少女は、もう泣かない
指輪の返還に三日を要したのは、様々な調査とそれに伴う対応に手間取ったからだ。
とはいえ懸念していたギルド本部による押収もなく——ふたつの指輪は無事、依頼主のところへ帰ることとなった。
かくして、昼下がり。
冒険者ギルドのロビーにて。
「ま、四十年も前の品だったってのがでかいねー。あときみが現場で独断をやらかしたせいもあるんだけど。その辺どうなのかなレリックくん?」
指輪の内部構造を破壊してしまったことに対して軽い嫌味を言ってくるネネを無視して、レリックはその隣に腰掛ける少女——エステスへと笑いかける。
「少し時間がかかってしまった。ごめんね」
「いえ。本当に……ありがとうございます」
エステスは受け取った指輪を両手でぎゅっと握り、深く頭を下げた。
椅子の足元には小さな鞄が置かれている。
彼女は今日、孤児院に入る。
荷物は鞄ひとつきり。
とはいえあるだけまし、なのかもしれない。
「心配なしなしよ。うちもねー、あの孤児院出身なの。ママさんも職員のみんなも優しいし、国からしっかりお金出てるし、卒院者の寄付もあるし。たまに遊びに行くからよろよろね!」
「はい、ありがとうございますネネさん」
今やすっかり打ち解けたエステスとネネは屈託なく笑い合う。この三日間、彼女はネネの家に
——ネネの変な口調が伝染しなくてよかったなと心から思う。
「もう、うちのことはネネお姉さん略してねねーさんって呼んでって言ったのにー」
「呼ばなくていいからね本当に」
とはいえ、こちらについてはひとまず落着と言っていいのかもしれない。両親の形見はエステスの手元に戻ってきた——たとえ曰く付きであろうとも、父親が生前、指輪をデクスマイナス家に売り付けようとしていたとしても。
彼女がそれらを知る必要はきっと、ない。
「レリックさん、フローさん、ネネさん」
などと、思っていたのだが。
エステスは三人をゆっくりと見渡し、指輪を置いた掌をテーブルの上に広げ、
「……実は私、知ってるんです。お父さんが、この指輪を売ろうとしていたこと」
告げた。
全員が驚きで目を見開く中、彼女は続けた。
「もともとうちにあまりお金がなかったの、本当は気付いてました。普通に暮らせてたとは思うけど、ただそれだけです。他のお家と比べると、やっぱりわかっちゃうんです」
エステスの父親であるグラドは準三級冒険者だった。
準三級といえば、真面目に潜ってさえいれば食うに困ることはない——いや、それは過小評価だ。父ひとり子ひとりであれば、食うに困らないどころかそれなりの蓄えさえできるはずだ。
でも、そうではなかった。
彼らの生活は『準三級冒険者の父子家庭』としては
「借金もそうです。武器と防具って高いのは知ってます。でも、家のものが全部なくなるほどなんですか? たぶん、借金取りのおじさんが『装備代だ』って言ってたの、私に気を遣ってだと思うんです」
新品の刀剣や鎧は確かに高額だ。そこそこのものを買おうとするだけで百万は飛ぶし、上を見ればきりがない。だがだからといって、家財道具までまるごと差し押さえられるほどだろうか?
「私のお母さんは、病気で死んじゃいました。たぶん、そのせいです」
エステスの推測に、やがて頷いたのはネネだった。
「そうだね。うちもね、この三日で調べたの。エステスちゃん
彼女の母——セザンナが亡くなったのはエステスが三歳の頃、六年前だという。その六年を経ても返し終わらないほどの薬代。グラドがいかに妻の治療に腐心し、いかに糸目を付けなかったかがよくわかる。
「私、お母さんのことよく覚えてません」
エステスは薄く笑いながら、ぽつりと言った。
「どんな人だったのか、顔も、声も、なにも。お父さんは、私のことお母さんにそっくりだってよく言ってたけど……私にしてみれば、お父さんに似てると思ってたくらいだし、鏡を見ても、よくわかんない」
言いながら。
エステスの口端が、少しずつ震えていく。
「でも、お父さんはお母さんのためにたくさん借金をして。それから……たぶん私のために、形見の指輪を売ろうとしました。しかも、それって危ないことだったんですよね? なのに売ろうとした。……私のために。私が美味しいものを食べるために」
声が上擦っていく。
指輪を乗せた手が、ぎゅっと握られる。
「だから私、この指輪、ずっと持ってようと思います。それでいつか、売らなくても大丈夫だったよって、お父さんに言ってやりたい。お父さんと結婚したのは間違ってなかったよって、お母さんに言いたい。だから、持ってます。ずっと持っておきます」
そうして、ひと粒。
エステスの目尻から、涙が、ひと粒だけ——落ちる。
「私、冒険者になります。冒険者になって、いつか……この指輪と一緒に、お父さんみたいに迷宮を歩いてみます」
きっとそれは、悲しみではない。
過去を抱き締めるための、前を向くための、強く在るための、涙だ。
「……そうか」
だからレリックはエステスの頭に手を乗せ、わしゃわしゃと撫でる。
「その時が来たら、一緒に冒険しよう」
