20XX年 7月5日 Ⅰ
夏の暑さが本番に近づいてきていることを肌で感じ始めてきていた七月初め。
今まで長袖だった厚い制服から半袖のワイシャツへと衣替えが学校から推奨され始めていた頃のことだった。
じりじりと日照りがアスファルトを灼く中を俺はうんざりしながら歩いていた。
……全く、こうも暑いとやってられない。
周りの連中たちはもうすぐ夏休みだ、なんて騒いでいたが自分たちの立場を知っている者とそうでない者が半々だった。否、現実逃避をしたかったのかもしれない。
坂口裕一郎は今年、高校三年生となり受験勉強の真っ只中に立たされていた。今年からの一年間はこれまでの二年間とは違い、自分の将来を大きく左右する岐路の一つに立っている訳だ。
もちろん俺も希望する道はある。まだ漠然とはしているが、将来こうなりたいという夢は持っていた。
そんな高校三年生の夏はある意味で一つの試練でもあるのだ。どれだけの誘惑に打ち勝てるかという、精神的な試練をこの時期の高校三年生は自らに課す。
人によっては修行僧のような行動を起こし、またある者は現実から目を背け一時の快楽に浸る。
自分はどちらかというと前者の方に近く、夏の陽に反射されて読みづらくなっている英単語長を開いてはそこに書かれている単語を覚えるという作業を座りながら続けていた。
休日になると大抵影になっているところは後者がひしめき合い自分たちの世界に熱中していて使えず、またエアコンが効いている場所は既に勉強をしている他の学生に占拠されるのが常であり、使えれば御の字なのだが使えなかった場合は悲惨な目に会うのは必然であった。
「……暑い」
今日何度目か分からない言葉が口から出る。今日は例年以上の猛暑だ、というニュースキャスターの言葉はあながち間違いではなかったのだと思い知ったのは外を出て暫くしてからだった。
学校が近づいてきたので単語帳をしまい、足を教室に向ける。周りの雑談で集中力が散るが仕方がない。暑さと比べて俺は騒音の中での学習を選んだのだった。
校内は予想通り騒音が周りを包み込んでいた。勉強をしている同級生と歓談に勤しむ同級生の割合は半々ぐらいか、現実を見ている人間と逃避をしている人間がクッキリと別れていた。
まだ外よりかはましな外気温の中で自分の席に着き一息をつく。
額から流れた汗を拭っていると左肩を叩かれた。
「よお坂口。朝っぱらから辛気臭い顔してんな」
叩かれた方を首だけで見る。口元に笑みを浮かべた男が座っていた。
涼しげな目元と茶色が混じった黒髪を固め、女受けのする容姿をもったこの男に俺は仏頂面を浮かべて返事をする。
「ここまで暑いとこうもなる。俺が暑さに弱いのを知ってるだろお前」
そう返すとへっ、と笑い
「まぁ、今日は確かに暑いわな。俺からすれば女子の制服も薄着になるから目の保養になるが」
とその容貌に合わない台詞を吐いた。
こいつの女癖の悪さは昔から変わっていない。以前女絡みのごたごたを起こしたのにも関わらずそれを悪びれることなく平然としていることからも眼前にいる小野川武(おのがわたけし)はその程度のこと堪えていないのだろう。
「お前いつか刺されるぞ」
「そんなヘマはしねぇよ。俺はヤンデレでもイケる口なのさ」
前言撤回。堪えていないどころかそれ以上に質が悪かった。
以前、コイツはその自身の容姿で複数の女子を同時に口説き、散々弄んだ挙句あっさりと関係を断った。
その理由が「なんかさぁ。どうもピンとこないんだよな。最初のうちは楽しいんだけど段々飽きてくるんだよ。だから振ったのさ」とまぁこれまた自分勝手な理由を展開。
あわや刃傷沙汰一歩手前の修羅場にまで発展したがこの男はへらへらと笑ってそれを回避。関係者の女子や周りの男子たちから睨まれながらも交友関係が広いのはコイツのこのある意味で底なしの明るさとノリの良さだからだろうか。
「それよりも聞いたかよ。稲垣の奴、また男をフッたってよ。これで何人目だぁ?」
そんな俺の思っていることを知らずに「お前も興味あるんだろ」という前提で話を向ける武。
「……へぇ。また玉砕した男が出たのか。今度は誰が砕けたんだ」
単語帳に意識を向け話半分に会話を続ける。
