阿頼耶識
レリックたちが最初に試したのは搦め手——つまりは魂への攻撃だった。
フローが『
それらが誰なのかはわからない。或いは『遥かなる夕暮れ』の面々、ケイズの元仲間たちだったのかもしれない。なんにせよ間違いないのは、これらは迷宮でアンデンサスが殺めた人々の残留思念だということ。
正直なところレリックは、これで
だが、予想は裏切られた。
死者の魂がアンデンサスにまとわりつき、老爺の顔が苦痛に歪む。
彼らの死、絶望、
「……くく、はは! くはは、はははははっ!」
苦痛から一転、
「なるほどこれが『
「うそ……」
フローが茫然としてつぶやいた。
「魂を
「ふん、年寄りを舐めるでないわ」
アンデンサスはどこか自慢げに吐き捨てた。
「絶望も苦悶も嫌というほど経験してきたわい。深層で迷い、餓死寸前まで追い詰められたこともある。罠にかかり何日も閉じ込められたこともある。儂の名はアンデンサス。ヘヴンデリート最新の伝説たる『
確かに理屈としては、あり得ない話ではない。
死者の残留思念とは即ち、臨死における強い感情だ。そして『
ただ、もしも。
死ぬほどの絶望や苦痛を、今まで何度も味わったことがあるのなら。
臨死の体験を、幾度も積み重ねてきた者であるのなら。
そしてそれらをものともしないほどに、強靭な精神を持っているとしたら——。
「魂など、とうに腐って燃えておる。儂の心を殺したいのならば九頭九尾の古龍よりもなお恐ろしい絶望を、今ここに持ってこい」
「……っ」
返答の代わりに漏れたのは舌打ちだった。
しかしその舌打ちひとつきりで、レリックは気持ちを切り替える。
『
まず思い浮かんだのは、このまま耐え続けて相手の魔力切れを待つというもの。否、これは期待できないだろう。そもそも向こうの魔力量は彼自身が最も把握しているのだから、もし枯渇しそうになったら期を見て撤退すればいいだけの話である。
フローの魔術は? 無駄だろう。向こうの手数は圧倒的だ。こちらが長い詠唱を経てようやく一発を放つ間に、向こうは十も二十も撃ってくるのだ。いかな第八階位であっても二十の第七階位に勝てるとは思えない。
ではレリックが敵の身体ごとを『収納』するのはどうか——残念ながらこちらはやや難しい。
十
密度の高い情報の塊はレリックの『収納』にとって、壁と同じである。壁の向こうにいる相手のことが見えないのと同様、間に高密度の情報があると『収納』の確度は一気に下がる。対象の把握が上手くいかないのだ。
長年の戦闘経験から勘で対策しているのか、或いは『
ならばやはり制御剣——『
そこまで考えたところで、不意に。
レリックは自分の脚が震えていることに気付いた。
敵の脅威に身体が反応しているのかと思ったが、違う。力が入らず膝が笑っている。そして妙に息苦しく、いつの間にか頭痛までしている。
こころなしか喉が痛い。
「……これは」
「効いてきたか」
胸を押さえながら呼吸を整えようとしたレリックへ、アンデンサスが笑んだ。
「ぬしは頭をよく使っていたようだから、回るのも早いの。お仲間もじきにそうなる。いや、もうなりつつある、か?」
言われて背後を振り返れば。
フローが、キッフスが、ネシアシリィが——揃って呼吸を荒げ、頭痛に顔を歪めていた。
なにをした、と問おうとして、その前に思い至る。
「……っ、酸素か!」
「
たとえ魔術といえども、炎が盛る際には空気——正確には、空気中の酸素を消費する。中層の洞穴内で長時間にわたり連続して火炎系魔術が使われれば、大気内の酸素が減少するのは自明であった。
改めて思い返せば、アンデンサスの放ってくる魔術は火炎系の回数が多く、次いで雷電系、最も少なかったのは氷雪系。これは得手不得手によるものではなく、意図して偏らせていたのだろう。
しかし、
