第拾弐話 鶏肉の温度は
汎用人型決戦兵器に乗るか、乗るまいか、父親に突きつけられた少年のごとく。私は葛藤していた。
令和3年5月某日、鶏肉温度問題である。
世の中には『低温調理』なる手法があるとは聞き及んでいた。第弐話の温泉玉子もその一つ。黄身と白身の凝固温度の差を利用した料理であり、改めてメニュー集を読むと、68℃で約40分とある。
この低温調理には以前から並々ならぬ関心を寄せていた──なんか玄人っぽい。素材を活かしつつ、嫌みにならない程度にデキル感をアピールできる。低温調理? あんなの簡単だよ~と、鼻高々、前髪ふぁっさぁっで言える。ついでに兄が錬成したプリンを上回れる。
というわけで、早い段階からその日の夕食は低温調理による鶏胸肉ハムと決定していた。
鶏胸肉は鶏腿肉のほぼ半値で嬉しい。だが、加熱方法によってはパサついて飲み込めやしないという危険がつきまとう。なれど、低温調理はしっとりつやつや、パサつきから民を解放してくれるというのだ。
ホットクック本体付属のレシピ集には鶏胸肉の低温調理は載っておらず、ネットで検索した。そして迷う。レシピにはヒットするのだが、どれも微妙に温度や設定時間が違うのだ。
前工程は似たり寄ったり。皮を削ぎ取り、フォークの先で身をつつき(洗い物を増やしたくないので皮を削いだナイフの先でする)、ジップロックに入れて、オリーブ油と塩胡椒を追加し、揉み込む。
さて、あとは【発酵・低温調理】カテゴリーで温度と時間を設定すれば良いだけなのだが・・・・・・肉のタンパク質は65度あたりから凝固作用が始まるという。では、65度以下にすべきか。いや、凝固作用ってことはパサつくってことなら、ならもう少し低い方が・・・・・・
──63℃、2時間。
私は決断した。確か前に60℃で1時間というコメントをもらっていた。念を押して60℃よりちょっと高め、でも65℃以下、2時間も加熱すりゃ大丈夫でしょう。そんなぐらいの根拠で。そう、
鶏胸肉をジップロックごと内鍋に入れて、【発酵・低温調理】カテゴリで温度と時間を設定してスタートぴ。あとは米をかし、鶏胸肉用のタレやら副菜やらお味噌汁やらを作り、それでも時間は余り、ホットくクックとなった。正しいホットクックの使い方だと悦った。
そうして、二時間経過し、わくわくどきどきプレゼントの包みを広げる心持ちで蓋を開ける。
鶏胸肉は薄桜色に染まっていた。取り出してみれば、湯上がり素肌にしっとり薄衣を纏ったような艶姿。瑞々しく、焼いた時とはまったく違う姿態だ。感触もまた違い、片栗粉をまぶしたように、ぷるぷる弾力とハリとツヤがある。なんだか妙な胸騒ぎがするほどに。
薄切りにして真ん中の一枚を摘まみ、断面の色を確認。薄紅がかった白色で、じゅわりと水分が滲んでいる。はくり、と一口。
……これは、違う。今まで食してきた鳥胸肉とはまったく別物。鶏胸肉の概念を覆す。まさにパラダイムシフト!
ネギとショウガを刻み、みりん、酒、醤油を混ぜてレンジでチンしたタレを用意していたが、下味としてつけていた塩胡椒で十二分。
歓喜して各々の皿に盛り、レタスを大雑把に切って添える。そこで父が帰宅し、一足先に酒のツマミとして一皿持ち去った(夕飯が一品減るだけのことなので、それは各自の自由である)。私は私で、多めに錬成したので、もう一切れ、もう一切れと味見と称してつまみ食いする。
──と。口に運びかけた一枚に、小さな赤い点があるのに気付いた。
……赤い。血。血管? 火が通っていない?
