アモルファス・バクテリア

柴田彼女

アモルファス・バクテリア

 十万人に一人。胎児が腹の中で瞳を食われる確率だ。

 これを少ないと思うか多いと思うかは人それぞれだろう。

 けれど【瞳を食うバクテリアは全人類の九割弱が保有している】、こうなればほとんどの人は「多すぎる」と感じてしまうのではないだろうか。だが、それでも大抵の人々はそれをただ腹の中で飼っているというだけのことだ。ほとんどの人間は一生そのバクテリアの所為で腹痛を引き起こすようなことはなく、内臓を食い荒らされることもなければ肉を腐らせることもなく、ただ宿主としてその腹を提供するだけの存在でしかない。

 バクテリアは永遠にどこへも行けず、何もできないまま、その生涯を真っ暗な腹の中で終えるのだ。しかし彼らは極めて稀に、人間にとっては最悪の形で変質する。これに男女差はなく、そのうえ変質の引き金となる原因の特定もできていない。

 とにかくわかっていることは、変質したバクテリアは宿主が女性であった場合は直に子宮へ、男性であった場合には精巣へと移動した後性交時に女性の体内へと流れ込み、やはり子宮に棲み着いてしまう。そして女性が宿した子の成長をじっと待ち、眼球が形成された段階でそれを食い尽くす。

 ゆえに生まれた子どもは眼球を持たない。

 代わり、眼球が収まっているはずの空洞には無数のバクテリアの抜け殻がガラス玉のような塊となって埋まっている。薄水色に透き通るそれはこの世のものとは思えないほど美しく、どんな宝石よりも高値で売れる。


 目の見えない僕らの瞳を食った“それ”の抜け殻は何より美しい。

 なんと皮肉なものだろう。

 けれど、その事実こそが美しいと、僕は思う。


 *


「ひばりちゃん、いま何時?」

「んー……十一時四分」

「はあー? もうそんな? お昼きちゃうじゃん……」

「あと一時間近くあるだろ。子どもじゃねえんだから黙って待てって。つーか時間くらい自分で確認しろ。スマホあんだろ? スマホ。文明の利器」

「鞄の中漁るよりひばりちゃんに訊いた方が早いもん。私にとっては最先端の機械よりひばりちゃんの方が優位なんだよ。嬉しい? 嬉しいよね? えへへへ」

 腹の底から嘘くさい溜め息を吐いてみせる。いつになったらひかりは『整理整頓』という常識を身につけるのだろう。

 ひかりの鞄の中は冗談じゃないほど汚い。正直に言ってしまうと、僕は彼女の鞄へ不用意に手を突っ込むことをどんな罰ゲームより怖いと思っている。何も見えないからどんな物に触ってしまうかわからないのだ。

 ふた月ほど前、諸事情でひかりの鞄の中を探ったときなど、ふいに触れたそれが『数日前に買った飴が破けた小袋の中でちょっと溶けちゃったやつ』だと教えられた途端、僕は絶叫しながらひかりに水道まで連れて行ってもらったくらいである。不衛生は本当によくない。身の回りの世話をしてもらっている身分でこんなことをいうのもなんだとは思うけれど。それでも本当に、ひかりのそういうところだけはどうしても理解できなかった。

「うーん、だけどホントふしぎだなあ。なんでひばりちゃんは触るだけで時間わかるのかね。理屈はわかるけどさ、手触りだけじゃあ無理だよ」

「慣れだよ。訓練。人間、死ぬほど本気出せば大体のことはこなせるようになる。切羽詰まったもん勝ち」

 ふうん……ちょっくら触りますよ。ひかりが断わりを入れて僕の左手首に触れる。どうやら僕の腕時計を撫でているらしい。針を直に触ることができるそれを僕の誕生日にプレゼントしたのは紛れもないひかり本人だ。

 金属製のフェイスに、滑らかな牛革のベルト。文字盤の下には細かく蔦模様が描かれているというが、生憎僕にはそれが見えない。見えないけれど、「そこがねえ、ものすっごく格好いいんだよー」とひかりが言っていたので僕もそこが一番気に入っている。ひかりは良くも悪くもあまり賢くないから嘘が吐けない。僕はひかりのそういうところが好きだ。

「あ。ねえひばりちゃんちょっと待ってて。私だけ呼ばれたっぽい」

「んー。帰ってくるまでここに座っていればいい?」

「あい、それでお願いしやす」

 ひかりが立ち上がる。ソファーが一度強く沈み込み、一気に浮く。ひかりの足音が遠ざかっていく。僕は俯き、一切受信できない視覚情報をその他の感覚で補う。

 消毒液の匂いが薄らと充満した待合室。子どもたちの賑やかな声と、その親と思われる人たちの小さな会話。女性、男性。女性の方が圧倒的に多いようだ。あるいは寡黙な男性ばかりなのかもしれない。先ほどから身体の右側が少し冷える。稼働する音の先をたどり、冷房の位置を完璧に把握する。随分性能のいいものを使っているようだ、この騒々しい部屋、よほど神経を研ぎ澄まさなければ健常な人間にはエアコンの稼働音など一切聞こえないだろう。僕はまくり上げていたシャツの袖を下ろす。



