではレリックが敵の身体ごとを『収納』するのはどうか——残念ながらこちらはやや難しい。


 十メートラの射程範囲を捉えたとしても彼我ひがの間には濃密な魔力の壁があり、そして厄介なことにアンデンサスは、この魔力の壁に乱雑な指向性を持たせ、情報密度を上げていた。


 密度の高い情報の塊はレリックの『収納』にとって、壁と同じである。壁の向こうにいる相手のことが見えないのと同様、間に高密度の情報があると『収納』の確度は一気に下がる。対象の把握が上手くいかないのだ。


 長年の戦闘経験から勘で対策しているのか、或いは『玄天こくてん教団』からレリックのことを聞いているのか。定かではないが、まったく面倒だ。


 ならばやはり制御剣——『遺物に沈く渾沌レリック・アンダーグラウンド』と呪いによる直接攻撃が最適だろうか。のに時間がかかるため危険が伴うが、四の五の言ってはいられないのかもしれない。


 そこまで考えたところで、不意に。

 レリックは自分の脚が震えていることに気付いた。


 敵の脅威に身体が反応しているのかと思ったが、違う。力が入らず膝が笑っている。そして妙に息苦しく、いつの間にか頭痛までしている。


 こころなしか喉が痛い。目眩めまいと吐き気まである。


「……これは」

「効いてきたか」


 胸を押さえながら呼吸を整えようとしたレリックへ、アンデンサスが笑んだ。


「ぬしは頭をよく使っていたようだから、のも早いの。お仲間もじきにそうなる。いや、もうなりつつある、か?」


 言われて背後を振り返れば。

 フローが、キッフスが、ネシアシリィが——揃って呼吸を荒げ、頭痛に顔を歪めていた。


 なにをした、と問おうとして、その前に思い至る。


「……っ、酸素か!」

まさに然り。即座に至るとは流石としか言えんの。まあ、事前に察するべきであったが」


 たとえ魔術といえども、炎が盛る際には空気——正確には、空気中の酸素を消費する。中層の洞穴内で長時間にわたり連続して火炎系魔術が使われれば、大気内の酸素が減少するのは自明であった。


 改めて思い返せば、アンデンサスの放ってくる魔術は火炎系の回数が多く、次いで雷電系、最も少なかったのは氷雪系。これは得手不得手によるものではなく、意図して偏らせていたのだろう。


 しかし、


「もっとも、原因は酸素不足だけではないぞ? さしものぬしもこれには気付かなんだろう。……知りたいか?」


 閉鎖空間であっても、ただ火を燃やし続けただけでこうまで身体に不調が出るのは不自然だ。


 アンデンサスは得意げに、その答えを教授した。


「強烈ないかづちはな、酸素を焼くのだ。焼けた酸素は変質し、酸素とは似て非なる成分となる。これを阿巽オゾンといい……酸素と違ってな、人体にとってはよ」


 それはきっと、先代文明の文献に記された知識。

 禁忌に触れてひもとく過程で、アンデンサスが得たもの。


 おそらく、ただ雷電系魔術を行使しただけではこうはならないはずだ。雷によって発生する毒はごく小さいか、すぐに消えてしまうようなものと推察される。

 だが、炎によって酸素密度を下げた上で、残った酸素を雷で焼くことで——レリックたちの吸う空気を、阿巽オゾンとやらで染めたのだ。


 雷電系魔術をこうまで連続で放ち続けられるような者は、少なくとも今の時代においてアンデンサス以外にはいまい。そして彼の魔術を耐え凌げるのもまた、レリック以外にはいないだろう。


 この戦いだからこそ仕掛けることのできた罠であり、『大魔導』たるアンデンサスの叡智えいち老獪ろうかいさ、狡猾こうかつさの結実だった。


「ついでに教えてやるがな、阿巽オゾンは臭う。されば毒かと警戒されやすい。故に、そのための冷気だったのよ。激しい温度の上がり下がりで、ぬしらの鼻は知らぬうちに麻痺しておった。毒を毒と気付かず、吸い込み続けたということよ」


