硝子球を通して見た、脆く美しかった世界 坂口 裕一郎編

瀬領しすい

現在 8月

 ふと。

 思ってしまうことがある。

 今となってはもう取り留めの無いコト。

 どうしようもないコト。

 あの時こうしていれば、ああしていれば。

 あんなことが起こらなかった筈なのにと後悔をする。

 回避出来たのではないかと想像する。

 それでも。

 あの時の光景はどうしたって変えられることなんて出来なくて。

 未だに自分の脳裏に強烈に焼き付いて仕方がないのだ。







               8月

 家を出ると途端に体を外の熱気と蝉しぐれが包む。

 むわりと絡みつくような熱気は、数年前から問題になっている温暖化を彷彿とさせるような暑さだった。

 それに重なるように数日間の地上での命を謳歌するように多くの蝉の声が至る所で鳴いており、その音が頭に響いて思わず顔を歪める。

 思わず回れ右をしてクーラーの効いた家へと戻りたい衝動に駆られ、すんでのところで抑え込んだ。

 自分でアポイントを取っておいてその人と会う約束をしているのに何を考えているのだ俺は、と自分を叱咤して突き刺すように照らす日差しと戦いを挑むように足を踏み出した。



 電車に数十分揺られて待ち人との待ち合わせの場所へと向かう。

 駅を降りた途端、強い日差しと共に喧騒が視界に入った。

 ……全く、この暑い中よく動くもんだ。

 他人事のように眺めながらも、ふと自分もこの喧騒の中へと入っていくのだと気づき苦い表情になる。

 暫く行きたくないなぁと思う自分と格闘をした後に数分後に覚悟を決め、その人の波の中へと足を踏み入れた。

 暫く歩いていくと待ち合わせの場所へと着いた。その手のスポットとして有名なこの場所には、多くの待ち合わせの人たちが集まっていた。

 ……それにしても暑い。

 元々暑がりだという自覚はあるが、こうまで暑いと流石に長時間居たくない。

 帽子を被ってくれば良かったのだろうが、そうなると彼女が俺を見かけた場合俺かどうか分からなくなるかもしれない。そう考えると被る訳にはいかなかった。じっとりと汗が首筋を伝う感触にため息をついた。

 ……さて、どこにいるだろうか。

四方見た感じはカップルだらけ。この暑苦しいってときにくっつくな余計暑苦しくなるだろうがと内心で謂れのない罵倒を彼らにかけながら視線を左右に向けて探していると唐突に背中をポンと叩かれる。

 首だけを後ろに向けるとはたしてそこに今日会うはずだった相手が立っていた。

 肩まであるであろう茶髪を片側だけで結び、大きな胸を包む白のシャツを胸元が強調されるような着方をしている。紺の短いスカートからは白い足がすらりと伸びていて周囲の視線を集めていた。

「久しぶりね。元気だった?」

 昔と変わらぬ笑みを浮かべてその女性は立っていた。

「…お久しぶりです、先生」

 暑さにぐったりしている俺を見て先生と呼ばれた女性はニンマリと笑った。

「相変わらず暑さに弱いわねぇ。そんなんじゃ夏の海でナンパ出来ないわよ? それと、私はもう貴方の先生じゃないわよ」

「こんなクソ暑い中ナンパなんかしませんよ、学生時代じゃあるまいし。先生も「佳澄」お変わりなく」

 名前を呼ぶようにという意味で遮った彼女の声を無視して会話を繋げた。むぅ、と唸って不貞腐れたような表情を浮かべる。

「知っているでしょ、私はもう貴方達の先生じゃ無いわ。教員はもう辞めたのよ」

「だからと言っていきなり名前で呼べと? 数年ぶりにあった相手に無茶ぶりがすぎませんか?」

 良いじゃない、貴方だってもう学生じゃないんだし、と言った後にあ、と何かを思いついたようにポンと手を叩きニヤリと嗤った。

 ……どうみても良い予感がしない。

「ちゃんと名前を呼んでくれないと、今日一日貴方のこと「ダーリン」呼びにして奢りってことにしちゃおうかなー」

 うぐ、と唸る。こちらの足元を見て交渉をしてくるのは昔からだ。

「仕方ないじゃないですか。例え今は辞めていても俺にとって貴女は「紫藤 佳澄」先生なんですよ?」

 そう言葉を吐くように言うと目の前の女性は目を少し見開き、何故か頬を少し染めて自身の胸を掴む。

「……あー、ヤバい。今の言葉ちょっとドキッとした。ねね、もう一回言ってくれる? 今度は甘く耳元で囁くように」

「今の会話のどこにそんな要素が入っていたんですか…」

「どうして貴方って無自覚で女心をくすぐるような言動が出来るのかしら…私貴方に惚れちゃいそう」

 勘弁してください、とため息をついて頭を掻く。その仕草さえ目の前の彼女からすれば好ましいものに映るらしい。ふふと優しい笑みを浮かべて俺を見ていた。

「……まだその癖、直ってなかったんだ。貴方のその癖、昔から好きよ私。なんかこう、母性本能を擽られちゃうのよね」

「とにかく、場所を移しましょう。ここじゃ暑すぎてやってなれない」

 彼女の言葉に思わず赤くなってしまった頬を隠すように、そして照り付ける日差しに嫌気がさして提案する。そうね、といって彼女も俺を揶揄うのを止めてくれた。

「今年は特に暑いものね、嫌になっちゃうわ本当に」

 そういいながら胸元を摘まんで引っ張るのは辞めてほしい。すこし汗ばんだ白く深い胸元の谷間を周りの男性がチラチラと見ては去っていく。カップルの男がその胸を見て彼女に耳を引っ張られていた。…彼女いるんだから他の女性に視線を向けたらダメだろう。