 何かが近づいてきたな、と思った瞬間、とん、と右膝に小さな振動が伝わる。

「わあ」

 僕にぶつかったそれは小さな子どもだった。怪我などしていないだろうか、すぐさま「大丈夫?」と訊ねてやると、うん、と小さく返事が聞えた。声の主は僕のズボンをきゅっと握りながら立ち上がり、

「ぶつかっちゃったあ」

 えへへ、とわかりやすく笑った。笑って誤魔化せるくらいの打撲であれば本当に大丈夫なのだろう。胸を撫で下ろしながら、ひかりと同じような笑い方をする子だな、と考える。

「よかったよかった、受け止めてあげられなくてごめんね」

「だいじょーぶ! ぼくいっつも転んじゃうの。だから痛くないよ」

「そっか。元気なんだねえ」

 子どもは自らを、ぼく、と表現した。男の子であっているだろうか。彼の親はどこにいるのだろうか。いくら病院内だとは言え子どもが知らない男と話し込んでいても気にしないなんて、褒められたことではない。

「ねえ、お母さんとかお父さんとか……家族の人、どこにいるのかな?」

「んー、あそこ!」

「え、どこ?」

「あそこ! あっちのほら、あそこ!」

「ああ……ごめんね、お兄さんね、目が見えないんだ。あそこ、がどういうところか教えてもらってもいいかな」

 子どもは、へえー、とわかりやすく驚いていた。彼の周りに盲目の人間はいないのかもしれない。彼が、おかあさんおトイレのとこ行った、と説明してくれる。

「ミーちゃんのおしめ変えるんだって。ミーちゃんはぼくの妹ね! だから、ミーちゃんとおかあさんは女の子のおトイレだから、ぼく行かないって言ったの。ぼくは男の子だもん」

「そっかー。なるほど。男の子と女の子のトイレは場所が違うもんね」

「そう! だから待ってるの。偉い? 偉いよね?」

「あはは。うん、偉いよ。偉い!」

 お兄さんぶりたい時期なのだろう。思わず顔が綻ぶ。彼も、えへへー、と笑い、そうして僕の隣に座ったようだった。子ども特有の警戒心のなさを直に感じる。


「ねえ、お兄さん、ホントにおめめ見えないの? なんで見えないの?」

 これまた子ども特有の直球だな、と思う。僕は少し考えて、それから、

「そうだなあ……お兄さんも君も、君の妹のミーちゃんも、ひとはみんな元々お母さんのおなかのなかにいたっていうことは知ってる?」

「知ってるよ! ミーちゃんもねー、ずっとおかあさんのおなかの中にいたもん、こないだまでだよ! おかあさん、こないだまでおなか、こーんなにおっきかったの! そこにミーちゃん、いたの」

「そう! そのときのお話だよ。お兄さんはね、お兄さんのお母さんのおなかの中にいたころ、ちょっと病気になっちゃったんだ。それで、目が見えないまま産まれた。だから今もお兄さんは目が見えない」

「病気? 病気ってどういうの? どうして病気になったの?」

 好奇心旺盛だなあ。僕は感心してしまう。そのうえで僕は心底楽しくなってきていた。

 瞳を食われた人間を可哀相ぶる人間はとても多く、憐れんでくる人間はさらに多い。しかし興味を持って見てくる人はまずいないのだ。それは他者の病をそういった対象として扱うこと自体が世間でタブーとされているからに他ならないなのだが、僕はそれがいいかどうかは別として彼の好奇心を“面白い”と感じた。そして、僕にとって面白いことは百パーセント “良いこと”に分類される。僕は子どもでもわかるような言葉を選び、そのうえで彼を子ども扱いしないよう、敬意をもって話を続ける。

「お兄さんのお母さんの身体の中にはね、バクテリアっていう、まあ、ちっちゃいちっちゃい生き物が棲んでいたんだ。本当はちょっと違うんだけれど、まあ虫みたいなものだって思ってもいいのかな」

「むし?」

「そう、虫。でもその虫は、お母さんにとってはなにも悪いものじゃないんだ。その虫のせいでお母さんが具合を悪くしたり、病気になったりすることは絶対にない。でもお兄さんにとってはあんまりよくないものだった。その虫は、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃん、つまり産まれる前のお兄さんの目を食べちゃう虫だったからね。それで、お兄さんはお母さんのおなかの中にいる虫みたいなやつに、両目を食べられちゃってから産まれた。だからずーっと、お兄さんは目が見えない。見るための目玉がないからね」