「運動部の主将だってさ。まぁよくありそうなテンプレートでアプローチをかけたんだけど『興味ありません。私には他に好きな人がいるので』と、これまたいつも通りの返答を返して切り捨てたんだと」
ふうん、と言ってチラと教室のとあるグループを見る。女子たちと楽しそうに話しているひと際目を引く美少女。
白い肌と絹のような黒髪を肩まで伸ばし、絵にかいたような『和服が似合いそうな美少女』がそのまま絵から出てきたような容姿をセーラー服に包んだ少女がグループの中心にいた。
稲垣美沙はこの高校でも一、二を争う美少女と言われている女子だった。
明るく気さくで男女問わず人気のある性格の反面、自分に対して告白をしてくる男子たちには一転し冷徹な態度をとり、こっぴどい振り方をすることでも有名だった。
曰く、既に彼氏がいるのだとか、結婚を前提とした付き合いをしている殿方がいるのだとか。はては同性愛者なのだという根も葉もない噂が流れている。そんな女子だった。
「振られた主将は食い下がったらしいが取り付く島もなかったということだ。本当に男が既にいる可能性が高くなってきたなこりゃ」
やれやれ、と肩をすくめる武を見てため息をつく。女好きのコイツからすれば真っ先にアプローチをかけそうなものだが意外なことに稲垣にはしていなかった。こいつから言わせれば「なんか食指が動かないんだよなぁ。こう、もう少し何かが変われば行くんだけど」と、随分と傍から見れば最低なことを言っていた。
「お前そんな情報収集していて今度の模試大丈夫なのかよ。この前ギリギリだーって言って泣きついてきたじゃねえか」
ジト目で武を睨みつけるがそんな視線に悪びれることもなくハハハと笑う武。その後真顔になり
「助けてくれ」
「シバくぞ」
その後はHRが始まるまで泣きつく武を適当にいなしながら単語帳に書かれている英単語を頭に叩き込む作業に没頭した。
「おい裕一郎」
移動教室の最中。呼び止められた俺は振り返るとそこには不機嫌そうな表情を浮かべた女子生徒が立っていた。三つ編みに編んだ髪を右肩に流し、銀縁の眼鏡をかけた如何にも文学少女といった容姿の女子生徒は俺を睨みつけるように見ている。
「朝から何をあの阿保と騒いでいたんだ。いいや言わなくてもわかる。どうせあの阿保のことだ、女子の容姿について鼻息荒く言及していたのだろう。あの女子の胸が大きくなったとか下世話な話を一方的に話していたのだろうが、近くにいる女子たちの身にもなってみろ気色悪いことこの上なかったぞ」
「そこまで分かっているならなんで声をかけたんだ吉川。あの阿保のアホさ加減については重々分かっているだろうが」
少女―――吉川眞波(まなみ)は眼鏡越しに俺を睨みつけ―――実際は視力が弱いことと目つきが悪いだけでただ見つめているだけだが―――やがて何かを諦めたようにため息をついた。
「まああの女の尻を追いかけることしか能のない阿保には何を言っても無駄か。私が行ったところで…私が襲われることなんてことは無いけどな」
こんな口調だし、こんな体型だしな。そういって佐野は視線を降ろし自身の容姿を見つめた。
周りの女子と比べて自身は貧相だ、とよく自嘲をしている彼女だが所謂自覚がないタイプというやつで、薄着になると男子の目を引くスタイルの持ち主だったが、彼女自身が余り目立ちたがらない性格の上に稲垣等の同性がいるために影に埋もれがちな人物だった。
横に並んで歩きながら話す。
「お前があの阿保の手綱を持っていないとあの阿保は暴走するというのは火を見るよりも明らかだろう。そういった意味ではお前にも責任があると私は思うがね」
「俺にアイツの暴走を抑えろと? 無茶を言うな。自分のことで精一杯だっていうのに女の尻を追いかけている年中発情しているアイツなんて抑えられるか」
それもそうか、といってあっさりと諦める佐野に俺はため息をつく。
「それよりも先程、稲垣美沙のことについて話していたな。運動部の主将をものの見事に振ったとか」
突然の話題の転換に驚きつつも話に乗る。
「あ、あぁ。その話な。だいぶ手酷く振ったと聞いたけど。既に噂に尾ひれが色々とついていそうだな」