「はい!」
エステスは、とびきりの笑顔で頷いた。
もう瞳に涙はない。
指輪を握り込んだ拳は胸の前で強く、彼女の決意を支えていた。
※※※
そうして、少女——エステスが、ネネに連れられて孤児院へと出立し。
入れ違いに、今度はふたりの人物が冒険者ギルドのロビーへと入ってくる。
車椅子に座る女性と、それを押す
イェムロワとオズである。
「やあ。最初の依頼は済んだようだね」
「ああ、お陰さまで。次の依頼の件……そっちに任せてしまって悪かった」
彼らにはデクスマイナス家周り、つまりもう片方の指輪についての事後処理を頼んでいた。ここへ来たのはつまり、そちらも終わったということだろう。
「いいのよ。わたしたちも護衛の依頼を受けた義理があるから。それに貴族絡みのあれこれとなると、わたしたちじゃないと駄目でしょう?」
男爵家令嬢であるイェムロワが笑って応える。
「確かに、正直それは助かった。顔を見た時は勘弁してくれと思ったけど」
「またそんなことを言って! わたし悲しくて泣いてしまうわ?」
「あまり積極的には顔を合わせたくないんだよ、
表向きの活動を華々しくやっている彼らと違い、こっちはひっそり地道が
「……それで、どうだった?」
このままでは面倒な脱線が始まりそうだったので、早々に本題を問う。
「まったくせっかちなんだから。オズ、お茶を頼んできてくれる? この子たちには果実水を」
承知した、とオズが席を立ったのを見送りつつ、イェムロワは話し始めた。
「まずはデクスマイナス家のことからね。結論から言うと……あの家はもう終わりね。内々の話だけど、取り潰しが決まったそうよ」
あの日——
ミックは迷宮へ来る前、既に両親と、更には祖父母をも始末していたのだ。
迷宮での様子からなんとはなしに予想はしていた。
デクスマイナス子爵家の事件は
「トワさまがわたしたちを伴って
「トワ嬢はどうなる?」
「
ヘヴンデリートは自由都市であり、ここに居を構える貴族は少ない。おまけに一家揃って惨殺され犯人は長男——など、とびきりの
「彼女が成人した後で家は復興できるとは思うわ。本人が望むなら、だけど」
「どうしてるんだ?」
「今はろくに食事も摂れていないわ。時間が必要ね」
兄であるミックを直接手にかけた身として、思うところがないではない。
が、そこに気を揉むのは傲慢というものだろう。
「レリック、フロー? 彼女のことはわたしが責任を持つから、あなたたちが気にする必要はないのよ。それに貴族のことなんですもの、打算も利益もなしに慈善で他の家を助けたりはしないわ。後見人になったことでの助成金に、遺産の割譲……そういう汚いあれこれの結果として、わたしは彼女のその後の幸せに責任を負う。それだけのこと」
「……ありがとう、とは言っておくよ」
露悪的に微笑むイェムロワに、レリックたちは頷いた。
あとは——気になるのは、
「寄子の家はどうなった? ええと、ハザル男爵家か」
「名前をしっかり覚えてるの、さすがね」
「一度しか聞かなかったしあまり興味もなかったから、さすがに思い出す作業が必要だった」
シドーズ=ハザル——ハザル家当主にして、セザンナの兄。
それからディーラタ=ハザル——シドーズの甥にして、その後継。
「ディーラタの方はともかく、シドーズだ。ある意味ではあいつが元凶と言っていい。デクスマイナス家に婚約破棄された
ミックの起こした連続殺人、その
当然ながら迷宮を出ると同時に捕縛され、今は監獄の中だ。
「本人は妹がしでかした家の恥を
聞きながらレリックは、イェムロワが既にハザル家のことを貴族として扱っていないことに気付く。
「家は取り潰しか?」
「それ以上よ。
「じゃあ、ディーラタ……あのいけ好かなかった騎士も」
「平民になったわ。家財すべてを取り上げられて、どうやって生きていくのかしら。まあ、そちらはわたしたちには関係のないことよ」
イェムロワの声には一切の温度がなかった。
彼女がなにを考えているのかはわからない。が——興味がない、というのは確かなのだろう。レリックたちもそこは同じだ。
「お待たせ。話は終わったかい?」
そこまで話したところで、オズが
「ええ、口頭で話せるようなことは概ね。……という訳で、そろそろいいわよね、フロー? わたしいい加減に我慢をしていたのよ。なにせ真面目な話だとさすがに、ね」
お茶が置かれる前に、イェムロワは車椅子をなめらかに操るとフローの隣へと移動する。そして身を乗り出し、彼女をぎゅうと抱き締めながら撫で始めた。
フローは無反応、無抵抗、無表情、無感情。
ありとあらゆる『無』でもってそれを諦める。
「ね、お耳を噛んでもいいかしら?」
「いい訳がないだろう!」
実に楽しそうなイェムロワに怒鳴りながら、冒険者ギルドの昼下がり、お茶の時間が始まる。
無論——すべてが片付いた訳ではないと、その場の全員が理解していた。
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