「もっとも、原因は酸素不足だけではないぞ? さしものぬしもこれには気付かなんだろう。……知りたいか?」
閉鎖空間であっても、ただ火を燃やし続けただけでこうまで身体に不調が出るのは不自然だ。
アンデンサスは得意げに、その答えを教授した。
「強烈な
それはきっと、先代文明の文献に記された知識。
禁忌に触れて
おそらく、ただ雷電系魔術を行使しただけではこうはならないはずだ。雷によって発生する毒はごく小さいか、すぐに消えてしまうようなものと推察される。
だが、炎によって酸素密度を下げた上で、残った酸素を雷で焼くことで——レリックたちの吸う空気を、
雷電系魔術をこうまで連続で放ち続けられるような者は、少なくとも今の時代においてアンデンサス以外にはいまい。そして彼の魔術を耐え凌げるのもまた、レリック以外にはいないだろう。
この戦いだからこそ仕掛けることのできた罠であり、『大魔導』たるアンデンサスの
「ついでに教えてやるがな、
「……っ、ご丁寧に、どうも」
目の前の景色がぐらぐらと揺れる。心臓が苦しく、頭痛がひどく、そろそろ立っていられなくなりそうだ。
もうアンデンサスは魔術を撃っていない。その必要はないと判断したのだろう。なにせレリックたちが倒れてからゆっくりと殺せばいいのだから——このままでは意識すら失うのだろうか。
「さすが、に。これ以上はまずい気がするね」
背後でキッフスが
前方ではアンデンサスがゆっくりと片手を突き出している。
故に、レリックは——告げた。
「見事だ『大魔導』……こんな手があるとは思いもしなかった」
「ほほ。
「なにを言ってる?
唇を三日月に歪め、
「確かにこの手、想定はできなかった。だけど、なにか仕掛けているかもしれないとは予想していた。そしてお前の奸計に……対策をしていないと誰が言った?」
「……何だと?」
「もういいだろう、キッフス」
「ああ。未知の毒なんて貴重な実体験だったから、少し惜しいけれど」
背中越しに呼びかける。
キッフスは——気障ったらしく、指をぱちんと打ち鳴らした。
同時。
頭痛が消える。胸の圧迫感がなくなる。息苦しさがどこかへ去る。
吐き気は治まり、目眩は止まり、レリックたちの体調が、元に戻った。
「な……!?」
今度はアンデンサスが驚愕に目を見開く番だった。
よろめいていたレリックがいきなり安定し、フローは壁に着いていた手を離す。
「なにをした!?
「そんなちゃちなものではないよ。キミは確かに経験が違う、知識が違う、年の功が違う。講じた策も流石と言っていい。けれどね、キミはボクらのことを知らなかった。このキッフスとネシアシリィのことを知らなかった」
指先を立てて揺らしながら、完全に悦に入っている。
横に立つハーフリングを溜息混じりで眺めながら、まあいいか、と喋るに任せた——時間はもう少し必要だ。
「『
アンデンサスは無言。
もっとも仮になにかを返しても、キッフスの弁舌は
「では知覚や感覚を超えた『阿頼耶識』とはなんなのか、説明するのは難しい。元々は先代文明の頃にあった哲学だか宗教だかの概念らしい。が、ボクはこれを『自己の外側からの観察』だと定義している。つまり自分ではない別の存在、自我の上位、言ってみれば……『世界そのもの』が『世界そのもの』を認『識』する、ということさ」
「それがなんだというのだ。貴様、なにが言いたい」
吐き捨てるように問うた老爺に、満面の笑顔で彼は告げる。
「ボクの名はキッフス。冒険者ギルド直属、特級冒険者序列八位。異名を『
レリックたちの体調はもちろんのこと、今や周囲の大気成分すらも元に戻っている。
それはすべて、キッフスの手によるものだ。
「ボクは
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