すう、と。血の気が引いた。
そもそも63℃2時間と設定したけれど、大丈夫だったのだろうか。なんとなく皆はああ言ってる書いているから、まあこんくらいで良いんじゃない、のノリで決めた。確たる根拠はない。
鶏肉……半生……加熱不足……サルモネラ、カンピロバクター中毒!
慌ててスマホで検索をかける。
鶏肉63℃2時間で安心安全という確証を得るため、あれこれ調べるが当然無理だった。
自ずと、人は己の都合の良いように検索をする。『鶏肉63℃ 2時間 安心安全』というワードを入れたなら、それなりにヒットするだろう。だが『鶏肉63℃ 2時間 危険』と検索すればこれもそれなりにヒットする。精査すれば答えは導き出されるかもしれないが、その余裕はない。
そも、編集されていない(編集元が明らかにされていない)情報は、信じるに値しない。ネットの情報はほとんどが編集されていない。それは大学の講義でも、実地でも、さんざん学んだはずだった。
鶏胸肉ハムは美味しい。美味しいが確証がない。
あとになって、厚生労働省のホームページを参照すれば良かったのと気付くのだが、その時は頭が回らなかった。
そう、その日の私は本当に余裕が無かったのだ。
ゴールデンウィーク終盤、老猫が体調を崩した。日曜診療をやっている初めての動物病院に駆け込んだり、翌日はかかりつけを受診したり、老猫が一番落ち着くリビングで添い寝したり、粗相を片付けたりと、ともかく老猫中心であった。そんな最中に初めての料理に挑むことがまずもって判断力が鈍っている証左。
折しも新型コロナウイルス感染症の脅威下、今、家族全員が食中毒を起こせば、一体誰が猫を世話するのか──
父は「これ美味いなあ」とぱくぱく食べている。私もすでに食べてしまった。美味しいから。
葛藤の末──私は残りの鶏ハムすべてあっつあつのフライパンでソテーにした。
兄には危険を冒せさせられない。兄には無事でいてもらわねば。すべては家猫奉仕計画のために。
らくらくホットくクックのはずが、疲労ましまし不安もりもりとなった本件。新しい料理を錬成しようというのだから、まあ対価であろう。
ちなみに厚生労働省の肉の加熱に関するページはこちら→
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000049964.html
『肉や魚は十分に加熱。中心部分の温度が75℃で1分間が目安』
だそうで、中心部が75℃かどうか温度計刺さないとわかんないよ、それぐらいの準備と手間と心構えが低温調理には必要なの、と思っていたら同じく厚生労働省のページ『食肉の加熱条件に関するQ&A』(2018年10月12日掲載)に もう少し詳しく掲載されていた。→
https://www.mhlw.go.jp/content/11130500/000365043.pdf
『「75°C、1分」と同等な加熱殺菌の条件として、「70°C、3分」、「69°C、4分」、「68°C、5分」、「67°C、8分」、「66°C、11分」、「65°C、15分」が妥当と考えられます。』
……この流れならば63℃2時間はまず大丈夫だと思われるが、なんとも悩ましい。
結論から言えば、私は食中毒も腹痛も嘔吐も起こさなかった(多分、父も)。猫らも元気である。しかし、あの時のソテー化の判断は間違っていなかったと思う。猫第一ならば。
情報は翼だ。だが、鳥の翼か、鋼鉄製か、はたまたイカロスのそれなのかは吟味する必要がある。一気にあの雲の向こうを見せてくれることがあれば、融け消えてこちらを谷底へ落とすこともあろう。
経験を積めば、翼の動かし方もわかろうが、こと低温調理に関して、私はど素人もいいところだった。
さて、つい先日、出勤の支度をしながら国営放送──もとい公共放送の朝のニュースを流していたらば、鶏胸肉のオイル漬けが紹介されていた。60℃のお湯に1時間とな……まじかー(必ず熱が通っているか確かめてとのこと)。
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