「……気になる? 私の胸。何だったら好きにしてもいいわよ?」

 視線に気づいたのか挑発的に目を細めホレホレ、と胸の下で腕を組み持ち上げた。持ち上げた反動で揺れる胸を直視しないようにして「さ、行きましょう」と足を動かす。チッ、と舌打ちが聞こえたような気がしたが気にしないことにした。

「もう、詰まらないわね。昔からそういう性格だったかしら貴方。昔はもうちょっと欲望に忠実だった筈よ」

「そういいながら腕を組もうとしないでください暑苦しいです」

「あら、役得じゃない。こんな美女と腕を組んで歩けるなんて、恋人同士に見えるわよきっと」

 自分で美女とか言うのかこの人は。あとどう見てもその手の店の勧誘です。とは口に出さずにおく。

 その後、喫茶店につくまで彼女は嬉しそうに自分の胸を俺の腕に押し付けたまま歩くのだった。



 静かにジャズが流れている喫茶店と言うのは、どうしてこうも落ち着けるのだろうか。程よく冷房が効いている一席に腰を下ろした俺たちは注文を済ませ、届くまでの間をコップの水を片手に会話をしていた。

「でも……本当に数年ぶりね。昔はちょっと誘惑しただけで顔を真っ赤にしていた初心な男の子が今じゃふてぶてしくなっちゃってもうお姉さん悲しいわ」

「数年も経っているんですから変わりもします。つか、貴女が変わらなすぎなんじゃないですか?」

 それもそうかもね、と肘をついて笑う彼女――紫藤佳澄は、俺の高校時代の教師だった女性だ。

 当時から胸元を開いた服装、白い太腿を強調するようなミニスカート、そして彼女自身のこの明るくサバサバした性格と服装は、女子高生からは良き相談相手、そして男子高生からは青い欲望の対象となっていた。

 時折聞こえてくる男子生徒達の会話でも彼女はもれなく性欲の対象として見られていたのは彼女自身も分かっていたのか、時折からかうように胸元やスカートの奥を見せるようにしてそれをガン見していた男子生徒が周りの女子生徒から白い眼を向けられているのを見て楽しそうに笑っていたのを覚えている。

 からかいながらも優しい目で生徒達を見守っていたこの女教師は、『あること』をきっかけに俺達の前から突然姿を消した。

 学校からは一身上の都合、という理由で彼女は高校を辞めたということを聞いていた。当時の生徒達は落胆する者が多く、彼女がどれだけ慕われていたかが分かった。

 ……ただ、彼女が高校を去ってから暫くして、とある噂が出回った。

 曰く、紫藤佳澄を風俗街で見かけたという噂。

 夜の派手なネオンが飾る風俗店で、中年の男性達を相手に身体を売っているというものだった。

 そんな噂が飛び交うと、生徒たちの間には疑念が渦巻き始めた。

 …まさか、あの先生がそんなことをする筈がない。

 …でも、実際見たというやつもいるし、ホントの事なんじゃないか。

 …クソ、その噂が本当だったら今すぐ行ってヤッてみてぇ。

 噂はどんどん膨らんでゆき、俺が卒業する頃には既に噂は噂でなく事実となってしまっていた。

『紫藤佳澄は、自分の欲求不満を解消するために自ら身体を売るソープ嬢になった』

 尾ひれがどんどん付いていき、いつしか嘗て生徒達を優しく見守っていた女教師は性欲に身を任せた淫乱な女へと堕ちていた。


 ……ただ、俺は今でも鮮明に思い出すことがある。

 それは彼女が高校を去る前。

降りしきる雨の中。

 傘もささずに俺の胸に縋り付き大声で泣いている彼女の姿。

 今までそんな表情を見せたことのなかった、紫藤佳澄という女性の弱い部分を垣間見た瞬間。

 その姿があったからこそ、俺は流布された尾鰭の付いた噂を極力信じ込むことなく卒業し、今こうして彼女と会って話をしているのだ。

 ……その噂が後々になって強ち間違いではなかったと知ったとしても、だ。



「……い」

 時折会う同期生の紫藤佳澄という女性の評価は先ほど言ったようなものだ。俺一人がそれは違うと声を上げても今更覆らない。

「…おーい」

 しかし、彼女が高校を去った理由があるとすれば。

「おーい! 聞こえてるかしら!?」

 両頬をパン、と叩かれて気が付く。

 見ると彼女が膨れた表情でこっちを見ていた。

「…あぁ、すいません。ちょっと呆としてました」

「もう。こっちが話しかけても生返事だし。そんなに私とのデートが嫌?」

「そういう訳では。というよりこれはデート……何でしょうか?」

「貴方が連絡をくれたんでしょ? 『先生とまた会って心と体を重ねて愛を語り合いたい』なんて情熱的なメールを送られたからお姉さんときめいちゃって、せっかく気合入れて服装も貴方を誘惑するためのものにしたのに」