「その『手酷く振った』というのは事実だぞ? テンプレートのような告白に対して「貴方が私のことを好きになった理由を十個挙げてください。もちろん『綺麗だから』とか『美しいから』とかテンプレートな理由を挙げてくださいね? 私に『好きだ』なんて言葉を口にするくらいですからそれくらいは容易に挙げられますよね? 挙げられないのですか? どうして挙げられないのですか? あぁ、分かります。どうせ『俺の告白なら彼女だって断らないに決まっている』という薄っぺらい願望を引っ提げてここに来たのですよね? 残念ですが私、貴方のような言動が薄っぺらい男嫌いなんです。魂ごとやり直して来てください。それに私には既に好きな人がいますので」とまぁ言葉の刃物で相手のプライドをめった刺しにして振ったのさ。あれは彼女が今まで告白してきたチャレンジャーの振り方の中でもトップに入るね」
余程面白かったのか、くつくつと嗤う彼女を横目にその主将に対して心の中でご愁傷様、と呟いた。
「…ん? どうしてそこまで詳しいんだお前」
「そりゃあお前、あの告白は部活で生徒が残っている中堂々と行われていたからさ。私じゃなくても見ていたギャラリーはごまんといる」
思わず唖然とする。そんな中で告白し言葉の刃物でめった刺しにされたというのか。
なんて奴だと呆れると同時に、その面識のない主将とやらにはある種の敬意を抱いた。
「それで? お前はいつ稲垣に告白するんだい?」
唐突にさらりと爆弾を投げてきたぞコイツ。
「どうしてその話からそうなるんだ」
思わず隣の女を睨みつけた。それを気にするでもなく笑みを浮かべながら彼女は口を開く。
「うちの学校で稲垣美沙に告白して振られた男は大体八割、残りの一割はカップルとして成立し青春をそれなりに謳歌している連中だ。後の一割はお前のような男だよ。今度は誰が玉砕するのか、ちょっとしたトトカルチョが行われているくらいさ。その玉砕候補の中にお前がいるというわけだよ」
「人のあずかり知らぬところでそんなもの開くな」
よくもまあそんな暇があるな、と頭を抱える俺を横目に
「まぁ…お前は稲垣のような女よりも、佐野のような女のほうが好みだろうしな」
そう言って目の前の意地の悪い腐れ縁はニヤリと笑った。その発言になっ、と言葉を詰まらせた。
「な、何言ってんだお前、俺の好みが佐野? あの阿保と違って恋愛なんてしている余裕が無いのは知っているだろ」
「ほぉ。自覚がないのか。一日の平均でお前は彼女のことを5回見ているという事実があるのだが?」
「お前はいったい何者なんだ」
前からこいつは人間観察が趣味という一面を持っていた女だったが、俺のこともその対象に入っていたらしい。
こいつのその人間観察という趣味からくる彼女自身が持っている人脈の広さは分からない。
以前コイツは中学でいじめにあっていたが、その時も彼女はICレコーダーと小型カメラを常時起動させていじめに耐え、教育委員会やPTAらが集まる集会を見計らって双方に事前に情報を流し、情報が握り潰されるということも想定して警察や文科省、はてはどこからコネクションを持ったのかマスコミにもリーク、大々的にいじめを公表した。それでちょっとした騒動に発展させて自分をいじめていた加害者の高校推薦や合格を取り消させ、それを見て見ぬふりをした教員を教職追放まで追い込ませている。
もちろん逆上した連中もいたが、その時もどこから掴んだのか彼らの弱みをチラつかせて黙らせていた。その頃から独特の人脈を築き上げていてちょっとしたネットワークを構築しているという噂があった。
そのコネクションの広さには興味はない。否、興味を持たないほうが良いと感じている。
一時期興味を持ち、色々と探って首を突っ込んだ奴がいたらしいが、数日としないうちに行方が分からなくなった、彼女の熱狂的なファンとなり裏で情報を収集する黒子役となったとか噂の枚挙に暇がない。
ドン引きしている俺に彼女はクスリと笑い
「無論、お前の腐れ縁だよ」
とさらりと返した。
硝子球を通して見た、脆く美しかった世界 坂口 裕一郎編 瀬領しすい @shisui_shiryou
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