「……っ、ご丁寧に、どうも」


 目の前の景色がぐらぐらと揺れる。心臓が苦しく、頭痛がひどく、そろそろ立っていられなくなりそうだ。


 もうアンデンサスは魔術を撃っていない。その必要はないと判断したのだろう。なにせレリックたちが倒れてからゆっくりと殺せばいいのだから——このままでは意識すら失うのだろうか。


「さすが、に。これ以上はまずい気がするね」


 背後でキッフスが朦朧もうろうとしながら言う。

 前方ではアンデンサスがゆっくりと片手を突き出している。

 とどめか、或いは追い討ちか。


 故に、レリックは——告げた。


「見事だ『大魔導』……こんな手があるとは思いもしなかった」

「ほほ。若人わこうどに褒められても嬉しゅうはないと思っていたが、ぬしほどの智恵者となれば話は別よの。ぬしをやり込めて打ち負かしたことは、儂の誇りとしようぞ」


「なにを言ってる? けたか、ご老体」


 唇を三日月に歪め、


「確かにこの手、想定できなかった。だけど、なにか仕掛けているかもしれないとは予想していた。そしてお前の奸計に……対策をしていないと誰が言った?」


「……何だと?」


「もういいだろう、キッフス」

「ああ。未知の毒なんて貴重な実体験だったから、少し惜しいけれど」


 背中越しに呼びかける。

 キッフスは——気障ったらしく、指をぱちんと打ち鳴らした。


 同時。

 頭痛が消える。胸の圧迫感がなくなる。息苦しさがどこかへ去る。

 吐き気は治まり、目眩は止まり、レリックたちの体調が、


「な……!?」


 今度はアンデンサスが驚愕に目を見開く番だった。

 よろめいていたレリックがいきなり安定し、フローは壁に着いていた手を離す。うずくまっていたネシアシリィは立ち上がり、キッフスはどうだとばかりの顔でふふんと笑う。


「なにをした!? 阿巽オゾンの毒は解毒魔術など効かん! ……毒の仕組みを理解していないと、解毒魔術は役に立たんはずだ!」


「そんななものではないよ。キミは確かに経験が違う、知識が違う、年の功が違う。講じた策も流石と言っていい。けれどね、キミはボクらのことを知らなかった。このキッフスとネシアシリィのことを知らなかった」


 指先を立てて揺らしながら、完全に悦に入っている。


 横に立つハーフリングを溜息混じりで眺めながら、まあいいか、と喋るに任せた——だ。


「『八識はちしき』という概念がある。知っているかな? 人が世をことわるための八つのすべのことさ。眼識見る耳識聞く鼻識嗅ぐ舌識味わう身識触れる……この五感で五識。そして第六感たる意識思うと、第七感たる末那識感じるを加えて七識。そしてこれらの更に上、『識』ることの八番めにして最上位が『阿頼耶識あらやしき』だ」


 アンデンサスは無言。

 もっとも仮になにかを返しても、キッフスの弁舌はまないだろう。


「では知覚や感覚を超えた『阿頼耶識』とはなんなのか、説明するのは難しい。元々は先代文明の頃にあった哲学だか宗教だかの概念らしい。が、ボクはこれを『自己の外側からの観察』だと定義している。つまり自分ではない別の存在、自我の上位、言ってみれば……『世界そのもの』が『世界そのもの』を認『識』する、ということさ」


「それがなんだというのだ。貴様、なにが言いたい」


 吐き捨てるように問うた老爺に、満面の笑顔で彼は告げる。


「ボクの名はキッフス。冒険者ギルド直属、特級冒険者序列八位。異名を『阿頼耶アラヤ』。戦う力などない非力でかよわいハーフリングだが、宿業ギフトはとっておきでね。キミと同じ伝承位レジェンド、名を『恒常化リセット』という」


 レリックたちの体調はもちろんのこと、今や周囲の大気成分すらも元に戻っている。

 それはすべて、キッフスの手によるものだ。


「ボクは阿頼耶識世界の識を覗き見て、そこに記された光景を再現する。つまりは、能力さ」

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