「愛を語り合いたいなんてメールは送ってませんよね…? ただ「会って話したい」という文面をどう解釈したらそんな告白めいたメールになるんですか?」

「え? 違うの? じゃあこの後ホテルに行ってイチャイチャしながら二人の愛の結晶を作るという神聖な行為をするということは?」

 しません、と言ってため息をつく。「違うのか…まぁでも……この後なし崩し的に……既成事実を作っちゃえば……」と何やら恐ろしいことを呟いている彼女を無視して本題へと移らせてもらうことにする。



「今回来てもらったのは……彼女―――佐野 巴香のことです」



 彼女の名前が出た瞬間、目の前の女性の表情が固まる。微かに目を見開いた。

 まるで、そこだけ時が止まったような空気が流れた。

 周りの喧騒が遠くの事のように感じられる。

 やがてふう、とため息をつくと頭を軽く掻き目を閉じる彼女。これから話すことについてどうするべきかを迷っているようだった。

 目を開き、流し目でこちらを見る彼女は先程まで俺を揶揄っていた女性とはまるで違う雰囲気を纏っていた。

 暖かかったものから、一気に冷めたものへ。

 一つ間違えればこちらを切り刻むような視線を送りつける。

「……どうして、今更?」

 そして形の良い唇を動かし、冷たい声音で聞いてきた。その空気に負けないように繕って肩を竦める。

「そろそろ楽にさせてやったらどう、というアイツからの言葉ですよ。誰よりも彼女のことを想っていた先生だからこそ、吐き出させていい加減吹っ切らせなさいとも、それが出来るのがお前だけなんだからとも言われました」

 そういうとキョトン、とした顔をした後、フ、と苦笑を浮かべる。

「アイツ…というと、あの娘かしら。全く、昔から勘が良かったと思うところがあったけど、そういうところに気を回すのがあの娘らしいというかなんというか」

「たまたまばったりと会って、というよりアイツからしたら計算づくで俺に会いに来たと思うのですが」

 と言いながら整った容姿に反して自身の外見に全くの無頓着な元同級生の不機嫌そうな表情を思い出す。

 クスクスと笑いながら先生が空気を戻す。

「あの娘ったら、変な気を使っちゃって…もうちょっと自分の容姿にその気を回したら良いのに…」

 その言葉に苦笑を浮かべながら俺は言葉を続けた。

「アイツ、そういったことに全く興味が無いですから……あった時も学生の頃とほとんど変わってませんでしたよ」

「そうなの? あの娘素材はかなり良いんだからちょっと磨けば相当な美人になるのに」

 もったいないわ、と言って運ばれてきたアイスコーヒーに口をつける。ストローで飲む先生の白い喉が上下してコーヒーを嚥下した。

 こちらも運ばれてきた紅茶に手をつける。ガムシロップもミルクも入れずにストレートで飲むのが好きだった。

「相変わらずコーヒーは飲めないのかしら? 似合うと思うんだけどなぁ、コーヒーを飲んでいるキミ」

 まじまじとこちらを見つめる先生に苦い表情を浮かべる。

「飲めないわけじゃないんですけどね。色々あってちょっと苦手なんですよ」

 あらそうなの、と言ってそれ以上の詮索はしなかった。

 暫くコチコチと時計の音が二人の間に響く。

「それで…あの娘の話だったかしら。全部吐き出させろ、とはまた荒療治をやらせるものね」

 何時の間にか頼んでいたチョコケーキにフォークを刺しながら先生が聞いてきた。

「ええ。アイツのことは俺自身ここ最近になってようやく整理がついたところでしたから。先生もそろそろ整理をつけるべきなんじゃないかなと俺も思います」

 ふう、とため息を一つつく先生。目を閉じて背もたれに寄りかかり上半身をゆらゆらと揺らす。

 やがて目を開き静かに笑みを浮かべて口を開いた。

「私のことを話す前に、まず君が話してほしいな。君からみたあの娘のことを聞きたいわ」

 その言葉に俺は目を少し見開いた。

「……俺から、ですか?」

「うん。私よりも付き合いの長かった君が見ていたあの娘のことを知りたいの。……ダメかしら?」

 上目づかいで聞いてきた先生に軽く頷き、口を開く。

 漸く心の整理が付き始めているあの出来事を、『俺の視点から』語るのは目の前の彼女に取ってみても新鮮な筈だ。

「さて、どこから話しましょうか……」

 再度紅茶で唇を濡らした後、ふと視線を向けた窓から見えた空は、雲一つない晴れ渡る青空だった―――。

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