「お兄さんのおめめ、虫のごはんだったの?」

「んー、まあ、そういうふうにも言えるかなあ……ああそうだ、君は食べ物で何が好き?」

「食べ物? から揚げと、ハンバーグ。あとねーブドウも好きだよ! 種ないやつ!」

「そっかあ。でもさ、考えてみてほしいんだけど、から揚げは鶏のお肉でしょ? ハンバーグは牛とか豚のお肉。で、ブドウは植物、草とか木とかお花とか、そういうものの仲間。でも、鶏も牛も豚も植物も、君の食べ物として産まれてきたわけじゃないんだ。だけど君はそれを食べる。勿論ちっとも悪いことじゃないからね、勘違いしなくていいよ。ただ、でもやっぱりさ、動物も植物も食べられるために産まれたわけじゃあないんだ。わかる? ……あはは、どうかな、さすがにわかりづらいかな。ごめんね、お兄さん説明はちょっと苦手なんだ」

「うーん……ちょっとわかんなかった……でも、幼稚園の先生が言ってたよ。『ごはんは残さず食べましょう、生き物に感謝して食べましょう』って」

「あー、ちょっと僕の目の話とは違うけど……まあ、うん、それは正しいことだよ。それに僕の話とも地続きかもね。だって食べ物は全部命だから。僕らは命を食べて生きているから。そうだね、全く違う話ではないね。大丈夫、先生の教えてくれたことは正しいよ。僕も君も、毎日命を戴いているんだ」

「ふうん。いのち」

 男の子が呟く。何かを考えているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少し間が開き、次の会話を模索していると、

「あ! おかあさん」

「あー、もうやだ、どこ行ったかと思った! ちゃんとおトイレの前で待っててって言ったのに。もう……」

 彼が椅子から飛び降りたらしい。彼の母親は僕のことにも気づいたようで、

「あの、ありがとうございます。すみません、何かご迷惑おかけしませんでしたか?」

「いえ、進んで話し相手になってくれました。楽しい時間でしたよ、ありがとうございます」

 お兄さんにありがとうって言える? 母親が男の子に促す。男の子も、

「おにいさん、遊んでくれてありがと! またねー」

 と言って自ら僕の右手をきゅっと掴み握手をする。少し驚きはしたものの、僕も彼の手を握り返し、

「ありがとう。気をつけてね」

 彼に別れを告げる。



「へえー、いいとこあんじゃん、さすがひばりちゃん。私が見初めた男の子」

 いつから見ていたのか、いかにも「茶化しています」といった声でひかりが僕を褒める。彼女はそのまま僕の隣に座ると、

「でもひばりちゃん、思ってたよりも説明できてたんじゃない? 最後の方なんかあの子感心してたよ、へえー、って顔してた」

「はいはい、どうもどうも。つーか見ていたなら助け舟くらい出せよ。お前の方が子どもの扱いうまいだろ、保育士さんよ」

「へへ、こちとらきょうは休日なもんで!」

 そうして彼女は一言、元気だったよー、と話す。僕はそっと右手を伸ばし、彼女の腹の方へと寄せる。彼女も僕の手をそっと掴み優しく誘導してくれる。

「ねえ。目、あるまま産まれてくると思う?」

「どうだろうなあ。実際問題、産まれるまでわかんねえからなあ」

「だよねー。ひばりちゃんも私も感染者だからね。楽観視はしてらんないんだよね」

 押し黙る。こういうときなんと返していいものか、僕はいまだに答えを出せずにいる。

「わはは、気にするでない! なんとかなるし、なんとかしてあげますよ、このひかり様がね。それに、いざとなったらひばりちゃんのキラキラの目ん玉売ってお金にしちゃえばいいじゃんね!」

「わはは、俺以外に言うなよ、そのギャグ」

「えへへー。ねえねえひばりちゃん。実は私の鞄には大量の目ん玉が入ってるって知ってました?」

「は? ああ……また飴溶かしたのかよ、捨てろー。つーか頼むからいい加減片づけを覚えてくれ、腹の子のために。あと俺の身の安全のために。床に何があるかわかんねえのホントにこええんだよ」

「はい、がんばります……」

 受付から名前を呼ばれ、彼女に手を引いてもらい会計へと向かう。

 診察代を支払った彼女が自然な流れで玄関に僕を誘導し、僕が願い出るよりも先に靴棚から僕のスニーカーを出してくれた。僕は彼女へ礼を伝え、自らの靴紐をきつく結びながら、

「なあ、昼飯。から揚げかハンバーグ食いに行きたいんだけど。どう?」

 空腹の絶頂にいるはずの彼女からの賛同の言葉を待つ。

 即座に「いいねー!」と言った彼女の鞄の底に沈んでいるそれが本当に飴玉なのか、僕には一生わからない。

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アモルファス・バクテリア 柴田彼女 @shibatakanojo

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